玉川上水をブラブラ歩く

2014年5月11日ブログを開設。
日常のよしなしごとを記す。

1日

2017年05月19日 | 日記
1月16日、都心に行った。 歩き回ったので疲れたが、楽しい1日だった。

地下鉄日比谷線京橋駅
画廊「くぼた」。昔勤めていた会社の美術部OBの絵画展が毎年、この季節に開かれる。
私はここ10年ほど楽しみに通っている。風景画、人物画など30数点。気に入った数点を
デジカメに撮り作品名と作者名をメモ。
「来てくれてありがとう」。招待のメールをくれた先輩から声をかけられる。先輩の作品は御前崎の海を
走る漁船。富士山を背景に大漁旗を掲げている。 聞けば先輩の知人のロシア人実業家が、東京臨海部の
新築マンションの最上階を購入、そのお祝いのプレゼントに描いたものの由。
「ヘエー、あのロシア人が」と思う。私が会社に入ったころ、ロシアはソ連邦であり、共産主義国家だった。
人々は貧しく、パンを買うにも映画館に入るにも長い列に並んでいた。。。。
ソ連が共産主義を捨ててまだ30年経っていない。国の制度を変えただけで人々の暮らしがそんなに激変するものか? 

京橋駅に戻り昼食。この辺もすっかり変わってしまった。1970年ころ、この近くに「第一ぬり彦ビル」
があり、ソ連東欧貿易会が入っていた。当時、モスクワ見本市の打ち合わせやシベリヤ開発の資料を
もらうためによく通った。当時は明治屋のビルだけが大きくて立派で、周りにはくすんだ建物ばかりだった。
ところが、今やその頃の面影はない。高層ビルが立ち並んでいる。その高層ビルの1階のシャレたレストランで
親子丼を食べた。 トロトロの卵が美味しかった。

地下鉄東西線竹橋駅からJR御茶ノ水駅へ歩く
昨年、友人からメールが入った。かつて我々が勤めていた会社が本社を他所に移し、竹橋の本社ビルが
解体されると。その現場を見、写真に撮って友人に送ってやろうと考えた。
16階建てのビルの周辺は幕が張られ、ガガーという工事の音だけが聞こえてくる。人影は全くない。

御茶ノ水駅に向かって歩き出す。博報堂が大規模な開発をしている。広い敷地内に立派な高層ビルを建て、小川を配している。 その奥にも高層ビルが2つ。昔、昼食の時間にあちこち歩いた頃の面影は全くない。

小学館ビルも立派なビルに変身。昔はここの地下一階の食堂によく来たが、今や全く変わっている。
1階のシャレたカフェで紅茶。岩波書店も立派なビルになっている。

神田の古本屋街を歩く。昔、このあたりにソ連書籍専門の「ナウカ」と「日ソ図書センター」があった。
街を歩き回りようやく「ナウカ」の後身「ナウカジャパン」を探し当てた。私が持っているロシア語の辞書、
ソ連・ロシア関係書籍を買ってくれないか聞いた。「買い取り」はしていない、ただ、書籍を店に置いて売る
「委託販売」はするとの回答。ここにお世話になることがあるかも、と思って辞去する。

「山の上江ホテル」に立ち寄る。フロントの前のソファで紅茶を注文。客は私以外に2組と少ない。私の席の
左側3-4メートルのところに元東大教授の姜尚中氏が座っておられた。氏は氏の正面に座る編集者と思しき3人に例の低い声で何事かを話しておられる。氏の声は低いが何故かよく聞こえる。時々、「日露戦争」とか「露土戦争」、「シベリヤ出兵」の言葉と編集者の笑い声が聞こえてくる。私は暖かい紅茶を飲みながら耳を
すました。

このホテルは文士が好んだことで知られる。池波正太郎はここに1週間ほど投宿し、絵を描いたという。
山口瞳は奥さんとともにこのホテルに泊まり、直木賞の応募作品を読んでいる。そして、五木寛之氏は、
私の記憶に間違いがなければ、このホテルに投宿中窓から投身自殺を図ったが、果たせなかったと書かれていた。

現役の頃、このホテルには何度かお世話になった。ロシア人を連れてステーキ、中華を食べた。特に、
忘れがたいのが天ぷらだ。モスクワ支店に赴任するH君と二人、打ち合わせを兼ねてここで天ぷらのコース
を食べた。4月はじめの頃で山菜の苦みが美味しかったことを思い出す。



1日

2017年05月19日 | 日記
1月16日、都心に行った。 歩き回ったので疲れたが、楽しい1日だった。

地下鉄日比谷線京橋駅
画廊「くぼた」。昔勤めていた会社の美術部OBの絵画展が毎年、この季節に開かれる。
私はここ10年ほど楽しみに通っている。風景画、人物画など30数点。気に入った数点を
デジカメに撮り作品名と作者名をメモ。
「来てくれてありがとう」。招待のメールをくれた先輩から声をかけられる。先輩の作品は御前崎の海を
走る漁船。富士山を背景に大漁旗を掲げている。 聞けば先輩の知人のロシア人実業家が、東京臨海部の
新築マンションの最上階を購入、そのお祝いのプレゼントに描いたものの由。
「ヘエー、あのロシア人が」と思う。私が会社に入ったころ、ロシアはソ連邦であり、共産主義国家だった。
人々は貧しく、パンを買うにも映画館に入るにも長い列に並んでいた。。。。
ソ連が共産主義を捨ててまだ30年経っていない。国の制度を変えただけで人々の暮らしがそんなに激変するものか? 

京橋駅に戻り昼食。この辺もすっかり変わってしまった。1970年ころ、この近くに「第一ぬり彦ビル」
があり、ソ連東欧貿易会が入っていた。当時、モスクワ見本市の打ち合わせやシベリヤ開発の資料を
もらうためによく通った。当時は明治屋のビルだけが大きくて立派で、周りにはくすんだ建物ばかりだった。
ところが、今やその頃の面影はない。高層ビルが立ち並んでいる。その高層ビルの1階のシャレたレストランで
親子丼を食べた。 トロトロの卵が美味しかった。

地下鉄東西線竹橋駅からJR御茶ノ水駅へ歩く
昨年、友人からメールが入った。かつて我々が勤めていた会社が本社を他所に移し、竹橋の本社ビルが
解体されると。その現場を見、写真に撮って友人に送ってやろうと考えた。
16階建てのビルの周辺は幕が張られ、ガガーという工事の音だけが聞こえてくる。人影は全くない。

御茶ノ水駅に向かって歩き出す。博報堂が大規模な開発をしている。広い敷地内に立派な高層ビルを建て、小川を配している。 その奥にも高層ビルが2つ。昔、昼食の時間にあちこち歩いた頃の面影は全くない。

小学館ビルも立派なビルに変身。昔はここの地下一階の食堂によく来たが、今や全く変わっている。
1階のシャレたカフェで紅茶。岩波書店も立派なビルになっている。

神田の古本屋街を歩く。昔、このあたりにソ連書籍専門の「ナウカ」と「日ソ図書センター」があった。
街を歩き回りようやく「ナウカ」の後身「ナウカジャパン」を探し当てた。私が持っているロシア語の辞書、
ソ連・ロシア関係書籍を買ってくれないか聞いた。「買い取り」はしていない、ただ、書籍を店に置いて売る
「委託販売」はするとの回答。ここにお世話になることがあるかも、と思って辞去する。

「山の上江ホテル」に立ち寄る。フロントの前のソファで紅茶を注文。客は私以外に2組と少ない。私の席の
左側3-4メートルのところに元東大教授の姜尚中氏が座っておられた。氏は氏の正面に座る編集者と思しき3人に例の低い声で何事かを話しておられる。氏の声は低いが何故かよく聞こえる。時々、「日露戦争」とか「露土戦争」、「シベリヤ出兵」の言葉と編集者の笑い声が聞こえてくる。私は暖かい紅茶を飲みながら耳を
すました。

このホテルは文士が好んだことで知られる。池波正太郎はここに1週間ほど投宿し、絵を描いたという。
山口瞳は奥さんとともにこのホテルに泊まり、直木賞の応募作品を読んでいる。そして、五木寛之氏は、
私の記憶に間違いがなければ、このホテルに投宿中窓から投身自殺を図ったが、果たせなかったと書かれていた。

現役の頃、このホテルには何度かお世話になった。ロシア人を連れてステーキ、中華を食べた。特に、
忘れがたいのが天ぷらだ。モスクワ支店に赴任するH君と二人、打ち合わせを兼ねてここで天ぷらのコース
を食べた。4月はじめの頃で山菜の苦みが美味しかったことを思い出す。



お婆さんに殺される

2016年10月24日 | 日記

2週間前、私は家に向かって歩いていた。
夕暮れの住宅街の一本道。道の右端を歩いていた。

向こうから乗用車が走ってきた。小さな車だ。
ナント、向かって右側の後ろのドアが全開だ。

スピードは早くなかった。私は道の真ん中に飛び出した。
右手を高く上げ、止まれ、止まれ」と叫んだ。

車は止まらない。走ってくる。 
私は「止まれ、止まれ」と叫び続けた。

車は5-6メートル前でやっと止まった。
だが、運転手は出てこない。運転席で腰をかがめこちらを見ている。

やっと出てきた。小柄な、70を過ぎたお婆さんだった。
お婆さんは私の指さす方向を見て、車の後ろに回った。

ドアを閉めて戻ってきた。 そして少し腰をかがめた。
その時、お婆さんは少し笑っていた。そして車で行ってしまった。

お婆さんが車に乗り込むとき私は言った。
「人にあてたら、えらいこっちゃ」関西弁が出てしまった。

その夜、私は友人にメールを送り、顛末を述べ、こう書いた。
「お婆さんに殺される時代や」
 




 母  その1 母の死

2016年05月05日 | 日記

母は今年3月6日、96才の誕生日を迎え、2日後に息を引きとった。
私と弟は3月5日、母の面倒を看てくれている大阪の妹の家に集まったが、母はもう、
我々と話せる状態ではなかった。

3月8日、妹は朝から調子が良くない母を毎週お世話になっている総合病院に
連れて行ったが、それから数時間後に死亡。妹は病院から死亡診断書をもらい、
田舎に住む弟と相談したうえ、病院が手配してくれた霊柩車に母を乗せ、
中国山脈の、四方を山に囲まれた村に連れ帰った。

母の遺体は8日~9日実家に安置し、村の方々に最後のお別れを告げた。
遺体は9日の夕方隣りの市の葬儀場に移され、11日夕刻通夜、12日昼葬儀を行った。
自宅でお別れをしたにもかかわらず、夫々200人、180人ほどの方が集まり焼香をして
下さった。

私は、故郷に向かう霊柩車の中からかけてきた妹の電話で母の死を知ったが
悲しみは全くなかった。むしろ開放感を感じていた。

母は妹のところで4年3ケ月暮らしたが、昨年9月、3日間ステイしていた病院で
脳こうそくで倒れた。それ以来、話もほぼできなくなり一日中目を閉じ、パイプを
通じて食事を与えられ、排せつをするだけになっていた。妹はそうした環境に母を
おいておけないと、1ケ月後再度自宅に引き取り、24時間介護を続けていた。

その頃、ほぼ毎日のように妹と電話をかけあい食事の準備や排せつ物の処理などについて
聞いていた私は、妹の健康が心配だった。今、妹が倒れたらどうなるんだ、いつに
なったら妹は母の介護から逃れることが出来るのか、とひたすら妹のことを心配していた。

母は96年を生き、大往生した。母は幸せな人生を全うした。(兄は7年前に死んで
しまったが)残った3人兄弟が団結して母を看、見送ったと私は今、そういう思いでいる。





次女の結婚 その5

2016年02月26日 | 日記
次女の結婚は私たち夫婦に幸せをもたらした。

   孫の誕生
   家内は週に2回、片道2時間をかけて南品川に住む次女のところに通っている。
   途中、東京駅で自分と次女用のお弁当、サンドイッチ、野菜を買って持参し、
   次女と分け合って食べている。
   家内は孫に夢中で「可愛い、可愛い」を連発、声も1オクターブ高い。孫を抱っこし、
   おしめを取り換え、ミルクやおかゆを与えている。それが何より楽しいのだろう。
   次女も何でも相談できるので喜んでいる。家内はここ2年半、実家に住み込み年老いた母の
   面倒を一人でみているので、孫といるひと時が気晴らしになっているらしい。

   私は週に1度、家内についていく。孫は私に抱かれることを好み、ハイハイして私の足元に
   寄ってきて私を見上げ、抱っこしてくれとねだる。この抱き心地がいい。3時間ぐらいの
   滞在の中で1時間以上、私は孫を抱っこしている。
   それにこの孫は7年前に亡くなった私の兄の子供の頃に似ているので一層可愛い。



   次女が気遣いをするようになった
   次女は結婚後、明らかに変わった。あちらのご両親とのお付き合いが始まり(よく呼ばれて
   3人で婿ドノの実家に行くらしい)それがきっかけで私たち夫婦に対する接し方も自然に会得   したのだろう。
   次女は幼いころから「お母さん子」だったのだが、私に対する態度が変わった。
   私を見ると、「ハイ、お爺ちゃんに抱っこしてもらいなさい」と言って孫を私に委ねてくれ    る。私が紅茶を好きなことを知っていて色んな紅茶を用意していてくれる。私がカレルチャ    ペック社のGirls teaを「これは美味いな」というと、すぐ新しいのを買っておいてプレゼント   してくれた。お茶やコーヒー、紅茶を実にタイミングよく出してくれる。


   夫婦の仲が大幅に改善した
   私たち夫婦は長女・次女が学業を終えて就職してから共通の目標を失っていた。自然会話も
   少なくなっていた。
   ところが、孫が生まれるや毎日のように電話で連絡を取るようになった。内容は孫が
   「ハイハイした、立っちした」といった他愛ないことだが、これが楽しい。
   私は週に2回ほど家内の実家に通っているが、最近は肝心の義母が老齢のためTVの前で
   目を閉じたままなので、話すことも少なくなった。私と家内はお茶を2杯も3倍も飲み
ながら、家内がタブレットで撮ってきた孫のビデオを見ている。これが楽しい。
 

































次女の結婚 その5

2016年02月26日 | 日記
次女の結婚は私たち夫婦に幸せをもたらした。

   孫の誕生
   家内は週に2回、片道2時間をかけて南品川に住む次女のところに通っている。
   途中、東京駅で自分と次女用のお弁当、サンドイッチ、野菜を買って持参し、
   次女と分け合って食べている。
   家内は孫に夢中で「可愛い、可愛い」を連発、声も1オクターブ高い。孫を抱っこし、
   おしめを取り換え、ミルクやおかゆを与えている。それが何より楽しいのだろう。
   次女も何でも相談できるので喜んでいる。家内はここ2年半、実家に住み込み年老いた母の
   面倒を一人でみているので、孫といるひと時が気晴らしになっているらしい。

   私は週に1度、家内についていく。孫は私に抱かれることを好み、ハイハイして私の足元に
   寄ってきて私を見上げ、抱っこしてくれとねだる。この抱き心地がいい。3時間ぐらいの
   滞在の中で1時間以上、私は孫を抱っこしている。
   それにこの孫は7年前に亡くなった私の兄の子供の頃に似ているので一層可愛い。



   次女が気遣いをするようになった
   次女は結婚後、明らかに変わった。あちらのご両親とのお付き合いが始まり(よく呼ばれて
   3人で婿ドノの実家に行くらしい)それがきっかけで私たち夫婦に対する接し方も自然に会得   したのだろう。
   次女は幼いころから「お母さん子」だったのだが、私に対する態度が変わった。
   私を見ると、「ハイ、お爺ちゃんに抱っこしてもらいなさい」と言って孫を私に委ねてくれ    る。私が紅茶を好きなことを知っていて色んな紅茶を用意していてくれる。私がカレルチャ    ペック社のGirls teaを「これは美味いな」というと、すぐ新しいのを買っておいてプレゼント   してくれた。お茶やコーヒー、紅茶を実にタイミングよく出してくれる。



   夫婦の仲が大幅に改善した
   私たち夫婦は長女・次女が学業を終えて就職してから共通の目標を失っていた。自然会話も
   少なくなっていた。
   ところが、孫が生まれるや毎日のように電話で連絡を取るようになった。内容は孫が
   「ハイハイした、立っちした」といった他愛ないことだが、これが楽しい。
   私は週に2回ほど家内の実家に通っているが、最近は肝心の義母が老齢のためTVの前で
   目を閉じたままなので、話すことも少なくなった。私と家内はお茶を2杯も3倍も飲み
ながら、家内がタブレットで撮ってきた孫のビデオを見ている。これが楽しい。
 

































ギャンブル依存症

2016年02月16日 | 日記
先週、パソコンとTVを同時に視ていた。
どちらの番組も面白く交互にみていたが、そのうちTVの方が格段に面白くなった。

TVの方は「しくじり先生。俺みたいになるな」(副題:失敗人生から学ぼう)
この番組は博打や、女性、カネで人生をしくじったタレントや歌手、スポーツ選手が
「先生」として登場。それを「生徒」役の大勢の若手芸人がいじくる。
台本がしっかり作られているようで、なかなか面白い。

この日登場したのは元関脇の貴闘力。
花札、競馬、麻雀、カジノ等ギャンブルにハマって5億円をスッてしまった。
そのため親方、友人、知人、弟子、谷町筋から借金を重ね、何度も博打から足を
洗おうとする。

ところが彼はすでにギャンブル依存症にハマり込んでいた。どうしてもギャンブルから足を
抜けない。懸賞金はすべて博打につぎ込む、弟子から強制的に金を取り上げる。
金がなくなると必死に相撲に励むしかなく、そういうときだけ良い成績が残せる。

まるで阿佐田哲也の「麻雀放浪記」の世界だ。白川道の「病葉流れて」の世界をも
思い出させる。そして大王製紙元会長の井岡意高氏。 彼は子会社から合計86億円を
強制的に出させ、すべてカジノで使い果たした。彼が一昨年書いた「溶ける」はすさまじい
までにカジノにのめり込んだ男のヒストリーだ。読んでいるだけで汗が吹き出しそうだ。

貴闘力は大鵬親方の3女と結婚し、大鵬部屋を継ぐことが約束されていた。ところがが
ギャンブルが原因で離婚され、遂には相撲界から追放された。
貴闘力「先生」はそうした自分の人生を淡々と語る。それに対し生徒たちが茶々を入れ、
番組は大いに盛り上がっていた。

私も麻雀にのめり込んだ時期があったので、彼の話には共感するところが多かった。
ギャンブルにハマり込むと右左が見えなくなること。禁断症状。一時完全に止めていても、
「これだけ我慢したんだから、少しぐらいいいじゃないか」という気持ちの弛みから
またまた、ハマり込んでいくこと。

番組は進んでいった。そして貴闘力が生徒達に向かって「この中で麻雀をやられる方はいますか?」
と聞いた時だ。私の口から「ハーイ」という声が出て、左手がスッと挙がった。
あれ、これはなんだ? 私の意思と関係なく、体が勝手に反応してしまっていた。

ちなみに、その時私が視ていたパソコンは日本プロ麻雀連盟が放映している麻雀のタイトル戦
であり、その2日後には新宿での麻雀の約束が入っていた。




公民館まつり

2015年10月17日 | 日記
国分寺市のH公民館では10月17日、18日が公民館まつり。私は16日、その準備作業に参加。
その時、今年から図書館も参加することを知った。図書館はリサイクル図書、寄贈図書を
展示、無料でもらえることも知った。

17日朝10時過ぎ、会場に行く。すでに40代の男性が一人、本を漁っている。
会場を歩き回りすごい本を見つけた。
 「決定版 昭和史」全18巻 毎日新聞社 昭和59年刊 1冊 3,800円

縦30cm, 横22cm, 1巻230ペーシ、箱入り。内容は写真で見る昭和史の趣。
私は第3巻「昭和前史 日露戦争」から第14巻 「講和・独立」まで
合計12冊を2回に分けて自宅に持ち帰った。
最近、昭和史に関する本を読み始めているのでこの12冊は嬉しい。
今日は何か良いことがありそう。


M公民館でも17日~18日が公民館まつり。私もパソコン学習会で作品を出品している
ので、公民館の2階の会議室に「店番」に行く。

ふと見ると隣の和室で裏千家のお茶会が開かれていた。一度こういう席で
お茶を「正式に」飲んでみたいと思っていたので列に並んだ。
受付には 料金 大人250円、こども100円の札。

私の前には小学1-2年生と思われる女の子4人がお母さんと並んでいた。
私の番になったので受付の女性(30歳前後か)に「こども1枚」と言うと、
「立派な大人です」と言われ250円の札を買わされた。
残念!こちらはダメだった。 

次女の結婚 その4

2015年08月23日 | 日記
次女はこの4月始め、男の子を出産した。産院に1週間入院し、その後、5月末まで家内の実家で暮した。
家内が実家で義母の世話をしているので、義母、家内、次女、赤ちゃんの4人が一緒に住むこととなった。
この間、私は毎日自宅から産院、実家に通った。

赤ちゃんを抱く時、私は左手を赤ちゃんの頭と首の下に入れ、右手をお尻の下から入れ、背中を支える
かたちをとる。そして頭部を少し上にし、脚部を下に向かうようにする。こうすると安定がいいし、
顔もよく見える。

次女は妊娠がわかった時から、お腹の子を「豆たん」と呼び、毎日話しかけてきたという。だから家内も
私も「豆たん」と呼ぶことにした。家内と次女はミルクやりやオムツの取替え、お風呂で毎日てんてこ舞い。
89歳の義母は突然出現した曾孫のお陰で全く無視された態になり、ややおかんむりだ。

赤ちゃんの誕生を一番喜んでいるのは家内だろう。「アーラ、地味な顔しちゃって」といいながら、少し
甲高い声で「マーメたん!、 可愛い、可愛い}とやっている。そう、赤ん坊の顔は可愛いとはいえない。
しかし拙い顔でもない。 私は「お地蔵さん」と名づけた。 家内によると次女は、1ヶ月して遊び飲み
を始めた赤ちゃんにイライラすることもあるらしい。「気合を入れて 飲みなさい!」と怒ることもあるらしい。

私はここ数年、胸の中に鬱屈を抱えていた。ところが、昨年の次女の結婚と今年の出産で鬱屈の原因の1つは
氷解した。家内は最近の自分の充実した生活を「次女のお陰ね」と感謝しているが、私も同感だ。
次女が結婚し、赤ん坊が生まれたことによって私と家内の血は続くことになった。赤ん坊は私たち夫婦にとって
未来であり、将来であり、希望だ。









 

次女の結婚 その3

2015年07月22日 | 日記
昨年結婚した次女が4月始めに初めての子を出産した。産院はJR K駅の南口にある。
家内は61年前にこの産院で生まれた。そして家内自身も2人の娘をこの産院で出産した。
これで母子孫3代がこの産院にお世話になったことになる。

昔、長女が生まれた時私も数度通ったが、当時はまだ平屋建ての木造だった。ところが今や
鉄筋の5階建。どうどうたるビル。しかも総合クリニックになっている。。
そして1階には静かな日本食レストランもある。立派になったものだ。

家内からの連絡を受けて産院に行く。3900g、52cmの大きな男の子だった。
次女は前日から入院し33時間かかって出産。しかもその間、婿ドノがずっと付き添い
お腹をさすったり、一緒に食事を摂ったりひと時も傍を離れず、出産にも立ち会った由。
「貴方とえらい違いよ」と家内は皮肉を言う。 そう、家内が長女を出産した時、私は
会社帰りで雀荘にいた。次女の時は海外に駐在していた。

夕方には婿ドノのご両親が千葉県から産院に駆けつけられた。私はご挨拶の言葉をあれこれ
考えていたが、病院の入り口でお会いした時「遠くからわざわざ有難うございます」の次に
「私は本当に嬉しいです」という言葉が口を突いて出てきて、自分でもビックリした。

ご両親は30-40分赤ちゃんと対面。 その後、1階のレストランでご両親と私たち夫婦
4人で色々と話した。楽しい食事だった。

昨年次女が結婚した時、私は自分の携帯の待ち受け画面を2人の写真にした。
初孫の誕生とともにこれを孫に変えた。毎日何度も見ている。