ちょっとしたきっかけで知った
中村中さんの
友達の詩っていう歌に夢中です。知り合いは歌詞を読んで「お、お前そんなに極端に走らなくてもいいだろう」という感想をもらしておりましたが、私はとっても共感できたりします。
中村さんは性同一性障害の方らしいのですが、社会一般の性とか恋愛とは異なる、セクシャル・マイノリティの方には、特にこの詩は響くんじゃなかろうか。
かくいう私もセクシャル・マイノリティ(ここで暴露すべきことかどうかはわかんないけど、別に隠してないし特に悩んでないし今年も終わるし(え?)いいや)。世間様ではバイセクシャルと呼ばれるあれです。女の子が好きというより、好きになる対象として男とか女とかを分離する必要軸が自分の中に存在してないのです。普通に共学に通ってましたし、痴漢以外は別に男の方を敵視するべき経験もないし、先天的なものでしょう。
それが高じて卒論では軽くジェンダーみたいなことをやっていたりするわけですが。今私がやっている台湾の作家、白先勇の「ニエズ」という作品も、同性愛を扱った作品で、作者も同性愛者です。で、「友達の詩」の内容にも、「ニエズ」の作品の中にも、「好きだから傍にいられない」みたいなことが出てくるのです。
私の生まれて初めての恋愛はちと遅くて、高校時代の、同級生の女の子でした。そりゃもう死ぬほど好きで、好きだと自覚した時は世界が何億色に見え、歩くことさえままならずスキップしながら家へと帰ったものです(はたから見るととてもアブナイ人です)。が、思春期の彼女と私が抱える心の問題は根強く、たかが17、8年とはいえ、互いの過去を完全に支え合うのは無理があり、距離を置かざるをえなくなりました。私は期待してそれが叶わないことに傷つきすぎてしまったし、彼女は傷つく私を見るのも重く辛かった。卒業する頃の私たちの関係と言えば、そもそも女同士なので異性愛の恋人同士のように付き合うも付き合わないもなかったわけですが、友達と呼ぶには近すぎ、恋人と呼ぶには辛すぎ、親友と呼ぶには切なすぎる、という何とも名付けにくい状態になってしまっていました。
現在も親交は続いており、彼女も私も良い彼氏さんができてそれぞれ仲良くやっております。…が。私も、そしておそらく彼女も、あの時の微妙な関係を、わかりやすく定めやすい「ともだち」という言葉に戻せたわけではないのです。
彼氏とは、いつでも傍にいたいです。親友とは、できたらたくさん会いたいです。でも彼女とは、いつも連絡をとることをためらいます。嫌われるくらいなら、会わない方がずっといい。傷つけるくらいなら、黙っていた方がずっといい。幸せにやっていると、誰かから聞けるならそれで充分。
他のセクシャル・マイノリティの皆さん(こういう超大雑把なくくりは本当は良くないけど)がどういう気持ちになるのかはわからないけれど、同性同士の恋愛は、実は異性愛より難しいような気がします。わかり合い過ぎるところがあって…。重なり合うことができてしまう部分が多すぎて、同じだから愛しくて、同じじゃない部分が憎くて。人間、「わかっているけど、できない」こともいっぱいあるのに、それを許せなくなって、互いに互いの存在が重くなっていく。
たいていの人は、20年以上人間やってりゃ、笑える過去ばかりでもないでしょう。もっと長く生きれば、もしかすると相手の人生支えられるようになるのかもしれないけれど、少なくとも今の私には無理だ…。
恋愛を長くやるために大切なのは、相手の心と「重なり合う」ことよりも、相手の心に「寄り添う」ことじゃないかと思ってみたり。
だからこそ、中村中さんの「大切な人が見えていれば上出来」という一文は、胸に刺さりました。本当、そうだ…。近づくのは「危うい」から、見守ることができれば充分。この詩、見ようによっては強がっている風に受け取れるかもしれないけれど、多分、中村さんは心底そう思っているんじゃないかなぁ。
2006年最後のエントリーがこれってどうなのかわかんないけど、正月休みであまり人がこれを見ない(見るころには別のエントリーで記述が下に落ちている)ことも考慮して、ちらっと暴露話なんかをしてみました。
ではでは、今度こそ、皆様、良いお年を。2007年も素晴らしい年になりますように。