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And This Is Not Elf Land

THE GLASS MENAGERIE


テネシー・ウィリアムズの有名なTHE GLASS MENAGERIE(ガラスの動物園)上演が行われるVictory Garden TheatreはBrooklynのようなブラウンストーンのタウンハウスや英国風のパブも多く、たくさん若者が住んでいるような地区にあります。

さて、これが上演されたのは、私の予想よりもさらに小規模な…小さな「スタジオ」でした。ちょうどリビングルームでのパフォーマンスのようで、客席は60前後だったと思います。俳優は手の届く場所にいるし、これじゃ居眠りもできないし、くしゃみもできないよ(笑)でも、劇の設定が小さいアパートの一室であることを考えれば、これもいいかもしれない…とにかく、私はこういう環境でプレイを観るは初めてだったので、期待と不安が入り混じって…ちょっとした興奮状態の中で始まりました。

いや「始まりました」とはいっても、「ステージ」の周りをうろうろしていた人(舞台スタッフかと思っていた)が何気なくこちらを向いたので…「みなさん、今夜はよくいらっしゃいました」なんて挨拶されるのかと思ったら(?)、いきなりトム冒頭の独白が始まるのですよ。(この人、トムだったのか)



これは1930年代、セントルイスの裏町のアパートが舞台。テネシー・ウィリアムズの自伝的要素の強い作品だと言われています。内容はここに書いてあります。

トム役のDavid DastmalchianはあのDARK KNIGHTにも出ていた人だそうです。(そんなんなら、観ておくんだった)彼のトムはイメージ通りでした。夢の世界でしか生きられない文学青年をちょっとエキセントリックに演じていました。ただ、「語り」の部分よりも劇中人物とのやり取りの台詞の方がうまいし、彼の個性も出ていると思いましたね。

アマンダ役のLinda Reiterも芸歴の長い人のようで、難しい役を安定した演技で見せてくれました。ただ一つ残念なのは、この方はかなりご年配ではないんでしょうか…アマンダの実年齢というのは、40代だと思うのですが、Linda Reiterのよどみないセリフの中にも、いや、セリフがうまかったからこそ「声に出る年齢」が気になってしまいました。声だけ聞くと「お母さん」じゃなくて「おばあさん」みたいで…南部のお姫様だった時代の思い出を語るシーンでは(内容のナンセンスさと裏腹に)セリフのリズムや韻律が非常に美しいのですが、「もっと若く張りのある声だったら」さらに悲劇性を帯びて良かったんじゃないかと思いました。さすがに、南部なまりはクリアしておられましたが(どこのお生まれの方なのかな?)

ローラはこの作品の特徴である「シンボリズム」を一身に引き受けて言うような役で、あまりに現実的な人物ではないように解釈されることも多いのですが、ローラ役のAllison Battyは、原作よりも意志の強い女性を演じていました。Allisonはローラ役のイメージにしては大柄で、ぽっちゃり顔でもあり、第一印象は「…」でしたが、顔の表情が豊かで、全体にぽっちゃりした感じであることがかえって、古典画の女性のように映ることがあって印象的でした。物憂げな表情で宙を見つめる立ち姿などは、そのまま古典画から抜け出たミステリアスな女性のようで、観客の目を引き付けづにはおかない魅力がありました。

世界から取り残されてしまったような家族の中に、唯一「現実世界」からの使者としてやってくるのがジムなのですが…日本では、このジムという人物を肯定的に解釈する人も少なくないのが不思議で仕方がなかったのです。(翻訳で読むと、どうしてもそうなるのか)

私には、このジムは、トムの家族のように現実逃避こそしていないけれど、アメリカンドリーム神話を必死で追いかけているだけ、しかし「本人の限界」はもう見えている…という、これまた「痛い」人物であるはずなんですよ。

このジムは、(高校時代のローラの憧れの人だったはずなのに)どこにでもいるような地味な容貌の青年で、ガムを噛み、落ち着きなさそうに周囲を気にしながら登場するんです。会場から笑いが漏れました。「やはり、こういう人物だったじゃないか!」と私はむしろ「すっきりした(?)」気持ちになりました。(しかし、あの登場シーンは「おバカキャラ」の一歩手前ですぞ(笑)あこまで落とすとは…

彼がローラにかける温かい言葉というものは、「好かれる話し方マニュアル」の内容をそのまま言っているだけであるのもよく分かりました(彼は成功を目指して「話し方」「ラジオ工学」などの講座を受けている)日本人はspeakingが下手だから国際舞台で十分活躍できない、と言われるようになって久しいですが、…だからと言って、単なるテクニックとしてのspeakingはナンボのもんなんだ?言葉なんて「表面」に現れることの一部であって、人間性のすべてを表してはいないでしょう。ジムも好青年ではあるけれど、「現実から逃げて、夢の中で生きている」という点ではトムの家族と本質的には変わらないのです。

テネシー・ウィリアムズ自身がプロダクション・ノートに書いたプロジェクションの使用も、今のコンピューター技術を駆使して、緻密なグラフィックやムービーとして表れることもありましたが、違和感はありませんでした。音楽もちょうどこの時代(1930年代)の世界の内にある沸々とした思いを緊張感のあるリズムとメロディーに集約させていました。この作品は「音楽」は重要な役割を果たしているのです。

ガラスの動物のコレクションを磨くローラを見つめるトムの眼差し…いきなり「うるっ」ときてしまいました。美しいシーンでした。「何が」美しいって…

…その昔、日本人は「いとし」を「愛し」と書いて、それを「かなし」と読んだと聞いたことがあります。トムの彼女に対する感情もそういうものだったのではないかと思うのです。「愛」と「悲しみ」の境界がわかりにくい状態というのは、当人には煉獄の苦しみなんでしょうけれど、詩的な世界でもありますよね。


ローラがろうそくの火を吹き消すラストシーン、ローラの「意志」が垣間見えたのが救いだった。


終演後、駅まで1キロ近く歩きました。あの辺りは英国風のパブが並んでいて、野球を応援する声があちこちから聞こえました。通りを曲がるとBrooklynのようなブラウンストーンのタウンハウスが並び、街灯の光が街路樹の葉蔭から洩れていていました。遠くには高架橋を走る鉄道の窓の明かりが通り過ぎていきます。「広い世界が見たいんだよ!」と、息が詰まるような家を飛び出したトム、それからの彼の人生はどうだったのか?彼にはどんな「世界」が見えたんだろうか、などなど…トムへ思いを馳せながら歩くにはちょうど良い距離でした。


しかし、あのような小規模な劇でありながら(入場料も30ドル)、実力のある俳優を揃え、(playbillもちゃんとしたものがある)その上に高い評価も受けるって…こういうプロジェクトはどういう仕組みのもとで成り立っているのか…私などには知る由もありませんが、演劇人には恵まれた仕組みが整っているってことなのでしょうか?

時間が許せばもう一回は観たかったんですが…
ここの劇場にも、もう2度と来ることはないかも知れません。
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