お取り越参りの後、毎年10月にお招き下さる博多・M行寺さまへ出講。
七里恒順和上の出られたお寺で、さすがに九州を代表する名刹といわれるお寺。
お内陣のお荘厳の行き届いていることこの上ない。
まずご本尊にお礼をと、下陣に座りふと堂内の長押の上に眼をやると、和上の写真が・・・その下に「お念仏しなされや」の欅の額。
なにか私に直接声をかけられているようで、思わず「ナマンダブナマンダブ」
博多の同行はこの御堂に座し和上の謦咳に触れお称名相続の人になられているのだなあ、と感慨深いものがあった。
一人の得道の和上あるいは一人の妙好人が出ると、その一帯50年百年と法義が栄えると聞くが、さもありぬらんと・・・・・。
しかし、今の時代果たしてそのようなことがあり得るのだろうか?といささか不安に。
で、自坊に帰り夜のお取り越のお説教で「念仏申すことを、生活のなかで信仰実践の要としましょうよ」と思わず口走っている私が居る。
七里恒順和上の出られたお寺で、さすがに九州を代表する名刹といわれるお寺。
お内陣のお荘厳の行き届いていることこの上ない。
まずご本尊にお礼をと、下陣に座りふと堂内の長押の上に眼をやると、和上の写真が・・・その下に「お念仏しなされや」の欅の額。
なにか私に直接声をかけられているようで、思わず「ナマンダブナマンダブ」
博多の同行はこの御堂に座し和上の謦咳に触れお称名相続の人になられているのだなあ、と感慨深いものがあった。
一人の得道の和上あるいは一人の妙好人が出ると、その一帯50年百年と法義が栄えると聞くが、さもありぬらんと・・・・・。
しかし、今の時代果たしてそのようなことがあり得るのだろうか?といささか不安に。
で、自坊に帰り夜のお取り越のお説教で「念仏申すことを、生活のなかで信仰実践の要としましょうよ」と思わず口走っている私が居る。