神仏の種籾
広大な荘園から収穫した米や寄進された米は、とても寺社だけで消費しきれません。寺社は余った米を元手に、“出挙(すいこ)”を呼ばれる高利の貸し出しを行ないます。出挙と言うのはもともと国が貧しい農民に春の種籾を貸出し、秋に利息を付けて返還させる制度でした。当初は貧しい農民を助ける制度でしたが、次第に利息収入に重きが置かれるようになり、いつの間にか国家の重要な財源になっていました。
これは儲かるとして私的に出挙を行なう人間が出て来て、これを“私出挙(しすいこ)”と呼びます。この私出挙の利率は非常に高かったのですが、大々的に行ったのが寺社であり延暦寺でした。
延暦寺の守護神社である日吉大社は、神社に仕える神人(じんにん)たちを全国に遣わして私出挙を勧めてまわります。「日吉大社の籾を借りなさい、神様のご加護で豊作間違いなし」これが勧誘トークでした。人々も「神様が貸して下さった籾ならきっと豊作だろう」と喜んで借りたそうです。
街金もびっくりのエグイ貸金業
中世になり、貨幣経済が行き渡ると、寺社も種籾を貸すのではなく直接金銭を貸す本格的な貸金業に乗り出します。延暦寺と日吉大社は貯め込んだ資金力にものを言わせて、日本最大の貸金業者になりました。
当時の貸金業は“土倉(どそう)”と呼ばれました。土倉とは現代の質屋のようなもので、かたに取った質草を土の倉に保管したのでそう呼ばれます。京都の土倉の8割は延暦寺・日吉大社グループだったそうです。
宗教者が行う金貸し業だから人助け的なものか言うと全然そんな事はなくて、まず標準的な利率が年利48%から72%と現代の街金も真っ青な超高金利です。取り立ても熾烈でした。武装した取立人が土足で家に踏み込み、「金を返さなければ罰が当たる」と脅して、強引に金を奪って行きます。
南朝暦 建徳元年(1370)には、わざわざ延暦寺の取立人が公家の家に押し入るのを禁じる法令まで出されています。つまりそれまでは遠慮なく押し入ってたって事ですね。
借金が払えずに田畑を没収される者が続出し、京都周辺には借金のかたに取られた小さな田畑が点在し、日吉田(ひえだ)と呼ばれました。
直接商工業の中枢も牛耳る
寺社は商工業の中枢も直接握っていました。当時ものの売り買いで常設店舗を構えることはほとんど無く、定期的に開かれる“市”が商いの場でした。この市を寺社が押さえていたのです。