誰を「馬鹿」と呼ぶかでそのひとが見えてくる。気をつけないと「馬鹿」と呼ぶお前が一番「馬鹿」だと逆に馬鹿にされかねない。加藤周一に噛み付いた谷沢永一などはその一例だろう。「馬鹿」という言葉は注意して使わなければならない。
「馬鹿」という言葉を上手に使えば、それがウィットになり或いはユーモアになる。「お前は馬鹿だ」と上手に言えばウィットになり、「私は馬鹿だ」と言えばユーモアになる。ウィットの効いた文章の使い手といえば伊丹十三を思い浮かべる。私は「私は馬鹿だ」といいたいほうだ。しかしそれが真実以外の何物でもないところが少し痛い。
最近、気の利いた「馬鹿」の定義を見つけたので紹介する。今後発言するときには「以可銘」と考えている。(以下引用)
内田樹のコラム「自由主義史観について」より (http://www.tatsuru.com/columns/simple/05.html)
私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている奴のことを、私たちは「馬鹿」と呼んでいいことになっている。
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