無益な殺生はいけません!・・・と、よくこんなことを言われます。
確かに、「一寸の虫にも五分の魂です」。好いことでは無いでしょう。
しかし、どこまでが「無益」なのでしょうか?これについて考えてみます。
殺生を罪とする考えは結構一般的です。しかし、生まれて死ぬまでの間、一度の殺生も行わないですごすことは出来ません。
人は自らの血肉のために他の生物を殺め、また自らの安全のために他の生物を殺めるのです。これはどうしようもないことで、それがたとえ”罪”であるとしても避けることは出来ません。
つまり、「人は生まれることが罪」になってしまいます。どのような聖人でも、この罪は付いて回ります。そしてその罪から逃れるためには、死を選ぶしかありません。
これでは意味が分からないので、”殺生=罪”の考えはやめましょう。(とさつ)のシーンを見ても、かわいそうとか思うのをやめましょう。
そのかわり、「そのものたちの死によって自分が生かされている」という心を持つのです。簡単に言うと”現実を受け止める”と言うことです。
このことが分かれば、「無益な殺生」はしなくなるでしょう。
このことが分かれば、食事前に「いただきます」と言う言葉が自然と出てくるでしょう。
仏教徒は肉を食べません。しかし鶏肉は別です。
また、ウサギは昔、鳥の仲間と考えられていました。今でもウサギは1羽・2羽と数えるのですが、これは僧侶がウサギを食べるために作られたこじつけにすぎません。また、ヨーロッパでビーバーを魚と考えられていた理由も、同じです。
肉を食べないことは、言うならば”修行”です。私は過去にも言いましたが、”修行”というものは、それ自体には何の意味もありません。達成するためにする修行などと言うものは、はっきり言って時間の無駄です。
”肉を食べない”と言うこともそうです。食べないこと自体にはなんのご利益もないんです。大切なのは、上記の矛盾を知ることです。出来ないことに立ち向かい、それが出来ないと知ることも大切なのです。
ちょっと話が逸れてますが、結局は「無益」の基準は、自分が決めるものであって、各自色々なレベルがあるということです。
そして、食材となったすべてのものに、感謝の気持ちを忘れないことです。
無益な殺生というのは、生物学で云うところの片害共生のことではないのでしょうか。
人間で言うと小蝿や雑草などを殺す事です。
もちろん、私はぶくぶく太っている人も嫌いで、「無駄に殺している」と感じますが。
貴方の言う、「人は生まれることが罪」の何が問題で、なぜその罪から逃れる必要があるのでしょうか?