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[AML 1526] 村岡到:レーニンとオーストリア社会主義
http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-May/001500.html
Muraoka Itaru logos ******
2005年 5月 13日 (金) 11:18:05 JST
村岡到:レーニンとオーストリア社会主義
上島武・村岡到編『レーニン 革命ロシアの光と陰』社会評論社 近刊 に収録した
ものである。400字×55枚
7カ月ぶりにホームページを更新した。訪中あり、ポルトアレグレありで、手つか
ずだったがこれからは月に2度くらいは更新したいと思っている。
はじめに
人間はこれまでも、そしてこれからも、誰か抜群に能力を備え、高い認識を示し、
あるいは実践した個人の名前を表示することによって、歴史的な出来事や知識を表現
し伝達するほかないのかも知れない。ワシントンと言えばアメリカ合州国の建国を、
ルソーと言えばフランス啓蒙思想を想起する。だからロシア革命はレーニンによって
表象されてきた。今日でも、ラテンアメリカではゲバラが解放のシンボルとされて、
幾種類ものTシャツが愛好されている。シンボルは認識を簡便にするためには有効で
もある。だが、同時に、それらの人物が偶像化される危険も背負うことになる。神格
化された「英雄」が、その陰に隠されていた愚行や誤謬を暴かれ、その権威が地に堕
ちる例は、英雄の数だけあると言っても過言ではない。歴史的人物の評伝や自伝は興
味深くもあり有益な教訓にも満ちてはいるが、いかに傑物といえども、だれか個人の
業績を「正しく」理解する努力は、誤解を放置して錯覚を重ねることに比べればマシ
ではあるが、より大切なことは、その個人によって表象されているその当時の歴史か
ら何を学ぶのかにこそある。マルクスやレーニンを正確に理解することよりも、社会
主義に向かって、確かになった認識の拠点が何なのかを明らかにしなくてはならない
のである。マルクスなら今日の現実をどう見るかなどと設問する者もいるが、そんな
愚問はやめてくれと、マルクスは呆れるだろう。
なぜ、なお社会主義なのかについては、本稿の直接のテーマではないから省略する
ほかない。かつてある研究者が、社会主義への過渡期について「理念像」と現実との
「試行錯誤のプロセスのなかで、理念自身を豊富化してゆく」過程だと説いたことが
ある。この論者が今日、この視点を貫いているかどうかにかかわりなく、私自身は、
なおこの視点から歴史に学びたいと考えている。E・H・カーが明らかにしたよう
に、「歴史は過去と未来との対話」だとすれば、その「未来は社会主義」なのであ
る。社会主義社会は既存・既知ではなく、未知・未存であり、手繰り寄せるべきユー
トピアなのである。
私が「現代世界の課題とレーニン」と題する11月シンポジウムのプレ研究会の報告
のために選んだテーマは「レーニンとオーストリア社会主義」である。私にしてもこ
のテーマはごく最近になって問題意識としたにすぎない(後述するように、「オース
トリア社会主義」という用語自体が慣用ではない)。そこで、本題に入る前に、ソ連
邦崩壊いらいの私の思索の歩みを簡略に振り返ってみたい。
以下はhttp://www.nn.iij4u.or.jp/~logos/ へどうぞ!
なぜ、いまレーニンなのか?
なぜ、オーストリア社会主義なのか?
オットー・バウアーの軌跡と業績
小冊子『社会主義への道――社会化の実践』
社会主義とイデオロギーおよび愛
こうして、オーストリア社会主義に着目し、そこから学ぶことを通して、私たち
は、平和を志向・創造することの重要性を理解し、民主政の意義を深く把握し、則法
革命の展望に到達することができる。そして、社会主義とイデオロギーとの切断・分
離という視点を明確にすることによって、私たちは逆に、社会主義と宗教や愛を調和
的に結合することが可能となる。このように展望することができれば、マルクスや
レーニンの限界を超えて社会主義の味方を宗教者のなかにも、市井の愛ある善意の人
びとのなかにも広く求めることができるのである。
<注> 39カ所
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[AML 1526] 村岡到:レーニンとオーストリア社会主義
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2005年 5月 13日 (金) 11:18:05 JST
村岡到:レーニンとオーストリア社会主義
上島武・村岡到編『レーニン 革命ロシアの光と陰』社会評論社 近刊 に収録した
ものである。400字×55枚
7カ月ぶりにホームページを更新した。訪中あり、ポルトアレグレありで、手つか
ずだったがこれからは月に2度くらいは更新したいと思っている。
はじめに
人間はこれまでも、そしてこれからも、誰か抜群に能力を備え、高い認識を示し、
あるいは実践した個人の名前を表示することによって、歴史的な出来事や知識を表現
し伝達するほかないのかも知れない。ワシントンと言えばアメリカ合州国の建国を、
ルソーと言えばフランス啓蒙思想を想起する。だからロシア革命はレーニンによって
表象されてきた。今日でも、ラテンアメリカではゲバラが解放のシンボルとされて、
幾種類ものTシャツが愛好されている。シンボルは認識を簡便にするためには有効で
もある。だが、同時に、それらの人物が偶像化される危険も背負うことになる。神格
化された「英雄」が、その陰に隠されていた愚行や誤謬を暴かれ、その権威が地に堕
ちる例は、英雄の数だけあると言っても過言ではない。歴史的人物の評伝や自伝は興
味深くもあり有益な教訓にも満ちてはいるが、いかに傑物といえども、だれか個人の
業績を「正しく」理解する努力は、誤解を放置して錯覚を重ねることに比べればマシ
ではあるが、より大切なことは、その個人によって表象されているその当時の歴史か
ら何を学ぶのかにこそある。マルクスやレーニンを正確に理解することよりも、社会
主義に向かって、確かになった認識の拠点が何なのかを明らかにしなくてはならない
のである。マルクスなら今日の現実をどう見るかなどと設問する者もいるが、そんな
愚問はやめてくれと、マルクスは呆れるだろう。
なぜ、なお社会主義なのかについては、本稿の直接のテーマではないから省略する
ほかない。かつてある研究者が、社会主義への過渡期について「理念像」と現実との
「試行錯誤のプロセスのなかで、理念自身を豊富化してゆく」過程だと説いたことが
ある。この論者が今日、この視点を貫いているかどうかにかかわりなく、私自身は、
なおこの視点から歴史に学びたいと考えている。E・H・カーが明らかにしたよう
に、「歴史は過去と未来との対話」だとすれば、その「未来は社会主義」なのであ
る。社会主義社会は既存・既知ではなく、未知・未存であり、手繰り寄せるべきユー
トピアなのである。
私が「現代世界の課題とレーニン」と題する11月シンポジウムのプレ研究会の報告
のために選んだテーマは「レーニンとオーストリア社会主義」である。私にしてもこ
のテーマはごく最近になって問題意識としたにすぎない(後述するように、「オース
トリア社会主義」という用語自体が慣用ではない)。そこで、本題に入る前に、ソ連
邦崩壊いらいの私の思索の歩みを簡略に振り返ってみたい。
以下はhttp://www.nn.iij4u.or.jp/~logos/ へどうぞ!
なぜ、いまレーニンなのか?
なぜ、オーストリア社会主義なのか?
オットー・バウアーの軌跡と業績
小冊子『社会主義への道――社会化の実践』
社会主義とイデオロギーおよび愛
こうして、オーストリア社会主義に着目し、そこから学ぶことを通して、私たち
は、平和を志向・創造することの重要性を理解し、民主政の意義を深く把握し、則法
革命の展望に到達することができる。そして、社会主義とイデオロギーとの切断・分
離という視点を明確にすることによって、私たちは逆に、社会主義と宗教や愛を調和
的に結合することが可能となる。このように展望することができれば、マルクスや
レーニンの限界を超えて社会主義の味方を宗教者のなかにも、市井の愛ある善意の人
びとのなかにも広く求めることができるのである。
<注> 39カ所
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