「オフィス人事教育のふれあいブログ」  

日々の何気ない暮らし、仕事のなかで感じたこと・思ったこと。悲喜こもごも。そして”一歩、前へ。”

お彼岸の墓参り

2009-09-23 13:46:54 | Weblog
シルバーウイークも今日が最後となってしまいました。皆さんはこの5連休、楽しめましたか。僕は前半、異業種の方々との勉強会で中国大学院生のパワー溢れる向学心やしっかりした心根エキスに触れ、刺激を受けたスタートでした。


中盤は両親のお墓参りに帰省しました。豊岡というところです。皆さんご存知でしょうか。そう、コウノトリです。随分前のブログでも書きましたが、なかなかいいところですよ。何がいいかって?。全てです(笑)!。でも皆そう思ってますよね。自分の故郷を悪くいう人はあまりいませんよ。いてたらチョー変人です。どっか心神が屈折しています。ひとは年とともに懐かしさが合い持って故郷の長所を引っ張り出すものですからねえ。

お彼岸でのお墓参りはとても久しぶりのことでした。但馬の緑深い盆地にも黄金色した棚田に鮮やかなや彼岸花の赤がマッチして故郷の匂いが体全体から吸収され、とてもすがすがしい気になりました。整然とした里山風景を見て、身も心も洗われる気持ちになります。


お彼岸では先祖をしのび、自分が今あることに感謝し、自らの精進を誓う大事な仏教週間だと言われます。僕の実家は曹洞宗の寺院です。すこしPRになりますが、最後にその「徳養寺」をご紹介させていただきますね。
 墓参を終えると何か胸のつかえがスーと引くのを感じるから不思議です。私達は愛する亡き人を供養することをついつい日常の喧騒のなかで忘れているんですね。やはり毎日、うちの中にあるお位牌には手を合わす習慣は大事だと改めて思いました。

今は僕の実兄が住職をしているのですが、その本堂に置いてあるパンフに目が留まりました。「同時というは不違なり・・・」となんだか難しい教えの解説です。要は私たちは何かと繋がりを持っていて、それは人であったり、自然であったりします。だからこそ人を敬う心や自然を大切にする心を忘れたとき、むやみに人と争ったり、自分の都合だけで自然を傷つけてしまうのです。。。との「同事行の行い」を解説したものらしいのです。
折りしも僕の高校時代の親友が3人、訪ねてきてそのパンフを持って帰ってくれました。
今でもずっと続いている親友たちです。

 連休、後半は来てよし、帰ってよしの孫娘の来訪とあいなり、ほとほと疲れました。飛んだり跳ねたり、速射砲のごとくしゃべったり、なんであんなに元気なんでしょうね。命の流転、老齢化の寂しさ、わびしさを感じてしまいますよ。ほんと!。。そしてようやく自由な時間を自分でくつろぐことができる至福の日が最後。ウキウキしかも落ち着かないなんとも妙な午前中です。。。


ようふくざん邀福山 徳養寺
 ●所在地  668-0003兵庫県豊岡市江野1496
 ●本尊【写真】   胎内佛聖観世音菩薩  胎内には佛釈迦坐像が鎮座
 胎内佛聖観世音菩薩は、授子宝、安産、心身安泰 家内安全 祈願成就を授かる 秘宝として信仰されています。
 
 大仏師職法橋左京作の胎蔵佛で600年前の作といわれています。円満なご面 相、蓮華台座の精巧さ、さらに胎内佛釈迦坐像の尊厳さは県下でも珍しい仏様で す。
 境内にある鎌倉時代の妙見大菩薩宝篋印塔は、天台宗寶光寺(文永8  年、1271年 、比叡山延暦寺講堂修造料所)の旧蹟地にあったものを昭和35年 に移したもの です。毎年例祭が賑やかに行われています。 
            
 この寺の前身は豊岡市五荘地域 江野の奥、通称「山寺」という地にあり、天台 宗寺院の一つであったが、文禄6年(慶長2年・1597年)現在地に移築され「徳養寺」と改名、同時に曹洞宗に改宗されました。
 ●現在、豊岡市は、幸せ(赤ちゃん)を運ぶ鳥「こうのとり(特別天然記鳥)」 の野生復帰活動で全国的に有名です。
 
  ここ徳養寺本尊が胎内仏というところから、子授り観音として、 地元では親しまれています。安産と産後の安穏・子授かりを祈って参詣する特  に女性の信仰を集めています。
 ●アクセスは、兵庫県豊岡駅北西約7キロ江野バス停右折すぐ。
http://www.e-shops.jp/local/lsh/an/28/5798459.html
 徳養寺のお問い合わせは、℡0796(23)0840まで。現住職 岡本 肇也和尚
徳養寺と江野に関することは、http://www2.city.toyooka.hyogo.jp/edu/school/toyookakita-jhs/kyodo/21gouno.html#anchor5302



ものの整理

2009-09-08 11:31:43 | Weblog
5S活動のパターンセッターは、皆さんご承知の“整理”ですよね。頭の中では整理をすることがどれだけ大事なこととか、十分、分かってはいますが、これがまたなかなか一つ縄ではすまないのです。
 ある会社で不要物を捜し、それを捨てるときの作戦“赤札張り”をやっていただいたことがあります。未使用の設備や在庫品を赤札の対象とする例の整理の手段です。そのときの今でも、記憶にあるこんなエピソードがあります。
副社長という立場の女性経営者が、急にむくれて怒り心頭、この赤札張りに猛抗議をされたのです。もちろん整理をめぐる5S活動の趣旨、その方法、他部署の素直な発想にこそ、「ものの整理」を判断するヒントである、との心構えも彼女をはじめメンバー全員に学んでいただいた上での赤札張りであったのでした。
 多分、他部署の不要物探しパトロール隊が土足でどかどか自職場に踏み込んできて、次々と赤紙を貼り付けていく様をなんと無礼千万な行為だと許せなかったのでしょうね。

 
会社組織にいると自職場では「常識」とされる行いが他部署の者にはなんと非常識な振る舞いとして映ることがよくあります。他の人が自職場をどう見ているのか、研修の際にもよく行う「部署間イメージ交換」は、本来やらなければならない役割使命を虚心坦懐、掘り下げるときに効果があります。赤札を張る人は「黄札」は持っていません。また使ってはいけないのです。とにかく赤鬼になって貼る作戦なんですね。

 
でもこの女性副社長のように、そもそも論を通り越して「赤札パトロール」をあたかも債権者の取立てもどきに見立ててしまうものかもしれませんね。
 他人がどう見てもこれは不用物(粗大ごみ)だろう、と判断しても当の本人には宝の山であったりするのはよく理解できます。一番整理できないのが自分の机の中なんですから。古今東西、整理整頓こそ、“分かるができる”に程遠いものはない、とも言えますね。

 
最近、あることでお年寄りの自宅を大掃除することがありました。まあ、よくもここまで物をため込んだものか、と部屋の様子を見て唖然、愕然、驚嘆のきわみでありました。なにしろ昭和の新聞雑誌から衣類の山までとても手の施しようもない有様。。
 しかしこれとて僕にとってはゴミの山に映ろうと当の本人からすれば思い出いっぱいの宝の山かもしれません。昔の人ですから「ものを大事に」という教えが徹底しているでしょう。それぞれの“もの”には彼女の深い情けも入っているでしょう。
強制的に捨てさせることもできません。かといって“もの“が部屋を占領し、部屋の主人を追いやった生活を続けさせるさせるわけにもいきません。
最近、独居老人が不要になった長年の生活用品に埋もれて、身動きのできないほどのゴミの山に下敷きになっている様子が報じられていますね。大抵のお年寄りは、いつか元気なうちに整理すればいいわ、との思いでついつい放ってしまう。体も思うように動かなくなり、大量のゴミに埋没してしまうようになると考えられます。


そんなかんだで、僕の中でちょっとだけ“整理をする”ということを考えてみています。
整理整頓が大の苦手である自分が言うのもおかしいのですが、これは意識してかからんとあかんな!と思うことがあります。
「ジャスト・イン・タイム」
「シンプル・リッチ」
という、心の整理です。
 前者は、例のトヨタ看板方式で有名ですよね。必要なものを、必要なときに、必要なだけ持つという生産活動の行動理念です。後者は10数年前、僕の愛車スバル・ビビオのイメージビデオのコピーでした。美しい北欧の金髪女性が、レンガを張詰めた通りをビビオに
乗って、軽快に買い物に出かけるシルエットが忘れられません。皆さん、イメージ想像できますか。僕だけのストーリかも(笑)。でもいいんです。


人間、確かにどんなに嬉しいことや楽しいこともかなた向こうの出来事として忘却してしまうのが自然なのではないか、と思うのです。そしてシンプル・リッチに過ごすことがとかく大事なことなんではないか、と思うようになってきました。
忘れてしまうこともまたよし、だから今をせいいっぱい楽しんだらいいんじゃないか、と。。。写真の1枚ぐらいは撮りますがね。大切なのは“もの“ではなく
嬉しい・楽しい・悲しい・寂しいに代表される人と人との悲喜こもごもをしっかり脳のひだに刷り込んでおくことではないでしょうか。心に響き、感性にぐっときた生の記憶をなるべく余韻として残していきたいです。
そしてそんな体験の一つ一つが、生活に潤いと余裕をもたらすシンプル・リッチな行き方につながるのではないか、と思っています。
ものの整理ということを強く考えさせられた大掃除週間の学びでした。