『禁じられた遊び♪』

2005~2007年に発信していたブログの保存用です。
『赤土に咲くダリア』&『red』が生まれました。

151 組長終わり!

2007-03-31 14:42:45 | 地域・社会
             
 ふぅ~~~っっ、今日で組長が終わったよ!
 (組長って何?って人もいると思うけど・・・新撰組とか山口組とかじゃなくて地域の組です)
 うちの町内には全部で27の組があり、私たちは5A組の組長を務めた。5A組には家が15軒あり、各家庭に市からの広報を配ったり、回覧板や町内の訃報を回したり、お金(町費や祈祷料)やバザー用の品を集めたりした。その他、お祭りや子供会の行事の準備も手伝った。地域に顔を覚えてもらうために引っ越してすぐ組長をやらされる慣習?があるようで、我が家も本来は昨年度にやる予定が、2人の幼い子供を抱えて見るからにたいへんそうだったので(実際隣りの家に回覧板を持っていくだけでも必死だった)、今年度に回ってきた。引っ越したばかりで周りにどんな人が住んでいるのか分からなかった頃は、「組長」というだけでどんなたいへんなことをやらされるのか不安で仕方なかったが、終わってみればやってみて良かったなあと思った。面倒ではあるが、地域に挨拶できる人が確かに増えたり、町の行事で子供たちが喜んでいる様子を見ればうれしくなる。私は事務処理能力がゼロなので、きっちり役目を果たした夫に感謝している。夫は「わしゃ経理畑が長かったもんでね~」とでも言いそうな(退職後に地域活動に目覚めたような)老成した組長ぶりだった。近所の奥さんからは「いいねぇ、ダンナさんがしっかりやってくれて」と評判を上げ、ご主人連中からは「あんたがしっかりやると妻から責められて困る」と言われていた。いいことだか悪いことだか分からないけど、まあ、そういう仕事ぶりだった。

 組長期間に夫婦で成したこととしては(まだ成し遂げたとは言えないが)、通学路の危険な箇所を総代さんと町内選出の市議会議員に訴えたことだ。宅地の開発等で交通量が急激に増えた道路で、歩道が確保されておらず、大人でも歩くのがこわい道(すべてではなく、歩道が途切れる数十メートル)。市の担当者と警察がやって来て、「これは確かに危ない」と判断され、現在対応が検討されている。子供が小学校に入学する前になんとかして欲しいけれど、自分の子供のことばかりではなく、みんなにとっても明らかに危険なので訴えた。事故があってからでは遅いのだ。私たちが不思議に思ったのは、今までなぜ改善されなかったのか?ということ。最近息子の友達のお母さん(彼女も「あー、あそこでしょ!」とすぐ分かってくれたような危険箇所)から聞いた話では、「うちのダンナが子供の頃から変わってないらしいよ」とのことで、30年近い間、誰も何も言わなかったのか、言っても何も変わらなかったのか、いずれにしても情けなかった。昔と比べると、学校に何か訴える父母が増えているらしいのに、ワガママじゃなくて客観的に考えて大切なことは、子供が卒業してからも訴え続けて欲しいと思った(「どうしても」ということについてはそうありたいと思う)。

 うちは夫婦ゲンカに警察を呼んじゃったくらいひどい状態の時もあるけれど(息子はパトカーに感激していた)、育児とか社会に対する考え方の底辺部分は一致している。上澄みの方や感性は合わないので虚しく思うことも多いけれど、「子の命を守るため」という、親としての最低限の責任については熱意や重さを合意できるので、まあいいか~と思うようにしている(そうでも思わないとやりきれない)。


 次の組長が回ってくるのは、大きな変動がなければ約15年後。長男は20歳、次男は17歳、夫は55歳、私は49歳。わぁ~お!何やってるんだろうその頃の私たち?15年前の私が今の私を全く想像できなかったように、これからの15年も想像するのが難しい。ただ、半年後の住所が想像できなかった一時の自分からすると、拠点が定まったことは大きな変化だ。家族も夫婦も自分も健康でつづいているように、なんとかやっていこうと思います。



  
*****

☆春休み突入。毎日どこか出かけてヘトヘトでなかなか更新できませんでした。帰りたがらない息子たちのフィニッシュは池や川でズブヌレ、、、が定着しつつあります。

☆今月は「140 黒豆せんべい」の売り上げに一部ではかなり貢献したと思います(笑) 「買った」って人の報告じゃんじゃん来たんだよ~~(なんだかすみませんね)。

☆コメント設定回です。お気軽にお願いします(上記の理由でお返事遅くなるかもしれませんが、、、)。それから、余計な宣伝などが入ってこないように、毎月コメント設定回の次は早めにUPしていますが、遅くなっても話題にこだわらず自由に書いてください(必ず目を通しています)。先月分にもたくさんのコメントありがとうございました!

















             











      


150 この街で生きていく、ということ

2007-03-25 18:22:03 | 豊橋

Madrid_atocha26        
 1月末に続いて、駅前再開発ビルの話し合いに参加した。    「豊座」第3回 (カテゴリー「豊橋」106、123、124)参照

 会議室に向かう前に、同じビルの地下で「LOVER」http://www.shop-lover.com/ を経営している土井彩可さんに会いに行った。あやにゃんの存在は、前回の豊座でお世話になった長坂くんから教えてもらっていた。初対面の20歳の女の子に向かい、「あやにゃん?」と尋ねられるネットワークの時代に生きている私たち。気になる人には直接会うのが私のやり方(相手が許してくだされば)。あやにゃんは突然の訪問を快く受け入れてくれた。人通りの減っている駅前(街なか)で実際店を構えて奮闘しているあやにゃんの言葉には現実の重みがあった。見かけは今風の若い女の子。華奢でおしゃれで明るくて・・・。話しているうちに頭がいい子だなと思った。若いのに社会をよく見ているし社会とたたかっている。昔は華やぎもあったそのビルだが、今は本当に人がいないそう。「豊座」でも言われていることだが、店がなくなったから人が集まらず、人が集まらないから店がなくなり、回遊性というものが失われてしまった。その他、あやにゃんたち若者が改革しようにも、その熱意や努力が伝わらない構造的な問題も知った。138の市民病院の問題でも書いたことだが、若いエネルギー、そしてそれは客観的に考えても至極真っ当なこと、が通じない土壌が豊橋には確かにある。保守的・閉鎖的な土地。これはどこの地方都市も抱えている問題だろうけれど、温かみがあるかわりに新しいことがなかなか受け入れられない。お山の大将が威張っていて、出る杭は打たれてしまう。この頃、豊橋の社会を垣間見ることが増え、良い面悪い面を感じるようになった。やっぱり豊橋に住むことにして良かった、と思うこともあれば、意識が完全に東京に向いてしまっていたかつての自分を思い出すような瞬間もある。ありがたいのは(なんとかやっていけるのは)、同じような気持ちを語れる相手がいるということ。私は色んな場所を体験したのち、豊橋を生きていく場所、子供を育てていく場所として選んだ。ならば魅力ある街になってほしい、していきたい、という気持ちに変わりはないけど、まあ、めげる問題にもやはり出会うようになったよ、ということです(「豊座」では和やかな雰囲気のもと、のびのびと意見を言わせていただいています)。

 今回の話し合いのテーマは『○○市(いち)』について。街なか、最終的には新ビルの広場などで、人が集うような市を開催するにはどんな工夫が必要か、、、(色々と忙しくしており、前回のように多くの方の意見を聞くことができずすみませんでした)。私の意見(提出分)は以下です。

*********

 <○○市について>
                               藤村昌代  2007 3.24

  私が羽田八幡宮の市に通っていたワケ・・・、

 ○豆味噌(昔ながらの味噌を豊田から売りに来るおじさんがいた)
 ○青唐辛子(東京で食べた青唐辛子のピザを再現したかった)

 身近な食材で、スーパーでは買えない掘り出し物があると主婦はそれを目当てに来やすい。スーパーあつみで、伊良湖直送の魚に群がる主婦たち・・・目玉があると足を運びやすい。

 目的とする商品、人との触れ合いの楽しさ

 野菜はAコープ等でも新鮮な地場野菜を安く手に入れられるが、意外に産地の恩恵に授かれてないなあと思うものが「花」。気軽に大量に買える場所が欲しい(現状ではJA磯辺に買いに行っている)。市場に出せないB級品は売る側も買う側もありがたいのでは?(園芸農家の母の弁)

 海外の例 (印象的だった市)
 <ドイツ・ミュンヘン>
 マリエンプラッツ : いつも出ている駅前の市。日常的に利用されている。
                野菜、肉、花、お菓子、工芸品等々
 クリスマスマルクト : 市庁舎前に出るクリスマス限定の市

 ○屋台で使い捨てではない陶器のコップを使っていた(コップを返せば~マルク返金される仕組み)。そういう、売る側&買う側の姿勢や心を示すことができれば、その街の個性の発信につながる。(昔、お祭りにお椀持参で行き、甘酒を入れてもらったように)
 ○ドイツは環境問題に対し、本当に先進的(買い物袋持参は当たり前、ゴミの分別も多様)。何気ない市で目にしたコップの扱いに、市民の堅実さや温かさを感じた。

 ドイツ企業もある豊橋なので、市の特典としてエコバッグを配るとか、エコバッグを売るとか、そういう提案をできないだろうか?(最近は主婦の間にエコバッグ人気が高まっている。かわいいものなら持ちたくなる) ドイツでは30~50円程度で売っていた。

 <ブラジル・サンパウロ>
 ○大きなマンゴーが80円~100円ほどで売っていた。フルーツは華やかなよろこび。いまだメロン人気(カリスマ性?)は高いので、一玉500~1000円で売れたら目玉になるかも(近隣の市からも呼べないかな~)。

 ○駐車場については、市の開催日は一時間無料にし、市目的の人の回転を良くし、市に来ない人でも、一時間無料をきっかけに街なかに繰り出す人が増えればいい。

**********

 ざっとこんなところをお伝えしました。またしてもトップバッターで(笑)。進行役のお方からそういう役回りを仰せつかるようになった感じ。恥をかこうとも、私の意見が叩き台やきっかけとなってみなさんの意見が出やすくなればいいな~と思うし、いちばんに伝えられるとその後が楽なので(意見を挟みたいと思って変にドキドキしなくて済むので)、その役回りは歓迎してます。

 みなさんからは、やはり産品を売りたい、山の幸も海の幸もある地域なので、開催日によって特色を分けたらどうか?フリーマーケットは?昼間からお酒を売る(ふるまう)のはどうか?(街なか開催ということで、公共交通機関で来てもらうためにも・・・お酒という案はとてもいいと思った。負の面を考えずに言えば、車は減るし、楽しげになるのでいい)、豊橋の人は豊橋に誇りを持っていない人が多いので、こんないいものもある、という地元再発見の場にできないか?それにしても夜店はなぜあんなに人が集まるんだろう?やっぱり夜街に出るワクワク感がいいんじゃないか、夜出会う同級生は学校とは違って見えるし、、等々時々脱線しつつ楽しい意見がいっぱい出た(実際、この夏に開催予定)。

 前回の飲みの席でレストラン経営者(とても博識でソムリエでありスローフードの提唱者でもあるお方)とも話したことだが、豊橋はおいしいものを食べ心豊かに暮らすヨーロッパ(と言うと広いけどイメージとして)のような暮らしが成り立つ場所であり規模だと思うので、その辺りを街の特長として出せないか、と漠然とだが思う。ヨーロッパには憧れを感じるのにふるさとに誇りを持てないのは悲しい。・・・そうやって空想をふくらませながらも、その夜私にとっていちばん印象に残ったのは、冒頭のあやにゃんの言葉だった。現実は厳しい。現実を生きている彼女を尊敬する。若いから、とか経験がないから、と言って一蹴してしまうのではなく、若くても的を射た意見であればそれを尊重する器を上の人が持たなければどんな街もものごとも発展しないと思う。

        
 家に帰り、お土産にいただいた北山創造研究所(再開発ビルをプロデュースしている東京の会社、代表は北山孝雄氏)の『発想の原点』と『ええじゃないかニッポン。』という本(イメージカタログというかメッセージブックというか世界と日本の写真満載のもの)を拝見した。そこで展開されている「発想」には自由と新しさがあふれ、それでいて根底には昔から変わらない人の心や伝統美が脈打っている。ああやっぱり私はこういうワクワク感や遊び心、その上で真っ当な感じ、が好きだと思った。

 世界は広い。広い世界の中で、生きていくと決めたこの土地でできるだけのことはしたい。
 時に負けそうになることもあるけど、負けるほどがんばらずにスローに行こう。

         

 ☆画像はスペイン・マドリッドのアトーチャ駅。前回北山創研さんのプレゼンで初めて知った駅。構内に植物園があるんだよ~~!!今回いただいた『発想の原点』の中にも写真があったけど、こういう街や発想にヒジョーに憧れる。

 ☆あやにゃんのお店、良かったらぜひ行ってください!

              

          

 

                                       


149 グッバイさくら組!

2007-03-24 07:12:33 | 幼稚園

 昨日で長男の年中さくら組が終わった。昨年の年少時と比べると格段に成長したなあと思う(私も楽になったなあと思う)。何より大きかったのは幼稚園で泣かなくなったこと。これだけで十分だ。昨年は入園当初の泣き以外に、参観日で私が園に行くたびに泣いていた。ふだんは活発に園生活を楽しめるのに、私の姿を見ると甘え心が出て別れ際にひどく泣いた。それはなんと年を越してもつづき、次男を抱えてなだめる私はいつも汗だくでぐったりとなった。息子が泣くたびに何か家庭に問題があるのではないかと落ち込んだりもした。それが、年中になった途端、全く泣かなくなった。それどころか、教室に入っていって例えばズボンから出ているシャツを入れようとしたら、「自分でやるからいい!」と素っ気無いそぶりをするようになった。「お母さんに甘える自分」をお友達に見られるのが恥ずかしい年頃になったのだと、成長を喜ぶ反面、男の子だなあとちょっぴりさみしく思った。本当に子供は日々どんどん成長する。成長とともに親の悩みも変化する。ちょっとしたことなら悩むだけ損(だと後から振り返れば思うものだ)。子供は放っておいてもぐんぐん大きくなるのだから。

 今年の変化はそのほかに、男の子のお友達と仲良くするようになったこと。年少の時は仲良しのお友達が女の子ばかりで、なんだかか弱いなあと思っていた。今年は帰宅後の幼稚園話に男の子が登場することが増え、親友と呼べるような仲間もでき、頼もしく思った。ある時には「初恋かな?」と思われる女の子の名前も登場した。お遊戯会で白雪姫を演じたAちゃん(白雪姫だけで3人いたけど:笑)。私もかねてから高貴なプリンセス顔だと思っていた女の子だっただけに、息子もなかなかお目が高い!とうれしくなってしまった。息子は小人の役だったが、ひそかに王子役に憧れている様子だった。

 担任の先生は新任のT先生(就任時実に20歳!)で、最初は先生の方も父母の方も不安があったが、1年間よくがんばったと思う。新社会人として新しい環境に慣れることだけでもたいへんなのに、園児相手に不安は見せられないし、上の先生や父母の目もある。その重圧を想像すると応援したくなった。先生の不安を取り除くことが子供たちのためにもなると思い、できるだけサポートしてきた。幼稚園の先生に望むことは、シンプルに、子供のことが好きで楽しく安全に過ごさせてくれれば十分だと思っている。T先生の、うそのない素朴な笑顔はステキだった(余談だけれど、肌もつるつるで、若いって素晴らしい!って何度も思った)。うちの園は園長先生以外はみんな未婚の20代の先生で、入園前は不安も感じたけれど、どの先生も初々しいまっすぐな気持ちで子供たちと一生懸命向き合ってくれ、子供たちにとっては「先生」よりも近く感じられる「お姉さん」という面もあり、本当にありがたく思っている。それに、おそらく夫も(パパたちの多くも?)若い先生たちに会えることを楽しみにしていて、園の行事にもよく参加した。

 とにかく、親子とも、大きな病気やケガもなく、1年無事に過ごせたことだけで本当に幸せだ。次男のことを思っても、それなりに成長したと思う(引きつけなくなっただけで十分。私は基本的に「生きている」だけで十分幸せだと思う方なので、ひらがなが書けるかとか時計が読めるかとかはどうでも良かったりする)私自身、心身ともにとても楽になった。昨年の今頃はまだ母乳をやっていて、夜中も毎晩起きていたし、慢性的に身体が疲れていた。「おっぱい」の時間がなくなるのはさみしかったけれど、文字通り肩の荷(胸の荷?)が降りた。出産で身二つに分かれるのではなく、乳離れしてようやくお互いの自由が得られる。振り返ってみれば授乳期間というのは、ホルモンの関係かイライラしたり後ろ向きになることも多く、そのために夫とのケンカも増えていたように思う。先日、1歳になる双子の男の子を育児中の友達(お姉ちゃんが息子と同じ誕生日で病院で知り合い、幼稚園も一緒という縁の深い友達)から家のことで相談され、あれこれ真剣に答えながら、本来前向きの彼女が後ろ向きに悩んでいる様子に、かつての自分を見るような思いがした。別れ際に彼女に伝えたこと。「今のYちゃんが本当のYちゃんだと思わない方がいいよ。今の思考が一生つづくわけじゃないから。今いちばんたいへんだからどうしても悪い方に考えちゃったりするけど、この子達が3歳になる頃にはぜったい抜け出せるから」

 実際、来月3歳になる次男の入園を控え、私は今ようやく雲が晴れたような心境になっている。子供を持つまで自由に飛び回っていた私が、これまでの5年と少しの間、穴ぐらに引っ込んでいた。暗黒の穴ぐら生活と呼ぶのか、息子たちとの甘い蜜月生活と呼ぶべきか、、、まあ、両方だったと思う。子供の世話を精一杯しながら、社会との糸を一本でいいからつないでおく努力をしてきた。結局のところ子供を持ったおかげで本を出せた。どうしても、という時は夫に子守りを頼み東京や講演(するのも聞くのも)に出かけたり、子連れでも会うべき人や場所には足を運んだ(来てもらった)。寝る時間を削ってでも意地になって書くことをつづけた(大切な方々とのメールも含め)。おかげで、子供を持つ前の自分より、確実にネットワークが広がっている。

 4月以降、少しずつではあるが、つないでおいた糸を2本にも3本にも増やし、強く太くしていくつもりだ。すでに水面下では仕事の話や今までできなかったデート?の約束もしている。

 もちろん、もちろん、育児はこれからもつづいていくし、この先もどんなたいへんなことが待っているか分からない。社会に目を向けつつ、あくまでも家庭第一に、「お母さん」を本業としてマイペースにやっていこうと思います。

 息子の思い出を振り返るつもりが、今年は私の「青年の主張」でシメとなりました(笑)。ご参考までに昨年の『グッバイいちご組!』です。相変わらずドジな母ちゃんは変わらないけど、我ながら余裕が生まれ、意識の配分が変わってきたな。

 特に0、1、2歳のお子さん抱えてるお母さん。トンネルに出口はぜったいあるからね!

   http://blog.goo.ne.jp/lovethemoment/d/20060324

            

☆イトーヨーカドーのブックフェア(古本ではないけど、問屋等での売れ残りの本を安く売っていた催し)で、フリーダ・カーロの画集を500円でゲットしました(思わず「えっ!」と叫んでしまった掘り出し価格)。2003年に東京・大阪・名古屋等で開催された『フリーダ・カーロとその時代』展で用意されたもの。名古屋市美術館によほど足を運びたいと思いつつ、2歳前の長男を抱え次男を妊娠中の身で、泣く泣く諦めたものでした。そんなわけで、兄弟を連れての買い物中の、500円での出会いに運命的なものを感じてしまいました。その他、アメリカで発売された村上春樹の短編集『象の消滅』の日本版(アメリカの小説っぽく縦長のソフトカバー。黄色でかわいい)も600円でゲット。これも欲しかったやつ。つながるもの(人)とはつながるものですね。

 ~待てば海路(甘露)の日和あり~

           

            

             


148 裸族のハッピークリスマス☆

2007-03-21 07:36:50 | こども
          
 夕食の前に、突然兄弟が服を脱ぎ出した。
 うちの息子たちは遊んでいて体が熱くなってくるとよく服を脱ぐ(真冬でも)。
 スッポンポンのまま、あさりを殻ごと持ってほおばる姿はまさに狩猟・採集民族であった。

 食後・・・

 パンツだけはいた次男が突然、
 「ハッピークリスマスなんて大っキライ!」と大声で叫び、彼なりの全速力で部屋中を駆け回った。
 スタート地点に戻りまた、
 「ハッピークリスマスなんて大っキライ!」以下同文↑・・・の繰り返し。

 カラフルな車が描かれたパンツは後ろ前反対。

 もうこうなってくると、アートである。

 パフォーマンスだかアートだか知らないが、どこから「ハッピークリスマス」という言葉がやって来て(季節外れの)、なぜ「大嫌い」→全速力で走る、なのかワケが分からない。


 この翌日はいつもの新幹線が見える公園ではしゃぎ、合流した仲良し友達に興奮したのか、長男が噴水の中に靴のまま入ってじゃばじゃば歩き出した(寒い日だよ)。男の子はたいてい飛び石をとびたがる噴水(水路)なのだが、「落ちるからダメ」等々注意している他のお母さんは、すでに両足突っ込んでいる我が息子を見て、「アレよりはましか~」と思ったことだろう。私も「風邪引くから上がろうよ」と言いつつ近くに遊べるような池や小川がないし、こういう体験も大切だよな~と放っておいた。すぐに寒くなってやめるかと思ったら20分くらい歩き回っていた。まるで修行僧のように寡黙に・・・。ズブヌレで帰ってシャワーを浴びてからも、な・ぜ・か下半身裸で過ごしていた(「暑い」と言い張ってズボンをはこうとしなかった)。


 ワケが分からない。
 彼らの熱源はいったいどこにあるのだろう?

 ただ、兄弟ともとても健康だ。
 風邪を引いてもすぐ治る。

 そのうち消えてしまう自由人のふるまいを、しかと楽しんでおこう。
<script type="text/javascript"></script>
<script src="http://j1.ax.xrea.com/l.j?id=100694776" type="text/javascript"></script>
<noscript>
AX
</noscript>








              







                      



147 町長さんからの贈りもの

2007-03-19 11:01:58 | ふるさと
          
 先月亡くなった伯父の四十九日のために実家に行った。
 着いて間もなく、夫から電話が入った。
 「原さんからクール宅急便であさりが届いたぞ。元渥美町長って書いてあるぞ」
 びっくりだった。
 原町長とは1年半前に一度お会いしただけで、その後は特に交流がなかった。
 目の前の両親に話しても
 「あんたのところになんて、間違いじゃないの?」という反応。
 同様に思っている夫も、封を開けずに待っている。
 慌てて宅急便のラベルに書いてあった原さんのおうちに電話したが留守だった。
 生ものなので急いで父が原さんが社長をしている会社に電話をし、原さんの携帯電話の番号を聞いた(そうやってすぐにつながってしまうような狭い田舎なんです)。
 「もしもし、豊橋の○○、旧姓藤村ですが、お久しぶりです。あさりを送っていただいたんですが、私が受け取ってよろしいんでしょうか?」
 「いいですよ~。今あさりがシーズンなんでね、豊橋の知り合いに何軒か送ったんですが、藤村さんには前にお手紙をもらっていたので、思いつきでね、送ったんです」
 私宛で間違いなかった、と分かった途端、うれしくなり、
 「原さんお元気ですかぁ?」等々、色々とお話した。


 元町長さんとお会いしたのは、とある交流会の場だった。
 かつてふるさと渥美町には「議会だより」という広報誌があり、その最終面に「わたしのふるさと渥美」というコーナーがあった。各界で活躍する渥美町出身者がふるさとの思い出を書くというもので、執筆者は年配の方が多かったが、3年前、地元の文学賞をもらったばかりの私に執筆依頼が舞い込んだ。とてもうれしかった。実家に行けば興味深く読んでいたコーナーだったので、恐縮しながらもふるさとへの精一杯の思いを込めて書いた。当時の私は次男を出産間近で、ポンポンのおなかで生まれる前に急いで書いて送ったおぼえがある。掲載された「議会だより」は実に産後入院中のベッドの上で読んだ。たいへんな時ではあったが、ありがたい依頼をお受けしたおかげで、その記事を読んだ次の執筆者の椙山女学園大の先生から学生向けの講演を依頼され、町役場の職員から「育児セミナー」の講師を依頼された。若い人向けのメッセージを込めたつもりだったので、若い人向けの仕事?に発展したことはうれしかった。
 と、毎度話が長くなってしまったけれど、1年半前、渥美町が田原市に編入合併する前の夏(「渥美町」最後の夏)、「わたしのふるさと渥美」の執筆者交流会が行われた。参加したのは東京、埼玉、兵庫、静岡、名古屋、豊橋等々から集まった15名ほどの執筆者と町長さんや町議会議員さんたち。伊良湖の名所を観光した後(私は子供が小さいので参加せず)、伊良湖ビューホテルで会食があった。

 母に子守りを頼み、遅れて参加した私は、壇上の挨拶でふるさとへの思いを語った。
 「小説の略歴に『愛知県渥美町生まれ』と書いたのは、『渥美町』という名前を残しておきたかったからです。私は結婚式もここビューホテルで行いました!」等々・・・
 みなさんの微笑が絶えない和やかな会で、もうすぐ渥美町という名前が消えてしまうことが悲しかった。
 その場で初めて原さんとお話した。原町長はやさしそうな笑顔で、思った以上に(もともと聞いていた以上に)気さくないい人だった。
 
 合併話、となるときな臭い話にもなるし、詳しいことは控えるけれど、原さんはこじれた合併をまとめるために町長になった人だった。渥美町は当初田原町と対等合併する予定だった。しかし、市の名称や議員数でもめた。私は渥美郡だし渥美半島だし、当然渥美市でいいじゃん!と思っていて(何を言おうと私はすでに部外者である豊橋市民)、多くの人もそう思っていたのだが、最終的には色々折り合わず、合併に至らなかった。三町ある渥美郡内の田原町と赤羽根町がひと足早く合併し、田原市となった。取り残された渥美町の住民の多くは合併を望んでいた。前の町長(この方も情熱ある人だった)が病気のために任期半ばで辞職し、選挙で合併推進派の原町長が当選。住民投票で合併の是非を問うたら、大多数の住民が合併賛成だった(今調べたところ、投票率75%、賛成85%、反対15%)。そのため、対等合併ではなく田原市への編入合併という形で渥美町は田原市となった。

 私は、田原市に入れてもらうために頭を下げるべく町長になった原さん、合併完了の折には町長という職を失うと知りながら合併のために尽力した原さんに、懐の深さと悲哀を感じずにはいられなかった。
 渥美町の歴史が終わること、名前が消えてしまうことに対する反対意見はもちろんあった。私も虚しさを感じたひとりである。しかし、町民がよりよく暮らしていくためには田原市との合併は避けられない。というより、豊かな田原市の助けをお願いしなければならない。8割賛成という民意がそれを表している。
 渥美町最後の町長として名前を刻んだ原さんに敬意を感じた。

 と、書けばこれほどの思いがあったわけだけれど、私が「執筆者交流会」の後でお送りしたお礼状は葉書一枚の簡単なものだった。ただ、そこにもうすぐ消える渥美町の町章を心を込めて描いた。楽しい交流会のお礼とともに、「原町長、おつかれさまでした」と伝えたかった。

 どこまで原さんに伝わったか分からないけれど、1年半後の春にふと届いたあさりが、本当にうれしかった。
 やっぱり心には心が返ってくると思ったし、元町長さんが心ある人だと知れたことに感激した。


 四十九日のお参りを終えて、夕方家であさりをいただいた。にんにくとオリーブオイルで焼き、ボンゴレスパゲッティも作った(夫作)。白ワインを開けてぱくぱく食べた。あさりの産地に住んでいたけれど(渥美産は小泉元首相もお気に入りだそう)、これほどたくさんのあさりを食べたのは初めてだった(家族4人でたぶん200個くらい食べたが、まだ残っている。ピューッと元気に潮をふいているよ)。大粒のあさりは甘くてやわらかくておいしかった。実家にいた頃は、あさり=もらうものor採りに行くもので、その育ちのためにあさりを買うということができずにいるが、ふるさとの応援という意味でも今後は積極的に買ってみようと思う。

 食べながら「思いつきで送ってくれたのがうれしかったなあ」と話すと、夫が「あの辺の人はみんなそうでしょ」と言った。
 その通り!!
 渥美の人たちは、「今日は晴れたから種を蒔こう」とか「明日の雨で海が荒れる前に漁に出ておこう」というように、季節や天候で行動を決める。自然相手の仕事に関わっている人が多いので、突然の行動や訪問は当たり前。うちの親も「今日は時間が空いたから来た」と突然やってきたりする。「思いつき」があふれている生活だと思う。
 決してスマートではないけれど、みんな生きものらしく生きている。
 私はやっぱりふるさとが好きだ。

 豊橋で市のための何かに関わることも増えてきた。しかし、いつまでも渥美スピリットは忘れずにいたい。
 「わたしのふるさと渥美」の最後に書いたこと。
 
~今後は広い視野を持つ努力を重ねながら、ふるさとの恵みを子供たちに伝えていけたらと願っています。~
 
 「渥美町」という名前は消えてしまったけれど、渥美の心は伝えていきたい。

 ありがとうございました。町長さん!
 これからもがんばります。



     
 追記:翌日は酒蒸し、お味噌汁、酢の物にしていただきました。残ったらむき身を冷凍しようと思ったけれど新鮮なうちに食べ尽くしてしまった。渥美産のあさりは美味です。どうぞよろしくお願いしま~す!