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日向での寺社仏閣破壊は島津説もあり

信長でも秀吉でも家康でもない…「東洋のローマ」を作り、当時の欧州で初めて絵画に描かれた戦国武将の名前
プレジデントオンライン6/19(水) 17:17配信
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  • rra********
    12時間前非表示・報告
    日本の戦国時代ならまだアジア一強の時代ですね。産業革命も起きてない、国民国家も成立してない。 1750年頃までに残された世界の全ての文字を足しても中国語で書かれた文字には及ばないほどの隔たりがアジアとそれ以外にはありました。 少し前のアメリカの軍事費に近いものがありますね。 西洋は十字軍で中東からギリシャ哲学を取り入れ、アメリカ大陸から自由の概念を学び、アジアからも官僚機構などを取り入れるなど勉強熱心だったのは否めないでしょう。
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  • zuk********
    1日前非表示・報告
    今、NHKの歴史探偵で大友宗麟の回を見ている。昔、NHKで正月放送の特別枠の時代劇で大友宗麟を放映したドラマがあった。キリスト教文学で有名だった作家、遠藤周作の「王の挽歌」をドラマにした作品で単発ものなのに内容が本当に濃かった。松平健さん演じる大友宗麟もだが、印象に最も強く残ったのは、その部将の戸次鑑連。初めて名前を知った武将だが、超強力でキリスト教にかぶれ島津氏に押され続け頽勢の大友氏を最後まで支え、本人やその友人や娘婿まで高名だと知ったのは後になって。ともかく佐藤慶さんの名演が素晴らしかった記憶がある。
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  • gac********
    1日前非表示・報告
    宗麟というとキリスト教に傾倒しすぎたとうイメージを持つ人もいるけど、 実際は宗麟の名前の通り仏教にも重きを置いてるんだよね。ましてや若い時から南蛮貿易を行ってた宗麟が正式にキリスト教に入信したのは晩年のときだし。(日向での寺社仏閣破壊は島津説もあり) 寧ろ若いときから南蛮貿易に着手し、積極的に医療や教育、武具などを取り入れて九州6ヶ国を支配するまでに大友家を作り上げ、 しかも全盛期の謀神毛利元就に何度負けようとも最後までくらいつき、最後は戦略で勝ち毛利勢を追い払うなど戦も強かった(基本的に大友家当主は戦場にはでないけど、毛利戦は度々でてる)
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  • eln********
    1日前非表示・報告
    この件、実は邪馬台国論争の最終的解決のヒントとなっている。一地方大名に過ぎなかった大友宗麟が外国の文献では日本を代表する領主として描かれていたという事実は、魏志倭人伝の卑弥呼も同じ立場だったと考えても何ら支障がないことを示している。もともと、福岡市近辺の地方勢力の奴国ですら漢に朝貢していた。これは金印が証拠立てている。邪馬台国も、北部九州を統合した地方勢力だったのだ。そして、邪馬台国とは別に、幾内には南九州とも交易のある大勢力、すなわち皇統に連なる大和王権が既にあった、と考えるのが、文献上も考古学的にも最も矛盾の少ない妥当な考え方だ。
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  • yukimura20210726
    1日前非表示・報告
    大友宗麟のキリスト教に対する信仰心や宗教観はさて置き、日本におけるキリスト教は、戦国時代まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩(鹿児島・祇園之洲)に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルより伝わったが、天正10年(1582年)頃には全国で約15万人の信者がいたと言われ、慶長19年(1614年)の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。 当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2〜4%がキリスト教徒だった事になる。 そのキリスト教を太閤秀吉と徳川家康・秀忠・家光の三代将軍が、駆逐、殲滅したお陰で、キリスト教の魔手から日本を守った事を有り難く思う。
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  • dia********
    1日前非表示・報告
    当時のイエズス会の手口は、まず現地の領主の一部を信者にし、その信者となった領主に西洋の武器を与え、戦わせて現地の覇者に育てた上で、信仰を盾に「丸呑み」するのです。 そういう意味では、大友氏は格好の「尖兵」でした。 ただ彼らの意に反して、日本人は、彼らの供給する西洋式の軍備を、遥かに凌駕する兵装を作り上げ、部隊編成も本国スペイン以上のものにしてしまったため、大友氏では通用しなくなっただけです。
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  • har********
    1日前非表示・報告
    宗麟一代で大内旧領を吸収し版図を倍にして更には1570年代は毛利包囲網で村上水軍・尼子再興軍・浦上氏・阿波三好氏も絡むから西日本の大帝国といっても過言じゃなかった(種子島氏までも) ただ急拡大の代償として国衆粛清という「整地」は全くできていない状態で筑前以外はほぼ現地国衆に預託してた状態。そこを毛利+足利義昭に利用されてしまったのが衰退の始まり… 英彦山・太宰府天満宮・宗像神社・阿蘇神社・宇佐神宮等比叡山級の規模持った武装した寺社勢力が乱立してて家臣に御恩が出せない環境 土地を没収→家臣に恩賞を捻出する手段としてキリスト教は都合良かったし、信長の比叡山焼き討ちが追い風だった(ただし寺社破壊は息子の義統主導) ただキリスト教改宗しても「宗滴」と禅宗の名前を使ってたり禅宗と並行しての信仰だった点ではある意味日本人らしい信仰だった 宗教の色眼鏡抜きでの研究がもっと進んでほしい武将だと思う
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  • huo********
    1日前非表示・報告
    信長が宗麟とよく似たタイプだったと思うね。 本気で信仰なんかしてないけど利用してやれ、と 宗教侵略の巧みさ狡猾さをみくびっていた。 秀吉家康は見抜いていて舐めなかった。 そう考えると、本能寺の真相にも想像力が捗るね。
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  • sasapon
    23時間前非表示・報告
    >もし、16世紀後半の様相が継続し、西洋をはじめとする海外との交流が続いていたら 彼らは初めから日本と友好関係を結ぶために来ていたのではない。 日本がもっと未開だったら植民地にするつもりだったのだ。 系統は異にしていても高度な文化を持ち統治された国というのは植民地化するのは難しいのです。 もし彼らが来るのがあと50年早かったら、もしくは戦国が終わるのがあと50年遅かったら、つまり群雄割拠で統一の機運が見られない状態だったら西国の有力大名を操って日本を統一させ、結果的に植民地または属国扱いになっていたかもしれない。 その場合、関係は対等ではなく上下になるので今よりもはるかに西洋化はしていたかもしれないが、あくまでそれは西洋の風下に立った上での西洋化であった可能性が高い。 彼らが来た直後に、織田・豊臣・徳川による統一がなされたこともその後幕府が鎖国政策を敷いたことも有難く思う。
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  • sak********
    1日前非表示・報告
    いや、海外憧れやコンプレックスは戦後からだ。 戦後、自信喪失、信念が打ち砕かれた親と、焼け野原の故郷。多くの親族が死に。貧困で食べ物を奪い合い、空腹で自暴自棄に狂う人がそこら中にいた。それをみて育った子供達が自国を恥ずかしく自国を恥じて当然。 また、支援物資やチョコレートを配ってくれるアメリカ人に憧れて当然だ。言う事を聞いたら瞬く間に先進国になったし。 戦前の日本人は例え他国の素晴らしい金銀財宝を見ても羨ましくは思わず、海外より劣っているとも思もなかったと思うし、私も思わない。 西洋は西洋、東洋は東洋、アメリカはアメリカ、それぞれのよさがある。興味のない人はない。価値観は人それぞれだ。  それに、日本しかない文化がある。「静」だ。争いなく平和だと虫や風まで歌を歌う。心の奥底から癒される。 海外と付き合いがないと余計なものを知らなくて済む。コスパ最高。必要なものは日本には全てあるしね。
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