キリスト教の禁令はローマカトリック教会に限定されていたわけではなく、平戸のオランダ倉庫はキリスト教の年号(1639年)を使用したことを理由に破壊され[39]、オランダ人墓地も同時期に破却、死体は掘り返され海に投棄された[40]。1654年、ガブリエル・ハッパルトは長崎での陸上埋葬の嘆願をしたが、キリスト教式の葬儀や埋葬は認められず、日本式で行うことを条件に埋葬が許可された[41][42][43][注 13]。
オランダ人の記録によると、徳川家光はオランダ人の宗教がポルトガル人の宗教と類似したものであると理解しており、オランダ人を長崎の出島に監禁した理由の一つにキリスト教の信仰があったとしている[47][注 14]。
エンゲルベルト・ケンペルは1690年代の出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた[48][注 15]。
1637年9月、長崎奉行榊原職直と馬場利重はフランソワ・カロンに対してマカオ、マニラ、基隆侵略の支援をするよう高圧的にせまった[51]。カロンはマニラを襲撃する気も、日本の侵略軍を運ぶ意志もなく、オランダはいまや兵士よりも商人であると答えた。これに対して長崎代官であった末次茂貞はオランダ人の忠誠心は、大名が将軍に誓った忠誠心に等しいと念を押している[51]。この点は、この文書がオランダの上層部で議論されるようになったときにも失われることはなかった。将軍に仕えるという評判を捨てて、貿易に影響を与えるか、それとも侵略に人員と資源を投入して、会社の全艦隊が破壊されるかもしれないという大きな危険のどちらかを選ばなければならなかったのである。オランダ人は後者を選び、日本の侵略軍をオランダ船6隻でフィリピンに運ぶことに同意した[51]。その後まもなく長崎代官の末次茂貞(末次平蔵の息子)から、商館長のニコラス・クーケバッケルに対し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛の要請があった。これに対し、オランダ側はスヒップ船[注 16]4隻とヤハト船[注 17]2隻を派遣することとした。しかしながら、翌年に島原の乱が発生したこともあり、フィリピン遠征は実現しなかった[注 18][52]。
アメリカ合衆国の歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスのホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[53][54]。
二港制限令とイギリス商館の撤退
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イギリス商館長リチャード・コックスは着任早々、オランダ人がイギリス人と称して海賊行為を行い、イギリス人の悪評が立っていることに衝撃を受けたという[55]。オランダ人に対抗するためにリチャード・コックスはオランダがスペイン王国の一部であるためオランダ人は反逆者であり、いずれ日本国を滅ぼすかもしれないと幕府に訴えた。またオランダは英国のおかげで独立しており、オランダは英国の属国だとの風評を立てた[56]。
オランダ商館長ヤックス・スペックスもコックスと同様に、オランダ総督をオランダ国王として虚偽の呼称を使用し、オランダ国王がキリスト教王国の中でも最も偉大な王であり、全ての王を支配しているとの風評を広げようとした。コックスはこれを逆手にとり、自国がオランダよりはるかに優れていることを大名や役人の前で説明したが、島津家久はこれを信じて、オランダ人でなくイギリス人に薩摩での貿易を許可するとの言質をとることに成功した[57]。
1616年の二港制限令は、コックスが江戸にいる間のことだったが、これはコックスの発言が彼が意図した以上に幕府に警戒感を抱かせたことが発端となった可能性が指摘されている[58]。二港制限令はイギリス人とオランダ人を長崎と平戸に閉じ込めることを決定した。コックスは秀忠に謁見しようとしたが、家康宛ての書状であるとの表向きの理由で拒否された[59]。さらに宣教師も追い打ちをかけて、連邦共和国を巡ってスペインが困っているのは、イギリスの支援があるからであり、イギリス人が正統な国王に対して対抗する手段を与えたとの有害な事実を広めた[60]。
イギリス商館はその後も続いたが、コックスは秀忠に謁見して一時的な撤退の許可を得た。その後はイングランド内戦やクロムウェルの介入のためイギリス人の来航は数十年以上経過した後のリターン号事件まで待つことになる[61]。
1673年、イギリス船リターン号が来航し通商再開を求めたが、イギリス人のキリスト教禁令遵守を疑った幕府は拒否した[62]。
武器・傭兵の禁輸
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秀吉による文禄・慶長の役が失敗に終わり、国内外に大きな被害を与えたため、江戸幕府の対外進出は不活発なものになった。一方で、先発のスペイン・ポルトガルと後発のイギリス・オランダは、貿易の主導権を握るため、東南・東アジア各地で武力衝突を行った。これらの武力衝突や現地での植民地獲得のため、日本の武器や傭兵としての人員が注目され、数多くの武器・浪人が海外へ流出した。
この結果、現地での日本人浪人による蛮行が問題となり、家康に東南アジアから国書で抗議される事態に発展、これに対して家康は現地の一存で日本人を処罰することを認めた。その後、秀忠の治世になると、武器・浪人を含む日本人の海外流出を禁じる方針に転換、また国内への鉛等の武器輸入も幕府が独占した。
島原の乱
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徳川幕府が鎖国に踏み切った決定的な事件は、1637年(寛永14年)に起こった島原の乱である。この乱により、キリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切行われることのないようイベリア半島勢力を排除した。ポルトガルは1636年以降出島でのみの交易が許されていたが、1639年にポルトガルが追放されると出島は空き地となっていた。1641年、平戸のオランダ商館倉庫に「西暦」が彫られているという些細な理由で、オランダは倉庫を破却し平戸から出島に移ることを強制された。この時の交換条件として徳川幕府は、ポルトガルが年額銀80貫払っていた出島使用料を、オランダに対しては年額銀55貫に減額している。また、徳川幕府に対して布教を一切しないことを約束した[注 19]。しかし、島原の乱からポルトガル追放までは2年の間がある。これはオランダがポルトガルに代わって中国製品(特に絹と薬)を入手できる保証がなかったことと、日本の商人がポルトガル商人にかなりの金を貸しており、直ちにポルトガル人を追放するとその回収ができなくなることが理由であった。
貿易の管理
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戦国時代から江戸初期にかけて、国内各地で大量に金と銀(特に銀)を産出していたため、交易においてもその潤沢な金銀を用いた。他方、江戸初期においては特に輸出するものもなく圧倒的に輸入超過であり、徐々に金銀が流出していった。このため、幕府は1604年に糸割符制度を設けて絹の価格コントロールを試みた。17世紀も後半になると金銀の産出量が減り、このため1685年には貿易量を制限するための定高貿易法が定められ管理貿易に移行した。また現代的視点では、長崎の出島・堺を始めとした有力港湾を徳川幕府の直轄領(天領)、若しくは親藩・譜代大名領に組み入れることによって、徳川幕府による管理貿易を行い収益を独占した、という研究がある[要出典]。しかし、幕府は藩の直接的な貿易を禁止したが、幕府自身も直接的な貿易を行っているわけではなく、また「鎖国」成立当初において幕府が長崎貿易から利潤を得ていたわけでもない。貿易の管理・統制については、貿易都市長崎および商人を通して間接的に行っていた[63]。山丹交易は、当初、松前藩が自藩領内の蝦夷(アイヌ)を介し、樺太や宗谷に来航する山丹人と取引した。これは、間接的には大陸にある清の出先機関・デレンとの貿易であった。山丹交易は松前藩の収入の一角を占めていたが、1807年(文化4年)の第一次幕領期以降、蝦夷地(北海道・樺太・北方領土・得撫郡域)は公議御料となり、交易は幕府(箱館奉行)直営とし、交易地も白主会所に限定された。また、18世紀の中頃から、北樺太の近くに住む樺太アイヌの一部には、幕藩体制の役職を持ったまま間宮海峡を超えて大陸・デレンとの貿易を行う者もいたが、幕吏・松田伝十郎の改革以降大陸渡航は禁じられた。この改革で、山丹人は直接江戸幕府に朝貢するようになった。
「鎖国」に対するオランダの認識
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「鎖国」後しばらくの間オランダは、プロテスタント諸国が交易を求めてきたとしても徳川幕府がこれを拒否しないのではないか、すなわち「鎖国」は不安定ではないか、と考えていた。このため、元オランダ商館長で滞日期間が20年を超えており1667年にフランス東インド会社の長官に就任したフランソワ・カロンが「日本との通商を求めるのではないか」と危惧している[注 20]。また英国船リターン号が1673年に貿易再開を求めて来航した際には、事前にオランダ風説書にて英国王チャールズ2世がポルトガル王女キャサリンと結婚したことを幕府に対し報告することによって、オランダはその貿易再開を間接的に妨害している。ところが、18世紀の中頃になると、オランダは「日本人はオランダ人が言う海外情勢は何でも信じる」との認識をもつに至った。既にこの頃になると「鎖国」は安定し確固たるものとオランダは考え、オランダ人の貿易独占権は容易には崩れないとも考えていた[64]。
鎖国祖法観
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実現はしなかったものの、18世紀後半に蝦夷地開発に関連して田沼意次はロシアとの貿易を考慮しており、松平定信もロシアとの小規模な貿易を考えて、蝦夷地に来航したアダム・ラクスマンに信牌(長崎への入港許可証)を与えていた。この信牌を持ったニコライ・レザノフが1804年に長崎に来航し、通商交渉が行われたが、幕府は最終的に通商を拒否した。「海外との交流を制限する体制を自己の基本的な外交政策とする」という明確な認識(鎖国祖法観)を徳川幕府自身がもったのは、この事件をきっかけにしているという説もある[65]。ただし、幕閣の中で「鎖国」という言葉が用いられた初出は1853年と指摘されているとおり[66]、「鎖国祖法」というのは後世の研究者による講学上の造語で、当時の資料では単に「祖法」とされている[67]。
評価
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評価は論者によって分かれている。そもそも「鎖国」では無いとする評価 については下記の#「鎖国」概念の見直しを参照。
肯定的評価
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- 日本独自の文化を形成し、自給自足の経済体制を構築できた[68](ビル・トッテン)。
- スペイン・ポルトガルの侵攻を防いだ(占部賢志)[69]。
- 「国内には不断の平和が続き、かくて世界でもまれに見るほどの幸福な国民である。海外の世界との交流は一切断ち切られて完全な閉鎖状態に置かれている現在の日本ほどに、国民の幸福がより良く実現している時代はない」(鎖国論作者エンゲルベルト・ケンペル[70])。
否定的評価
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- 世界の動きから断絶したため海外の事情に疎くなった(戦前の歴史教科書に共通した評価)[71]。
- 南方進出のチャンスを逃した(菊池寛)[72]。
- 最終的に太平洋戦争の敗北にまでつながった。すでに日本は内戦状態(戦国時代)であったのだから、宣教が征服目的であったならとっくに征服していた(和辻哲郎)[73]。
「鎖国」概念の見直し
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上記の通り、「鎖国」は外国との交流を制限するものと解釈されてきた。
しかし、1980年代になると、従来の「鎖国」概念を廃し、一連の政策は徳川幕府が中世の対外関係秩序を再編したものとする考え方が提唱された[74]。さらに2000年代に入って、〈鎖されていなかった徳川日本を「鎖国」と呼んできた歴史〉を歴史化し、それを日本人のアイデンティティと密接に関係する言説として捉え、その形成史を解明する研究が登場した[75]。また、その延長で、「鎖国」だけではなく「開国」も言説として捉え、その形成史を追究する試みも展開されている[76]。
このような背景から、2017年2月には2020年度から使用される中学校の次期学習指導要領改定案から「鎖国」という表現が削除され[77]、小学校では「幕府の対外政策」、中学では「江戸幕府の対外政策」とされる予定であるとの発表があった。しかし、パブリックコメント(意見公募)での批判が多かったことから、幕末の「開国」との関係に配慮し「鎖国などの幕府の対外政策」といった表記がなされることとなった[78][79]
なお、海外との交流・貿易を制限する政策は徳川日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていたこともあり、現代の歴史学においては、「鎖国」ではなく、東北アジア史を視野に入れてこの「海禁」という用語を使う傾向がみられる。その理由としては、1)「鎖す」という語感が強すぎる、2)対欧米諸国の視点に基づきすぎている、3)否定的なイメージがある、があげられている。しかし、「海禁」自体の研究が十分ではないとの指摘もあり[80]、従来の用語を変えることへの批判もある[81][82]。
脚注
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[脚注の使い方]
注釈
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- ^ 清は1684年に解除したが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。
- ^ 当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。その結果、正式な交流が認められるようになった。
- ^ 当時はネーデルラント連邦共和国で、国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年にその衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。
- ^ 本国が1795年にフランス革命軍により占領され、バタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行っていた。その後、1799年にフランスによって東インド会社は解散した。そして、オランダの海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収された。
- ^ ケンペルは上述の論文において、キリスト教的立場に反し、いわゆる「鎖国」体制を肯定する立場を採っていた。まず、ケンペルは三十年戦争直後の荒廃した地方都市レムゴー(Lemgo)に生まれ、また、そこで遅くまで魔女狩りが残っていたことにより叔父が処刑された経験を持っており、戦争に対する嫌悪やキリスト教およびキリスト教社会に対する疑いの眼差しを持っていた。さらにケンペルは、各地を旅行することで比較文化の眼も養っていた。そのような背景を有するケンペルは、短期間の滞在(1690年〜1692年)の限られた情報源の中で、厳格な処罰により治安維持が成されているように観察された第5代将軍徳川綱吉治世の状態を、好意的に解釈したことから上述の見解(論文)が生まれた。
- ^ 現在、和歌山県串本町の紀伊大島にはケンドリックの来航を記念した日米修交記念館がある。
- ^ 1795年、オランダ本国(ネーデルラント連邦共和国)はフランスの侵攻により滅亡し、衛星国バタヴィア共和国が誕生した。オランダ東インド会社の日本支店に当たるオランダ商館の権利もバタヴィア共和国に移ったが、これは英国と敵対関係となることを意味し、アジア地域におけるオランダ船の航行は難しくなった。そこで1797年よりオランダ東インド会社は米国船と傭船契約し、アメリカのセーラムと米国船にて貿易を継続した。なお、当時の国際関係において米国船籍は、中立国の船として英国もその航行を認めた。ただし、長崎入港時にはオランダの国旗を掲げ、名目上はオランダとの通商を行っていることとした。1799年、オランダ東インド会社が解散するとオランダ商館は雇い主を失い、米国船との貿易は1809年まで続いた。→詳細は「黒船来航」を参照幕府はこのあたりの事情は理解していたが、「見て見ぬふり」をしており、本国がフランスに占領されている間(バタヴィア共和国は1806年にナポレオンの弟のルイ・ボナパルトを王とするホラント王国になり、さらに1810年にはフランスに完全に併合された。オランダが再独立は1815年である。)、出島のオランダ商館は世界中でオランダ国旗が掲げられている数少ない場所となっていた。
- ^ 1797年(寛政9年)、米国船エリザ・オブ・ニューヨーク号の船長ウィリアム・スチュワート(William Robert Stewart)は、バタヴィアから長崎までオランダの荷物を運んだ。エリザ・オブ・ニューヨーク号は出島出港数時間後に沈没したが、引き上げられた。しかし、その後の消息は不明となった。(毎日新聞 1974年2月4日(月曜日、 https://web.archive.org/web/20041128213501/http://www.geocities.jp/kiemon200/219-index.html )。1800年(寛政12年)、スチュワートはエンペラー・オブ・ジャパン号で長崎に入港する。しかし、オランダ商館から、エンペラー・オブ・ジャパン号はエリザ・オブ・ニューヨーク号(要するにスチュワートが船を盗んだ)であると見抜かれ、交易を拒否された上、バタヴィアの牢に入れられたが、脱獄した。
- ^ 他の米国船での貿易の例は以下の通り(東京都江戸東京博物館『日米交流のあけぼの‐黒船きたる‐』1999年)。
- 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。
- 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。
- 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。
- 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス号。
- 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
- 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
- 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。
- 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。
- 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。
- 1809年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
- ^ 当時オランダ本国はスペインに対する独立戦争を行っていたが、1608年にはイギリス・フランスの仲裁で勢力の現状維持を前提とした休戦交渉が開始された。このため、東インド会社は交渉成立以前に「現状」を拡大することが得策と考え、アジア地域の艦隊司令であったピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフ(Pieter Willemsz. Verhoeff)に可能な限り交易地域を拡大するように指令した。
- ^ 1591年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[32]。秀吉はポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[33]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[34]、豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[35]。
- ^ 追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[36]。1590年、ガスパール・コエリョと対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[37]
- ^ 現存する最古の西洋人墓碑は江戸時代後期、元出島オランダ商館長ヘンドリック・ホットフリート・デュルコープ(1736-1778)のものである