街をきれいに 

タバコの吸殻やプラスティックのゴミを拾って街をきれいにしようとしています。 拾った吸殻の数を数え累計しています。

吸殻拾い 本日分 128本

2011-08-24 23:36:55 | Weblog
2011年8月24日(水)曇り 27℃ 67% am6:45 本日分=128本 累計=174,604本

Pm19:00~19:25、教会の聖書輪読会に出席
            詩編 46~57
Pm19:30~20:50、祈祷会に出席。
            フィリピの信徒への手紙 2章1~18章
            私が担当した聖書研究(最下段にレジメを添付しました。)
      今週の祈祷題 ギデオン協会の働きを覚えて
      松山栄光教会と今週誕生日を迎えられた2兄弟2姉妹を祈りに加えて

御器所教会 のホームペ-ジはhttp://www.gokiso-church.or.jp です。

Am6:55~7:00 & pm16:45~50、【C】=16本、
(C-1)地下鉄荒畑駅前+南駐輪場=4+0+0=4本、
(C-1)地下鉄荒畑駅前+南駐輪場=3+8+1=12本、
Am7:15~40 & pm16:05~30、【自由地区】=112本 前回=117本 
(八事交差点)=22+10+24=56本 前回=26+14+28=68本        、          
(八事音聞山)=15+20+16+5=56本 前回=8+20+17+4=49本  
200100
1日320本(内7日に1日休み)を続けると、2010年12月31日 100,000本の目標に対し本日のデータでは
              2011年11月25日達成     200,100本
              2011年12月16日では  205,860本

   
御来訪ありがとうございます。

<吸殻本数の表示方法>、<吸殻拾いの目的>、
<目標本数 100000本 を達成する 目標年月日>、
<今までの吸殻拾いのデータ紹介>
は毎週日曜日のブログに載ります。

本日の祈祷会のレジメ

フィリピ人への手紙は「喜びの手紙」とか「美しい手紙」と言われている。
構成は F.B.クラドックによれば次の通りである。
挨拶      1・1~2 教会ならびにその指導者に対するパウロの挨拶
感謝の言葉   1・3~12   教会との関係についてのパウロの謝意の表明
 1・3~6 過去 これまでの関係
 1・7~8 現在 今の関係
 1・9~11 未来 これからの望ましい関係
自伝的記述  1・12~26 パウロの意に反する不在と福音、教会
 1・12~18 パウロの監禁が福音におよぼす影響について
 1・19~26 パウロの監禁が教会と彼自身におよぼす影響について
当面の勧告 1・27~2・16 パウロの在、不在にかかわらず
 1・27~30 敵対的な不信の社会に対するキリスト者の態度
2・1~11 信仰共同体の内部におけるキリスト者の態度
 2・12~16 教会を創設した使徒パウロに対するキリスト者の取るべき態度
自伝的記述 2・17~3・1a パウロと協力者の旅行計画
当面の勧告  3・1b~4・9 省略
感謝の言葉  4・10~20 教会との関係について感謝するパウロ
結びの言葉  4・21~23 再び挨拶と祝福

F.Bクラドックは「フィリピの信徒への手紙」を「手紙」として読むことを勧めています。
1.「手紙」であるということ 私信であるが礼拝中に読み聞かせるものであった。
 パウロの手紙による、パウロの「臨在」の意義は当時のありきたりの書簡によるものを
はるかに超えていた。
2「パウロ」の手紙であること パウロは手紙を書くという方法を選んだが、それはおそらくこの形式が口頭による宣教に最も近かったからであろう。
3「教会」宛に書かれたということ パウロとフィリピの信徒の間は、与えるにおいても、受けるにおいても働くにおいても、喜ぶにおいてもパートナーであった。さらに、パウロが知る苦しみは、フィリピの信徒が経験しているそれと同じものである。この事実こそが、ある人がこの手紙の美しさと呼び、他の人が平明さ、暖かさ、精神性と呼ぶものを明らかにする。

1.・27~30 敵対的な不信の社会に対するキリスト者の態度
 27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活(市民として生きる)を送りなさい。あな
たがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っている。
 28 固く結束してキリストの福音をしっかり生きぬくことが、来るべき日の救いのしるし、
敵対者にとっては滅びのしるしである。
 29 キリストを信じることだけでなく、キリストのため苦しむことも恵みとして与えられ
ている。
30 わたしの戦いをかって見、今同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
2・1~11 信仰共同体の内部におけるキリスト者の態度
2・1~4 わたしの喜びを満たしてください。
1. 信仰と生活体験に基づいて、その上にさらに前進させ、完成させるようにと呼びかける。―イエス・キリストにあって生きる信仰共同体
2. わたしの喜びをまったきものとしてください。
 ―パウロが喜びをもって捧げる数々の祈り(1・4)は教会の働きにおいて答えられ、彼の喜びは溢れ出るのである。
3. 「同じ思いとなり(態度・心構えを同じくする)」、「同じ愛を抱き」、「心を合わせて」、「思いを一つにして」(パウロは共通の態度と注意への呼びかけを繰り返す)。
 2・2で「思い」という単語を二度用いることにより、2・5から始まるキリスト者としての決意、態度、心構えについて-「この思いをあなたがたの間でも生かしなさい」-に備えさせようとしている。
4. パウロは利己心に満ちた眼、尊大な精神、お世辞を求める耳、何も語らない口、他人を受け入れる余地の乏しい心、自分にのみ仕える手は、キリストの体にふさわしくないと見なしていた。
2・5 「あなたのキリスト・イエスにあって思っているのと同じようにあなたがたの間でも思いなさい。」と訳しても許されるだろう。
2・6~11「キリスト・イエスにある思い」
  この箇所の記述の様式は賛歌である。
   フィリピ2・6~11は、キリスト物語を三つの展開に分けて語ったもので、それは「先
  在」、「現在」、「後在」である。キリストは先在して方であり、この世に生まれる前に神と共にあったという言い方は新約聖書では珍しくない。初期のキリスト教徒は天地創造の教義を受け入れて、この世や人間の肉体、さらには生命自体に対する否定的な見方に支えられたこのような考え方を拒否した、しかし、一部ではキリストの超越性を主張する方法として、先在という範疇が残された。
   しかるに、この賛歌はキリストが先在の状態を固執しなかったと語る。キリストは神のかたちであったが、神と等しくあることを固執すべきだと思わなかった。これは、人間の運命がどのような状況にあっても、キリストはこの世に来て、僕となり、死に至るまで従順になられたことを述べている。キリストの従順は最終的には神に対してであるが、当面は人間の運命を決定するあらゆる力、あらゆる勢力に対するものである。
   9節では、賛歌の主題が変わる。こんどは、キリストを高めるために行動される神である。新約聖書において、イエス・キリストの即位を宣言するために、最も頻繁に引用される旧約聖書は、詩編110・1である。
     わが主に賜った主の御言葉
     「わたしの右の座に就くがよい。
     わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
  イエスに授けられた名前は主で、これは異邦人のキリスト教徒のあいだで最も古い信仰告白の形であると認められている。たとえば、「イエスは主である」。イエスが主であることの承認は、人間世界に限定されるのではない。キリストは、神が創造した秩序の中のあらゆる力を支配する主である。この宇宙において、僕としての救いの業のおよばない場所、被造物は存在しない。神の業は賛歌の言葉が宣言したこと、すなわち救済のドラマにおける中心的出来事は、へりくだった奉仕の業であるという宣言の証明である。
  「十字架の死に至るまで」(8節)はパウロ自身が付け加えた可能性がきわめて高い。
   賛歌の前景にあるのは、不一致と自分に仕える態度を特色とする個人主義によって証 しの働きから身を引いてしまった教会である。パウロの判断によれば、教会に必要なものは叱責ではなく、教会を教会とたらしめる、「キリストにある」という思いなのである。                       あこの賛歌は、主であること、弟子であることの意味を明らかにしているのみならず、奉仕と従順の道を放棄する教条主義に対する審判として、教会の正典の中できわ立っている。
2・12~16 教会を創設した使徒パウロに対するキリスト者の取るべき態度
   フィリピの信徒への手紙を理解するためには、在―不在のモティーフで劇的に表現されているパウロとフィリピ教会との間の分かち難い結びつきを感じ取る以上に重要なことはない。この手紙は非常に多くの面で実質的であり、実り豊かな人間関係を反映した書簡である。
パウロとフィリピ教会の信徒たちは宣教の協力者であること、パウロが監禁されても、法廷に立たされてもなお協力者であること、信徒たちはパウロの苦しみと一体化することを通して、自分たちの苦しみのみならずイエスの苦しみをも理解することができること、パウロの来訪という事実を通してキリストの来臨を前もって経験することができること、パウロの生涯は真の喜びの機会を信徒に与えるゆえに、信徒たちに多大な影響をおよぼしていること、また、信徒たちは最後の審判の日にパウロが誇ることのできるものを与えるゆえに、パウロにも影響をおよぼしているということである。
   パウロは言う、「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として……」(2・15)。よこしまなやからが、必ず脅迫したり、威圧したり、誘惑したり、そそのかしたりしようと待ち構えている。
   しかし、神の民はそれに耐えて生きのびるだけではなく、世を照らす星のように輝いて(2・15)、自ら率先して行動すべきである。世のためにしもべであったキリストにならって、この世に答えるべきである。
   次の二つの言葉を心に留めておくならば、キリスト者はあまねく恵みのただ中で労することが約束される。それは「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです、」(2・13)、「恐れおののきつつ」(2・12)
2・17~18 自伝的記述の最初の部分
   2・17における比喩的表現は異様なほど美しい。フィリピの信徒は祭壇で信仰を証し、いけにえの供え物を捧げる祭司として描かれている。パウロの生命の血が献酒として注がれる。パウロの死の知らせが届いたとき、信徒たちは再び集まったであろう。礼拝を捧げるために……。「わたしは喜びます、あなたがた一同と共に喜びます、同様にあなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」(2・17~18)

文献 「フィリピの信徒への手紙」F.B.クラドック 古川修平訳 1988年 日本基督教団

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