幕張 海

幕張の海のあり方を考え、海辺を住民の手に取り戻すためにどうしたらよいかについて

その2 磯の松原をつくろう運動

2005-04-30 21:58:49 | 幕張 海のプロジェクト
私にはもう一つ、千葉の海の想い出があります。
1980年、私が千葉市の幸町1丁目に住み、少年野球チームの監督をしながら、コミュニティづくりに携わっていた頃のことです。稲毛の人口浜に、6万本の黒松を植えようという運動がありました。植樹の当日は、お年寄りから子どもまで5千人が集まり、埋め立てで失われた浜辺を取り戻しすための壮大な作業が始まった。私も家族や少年野球チームを連れて参加した。千葉市の農政緑化部とコミュニティ課と市民が一体になって植樹し、20年以上の年月を経て見事な松原が広がっている。
この時のことは、カルチャー千葉 1981年創刊号に「磯の松原に見る新しい市民運動の芽」に書いた。

その1-2 海から見た幕張のすばらしい夜景

2005-04-30 12:03:19 | 幕張 海のプロジェクト
彼女は幕張の海に沈む夕陽と幕張の夜景が大好きだった。彼女の遺言に従って、お骨をご家族の想い出が深かった南国の島と幕張の海に散骨した。仲間と一緒に船を借り、燃えるような夕日を見ながら。船頭さんにできるだけ幕張に船を寄せてもらった。マリーンスタジアムの後ろにはすばらしい幕張の夜景が広がっていた。

乗船した仲間の誰一人、海から自分達が住んでいる街を見たことはなかった。こんなに近くに海がありながら、日常、海を意識したことがあるだろうか。海を感じながら生活し海辺に心を遊ばせる日々を送ることができたら、どれほど心が豊かになるだろうかと思った。彼女が私達に海を感じさせてくれるための贈り物だと思っている。いつも心の中にそのことがありながら、5年の歳月が流れてしまった。

撮影 : 山根治仁(ギャラリーKIKI) 

その1-1 心のキヤッチボール

2005-04-30 02:57:59 | 幕張 海のプロジェクト
2001年5月、私がMaMAの前身である幕張メディアサーフィンでシニアネットを主宰して時、私のかけがいのないパートナーであった西嶋良枝という才色兼備の女性が、癌で他界した。享年53歳の若さだった。たった数ヶ月の闘病の後であった。惜しまれながら逝った。多くの仲間と共に、数え切れないくらいの楽しい想い出と教えをとどめておくために、「心のキャッチボール」というホームページを創った。トップページには彼女の好きな幕張の風景を大きく載せた。
http://www.mama.or.jp/yoshie/


幕張 海のプロジェクトについて

2005-04-30 01:09:11 | Weblog
1981年3月千葉市稲毛の浜に、6000人もの子どもからお年寄りまでの人々が、黒松の植樹をした。その数、6万本。埋め立て前にあった磯の松原えを取り戻し、次代に残そうと言う市民運動だった。あれから20年たって、4メ-トル近くの大木に育っている。それ以降、行政は市民の思いに対し、何をしてきたのだろう。あちらこちらに立ち入り禁止の立て札が立ち、市民が望んでいた浜辺とは程遠いものになっている。「磯の松原」運動に込められた熱い思いは、忘れさられようとしている。行政が開発当初に描いたグランドデザインは、どのように生かされているのか。原点に戻って考えて見たい。そして、孫達のためにすばらしい幕張の海を残すために一石を投じて行きたい。