高崎北ライオンズクラブログ

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生涯現役 L増渕 孝

2007-07-17 19:29:57 | リレーエッセイ
米軍から払い下げの建物で和式便所はありません。最初のカルチャーショックでした。
 その日の内に制服・作業服・靴・帽子を渡され、学生服は実家に送るよう云われました。
 翌日は六時起床。総員集合、休め、顔洗え、甲板掃除、食事等々、拡声器から鳴り響き、それも艦船に乗るための訓練です。特に水泳。「それまで泳げなかった」カッターの訓練は厳しく、尻の皮がむけて痛い思いをした。
 一番多感な青春時代にショックな出来事が60年5月、6月にかけて東京を始め横須賀基地に起こりました。日米安全保障条約に反対して、労働組合がデモ隊となってきて、「安保反対、自衛隊反対」と叫んだのです。その時の恐怖はいまでも忘れられないものがあります。機動隊がバリケードを張り基地を守ると同時に、デモ隊が暴徒化してバリケードを突破してきた時に備える訓練をやり、待機をしたこともありましたが、幸いにもそこまでいかなかったのでホッとしました。
 おおまかですが陸上勤務「術科学校等」二年、海上勤務三年で満期除隊して父親が国鉄の転勤で高崎に住んでいたので、市内の建材修理会社に就職。六年勤めて29歳で独立、縁あって箕郷町に工場を借りて修理を始めた。
 仕事は削岩機が多く、映画「黒部の太陽」で知っている方も多いと思いますが、岩盤に穴を開け、ダイナマイトで爆破する機械です。
列島改造の時代でせかいの八割のトンネルは日本という頃で、毎日のように出張修理があり、組み立ての仕事になると重量40トン以上の機械もあり1週間2週間飯場暮らしがありました。その頃のトンネルは劣悪な環境で空気は油臭く霧状で、ライトで照らしても10メートル先が見えない状態で、水溜りが多く、長靴・ヘルメットで作業しました。現在は工法も変わり良い環境に改善されています。
 月日が経つのが早いもので、独立して三十五年経過しましたが、大きな怪我もなくよく過ごしてきたなと思います。
 修理は若い人に任せ、事務所で電話当番している年齢になりましたが、ゆっくり走ってどのくらい生きるか神のみぞ知るですが、生涯現役で過ごせたらいいなと御思っております。

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