美しき日々 Beautiful Days Epilogue

韓国ドラマ「美しき日々」のその後のストーリーを創作してみました♪

第16話(7)

2008-06-07 | Weblog
第16話 

(7)

鮮やかな朱色のニットスーツは、恐らくフランス製だ。
ギョンヒは、MUSE社長時代よりこの高級ブランドの服を好んで着用していた。


『お久しぶりね、ソンジェ君』


古めかしい空間に不釣合いな、優美な出で立ち。
その姿を目の当たりにしたソンジェは、一歩も動くことが出来なかった。



清譚洞の大通りを歩いていたソンジェを偶然、目にしたのは、ヤン・ギョンヒの側近であるヨム・チスである。
MUSEの第一線から身を引いていた彼は、考試院まで尾行した後、ヤン・ギョンヒへ連絡し、その結果、ソンジェは奇襲を受けたのだ。


『ソンジェ君、こんなところで何を燻ぶっているの・・・?』

『あなたは、肉体労働をする為に医学部を中退したの?』

『イ・ヨンジュン先生もソンジェ君のお母様も、あの世でさぞかし嘆いていることでしょうね・・・』


三畳強の狭い部屋。
トイレやシャワー、台所は勿論、共同。
粗末な造作家具に、年代ものの小さなブラウン管テレビ。
月二万五千ウォンの部屋は、ヤン・ギョンヒにとって眉を顰めたくなるような空間だったようだ。


『あなたが、こんな落ちぶれた生活をしているというのに』

『イ室長ご夫妻は、それは優雅な暮らし振り・・・』

『いい気なもの・・・ね』



ソンジェは身震いした。
なぜヤン・ギョンヒが現れたのか・・・?
想像するだけでも恐ろしい。

(まさか・・・)

(まさか、ヨンスさんと接触するつもりじゃ・・・)


あの女性(ひと)を病魔から救ったのは、勿論、当人の強靭な意志に違いない。
そして、あの女性(ひと)を精神的に支えた兄の存在も大きいだろう。
だから、せめて自分は金銭面を負担しようと思ったのだ。
一億ウォンを超える金を用立てる術は、当時の自分にはなかった。
結局はMUSEの社長になることを条件に、ヤン・ギョンヒを頼る結果となった。

しかし今となっては、当時なんの自覚も無いまま交わした契約が仇となっている。
VARIOUSで兄と共に仕事をし、あの女性(ひと)の笑顔を垣間見られれば幸せなのに、それさえも叶わない・・・。


「・・・」

ソンジェは携帯電話を握り締めた。





フットライトの微かな灯りだけでも、妻の表情は見て取れる。
なんとも表現し難い艶麗な気だるさが、その端整な顔立ちを包み込んでいた。


「・・・」

濃密な交わりの直後。
その弛緩した肢体をギュッと抱きしめ、白い額に口付ける。


「ねぇ・・・」

小さな赤い唇が、ほんの少し動いた。

「・・・なんだい?」
「・・・あなたって・・・」
「・・・ん?」
「・・・どうして、こんなに優しいの・・・?」


不意を突かれたミンチョルは、思わず動きを止めた。



その日、いつものようにヴィラの近くにある小さな公園で遊びまわったショーンは、帰り支度を始めたヨンスが目を離した僅かな隙を狙い滑り台に突進した。
それは、最後にもう一回滑りたいという子供心だったのだろう。
ところが運悪く、順番を待っていた三人の年上のグループの中に割り込んだ為、喧嘩となってしまった。
ヨンスが駆けつけた時、ショーンは既に砂場へと押し倒された後だった。

『順番を守らなかった貴方がいけないわ、ショーン』

『皆に謝りましょう』

こんな時、意外と冷静なヨンスは、理路整然とした態度でショーンを窘(たしな)めたらしい。
渋々と頭を下げたショーンは、しかし、その屈辱が忘れられなかったのか、帰宅後、相当の剣幕で泣き叫んだと言う。

『鼓膜が破れるかと思ったわ・・・』

ヨンスは、柚子茶を淹れながらぼやいた。

『あの子ったら、小さいわりにはプライドが高いのよ』

『セナによく似ているわ・・・』

『やっぱり、血は争えないのね・・・』

今夜も又、ショーンの話を延々と聞き続けるのかと、正直、ウンザリしかけた。

『あの子、今日はずっと公園でのことをブツブツ言って家中を歩き回って、私を恨めしそうな顔で時折、見つめるの』

『その表情がね、本当に可愛くて・・・』

「又、始まった」とばかりに天井を仰いだミンチョルは、しかし、ヨンスの次の言葉に思わず身を乗り出した。

『寝る時ね、いつもは絵本の読み聞かせを強請るのに、今日は「あっちへ行って」なんて言うのよ』

『あんな子供でも、ふて寝をするのかしら・・・』

胸が高鳴る。

『つまりショーンは、熟睡中ということ・・・?』
『ええ』
『!』
『さっき寝室を覗いたけど、鼾をかいて寝ているわ』
『!』
『日中、あれだけ騒いで泣き叫んで歩き回って体力使い果たしたんですもの、今夜はグッスリでしょうね・・・』



ひょんなことから、愛を確かめ合うことと相成った。

(公園の子供達に、感謝しなくちゃならないな・・・♪)


一週間に二回でも三回でも・・・いや、贅沢は言わない。
せめて最低一回、砂場にショーンを押し倒してくれと心の中で念じながら、愛おしい妻の軀を抱く。
久しぶりの感触に多少、興奮しながらの愛の交歓はついつい激しくなってしまい、結果、ヨンスは我を忘れ大きな声をあげてしまう。
その都度、ミンチョルはヒヤッとしたが、しかしショーンはそれ以上に大きな寝息をたて続け、夜泣きをすることも目覚めることもなかった。


寝不足のはずのヨンスに申し訳ないと思いながら二回ほど己の迸りを放出したミンチョルは、満ち足りた気分でその白い肢体から匂いたつ色香に身を委ねていたのだ。


『どうして、こんなに優しいの?』

突然の問いかけに、戸惑うのも無理はない。


「やさしい・・・?」
「ええ、だってあなたはとても優しいでしょう・・・」
「・・・」
「だから、女性にもてるのね・・・」
「・・・それは違うな」
「え・・・?」
「僕は、別にもてないよ」

ヨンスは怪訝な表情でミンチョルを見上げた。

「だって、僕は冷たいから」
「・・・?」
「興味のない人間とは視線も合わせない主義だし」
「・・・そうなの?」
「ああ」
「でも・・・」
「ん・・・?」
「いつだったか、ナレが言ってたわ」
「なんて?」
「室長はいつもモデル系の凄い美人を連れてパーティーに現れるって」
「・・・ただの噂だろう」
「・・・って、キュソクさんが言ってたって」


ミンチョルは心の中でキュソクを罵倒しながらも、大きなため息をついた。

「悪かった」
「・・・」
「それは事実だ」

「やっぱりね」というように、ヨンスは小さく笑う。

「でも、それと優しさは関係ないよ」
「・・・どういうこと?」
「僕は女性を分類していた」
「分類?」
「うん」
「・・・?」
「役立つ女性と、どうでもいい女性とにね」
「まあ・・・」
「酷いかい?」
「酷いわ」
「そう、僕は酷い男だったんだよ」
「・・・」
「役立つ女性・・・つまり連れて歩くのに都合のいい姿かたちをした女性」
「・・・」
「そういう女性をパーティーへ同伴することは何度もあったけど」
「・・・」
「・・・でも、愛した女性は君だけだ」
「・・・」
「優しいのは、君に対してだけだよ」



これは事実だ。
女性を礼儀正しくエスコートすること自体は、手馴れていた。
数多の女性と食事をし、踊り、ベッドを共にしてきたのも確かだ。
が、優しくしたり嫉妬したり、ましてや同じ女性を何度も激しく求めたりするようなことは未だかつて無かった。
こんなことは、ヨンスに対してだけである。
そもそも恋愛感情を持ったことがないし、そういう感情を顕わにする女性は鬱陶しいので排除してきた。
それでも近づいてくる女性は酷く傷つけられたはずで、二度と近寄ることはなかった。
自分が傍らに置いたのは、「割り切った付き合いの出来る女」だけだったのだ。



セピア色の瞳が、暗がりの中で妖しく光っている。


『愛した女性は君だけだ』

『優しいのは、君に対してだけだよ』


愛おしくてたまらないひとから、このようなことを言われては降参である。


「私も・・・」
「ん・・・?」
「愛した男性はあなただけよ・・・」
「・・・知ってる」

「ふっ」と笑ったミンチョルは、ヨンスの鼻先にキスをした。

「!?」
「クスクス」

ヨンスは頬を真っ赤に染めながら、厚く広い胸を打つ。

「クスクス・・・」
「・・・もうっ」
「そんな面白い顔しないで」
「あ、あなたっ」
「くっくっ」
「もうっ」
「ふふふ」
「・・・もう、いやっ」

純白のシーツへ顔を埋めようとする妻を捕らえ、仰向きにさせてその肢体を覆う。
露わになったまあるく白いふくらみを掌で揉み上げ、指先でその先端の突起を丹念に弾き続けると、やがてヨンスの息が乱れてきた。


「あっ・・・」

「・・・っ」

小さな唇から漏れ出る言葉が悲鳴に近くなるにつれ、ピンク色の突起は硬さを孕む。



(優しい・・・だって?)

(僕は優しくなんてないよ・・・)


「・・・もう少し」


(もう少し)

(我慢して・・・)


右の指先は既に花びらを掻き分け、秘めやかな処を弄り続けている。
粘り気さえ入り混じる熱く潤った其処を五本の指で蹂躙しながら、ミンチョルは妻の乳頭を口に含み歯をたてた。

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ブログ開設三周年記念のご挨拶 

2008-05-22 | Weblog
ブログ開設三周年記念のご挨拶 


2005年5月22日にこのブログを開設し、とうとう三年の歳月が流れました。
「美しき日々Beautiful Days Epilogue」を読んで下さっている皆様、本当に有難うございます。


「石の上にも三年」という言葉が「塵も積もれば山となる」という言葉と共に脳裏に浮かぶ今日この頃、我ながらよくもまあ三年も続けてこられたものだなぁ・・・というのが正直な感想でしょうか。
そしてそこには、感嘆と共に若干の呆れが混在しているようで(笑)この熱情や時間、労力を例えば韓国語の習得に向けていたら今頃はnativeだったかも・・・などと口惜しい気も致しますね(苦笑)。
でも、やはりこれは「美日々」の世界に惚れ込んでいるからこそ成しえたことなのだわ、と我が身を振り返ります。
「美日々」じゃなかったら、こんなこと出来やしません!こんなに長続きしません!
この創作続編を読んで下さっている皆様も、きっと想いは同じでしょう。
忙しない日常の中、このブログを覗く時間を捻出して下さる方々と心は一つだと思うのです。

最近は更新が滞り気味で、大変申し訳なく思っております。
・・・というか、正直、それ以前に自分自身が辛いですね。
「美日々」の世界に没頭できない時間が長く続くと、活力が萎えてしまうという悪循環に陥ります。
「美日々」は私の元気の源ですから・・・
更新出来ない大きな要因は、やはり落ち着いてPCの前に座る時間がないということなのですが、実は理由がもう一つあります。
それは、第16話以降の構成を少し変更した関係で加筆修正に加え推敲も必要な為、なんだかんだと時間がかかっているわけです。
当初の予定では本編に追随し24話で完結する予定でしたが、果たしてどうなることやら・・・

ところで。
(ブロガーの方はご存知だと思うのですが)こちらのブログは開設すると(手数料を支払うことによって)「アクセス解析」等のサービスを受けることが出来ます。
私の処はコメントもトラックバックも受け付けない非常に内向的な場所で恐縮ですが、過日「バックアップが出来る」という文言に惹かれサービスを受けることにしました。
この中で、なんといっても一番嬉しいのが「ページごとのアクセス数」の解析です。
最新の更新部分にアクセスする方が多いのは、ごくごく自然なことですよね?
ところがこの解析を見ると、前半~中盤とrandomにそれなりの人数の方が読んで下さっているように思えるのです。
これは本当に幸せなことです。
ただストーリーを先へ先へと追うだけでなく(「美しき日々Beautiful Days Epilogue」という拙い創作ではありますが)この物語とより深く接して下さっている方々がいらっしゃるという事実を前に、涙が溢れそうになります・・・
そして、いつか誤字脱字を総点検しなければと身が引き締まる思いです。


話は創作に戻り、現在のミンチョル、ちょっと可哀相(笑)。
私の印象では、ことミンチョルに関しては子供はかなり苦手なのではないか?と思います。
ヨンスは(本編でも語っていましたが)平凡な幸せを望んでいます。
ですから、当然、愛する人の子供を切望するでしょう。
一方ミンチョルは、どちらかというと愛する妻とラブラブでいたいタイプかな?と感じました。
その対比を、(二人の血が通った子供ではない)ショーンを通して描いてみました。
・・・では、ミンチョルとヨンスは、自分達の子供を授かるのでしょうか?
皆様はどうお考えですか・・・?

この先、物語はまだまだ続きます。
人生には山があり、そして谷があります。
だからこそ、二人の愛はより深く強く育まれていくのでしょう。

― 決して離れられないふたり ―

それが、イ・ミンチョルとキム・ヨンスだと思うのです。
嗚呼、どうしてこれほどにまで恋焦がれてしまうのかしら?
いつも、いつも、ふたりのことを考えてしまいます。
この想いを、いったい誰に伝えればいいのでしょうね・・・
柄にもなくちょっぴり自己陶酔ぎみ(笑)
今後共どうぞ「美しき日々Beautiful Days Epilogue」を温かく見守って下さいませ。
宜しくお願い致します。


読者の皆様へ、心からの感謝を込めて

lbhcjwlove


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第16話(6)

2008-05-20 | Weblog
第16話 渾 沌

(6)

「やっぱり、おかしい・・・」

出社早々、珍しく社長室へと直行する室長の重い足取り。
濃紺のスーツ姿は相変わらず見惚れるほどに素敵だが、その後姿はなんとなく寂しげだ。
ユンジュは独りごちながら、首を傾げた。


近頃の室長には覇気がない。
それに気づいたのは、先週だったか先々週だったか?
勿論、仕事は完璧でその指示は的確だ。
VARIOUSは順調に業績を伸ばしているし、それは周知の事実である。
・・・が、やはり様子がなんとなく妙なのだ。
これは長年に亘り、敬愛する上司を一心に見つめている異性の部下だからこそ感知する類いの変化なのかもしれない。


(疲れが溜まっているのかしら・・・?)

歩くスピードは、最近、極端に落ちている。

(何か悩み事でもあるのかしら・・・?)

そういえば、深いため息を繰り返すことが多々ある。

(もしかして)

(キム・ヨンスと上手くいっていないのかしら・・・)

思わず弛んだ頬を、ユンジュは周囲を気にしながら引き締めた。


社長夫人を「キム・ヨンス」と呼び捨てにするのは、心の中だけである。
面と向かったら、「奥様」と恭しく頭(こうべ)を垂れなければならない。
なにせ現在では立場が違う。
身分が違う。
その程度の社会常識は弁えているつもりだ。
しかし、彼女は、元はといえば売り場主任だった自分の下で働いていた、一介のアルバイトの端くれに過ぎないのだ。
心の中で呼び捨てにするくらいは、許されるはずである。


(そうだわ)

(久しぶりに、コーヒーでもお持ちしよう♪)


ポンと膝を打ったユンジュは、軽快に立ち上がった。




明け方まで不規則に続いたショーンの泣き声が、今も脳裏から離れず気が滅入る。
愛する妻の甘い匂いが、その都度、懐から遠ざかっていく、あの切なさ。
恨めしさ。


「バシッ」

ミンチョルは社長室のデスクを掌でぶっ叩いた。



まったくもって不愉快だ
なぜ僕が、こんなにも理不尽な思いをしなければならないのだろうか?
どう考えてもおかしい
納得できない

だいたいショーンは赤の他人だ
いくらセナを実妹同然に可愛がっているからといって
何もヨンスがその子供の面倒をみなければならない理由はどこにも無い
いつまで続くかわからないこの生活には、もうウンザリだ

憾(うら)まれるかもしれないが
なんとかヨンスを説得し
ショーンをセナの下に返す手立てを考えなければ
こっちの身が持たない・・・



「室長♪」

やけに弾んだ声が聞こえ、ミンチョルは我に返った。

「モーニング・コーヒーをお持ちしました♪」


鮮やかなグリーンのワンピースが、目に飛び込んでくる。
VICTORY時代の売り場主任を経て、今やVARIOUS創業メンバーとして独特の存在感を放つ女性(ひと)が瞳を爛々と輝かせ立っている。

「あぁぁ・・・」

思わず脱力しかけた。

「・・・?」
「・・・いや、有難うございます・・・」

その色は、ショーンのチャイルド・チェアを髣髴とさせる。
またもや気が滅入ったミンチョルは、元気なく呟いた。


「こちらのお部屋にいらっしゃるなんて、珍しいですね♪」
「・・・」
「お代わりなら、遠慮なく仰って下さいね♪」


返事をする気力などない。
軽く肯き、視線を逸(そ)らす。



VARIOUS社長室のデスクで、ミンチョルはユンジュ主任が運んできたコーヒーを一口飲んだ。


(・・・美味しくない)

ヨンスが淹れてくれる味に慣れきった今、会社のコーヒーはあまりにも素っ気無い。

以前オフィスを構えていた雑居ビルの自販機と比べれば、その味も香りも格段にアップしている。
現に社外からの来客者は皆、VARIOUSが導入した贅沢なマシンによるコーヒーに大満足して帰る。
それは社員も同様だ。
VARIOUS社員は、テナントで入っている有名カフェのテイクアウトを利用することは滅多にない。
なぜなら、同等の味わいを社内なら無料で楽しめるからだ。

しかし、ヨンスが淹れたコーヒーとは比較にならない。
なにせ、愛情のこもり方が違う。

「・・・」

今朝は朝食どころか、そのコーヒーを飲むことさえ叶わなかった。
ショーンの世話で、ヨンスは明け方からてんてこ舞いだったのだ。
なんでも微熱があるらしく、午前中に近所の小児科へ連れて行くと言っていた。

(病気なら、仕方がないか・・・)

ショーンにヨンスを独り占めされ、「いってらっしゃい」のキスも「お帰りなさい」の抱擁も無くヴィラと会社を往復する日々。
夜の夫婦生活は完全に消え失せてしまった。
今朝は格別に身体がだるく気分が優れないので、独りになれる社長室に直行したのだ。
悲哀というものをヒシヒシと身に染みて感じながら、ほろ苦い液体を口に含む。



「社長、おはようございます」

常日頃から開放している社長室の大きなドアから、キュソクが顔を出した。

「・・・ああ、おはようございます」
「今、ちょっとお時間、宜しいですか?」

ミンチョルは軽く肯き、コーヒーカップを机上に置く。
小柄なキュソクが小走りにデスクに駆け寄ってくる。


「実は」
「・・・?」
「セナさんが帰国しているようです」
「・・・」
「昨日、ヌナ・・・じゃなかった、家内がMUSEで噂を小耳に挟みました」

「いよいよ始動ですか」とミンチョルは呟く。

「・・・ナレさんは、又、セナさんに付くのですか?」
「いえ、それが・・・」

キュソクは少し困った顔をした。

「・・・?」

目線で先を促す。

「・・・上層部から漏れ伝わったところによると、セナさんはMUSEの所属となっていますが、それは形式的なもののようで」
「・・・」
「つまり、実質的にはヤン・ギョンヒ元社長の下で活動を再開するらしいと・・・」
「・・・ヤン元社長もソウルに?」
「そこまでは確認しておりません」
「・・・」
「ヌ・・・家内は、セナさんが復帰するのなら、当然、自分が付くと思っていたようで・・・」
「・・・」
「それ以前に、セナさんから何の連絡もないと、かなりショックを受けています」
「セナさんの意向が叶うとは思えないですね」
「・・・?」
「・・・いくらセナさんがナレさんをロード・マネージャーにと望んでも、それをヤン元社長が認めるとは思えない」
「やっぱり、同じ業界に旦那がいるとマズイでしょうか・・・」
「・・・」



ショーンの面倒をみて欲しいとセナがヴィラに現れた時、彼女の口から出た言葉をミンチョルは総てヨンスから伝え聞いていた。
それは、セナの帰国の理由、つまり今後のスケジュールやショーンの存在についてであり、全ては極秘にして欲しいというヨンスの切望でもあった。
愛おしい妻の不安そうな表情を見ると、その情報をVARIOUSの為に利用するという姑息な思案は吹き飛ぶというものだ。


『大丈夫だよ』
『あなた・・・』
『VARIOUSとMUSEは確かに競合している面がある。それは否めないが、だからといって君の妹のような存在であるセナさんをダシに使おうなんていう発想はない』
『・・・』
『この件については、僕は聞かなかったことにするから』
『・・・有難う、あなた』


胸元に身を寄せてきたヨンスは、微かに震えていた。
恐らく、セナのことが心配で堪らないのだ。
確かにここ数年のセナの行状からいくと、再び脚光を浴びるには相当のインパクトが必要である。
そして、彼女 ―ヤン・ギョンヒ― は、必ずやそれを成功させるだろう。
勝ち目のない勝負に、彼女が挑むわけがない。
その手腕や強かさは、VICTORY時代に嫌というほど味合わされている。

セナが帰国しているということは、当然、その前後に彼女も帰国している可能性がある。
そして、彼女が帰国すれば、ソンジェと連絡を取らないはずはない。

「・・・」

キュソクの憂いをさり気なくかわし幾つかの用事を依頼して見送ると、ミンチョルはガラス張りの窓辺に立った。
この部屋からは、漢江の姿が一望できる。


「・・・」

ヤン元社長がセナとナレとの距離を保とうと計らう理由は、有り余るほどあった。
ナレの夫はVARIOUS勤務のキュソクであり、親友はヨンスで、その夫である自分はVARIOUSの社長だ。
戦略を効果的にすることを考えれば、プロジェクトは極秘に進めるに限る。


完全な音楽レーベルであるMUSEと争うことは極力避けたい。
ましてや音楽業界は今や衰退傾向にあり、一時期の活気は消え失せているのが実情だ。
だからこそVARIOUSは、インターネットを舞台に多角的な展開を目指してきた。
こと音楽業界での勝負となると、これは一方的にVARIOUSが不利だ。
そして、その理由は、ヨンスとソンジェの存在が大きい。


ミンチョル自身、妻を傷つけてまで目先の勝敗に拘るつもりは毛頭ない。
セナが音楽業界にとどまらずエンターテイメントの世界での活躍を目論むことに対しても、それを見守り、援助できれば尚いいというような思いさえ芽生えている。
それは、自分がセナの才能を開花させることが出来なかったことへの、妻への贖罪の気持ちも含まれていた。


昨年秋、帰国したソンジェは、以来、全く顔を見せない。
どういうわけか、MUSE社長への復職も聞こえてこない。

『そのつもりはない』

ホテルのラウンジでソンジェはそう言い切ったと、ヨンスは語っていた。
だからこそ、ヨンスはソンジェをVARIOUSへと請うたのだ。
そのこと自体は、吝(やぶさ)かではない。
血のつながりはないとはいえ、十数年もの間、兄弟として暮らしたのである。
傍らにいてくれたら、どんなにか心強いことだろう。
ましてや彼は、作詞家・作曲家として、又、歌い手として秀でている。
その才能を伸ばし生かしてやるということは、実父と実母を失っているソンジェに対する兄としての責務でもある。


幾人かのマスコミ関係者にソンジェの存在をそれとなく探させたが、その消息は定かではない。
つまり、業界以外に居場所を見つけているということになる。
そうすると、MUSEとの関係がどうなっているのか勘繰りたくもなる。
いや、もしかしたら、帰国はセナ復活への規定路線なのかもしれない。
案外、ヤン元社長の指示で、何処かに潜み作詞作曲に没頭している可能性も捨てきれない。

ソンジェのことを考えていると、脳裏を過(よ)ぎるのが小切手の存在だ。
ヨンスの治療・入院費用の全てを一括で支払ってくれた彼へ、一般通念に準じた利子をつけた其れは、現在、メインバンクの貸金庫に預けてある。
これを、感謝の言葉と共に早く手渡したい。
なぜなら、数多ある借りの中で、最も大きいのがこのことであるからだ。


当時、資力の乏しかったミンチョルにとって、ソンジェの援助は非常に有難かった。
一億ウォンを超える大金の工面に奔走することなく本業に集中出来たからこそ、現在の成功がある。
そして、ヨンスを早期に検査へと誘い、精神的に支えてくれた事実を鑑みても、感謝の念が消えることは永遠にないのだ。



ミンチョルが社長室で妻や義弟へ思いを馳せていた頃、清譚洞のヴィラへ一本の電話が入った。


「もしもし?ヨンスさん・・・?」
『まあ!ソンジェさん?』
「おはよう、すっかりご無沙汰しちゃったね」
『いったい、どうしていたの?』
「うん・・・ちょっと仕事が忙しくて」

まさか、日雇いの仕事を続け、小金を貯めていたなどとは口が裂けてもいえない。

『お仕事って、音楽の・・・?』
「いや、そうじゃなくて・・・あの・・・」
『・・・(ショーン!なにやってるの?そんなことしたら、駄目でしょう?)』
「え・・・」
『・・・ああ、ご免なさい』
「今の・・・」
『実は・・・知り合いの子供を預かっているの』
「子供・・・?」
『ええ、それで毎日、大変なのよ』
「そうだったんだ・・・」


今週末、ヴィラから程近いカジュアル・レストランでランチを共にする約束を取り付けたソンジェは、携帯電話を切るとため息をついた。



新村(シンチョン)の表通りから何本か入った細い路地裏に建つ、古めかしい考試院(コシウォン)。
この僅か三畳の空間が、ソンジェの居場所である。
昨日は現場の都合で午前中に仕事が終わった為、共同浴場で汗を流した後、街へ繰り出した。
幾つかのCDショップに立ち寄り試聴を重ね、食費を節約する為に安い食堂で空腹を満たした。

あの後、すぐに帰ればよかったのだ。
それなのに、つい清譚洞へ足が向かい、ブラブラと散歩してしまった。
―もしかしたら、ヨンスさんと逢えるかもしれない― そんな偶然を、心の何処かで期待していたのかもしれない。


「お久しぶりね、ソンジェ君」


夕方、考試院に戻ったソンジェを待ち受けていたのは、ロスにいるはずのヤン・ギョンヒの笑顔だった。


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第16話(5)

2008-04-17 | Weblog
第16話 渾 沌

(5)

ショーンがフランス製の白いベッドで独り寝入るのは、よほど遊び疲れた夜だけである。
たいていはヨンスの身体に抱きつき、離れない。


(このキングサイズのベッドは)

(川の字に寝るために)

(チョイスしたのか・・・?)


そういう錯覚に陥ってしまいそうなほど、三人で休むことが習慣化している。
しかも、ショーンは、まるでふたりを遮るかのように横たわるのが常だ。
ミンチョルは危機感を募らせていた。




愛する妻と恋敵を二人きりにさせたくないという意識が働くのか、このところミンチョルの帰宅は八時前後である。
この時間迄だと、ヨンスが玄関まで出迎えてくれる可能性が高い。
八時半では遅すぎる。
その頃、ヨンスはショーンを寝かせに寝室へ下りてしまうのだ。


そしてこの夜も、招待されていた業界関連のパーティーへの出席をキチャンに指示し、そそくさと退社した。


「ただいま」
「おかえりなさい」


湯上りではない妻が、夜、玄関先で出迎えるのは珍しい。
厚手のガウンを纏いシャンプーのいい香りを漂わせた姿も艶っぽいが、最近、ショーンとの突発的な外出が増えたせいか、洗練された室内着に薄化粧の妻は本当に魅力的である。

(ヨンス・・・)

いつもと違う様子を不思議に思いつつ唇を重ねようとしたら、身を引かれてしまった。


「!?」

ショックを受けている暇は無かった。

「あなた・・・」
「な、なんだい?」

コホコホとヨンスが咳をする。

「・・・風邪?」
「・・・ちょっと咳が・・・ゴホっ」

ミンチョルは慌てて、白い額に手を当てた。

「大丈夫よ・・・熱はないわ」
「気をつけないと」
「ええ・・・」
「早く休んだほうがいい」
「・・・実は、お願いがあるの」
「ん・・・?」
「今晩、ショーンをお風呂に入れて下さらない?」
「え」

全身が凍てつく。


(アイツと)

(この僕が)

(一緒にお風呂!?)


「ぼ、僕が・・・?」
「お願いするわ」
「・・・」
「・・・私、咳が出ているから、お風呂は止めておきたいの」


「一晩くらい入らなくても」とミンチョルは口にしたが、「小さい子は新陳代謝が激しくて、汗もかきやすいのよ」と諭されてしまった。


「あなた、お願い・・・」

そうまで言われては、仕方がない。

「・・・わかったよ」

嫌々ながらも承諾し、妻の背を抱いた。


「今日も午前中は公園で走り回ったから・・・」
「公園?」
「ええ、あの子、本当によく動くの・・・」
「まさか・・・」
「なぁに?」
「君は、毎日、ショーンを公園へ連れて行っているのかい?」
「ええ、勿論よ」
「・・・」
「あなた、身体をよく洗ってあげて下さいね・・・」


まだまだ気温も低いというのに、長い時間屋外にいたら風邪をひくのは当然だ。
アイツのせいで、ヨンスは風邪をひいたに違いない。


(・・・ったく、冗談じゃない!)

(ヨンスにもしものことがあったら)

(いったい、どーしてくれる!?)



憤怒を抱えたまま、広いバスルームへ入る。
男二人が、白い泡にまみれる。
色気もなにもあったものではない。


(ヨンスと一緒なら、大喜びで何百回でも入浴するさ)

(ヨンスを洗えというなら、何万回でも熱心かつ丁寧に洗う)

(しかし・・・)


ミンチョルは渋々、目の前の小さな身体を洗った。

「溺れないよう、摑まってろよ」

ついつい口の利き方が乱暴になってしまう。
こんなことは珍しい。

「イエス」

ショーンは、まるで大人のように言い返してくる。

「・・・ったく!」

ミンチョルは舌打ちをする。

「だいたい、もう二歳だろう?」
「・・・」
「赤ちゃんみたいに抱っこしてもらうのはやめろっ」
「・・・うらやましい?」


鋭すぎる切り替えしに、ミンチョルは硬直した。


「・・・お前、本当に二歳か?」
「・・・」
「サバ読んでいるんじゃないのか?」

ショーンは「ニタッ」と笑った。

「おいっ」
「・・・」
「お前、いい加減にしろよ・・・」


突然、ショーンが大きな声を出した。

「マミー!」
「・・・」
「マミーは・・・?」
「煩いな」
「・・・」
「ヨンスはキッチンで僕の夕食を作ってるよ」
「・・・」
「今日は忙しくてランチも食べ損ねたんだ」
「・・・」
「まあ、そんなこと言っても、お前はわからないな」
「・・・」
「ヨンスはお前の為じゃなく、僕の為に作ってるんだ」
「・・・」
「羨ましいだろう?」

ショーンはニヤニヤしている。

「・・・?」
「ふとるよ」


ブチッ


血管が確かに切れた音がした。


(こいつ・・・)

(絶対、二歳じゃないぞ・・・)


「あ」
「な、なんだ?」
「・・・でた」

ショーンはそう言うと、バスタブから飛び出した。


(・・・でた?)

ミンチョルが首を傾げると同時に、パウダールームの扉がノックされた。


「どう・・・?」

「・・・もう、そろそろかしら?」


ミンチョルが返事をする前に、ショーンが「マミー!」と叫んだ。
ヨンスが扉を開けた瞬間、ショーンは大理石の床で足を滑らせ派手に転がった。


「わぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ」


もの凄い大きな声で泣き出す。
パウダールームの中だから、その泣き声が余計に響く。
あまりの爆音に、ミンチョルは思わず耳を塞いだ。


「あなたったら、気をつけてくれないと・・・!」

ショーンを大きなバスタオルで包みながら抱き上げ、ヨンスは眉を顰めている。

「だけど、ショーンが勝手に・・・」
「勝手にって、ショーンはまだ子供なのよ??」

ヨンスは少し怒っている。

「・・・すまない・・・」

口先だけは謝るが、腸は煮えくり返っている。


(どこが子供だ)

(子供っていうのは、もっと素直で従順なもんだ)


「ショーン、痛くないわ」
「アーン」
「大丈夫よ・・・」
「マミー・・・!」「マミー・・・!」
「ゴメンなさいね」
「マミー」
「ママが一緒に入ればよかったわね・・・」
「マミー」

「マミー」

「マミー」

ショーンは遠慮なくヨンスの胸元に顔を埋める。

「・・・」

ミンチョルは憮然とした。



風呂場で興奮し疲れたのか、ショーンは白いベッドに入った途端に寝入った。
つまり、夫婦がベッドの中で睦み合う時間が偶然にも生まれたのだ。


(災い転じて福となす、だ)

柔らかい乳房を掌で揉みあげながら、妻の表情を窺う。

「ん・・・」

唇が少し開き、息が微かに乱れている。
ミンチョルは左手をそのままに、右手を下腹部へと伸ばしていく。


「あぁ・・・」

「んん・・・ん」

久々に目にする妻の媚態に満足しながら、ミンチョルは口を開いた。

「・・・そういえばさ」
「・・・なぁ・・に・・・?」

トロンとした声が耳に心地よくて、ゾクゾクする。

「さっき、お風呂の中で」
「・・・」
「ショーンが、でた・・・って」
「・・・」
「いったい、なにがでたんだろう・・・?」


一呼吸の間を置くと、ヨンスは努めて冷静に答えた。


「・・・おしっこよ、きっと」


ベッドから飛び降りたミンチョルが、シャワーブースへ駆け込んだのは説明するまでもない。



バスルームから戻ったミンチョルを、ヨンスは寝息で迎えた。
勿論、ショーンも熟睡中である。

「・・・」

毎日毎日、こんなことの繰り返しだ。
ミンチョルは、気がおかしくなりそうだった。


(今年は時期を早めて)

(ドッグに入った方がいいかもしれない・・・)


肉体的・精神的な疲労は、とうに頂点を越しているようだ。



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第16話(4)

2008-04-11 | Weblog
第16話 渾 沌

(4)

ショーンがやってきて、ヨンスの生活は一変した。
朝から晩まで全てがショーンを中心に回る。
なにもかもがショーン最優先となった。


ソウル美術大学を優秀な成績で修了したヨンスは、現在、研究生として大学に籍がある。
そして、しばらくは通学しなくていい状況だ。
そんなところへショーンが現れた。
ヨンスの時間は総てショーンに捧げられ、その結果、当然ながら夫に捧げられていた時間が削られた。

ミンチョルにとって、これは非常に寂しくそしてショッキングな成り行きである。
なにせ今まで当たり前のように独占し占有してきた最愛の妻を、まさに奪われた格好となったからだ。


ショーンの存在は、やがて夜の夫婦生活にも深刻な影響を及ぼし始める。



「ヨンス、ただいま・・・」

「ヨンス・・・?」


九時位までに自宅に戻れば妻は必ず玄関まで迎えに来て、そして「おかえりなさい」のキスを頬にしてくれる夜もあったのに、最近は全くそれがない。
その頃、彼女はたいていショーンと寝室にいるからだ。


朝、ミンチョルはヨンスより早く目覚め、その寝顔を見つめるのが習慣だった。
場合によっては愛を交わすことさえある。
ところが最近では、目を覚ますとショーンがヨンスに抱きついている。
先着順だとすると、ミンチョルはいつも負けた。


朝食の時間も慌ただしくなってしまった。
ショーンは早起きなので、ミンチョルがダイニングに着席する頃には既に満腹状態だ。
機嫌がいいので、なだかんだとテンションが高い。

北欧製のチャイルド・チェアは、ショーンが来て最初の週末に三人で出かけた際、購入した。


『食事用に、わざわざ椅子を買うのかい?』
『ええ、きちんと座って姿勢をよくして食べなくちゃ・・・』
『ふーん』
『足をブラブラさせるのも、お行儀が悪いでしょ』

ミンチョルは気が進まなかった。
しかしヨンスは最初から買うと決めていたようで、ショーンを抱き目的地に向かって邁進する。
結局、バギーを抱え、あたふたと後を追うしかない。

百貨店の北欧家具コーナーに、それは並べてあった。
様々な色があり、見るだけなら楽しめる。

『白木がいいんじゃないか?』
『そうね・・・』『でも、ブルーも可愛いでしょう』
『だけど、部屋の雰囲気が・・・』
『・・・あら、ショーンはそれがいいの?』

ショーンは、いつの間にかライム・グリーンの椅子にへばりついている。
「それはちょっと派手過ぎる」と反対しようとしたら、ヨンスは「じゃあ、それにしましょう」とアッサリと決断した。

『おいおい、ちょっと、この色はないだろう・・・』
『ショーンが気に入ったものにしましょうよ』
『・・・』


彼は、この眩しすぎるライム色のチェアに腰掛け、それは機嫌が良い。
ミンチョルは毎朝、落ち着いた佇まいの中、唯一、際立った色味のこの椅子を見ては、ため息をつくのが日課となってしまった。


ショーンが来る前は一緒に朝食をとったのに、最近、ヨンスは先に食べてしまう。
それを詰(なじ)ると、「だって一緒に済ませてしまった方が楽なのよ・・・」と言い訳が始まる。
とにかく、ショーンがやってきてからロクな事がない。


「あのさ・・・」
「なぁに?」
「君は最近、なぜコーヒーを飲まないの?」

これまでは朝食時にコーヒーを飲んでいたのに、最近、ヨンスのカップの中身はミルクティーである。
それが気になっていた。

「・・・」
「・・・どういう理由があるの?」
「・・・気のせいか、ショーンがむずがるのよ」
「えっ?」
「別に母乳をあげているわけじゃないのにね」
「・・・どういうこと?」
「・・・だから、朝、コーヒーを飲むと、日中、機嫌の悪い時におっぱいを吸わせても、なかなか泣き止まないの」

ミンチョルのコーヒーカップを持つ手が震える。

「・・・き、君は・・・」

「こ、こいつ・・・」

「いや、ショーンに・・・」

「その・・・」

「・・・吸わせてるのか?」
「だって、吸いたがるのよ・・・」
「甘やかすのも程ほどにしなさいっ!」「セナさんが困るじゃないかっ!」

つい、口調がきつくなってしまった。

「それもそうね・・・」

ヨンスは項垂れながらも、素直に肯く。


ショーンは、怒り心頭のミンチョルをじっと睨んでいた。
「マミーを怒った」と認識したらしい。
その目つきはかなり悪い。

「・・・」
「・・・」

お互い一分ほどの睨めっこをしただろうか。

不意に、手に持っていた小さなぬいぐるみを投げつけられた。
それも、ヨンスがキッチンに立ったわずかな隙にだ。
白い熊の其れは、かなりの勢いでミンチョルの頭に当たった。


(この野郎・・・っ)

ミンチョルが怒って床に落ちたそれを投げ返した瞬間を、戻ってきたヨンスに見られた。
あまりにも間が悪い。

「あなた」

ヨンスはミンチョルを冷ややかに見る。
ショーンは、ぬいぐるみがかすった程度なのに泣き出す。
いや、泣く真似をする。

「だって、コイ・・・ショーンが・・・」
「いい加減にして頂戴。この子はまだ子供なんだから」

ヨンスは嘘泣きをするショーンを抱き上げ、「大丈夫よ・・・」「痛くなかった?」などと頭を撫でる。

「うっ、うっ」

ショーンはヨンスの胸に頬を押し付け、ミンチョルを見下ろしている。
こんな時、目は笑っているのだ。

『ざまあみろ』

ミンチョルにはそう聞こえる。
血圧は、グングンと急上昇を続けた。


「ヨンス、コーヒーのおかわり・・・」
「今、手が放せないわ、見ればわかるでしょう?」
「・・・」

(なんで僕は朝っぱらから、こんな目に遭わなきゃならないんだ・・・)

ミンチョルは深いため息をつく。



「・・・そうだ!今日は、早く帰れそうなんだった」
「まぁ」
「夜、どこかレストランへ行こうよ」
「あら、嬉しい・・・」「・・・でも、ショーンが」
「ショーンは、ベビーシッターにでも頼めばいいだろう?」
「・・・心配だわ」
「ヨンス!」
「だって、セナの子供なのよ?」
「・・・」
「なにかあったら、私、責任を感じてしまう・・・」



結局、外食は幼児同伴が気にならない、ファミリーレストランの類いになってしまう。


「・・・あなたって、こういう場所が似合わないわね」

ヨンスは微笑む。

「・・・」

ミンチョルはムスッとしながら、たいして美味しくもない料理を食べる羽目になる。
周囲は子供連れのファミリーや、学生で大混雑だ。
ガヤガヤとしていて落ち着かず、ミンチョルが一番苦手な雰囲気である。
アルバイト店員のサーブもなってないし、カトラリーも磨かれていない。
こんな所で食事をする人間の気が知れない。
自宅で妻の手料理を食べた方が、数百倍もマシだ。
結局、早々に引き上げることになる。




ショーンは、ミンチョルに全くなつかなかった。
それは、接する時間が極端に短いせいもあるが、それ以上の何かをミンチョルは感じつつある。
・・・つまり、どうやらお互いがなんとなくライバル視しているのだ。
三十を越えたいい歳の男と二歳児が、恐らくはキム・ヨンスという女性を賭け真剣勝負を挑んでいる。

二人の間には、常に微妙な空気が漂っていた。


「ショーン、お前、わかっているのか?」
「・・・」
「ヨンスは僕のものだぞ」
「・・・」
「お前のお母さんはセナさんだ。ヨンスじゃない」


妻が居合わせない時、ミンチョルはショーンを捕まえこう言い聞かす。
子供相手にムキになっている自分が馬鹿馬鹿しいが、しかし言いたいことは言っておかなくてはならない。
ショーンは、その時だけは黙って話を聞いている。
その瞳が潤んでいるような気がすると、可哀相なことを言ってしまったと一瞬後悔もする。
だが、それはホンの一瞬だ。
ヨンスの姿を見つけると、途端にまとわりつき、じゃれる。


「マミー・・・」
「なぁに?」
「マミーはショーンのもの」
「?」
「ヨンスはぼくのものだぞ」
「??」
「ショーンのマミーは、ヨンス」
「???」

そんなことを言い続け、「抱っこ」とせがむ。


「ショーンは甘えん坊さんね」

ヨンスが抱き上げると、ショーンは大喜びでその柔らかい胸元に顔を埋める。
そして、勝ち誇った顔で見下ろすのだ!

(この野郎・・・!)

ミンチョルは、つい舌打ちをした。

「・・・なぁに、あなた?」
「えっ」
「今、何か仰った?」
「・・・い、いや、なんでもない」


自分の器量の小ささ、了見の狭さを、妻にだけは知られたくない。
愛おしい女性(ひと)の前では、常に頼りがいのある大きな存在でいたいのだ。

「・・・」

自分が自ら進んでショーンに接すると、ヨンスが殊の外喜ぶことにミンチョルは気づいている。
それで苦し紛れに、子憎たらしいショーンの頭部を型どおりに撫でてやった。

「あら、ショーン、よかったわねぇ」

案の定、ヨンスは嬉しそうだ。
そして、当のショーンは、まるで勝ち誇ったような表情でミンチョルに笑いかける。



(そろそろ限界だ・・・)

まだ一週間しか経っていないというのに、ミンチョルのストレスはピークに達していた。


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第16話(3)

2008-04-07 | Weblog
第16話 渾 沌

(3)

「ショーンは本当に食欲旺盛なの♪」


ヨンスはキッチンで片づけをしながら、朗らかに喋り続ける。


「今夜は、白いご飯を一膳と具沢山の野菜スープ、それに小さなミートボールを五つも食べたのよ♪」
「・・・」
「デザートにフルーツを小さくカットしたら、それも綺麗に平らげたわ♪」
「・・・」
「今日はね、お昼寝の後、買物へ行ってきたの♪」
「・・・」
「カフェに入ったら、あの子・・・」


その時の場面を思い出しているのか、視線が遠くへと彷徨う。


「・・・オーレンジ・ジュースって、凄くアメリカ人っぽい発音でオーダーするのよ!!」


もう誇らしくて嬉しくて堪らない、といった様子だ。



(それが)

(いったい)

(なんだというんだ・・・)


ミンチョルは憮然としながら、ダイニングの椅子に腰掛けた。
時計を見ると、そろそろ九時だ。


「で、僕の夕飯は・・・?」


ヨンスは驚いた顔をして、動きを止めた。


「・・・さっき、済ませてきたって仰らなかった?」


(ちっ)

(そうだった)

(具沢山の野菜スープにミートボールなんて聞いたから、つい・・・)


「召し上がっていないのなら、今から作るけど・・・」
「いや、いい。なんでもない」


適当に誤魔化し、新聞を広げて顔を隠す。


「・・・そうだわ、あなた」
「ん・・・?」
「ちょっと、お願いがあるの」
「ああ、なんだい」
「トランク・ルームに今日買ったバギーが置いてあるから、後で玄関まで運んで下さる?」
「バギー・・・?」
「ええ。ショーンはよく歩く子だけれど、やっぱり途中で疲れて寝入ってしまうの」
「・・・」
「抱きながら荷物を持つのはちょっと大変なのよ。あの子、かなり重いから・・・」


(どうして)

(あんな居候の為に)

(ヨンスが大変な思いをしなければならないんだっ!?)


腹が立って仕方がない。


実は今日、大人気のクラッシック・コンサートの招待券が手に入り、午前中に会社から電話をしたのだが、見事に断られてしまった。

『ショーンがいるから、私は遠慮するわ』

『あなた、どなたか誘っていらっしゃって』

結局、招待券は主任に譲った。
主任は大層、喜んでいたが、誰を誘ったのかは不明である。


(アイツがいなけりゃ)

(今夜は二人で音楽鑑賞だった)

(今頃はホテルのラウンジで・・・)

(帰宅後は、全身が赤く染まったヨンスを・・・)

(それなのに・・・)

(それなのに・・・!)



ショーンがやって来て二日目の夜、ふたりのベッドは、ようやくふたりだけの空間となった。
真新しいフランス製の白いベッドは夫婦のベッドと平行して壁際に寄せ設置したが、その距離は一メートル以上ある。


(よし・・・!)

ショーンは熟睡中で、ミンチョルはようやく妻に触れることが出来た。

「ヨンスぅ・・・」

つい甘い声が漏れてしまう。


細い腰を抱き寄せ、背後から項にキス。
それから腕を前にまわし、素早くボタンを外していく。
瞬く間に外し終え、瞬く間に寝間着を脱がせる。
真っ白な背中に口付けし、仰向けにしてその上に覆いかぶさる。
目の前には自分しか触れたことのないまあるいふくらみが二つ、大きく上下しており、それは素晴らしい光景である。

ところが、今夜は、その揺れが妙に大きい。


「・・・?」
「・・・」
「どうした・・・?」
「・・・」
「なぜ、そんなに緊張してるの?」
「・・・」
「ん・・・?」
「・・・妙な気分よ・・・」
「え・・・?」
「・・・だって・・・ショーンが起きたらって思うと・・・」
「・・・?」
「気付いたら・・・大変だわ・・・」
「・・・なぜ?」
「だ、だって・・・」

ヨンスは真っ赤になりながら、小さく呟く。

「ちょっと、刺激的過ぎるでしょう・・・?」

ミンチョルは「ふん」と鼻で笑った。

「ショーンはまだ二歳だ」「なにもわからないよ」
「・・・そうかしら?」
「ああ!」

そう言いながら、ヨンスの胸元に唇を這わせる。

「んんん・・・」

ヨンスの耐え忍ぶ声が漏れた。
ミンチョルがより強く其処を吸うと、白い裸身がビクッと震える。
左手で右の乳房を愛撫しながら、右手を下腹部にゆっくりと這わせていく。


「あぁぁ・・・」

その指先が下着の中へと侵入し、淡いしげみの奥に位置する熱く秘めやかな処へ辿り着いた瞬間。

「マミー・・・」

ショーンの声がした。


「・・・ショーン?」

ヨンスが驚いて反応する。

「・・・大丈夫だよ」
「でも・・・」
「どうせ夢だろう」

ミンチョルは幼子の存在を無視し、そのまま指先を動かし続けた。

「っ・・・!」

柔らかい身体が大きく撓(しな)る。



「マミーーーーっ!」

今度はショーンが金切り声で叫んだ。
ヨンスは慌てて起き上がる。
そして、なんと、脚の間の腕を振り払った。


「ヨンスっ!!」

ミンチョルは思わず非難めいた声を上げ、妻の行為を窘めた。

「だって、ショーンが・・・」


「マミー・・・!」

「マミー!!」


ショーンが喚き、泣き叫ぶ。


ヨンスは、夫よりショーンを優先した。
「ショーン!」「マミーはここよ」「今、行くわ」などと声をかけながら、たった今、脱がされた寝間着を探し始めたのだ。

が、それは見つからない。
当然だ。
妻の夜着は隠すのが常である。


「・・・」

ミンチョルは、妻の様子を憮然と見つめた。



寝間着を纏うことを諦めたのか、ヨンスはベッド際に置かれたフット・レストに掛けてある厚手のガウンを直接、素肌に羽織った。


(ショーンの奴・・・)

(許せん・・・っ!)


ミンチョルは上体を起こすと、ベッドの中からショーンを睨みつける。


ヨンスはショーンを抱き上げ、寝室をゆっくりと歩いている。

「ショーン、もう大丈夫よ・・・」
「・・・」
「ママはここにいるわ・・・」
「ヨンスっ!」

ミンチョルはつい、大声を出してしまう。

「・・・あなたったら、声が大きいわ」
「君はショーンのママじゃない!嘘をつくのは良くないよ!」
「・・・でも・・・」
「マミー」
「なぁに」
「マミー」

ショーンはヨンスにべったりと抱きつき、甘える。
まるで、こちらの心を見透かしているかのように、じゃれつくのだ。
ヨンスの頬や首元、挙句の果ては唇にまでキスをする。

「ショーンはアメリカ生まれだから、キスが上手ね・・・」

そんなことを言うから、ますます頭にくる。
そしてショーンが、そんな自分を見下ろしせせら笑っている・・・と感じるから厄介だ。


(コイツ、絶対に許せない!!)

ショーンは、やがて、ヨンスの胸元に顔を押し付けた。


「な・・・っ!」

ミンチョルは息を呑んだ。


ヨンスは、ガウンの下に小さな下着を付けているだけだ。
寝間着はさっき脱がせたばかりである。
その白い胸元へ、ガウンの合わせをこじ開けるようにして顔を擦る。

ミンチョルは、思わず「やめろ!」と言いそうになった。
・・・が、その瞬間、ヨンスがクスクスと笑い始めた。


「くすぐったいわ・・・!」

「ショーンったら、おっぱいを吸いたいの?」

「ごめんなさいね・・・」

「ミルクは出ないのよ・・・」

「・・・いいの?」

「でなくても、いいの・・・?」



全身の血が逆流をはじめた・・・気がした。

「・・・」

唇がわなわなと震える。
ショーンは、「マミー」「マミー」と言いながら、とうとうヨンスの其処に吸い付いた。


(僕だけのものだった・・・)

(ピンク色の・・・)


ガウンの合わせの奥に、当たり前のように顔を埋めているのは確かに男である。
それなのにヨンスは動じることなく、小さな背を摩りながら寝室をゆっくりと歩きまわった。



「・・・」

ミンチョルは、呆然とその様子を眺めた。

「・・・」

心臓は、今にも破裂しそうな状況だ。
脳の血管も、一つや二つ、切れそうである。
いや、毛細血管の数本は切れている可能性がある。
不安になって左右の手先の動きを確認し、とりあえず安堵した。


「あなた・・・お休みになって」

ヨンスは、平然とそう口にする。

「・・・ご免なさいね」
「・・・」
「明日もお忙しいのに・・・」
「・・・」
「やっぱり上に行こうかしら・・・?」
「いい・・・」「いいよ・・・」
「でも・・・」
「・・・すぐに・・寝るだろう・・・」

ミンチョルの声が憤怒に震えているのに、ヨンスは勿論、気付かない。



今夜は、このまま眠れない。


(あの野郎・・・)

(ヨンスのアソコを吸いやがって)

(ふざけるな!)


ヨンスは僕のものだ・・・
ヨンスと僕の子供なら我慢もする
しかし、アイツは赤の他人じゃないかっ
そんな奴に、ヨンスのアソコを吸う権利はない・・・!


(僕が吸いなおして、清めないと・・・!)



「ショーン、もう寝たのね・・・?」

「ん・・・いい子だわ・・・」

「ぐっすり休むのよ・・・」

「おやすみなさい・・・」


ヨンスはそう呟き、ショーンを白いベッドに寝かそうとした。
が、彼はヨンスのガウンをしっかりと握っている。
唇もヨンスの其処を咥えたままで力が入っている為、離そうとすると痛い。


「・・・困ったわね」

ヨンスは途方に暮れた。

「・・・ずっと立っていたら、疲れるよ」
「ええ・・・」
「・・・そのまま、ここに横になったら?」
「・・・そうね・・・」

ミンチョルは掛け布団を捲ってやった。
ヨンスはガウンを着たまま、ショーンを抱いた状態でベッドに入ってくる。



それはミンチョルにとって、かなり衝撃的な構図だった。
ショーンがヨンスの胸元に抱きつき、乳首を口に含んでいる様子がハッキリと見えるからだ。
ヨンスはミンチョルに背を向け、横向きになってショーンを抱いている。



「・・・」

妙にムラムラしてしまう。

怒りからか、興奮からかわからない。
とにかく、無性にヨンスを抱きたくなった。
其の中に入り、温もりと感触を確認したくなったのだ。


「ヨンス・・・」

ミンチョルは妻の腰を抱き寄せた。

「あ、あなたっ」
「ん・・・?」
「駄目よ・・・」
「なぜ・・・?」
「だって、ショーンが・・・」

ミンチョルは背後からガウンの裾を捲り上げた。

「あ、あなたったら・・・!」

ヨンスは非難めいた口調だ。
だが、ミンチョルは黙ったまま小さな下着を抜き取ると、ヨンスの右足を引き寄せ下半身を押し付けた。

「あっ・・・」



ヨンスはショーンを抱き、乳房の先端を咥えられながら、後側位でミンチョルから愛された。


「っ・・・!」

あまりに突飛な状況に、ヨンス自身が混乱している。

「・・・仕方ないだろう?」

ミンチョルはヨンスの耳元に囁いた。

「だって、コイツが邪魔をするんだから・・・」
「・・・もうっ」
「そのままでいいからさ・・・」
「あぁっ・・・」


ヨンスの身体が微かに震える。
それに構わず、さらに密着度をあげようと身体を寄せたその時、薄い肩越しにショーンと目が合った。

ショーンはヨンスの其処をしゃぶりながら、上目遣いでこちらを睨んでいる。


「!」

ミンチョルはゾッとした。


(なんだ、コイツ・・・)


ふたりは、しばらく睨み合いを続けた。
やがてショーンはヨンスの其処から口元を離し、その身体に上り始めた。

「ショーン・・・?」

ヨンスが慌てる。
が、ショーンは易々とヨンスを乗り越えようとするので、今度はミンチョルが慌ててヨンスから身体を離した。
ショーンはその隙間に入り込むと、ヨンスの背にピッタリと張り付いた。
そして・・・。


「プリッ」


可愛いオナラをした。



(ひぃぃ――――――――――――――――――――――――っ!!!)


ミンチョルは仰け反り、飛び起きた。
ヨンスはこちら側にゆっくりと身体の向きを変え、ショーンを抱いている。
今のおぞましい音は、聞こえなかったようだ。


ショーンは、まるで何事もなかったかのように寝息をたて始めていた。


「あなた・・・」

「もうお休みになって・・・」

ヨンスが囁く。

「あ、ああ・・・」
「おやすみなさい・・・」
「・・・おやすみ」


ヨンスが、明日も仕事のある自分を慮って言っている言葉であることはわかっている。
それはわかっているのだが、なんとなく冷たく感じてしまう。
ついさっきまでヨンスの温かい肢体を全身に感じることが出来たのに、今は離れ離れだ。
ふたりの間には、ショーンが堂々と横たわりヨンスを独占している。


「・・・っ」

今頃になって妙な臭いが漂ってきた。
ミンチョルは咄嗟に鼻をつまみ、ショーンの後頭部を軽く小突く。


(・・・いったい、いつまで)

(こんな変則的な生活が続くのか・・・)


まだ二日しか経っていないというのに、早くも神経は磨り減っている。
ミンチョルは鼻をつまんだまま天井を見上げ、ため息をついた。


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第16話(2)

2008-03-30 | Weblog
第16話 渾 沌

(2)

環境が変わると情緒は不安定になるものだが、セナの息子はどういうわけかヴィラでの最初の夜を熟睡した。
いや、熟睡というより爆睡といった様相だ。
夜泣きどころか寝息とも鼾とも判別がつかないような大きな音に、ミンチョルは耳を塞いだくらいである。

これは、いつもより就寝が遅かったこともあるのだろうし、もしかするとヨンスの懐が安らげたのかもしれない。



そして、翌朝。
彼は五時丁度に目覚め、騒ぎ始めた。


「・・・」

昨夜の憂さ晴らしに、妻の身体に手を伸ばそうとしていた矢先のことで、ミンチョルは大ショックだ。

(コイツ、もしかして朝型か・・・?)

だとすると死活問題である。

「・・・っ」

唇を噛み締め、眉を顰めた。


一方のヨンスにとって、起床時間は六時。
起きるには、まだ一時間早い。
彼女は目を瞑りながら、しかしこの男児の相手を上手くこなしていた。
くすぐったり、背を撫でたり、手足を面白いリズムで動かしたり・・・。

「きゃっ」

「ひゃっ」

「いや、いやぁ・・・」

「あふふ・・・」

男児は大喜びだ。


「・・・」

まるで、自分の何人目かの子供と接しているかのような余裕。

(たいしたものだな・・・)

ミンチョルは感心しながら、傍らの二人を眺めた。



セナは携帯電話の番号を変えているようで、全く連絡がつかない。
ボストンバッグの中を探したが、パスポートや保険証といった類いのものも見つからない。


「どうしましょう・・・」

朝、ヨンスは愕然とした。
なんといっても、名前がわからないのが困る。
仕方がないので本人に「お名前は?」と訊ねると、セナの息子は「ショーン」と答えた。

「あ、あなたっ!」

「こ、この子のお父さんは、アメリカ人なのかしら??」

ヨンスは動揺しまくりだ。

「・・・よく見てご覧よ」
「え・・・」
「この顔は、どう考えても純粋なアジア系だろう」
「・・・そ、そうよね、そうよね」
「ヨンス、落ち着くんだ」
「え、ええ・・・はい」「でも、お父さんは何人かしら?日本人、台湾人、中国人、香港人・・・」
「韓国人かもしれない」
「そ、そうね・・・そうだわ・・・」


目の前のこの愛らしい男児にヨンスは珍しく冷静さを失い、同時にすっかり夢中になっていた。


「ねえ、ショーン、パパのお名前は?」

ショーンは首を横に振った。

「あ、あなたっ!!」
「・・・」
「どうしましょう!知らないですって!」
「・・・セナさんは、父親と会わせていないんじゃないか?」
「そ、そうかもしれないわね・・・」
「ヨンス、落ち着いて」
「え、ええ・・・」
「とにかく、アメリカ生まれならアメリカ国籍も持っていることになる」
「まぁ!そ、そうなの?」
「確か・・・それまでは母国との二重国籍で、二十歳になった時にどちらにするか決めるんじゃなかったかな・・・」
「まぁ・・・」
「この国や日本、ドイツなんかは血統主義といって、親の血統と同じ国籍を与える・・・つまり、自国民から生まれた子には自国の国籍の取得を認めている」
「ええ・・・」  
「一方、アメリカは、出生地の国籍を与える、つまり自国で生まれた子に自国の国籍の取得を認める出生主義が原則なんだよ」
「そうなの・・・」

ヨンスは真剣に、ミンチョルの説明に耳を傾けた。



「ショーン」

ヨンスがそう呼ぶと、彼は笑顔でじゃれついてくる。
すっかりヨンスに懐いている。
「マミー」「マミー」と、まるで自分の母親と勘違いしているかのようだ。

ところが、ミンチョルが「ショーン」と呼んでも、完全に無視した。


「・・・嫌われたもんだな」

ミンチョルは内心「この糞ガキ!」などと毒つきながら、文句を言う。

「まだ、慣れないのよ・・・」

ヨンスは笑みを浮かべながら、ショーンを抱きしめ頬ずりした。



「・・・」

ショーンに嫉妬している自分を、ミンチョルはハッキリと自覚した。


(馬鹿な・・・)

(コイツは、まだ子供だぞ・・・)


そんな心のうちを、ショーンはまるでわかっているかのようだ。
ヨンスの胸元に繰り返し触れ、その頬へ唇を押し当てる。


「ショーンったら!」

「もう、くすぐったいわっ」


ヨンスは笑いながらショーンの背を撫で続ける。


(ムカつく・・・)

怒りのために、握り拳が震えた。
朝っぱらから、これである。

(今日一日、果たして冷静に仕事が出来るのだろうか・・・?)

ミンチョルは、不安を覚えた。



「ヨンス・・・」
「なぁに?」
「とにかく、まず子供用のベッドを買おう」
「ベッド・・・?」
「ああ、昨晩、ショーンに蹴られた」
「ええっ・・・?」
「僕は大丈夫だが、コイツはなんだかんだといっても男だから力が強い」
「オトコ・・・」
「もし、思い切り君の腰でも蹴って、骨が折れたら大変だ」
「それは大袈裟じゃない?」「まだ二歳よ・・・?」
「二歳だって、男は男だ」
「・・・」
「僕は相当に痛かった」
「でも、わざわざベッドを買うなんて・・・」
「いいよ、構わない」「セナさんの帰国祝いだ」


(コイツを返すとき、一緒にくれてやる・・・!)

とにかく、一刻も早くショーン専用のベッドを買おう。
じゃないと、身がもたない。
蹴られるのもゴメンだし、ヨンスを抱けない夜が続くのもゴメンだ。




その日は気温も少し上がり天気も良かったので、ヨンスは昼食後、昼寝から目覚めたショーンを連れ買物に出かけた。
今後、どれだけの時間を一緒に過ごすのか定かではないが、セナが持参したバッグの中身だけでは明らかに全てが不足している。


歩き回って風邪でもひかせたら大変だからと、珍しくハイヤーを使いデパートに赴いた。
そして、下着や靴下、普段着といった衣類や日用品を手際よく買い求めていく。
何処に売っている何が可愛いといったような予備知識を持っているから、行動に無駄はなく、ドラッグストアでオムツも大量に買い込みハイヤーに積んでいった。

(私ったら、なんでこんなに詳しいのかしら・・・?)

ヨンスは、独り苦笑した。
これまで、如何にベビー関連のショップを意識し網羅していたかということを、つくづく実感する。



「抱っこ」とばかりに手を上げるショーンを腕に抱くと、ヨンスは輸入品を取り扱っている子供服の専門店へ躊躇することなく足を踏み入れた。
これまでは、ウインドウを覗いていただけの店である。

店内を一通り眺め、時節柄、まずは防寒用にとアメリカのカジュアルブランドのダウンジャケットを買うことにした。
散々迷った上、オレンジ色をセレクトする。

『・・・どうかしら?』
『いい!』
『気に入ったの?』
『うん!』

ショーンの満面の笑みが嬉しくて、それを早速、着せた。

『まあ、可愛い』
『お似合いですね』
『坊やは、パパ似なのかしら・・・?』
『こちらのお帽子も如何ですか・・・』

店員の言葉がいちいち、嬉しい。
ついつい、財布の紐が弛んでしまう。


ショーンは体力があるようで、歩くのが大好きだ。

「ショーンったら、疲れないの?」
「つかれない」

そして疲れると、「抱っこ」と足元にまとわりつく。


運動靴も幾つか買い揃えた。
ショーンの足取りはしっかりしており、決して安易に転んだりしない。
階段なども「危ない」と本能が察すると、後ろ向きになってゆっくりと下りるのだ。

「ショーンは賢いわね・・・」

ヨンスはウットリと呟いた。


(でも・・・)

(ベビーカーは、一応、買っておいた方が・・・)


日常、無駄遣いは一切しないヨンスだが、ことショーンの物となると、なんでも買いたくなる。


(おもちゃも幾つか、買ってあげようかしら・・・)

(あ、絵本もあったほうが・・・)


その物欲はとどまるところを知らない。



嵩張る物は全てハイヤーでヴィラへ運んで貰った。
今日ほど、高級ヴィラに住まいがあることを有難いと思ったことはない。
コンシェルジュ・デスクへ一本、電話を入れ、荷物を全てトランクルームに運ぶよう伝えた。
こうしておけば、必要な時に必要なものを、少しずつ部屋へ運び込める。



途中、一休みする為にカフェへ入った。


「お子様用の椅子をお持ちしますね」


そんな店員の対応が、又、ヨンスの心を浮き浮きとさせる。


(お子様・・・)


妙に嬉しくなってしまう。


(今度から水筒を持ち歩いたほうがいいわ・・・)


そんなことを思いつつ、メニューを開く。


(今日は仕方ないわね)

(甘いものを飲ませてあげよう・・・)


「・・・ショーンは、何を飲みたいの?」
「オーレンジ・シュース!」


ヨンスは驚いた。
発音がなんとも素晴らしい。


「ショーンは英語が話せるの?」
「・・・すこし」
「凄いわねぇ・・・」
「マミー」
「なぁに?」
「マミー」


嬉しくて嬉しくて、つい、子供用の椅子から抱き上げた。
ショーンはヨンスの膝に座ると、ご満悦といった表情だ。
そして、店員が運んできたジュースのグラスをきちんと両手で持ち、チビチビと飲んだ。


「可愛い坊やですね・・・」

「利発そう」

「小さいのに、お行儀よくジュースを飲むのねぇ・・・」


店員や通りすがりの客に、ヨンスはどういうわけか頻繁に声をかけられた。
そしてその都度、「有難うございます」「手がかからない子で・・・」などと会釈で対応する。

これ以上の幸せはないと思うほど、ヨンスは「母」という役割に酔いしれ浸った。



夕方、白いベビーベッドが届いた。
夫が会社から電話で特別に取り寄せたものだ。
それはフランス製の直輸入品で、無垢材が使用されている上に天然塗料で覆われており、赤ちゃんがしゃぶっても安全性に問題がないというような一品である。

サイズは大きめで、説明書によるとベッドベースの高さは二段階に調節出来る。
子供の成長に合わせ、片側のベッド側部を取り外すことも可能だ。
一緒に届いた真新しい寝具類は、淡いブルーとラベンダー色が使われている。
国内ではあまり見かけない、洒落た色合いの組み合わせだ。

運送業者は手際よくそれを組み立て、指示した場所へ設置してくれた。



「素敵なベッドね・・・」


ヨンスは恍惚とそれらを見つめた。


「・・・ほおら、御覧なさい・・・」

「此処が今日から、ショーンのベッドよ・・・」


ヨンスはショーンを抱きながら、言い聞かせる。
ショーンは瞳をキラキラと輝かせながら、それを見つめていた。



(なんだ・・・)

(可愛いところもあるじゃないか・・・)

帰宅後、寝室でその様子を垣間見たミンチョルは、一瞬そう思った。
が、その思いは後ほど裏切られることになる。


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第16話(1)

2008-03-28 | Weblog
第16話 渾 沌

(1)

ヴィラの地下駐車場に愛車を止め、エンジンを切る。
インパネの時計は、午後十時を少し過ぎを表示していた。


「はぁ・・・」

ミンチョルは小さく息を吐くと、運転席から降り立った。


最近、妻とふたりきりになる時間が長ければ長いほど、なんとなく気が重い。
こんな物言いをすると誤解を招く恐れがあるが、これは愛情を感じなくなったからとか、不快な思いをさせられることが多々あるとか、そういった理由からでは、断じて、ない。
つまり・・・愛する女性(ひと)の口から「赤ちゃん」という言葉が漏れることを、卒業式の夜以降、自分自身が極端に恐れているのだ。
それで、勝手に気構え、挙句の果てに気疲れしてしまう。

妻との約束を反故にするつもりは毛頭ないが、正直、ミンチョルは子供を持つこと自体を考えていない。
出来れば大学病院へ赴く前に妻を説き伏せ、総てを諦めさせたいのが本音なのだ。


(子供など要らない)

(ヨンスが健康であれば・・・)

(それだけで充分だ)


他に望むものなど何もない。
二人で仲良く暮らしていければ、それでいい。


しかし、その場の勢いとはいえ約束をしてしまった以上、逃げるわけにもいかない。
仕事を理由に先延ばしにしている今の状況は、自分にとっても妻にとっても精神衛生上好ましくない。
そうわかっていながら、どうすることも出来ずに悶々とした日々を送っている。



エレベーターの中で再びため息をついたミンチョルは、三階に到着し軽やかな電子音と共に開いたドアの外へ一歩、踏み出した。
空調の効いた内廊下を、重い足取りで歩く。


(今夜、ベッドの中で)

(ヨンスが、また)

(病院へ行く日のことを訊ねてきたら)

(どう答えようか・・・)


ふと思い立ち、腕を伸ばして時計を見た。

「・・・」

十時過ぎという時間は、微妙である。
以前なら必ずベッドに入っているが、最近では起きている夜もある。

「・・・」

少し考えた末、自宅玄関のインターフォンを押すことは止めた。



開錠しドアを開けると、周囲がダウンライトの明かりで照らされた。
此処は、人の気配をセンサーが感知し反応するようになっている。
広々とした大理石の玄関には、ヨンスの普段履きのスニーカーが一足、隅にあるだけだ。
床は天井のライトを映し出すほどに、ピカピカに磨かれている。
リビングへと続く正面の大きなガラス製のドアの脇には大きなプランターボックスが置かれ、ドラセナの青々とした葉が目に優しい。

廊下の壁面には、五つのボタニカル・アートの作品が整然と配列していた。
これは散歩の途中、古書店の奥の棚で埃を被っているのを偶然、見つけ、ヨンスが気に入って購入したものだ。
ミンチョル自身はさして気にも留めなかったのだが、これらは画材店で額装すると見事に蘇った。
愛する妻の審美眼は、たいしたものなのだ。

勿論、白いフロアには塵一つ落ちていない。


帰宅した時、このように室内が整っていると疲れが吹き飛ぶ。
ミンチョルは満足気に笑みを浮かべると、自分用の黒革のスリッパを見やった。
そして、靴を脱ごうとした、まさに、その瞬間。



「!」

絶句した。
見知らぬ子供が、いつの間にか素っ裸で足元に立っている。

「す、すみませんっっ」

驚き慌てて後ずさりし、思わず廊下に出て扉を閉めた。



(ハァ・・・)

(ハァ・・・・)

(焦ったな、もう!)


額の冷や汗を拭いながら歩き出そうとして、脚を止めた。

「・・・」


(・・・今のは)

(今のは)

(今のは・・・)

(・・・なんだ?)


深呼吸してから振り返り、表札を確認する。
「M.C. LEE」の文字が、金色のプレートにクッキリと刻まれている。


(間違いない)

(ここは、確かに我が家だ)

(ヨンスと僕の愛の巣じゃないか・・・!)


「当たり前だ」と、ミンチョルは首を軽く左右に振った。


(玄関にあったのは、ヨンスの靴だし)

(あれは僕のスリッパだ)

(・・・じゃあ、さっきのは、一体・・・?)


ヨンスの友達の子供だろうか?


(まさか・・・)


今はもう、十時をとうに過ぎている。
子連れの来客にしては、非常識な時間帯である。


(じゃあ・・・???)



ミンチョルは神妙な面持ちで再度、深呼吸すると、恐る恐るドアを開けた。
すると今度は、愛する妻が膝を折り乱れたスリッパを揃えていた。


「ヨンス!」
「・・・あら、あなた、おかえりなさい」
「・・・」
「早かったのね・・・」


風呂上りらしい妻は、冬用の厚手のナイトガウンを羽織っている。
長い髪が左側に纏められ、少し湿り気を佩びながら輝いている。
バスソープのいい香りが辺りに漂う。


(さっきのは幻覚か・・・)

(・・・そうだ)

(そうに違いない)

(僕は疲れているんだ・・・)


靴を脱ぐと、揃えたばかりのスリッパをつっかけ、思わずヨンスを抱きしめた。


「・・・あなた?」
「・・・」


いい香りと柔らかい感触を楽しみながら、幸せを噛み締める。
大袈裟ではなく、生きていてよかったとつくづく思う。

ミンチョルは、キスをしようとした。
「ただいま」のキスは、夫婦として当然のことである。
ところが、その瞬間。


「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーたたたたたたたたっ!」


向う脛に激痛が走り、大きな声で叫んだ。
見下ろすと、先ほどの素っ裸の男児がオムツ姿で積み木を手に睨んでいる。


「!?」


妻の温もりを惜しみつつ、驚いて飛び退く。


「・・・だ、だれ?」


ヨンスは困った表情でミンチョルを見つめた。




「な・・・」

「な・・・」

「なんだって!?」


ミンチョルは大きな声で訊き返す。


「セ・・・セナさんの子供!?」


ヨンスはゆっくりと肯いた。



リビングのソファの上、その男児はヨンスの胸に抱かれスヤスヤと眠っている。
寝顔は、まあ、可愛い。
ふっくらとした下膨れの顔に、愛嬌のある目元。
サラサラとした細い黒髪。
もうすぐ二歳だというが、印象は赤ちゃんに毛が生えた程度だ。


「・・・」


だが、この子は男だ。
そして、その小さな手は、妻の胸のふくらみに遠慮なく触れる。
いや、触れるだけはない。
その小さな指先は、なんと其処に食い込んだりもするのだ。


「・・・」


ミンチョルは、妻の胸元から目を離せないでいた。
子供とはいえ、無意識とはいえ、どうにも我慢が出来ない。


(しかも)

(コイツは)

(さっき、ヨンスと一緒に風呂に入ったらしい・・・)


そして、先程からずっとヨンスの懐に抱かれている。
ミンチョルは大人気なく、忌々しげに睨み付けた。



「それで」
「・・・?」
「・・・しばらくって、どのくらい預かるつもり?」


ヨンスは「わからないの・・・」とばかりに首を振った。


「あなたに迷惑をかけてしまうわね・・・」
「まあ、君にとってその子は甥っ子同然だろうから、別に構わないけれど・・・」
「有難うございます、あなた」


嬉しそうな表情を目の当たりにすると、なんでも許してしまいそうだ。


「・・・だけど、どこに寝かせようか?」
「夜、どんな様子なのか・・・」
「・・・」
「夜泣きをすると、あなたが寝不足になってしまうと思うの・・・」
「ヨナキ・・・」

これまでの人生とは無縁だった単語が、耳に飛び込んでくる。

「お仕事に差し障りがあると申し訳ないから・・・」
「・・・」
「・・・私、今夜はゲストルームでこの子と休むことにします」
「えっ!?」


ミンチョルは青ざめた。


「・・・だって、深夜に大きな声で泣いたら、あなた、嫌でしょう?」
「・・・」
「夜中に私が起きると、気になるでしょう?」
「だ、大丈夫だよ!」


慌てて「僕は大丈夫だから」と繰り返す。


「下のベッドは大きいから、三人で並んで寝よう」
「そう・・・?」
「ああ!」


力を込めて肯く。


「それに、寝室の方がなにかと便利じゃないか・・・」
「・・・それもそうね」
「そうさ!」
「・・・じゃあ、あなたの言葉に甘えるわね」


まずは、ホッと一息である。


「・・・ところで、その子、なんて名前?」




ふたりの寝室に初めてふたり以外の人間が入り、ふたりのベッドに初めてふたり以外の人間が寝る。
なんとなく不快だった。
が、しかし、セナの子供では仕方ない。
ヨンスのセナに対する深い思いを、ミンチョルは理解しているつもりだ。


(それにしても、名前を聞き忘れたとは・・・)


ふたりのベッドはアメリカ製のキングサイズで、ダブルクッションだ。
高級ホテルでも使われている品で、素晴らしい寝心地である。
その上、隣りにヨンスが横たわる。
纏っている寝間着を剥げば、その魅惑的な裸身を思う存分楽しむことが出来る。
夢のような環境なのだ。

少なくとも、今まではそうだった。
ヴィラに越してから、この広々としたベッドの上で、ふたりはどれだけ濃密な愛を交わしたことだろう・・・。



そんな、夢のような状況が一変した。
この夜、セナの息子はヨンスから一時も離れなかったのだ。


「・・・ヨンス」
「なぁに?」
「・・・あのさ、その子、向こう側に寝せないか?」


自分と妻を分断し、遮るように図々しく横たわる物体。
まったく邪魔だ。
ベッドは広いのだから、なにも真ん中に寝なくてもいいだろう。


「え、ええ・・・」

「でも・・・」


ヨンスの力ではビクともしない。


「どれ・・・」


ミンチョルは上体を起こし、その子の腕を掴もうとした。


「っ!」


突然、鳩尾(みぞおち)の辺りに衝撃が走る。


「うう・・・っ」


あまりの激痛に、顔が歪む。


「・・・あなた?」
「・・・」
「あなた、どうしたの?」
「・・・な、なんでもない・・・」
「・・・?」
「・・・もう寝る・・・」


ミンチョルは薄明かりの中、男児を睥睨する。


(コイツ、蹴りやがった・・・)


無意識だろうがなんだろうが、許せない。
これで二度目だ。
一度目は玄関先で、向こう脛を積み木で思い切り打(ぶ)たれている。


(三度やったら、お仕置きしてやる・・・っ!)


ミンチョルは憤怒に唇を震わせながら、ヨンスに背を向け布団を被った。

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第15話(10)

2008-03-26 | Weblog
第15話 邂 逅   

(10)


「・・・っ!?」


息を呑んだ。
セナは、なんと小さな子供を抱いていた。
二歳か、三歳か・・・そのくらいの年齢の男児を、だ。

ヨンスは、モソモソと動く物体を凝視した。
水色の厚手のブルゾンを羽織ったその子は、ぐっすりと眠っている。


「セ・・・ナ・・・」

呆然と立ち尽くした。

「・・・そ、その子・・・」
「私の子よ」
「!」
「向こうで産んだの」
「!」


衝撃のあまり、二の句が告げない。


「・・・け、結婚したの・・・?」


ヨンスの声は上ずっている。
セナは即座に首を振った。


「セナっ!」


結婚をしていない身の上で子供を授かるなど、ヨンスには考えられない。
思わず、保護者のような非難めいた口調になってしまう。


「仕方なかったのよ」
「でも・・・」
「結婚したかったけど・・・」
「・・・?」
「・・・出来なかったの」
「セ・・・」
「色々と事情があって・・・」
「・・・」
「・・・でも、子供は産みたかったのよ」
「セナ・・・」


ヨンスは我に返ると、「とにかく入って」と大きなボストンバッグを引き取り部屋に招きいれた。


「すっごい豪華なヴィラね」
「・・・この場所、どうしてわかったの?」

セナはこの問いを無視した。

「いい場所にあるし、駅からも近いし」
「・・・」
「家賃、いくらなの?」
「・・・」
「もしかして買ったの?」

ヨンスは仕方なく肯く。

「室長もやるよねぇ」
「・・・」
「私の才能を認めてくれなかったから」
「・・・」
「たいした奴じゃないと、そう思っていたけど」
「・・・」
「やっぱり只者じゃなかったってことだわ・・・」


セナは言いたい放題だが、キョロキョロと落ち着きがない。


「だけど、広い部屋っ!」

「景色がいいし・・・」

「わぁ・・・大きなソファ!」


セナは男児を抱えたまま、歓声を上げながら歩き回った。


「と、とにかく、座って」

「落ち着いて」



セナをソファに座らせると、ヨンスはキッチンへ向かう。


(落ち着かなきゃならないのは)

(私の方だわ・・・)


繰り返し深呼吸しながら、お湯を沸かし紅茶を淹れた。
茶葉がポットの中でジャンピングするのを見つめながら、動悸を鎮めようと胸に手を当てる。
頃合いをみて、来客用にと揃えたイギリス製の優美なラインのティーカップへ注ぐ。

パントリーの棚には、バスケットが幾つか置いてある。
その中の一つには、ちょっとした菓子類をストックしてるので覗いてみた。
クッキーとベルギーのトリュフが目に付く。
カップと同じシリーズのサンドウィッチ・プレートに花柄のペーパーナプキンを敷き、それらを綺麗に並べる。



「・・・いつ、アメリカから戻ったの?」

リビング・テーブルに菓子と紅茶を運んだヨンスは、自分がソファに座るのもそこそこに質問を始めた。


「ええと・・・五日前かな?」
「五日・・・」
「やっと時差を感じなくなったかな」
「ナレには?連絡したの・・・?」
「私の帰国は極秘なの」
「・・・」
「MUSEにもね」
「・・・」
「だから、お姉ちゃんもそのつもりでいてね」


深刻な口調なので、ヨンスもつい神妙に肯く。


「それで・・・何処に住んでるの?」
「・・・ヤン社長が用意してくれたオフィテル」
「場所は?」
「それは言えない」
「なぜ?」
「・・・極秘扱いなのよ」
「・・・お姉ちゃんにも?」
「うん」
「・・・」
「それでね」
「・・・?」
「この子をしばらく預かって欲しいの・・・」


ヨンスは何を言われているのかわからず、次の瞬間、大きな声で叫んだ。


「な、なんですって!?」



「お姉ちゃんは、天使の家で散々小さい子の面倒見てきたから」
「な・・・」
「・・・私より、ずっと子育てに向いてるわよ」
「そんな・・・」
「絶対、そうよ。お姉ちゃんなら安心だもん」
「ちょっと、セナ・・・」
「・・・復帰するの」
「えっ!?」
「今度、ブロードウェイのミュージカルがソウルに来るのよ」
「ミュージカル・・・」
「この話題、知っている?」

ヨンスは残念そうに首を横に振った。

「そう・・・」「で、私、そのオーデションに受かったの」
「!」
「だから、帰国したのよ」


ヨンスは驚いた。


「セナ・・・貴女の夢は歌手として活躍することじゃなかったの・・・?」
「私、歌手というカテゴリーに拘らないことにしたのよ」
「・・・」
「今はね、そんなこと言っていたら芸能界では生き残れない」
「・・・」
「ロスのスタジオでレコーディングはしたの。だから、プロモーションすればアルバムは出せるけど」
「・・・」
「でも、今はその時期じゃない」


(セナ・・・)

(この子、随分と大人になった・・・)


出産したせいなのかアメリカでの経験故か、猪突猛進といった昔のイメージは当てはまらない。
冷静沈着で、強(したた)かささえ感じる。


「・・・私、平凡な人生は送りたくないの」
「・・・」
「芸能界に身を置いていたいのよ」


そこにあるのは、夢や憧れではなく強靭な意志だ。


「とにかく、活動を再開するのね?」
「そうよ、華々しくね」
「セナ・・・おめでとう」
「有難う、お姉ちゃん」


セナは立ち上がった。


「・・・というわけで、私、この子と一緒にいる時間が無くなるわけ」
「え・・・」
「お金を払って他人に預けるより、お姉ちゃんの方がずっと信頼出来るから」
「あ・・・」


セナは意味ありげにウインクする。


「セナ・・・」
「この子の存在も、当然だけど極秘扱いだから」
「!」
「だから、お姉ちゃん、くれぐれも注意してね」
「・・・」
「室長にバレるっていうのは、リスクが大きいけど・・・」
「・・・」
「でも、室長はお姉ちゃんを泣かせるような真似はしないでしょ?」
「・・・」
「だから、結局、お姉ちゃんに預けるのが一番安心ってわけ」
「だ、だけど・・・」
「・・・じゃあ」
「・・・えっ!?」
「私、行くわ」
「そ、そんな、困るわ・・・!」


セナは黙ったまま、抱きかかえていた男児を動揺するヨンスに押しつけた。


「ちょ、ちょっと、セナ・・・!」

「セナ・・・っっ!」


ヨンスが子供を腕に抱きながら、セナの後をバタバタと追う。


「・・・あ」
「な、なに?」
「バッグの中に、一応、子供の物が入ってるから」
「セナ・・・!」
「オムツは足りないと思うから、後で買ってね」
「オムツ・・・」
「・・・この子、もうすぐ二歳になるのよ」


セナが一瞬、遠い目をした。


「セナ・・・」
「また連絡するから」
「そんな・・・」
「お姉ちゃん、宜しくね!」


セナは手を小さく振ると、「じゃあ」と言い残し瞬く間に姿を消した。




「・・・」

玄関先でヨンスは茫然と立ちすくみ、懐の男児を見つめた。
寝ていたはずのセナの息子は、つぶらな瞳をパチクリさせて屈託なく笑う。


(可愛い・・・)


セナの成功は、誰よりもヨンスが一番深く願っている。
長い休養期間を経てようやくソウルに戻り、ここしばらくは正念場だろう。
ミュージカルが成功し仕事が一段落すれば、きっと親子一緒に暮らせる日も来るはずだ。
それまで、セナの血を受け継ぐこの子が寂しくないよう、母親代わりになろう。
親のいない寂しさを知っているからこそ、この子に同じ思いは決してさせたくない。


「マミー・・・」


その子は、ヨンスに向かってそう言った。


「マミー」



(そうだわ・・・)

(セナが迎えにくるその日まで)

(私はこの子のお母さんになろう・・・!)


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第15話(9)

2008-03-24 | Weblog
第15話 邂 逅

(9)


≪ミンジからヨンスへのメール≫


親愛なるお姉さんへ

卒業式の写真&メール有難う。
返信が遅くなってご免なさい。
今は、のんびりしているところでしょうか?
それにしても、成績優秀者として名前を呼ばれたって凄いことね!
え?なぜ、知っているのかって?
ふふふ・・・イ・ミンジの情報網をなめては駄目よ。
お姉さんの噂は、全部、ユジン経由で入ってくるんだから。
ユジンは卒業式にお花を渡せなかったって、残念がっていたわ。
あの日は、急なシフト変更でバイトが入っちゃったそう。
でもね、お姉さんは沢山のお友達に囲まれて沢山の花束を抱えていたって、後で聞いたと書いてありました。
「社会人っぽいカッコいい彼が、突然、現れてヨンスオンニを連れ去ったって、皆が噂していたけど、多分あれはミンジのオッパのことよね」って行(くだり)で爆笑!
あ、心配しないで。ユジンは口が堅いから大丈夫。
だけど、お兄ちゃんったら、相変わらずお姉さんにゾッコンね。
デレデレしている様子が目に浮かぶわ。

こういう手紙を書いていると、無性にソウルが恋しいです。
パリでの生活はだいぶ慣れたけど、やっぱり言葉がネック。
私はフランス語どころか英語も危ういので悲惨なの・・・。
学校は韓国やその他のアジアからの留学生も多いのですが、なるべくフランス人の子と一緒に過ごして発音を真似しています。
そりゃーもう、失敗は数え切れないほどあるけれど、なんとかへこたれずに頑張ってる!
あ、宿題をしなくちゃならないから、今日はこの辺で。

そうそう、前から気になっていたんだけど、お姉さん、そろそろ赤ちゃんを作れば?
体調の方も、もう問題ないのでしょう?
これまではお父さんの世話や私の受験でそれどころじゃなかったと思うけれど、大学も卒業したし、お兄ちゃんの仕事も順調のようだから(たまに、VARIOUSのサイトを覗いているのよ)丁度、いい時期じゃないかと思って・・・。
お兄ちゃんとお姉さんの子供って、きっと最高に可愛いでしょうね。
女の子でも男の子でも、かなりイケルと思う!
あ、でも、私のこと「叔母さん」と呼ばせるのは駄目よ?
「ミンジお姉ちゃん」と呼ぶよう、教育を徹底して下さい。

では又ね!

ミンジより

追伸
こちらは、ベビー服や子供服がとってもお洒落で素敵なのです。
たまにウインドウを覗いては、未だ見ぬ甥っ子、姪っ子を想像しているのよ(^_-)-☆



≪ヨンスからミンジへのメール≫


可愛い妹、ミンジへ

忙しい中、メールを有難う。
語学も絵の勉強も、きっと一生懸命頑張っているのでしょうね。
私は卒業後も研究生として大学に籍を残すことになりました。
その後どうするかは決めていないけれど、いずれは就職したいと思っています。
働くのは嫌いじゃないし、今まで散々、楽をさせて貰ってきたので、そろそろ社会復帰しないとね。
赤ちゃんのことは、自然に任せるつもりです。

ミンチョルさんは相変わらず忙しそうに国内外を飛び回っているけれど、それはお仕事が順調な証拠だから有難いと思わないといけないわね。
健康だけが心配ですが、「それは僕の台詞だ」と言い返されてしまうの。
嫌になっちゃうわ・・・。
勿論、体調は順調よ。
この冬はたいした風邪もひきませんでした。
パリも冷えるようだけれど、大丈夫?
もし風邪薬が無くなったら、早めに連絡してね。
航空便で送ります。

もうすぐ三月、春もそこまで来ています。
三月といえば、ミンジの入学式を思い出すわ。
デパートで一緒に買ったお洋服が、とても似合っていて可愛くて・・・。
親のように誇らしくて嬉しくて。
今でも、時折、あの時の写真を眺めています。

前のメールにも書いたけれど、そちらで手に入りにくいものがあったら遠慮なくね。
すぐに送りますから。

ヨンス

追伸
ブログを見ました。
いつもデジタルカメラを持ち歩いているの?
あのケーキは芸術品ね!ため息ものです。
ソウルでは絶対に見つからない繊細さだわ・・・!




ダイニングの窓際のカウンターに置かれた、淡いピンク色のノートブック型パソコン。
これは、ミンジがパリへと旅立った当日、夫にテクノマートで買って貰った。

「カチッ」

送信ボタンを押すと、今、書き連ねたばかりのメールがパリに住むミンジへと届く。

(凄いことよね・・・)

これがエアメールなら一週間はかかるだろう。
インターネットの恩恵を、ヨンスは最近しみじみと感じている。


ヨンスはあまりパソコンに詳しくない。
出来ることなら基本から夫に教示願いたいのだが、自宅にいる時ぐらいは寛いで欲しいという思いがあるのでなかなか頼みづらい。
研究生になれば時間に余裕が生まれるので、パソコン教室にでも通おうかと密かに検討中だ。
勿論、夫には内緒である。
恥ずかしくて、こんなことは言えない。


・・・というわけで、ハードディスク内は非常にシンプルである。
電子メールは、確認のためにと夫が会社から送ってくれた一通の「祝☆開通」メールとミンジからのものだけで、あとはプロバイダーやセキュリティ絡みのお知らせという有様だ。
友達とのメールは全て携帯を使っているので、このようになってしまう。
ドキュメントには、授業に関するレポートが数件、保存してあるのみ。
キーボードに慣れる為に、これまで提出したものも入力してみたからだ。
勿論、エクセルは使用したことがない。
家計簿ソフトも入っているようなのだが、開いたことさえない。


「・・・」

インターネットに接続し、VARIOUSのホームページにアクセスしてみる。
それから、MUSEのホームページにもアクセスしてみる。

「ん・・・」

一通り目を通すと、それで終わりだ。
就寝前に、再度ミンジからのメールが着信していないかチェックをするから、電源は切らずスタンバイの状態にしておくのが日課だ。


実はパソコンを買った直後、いわゆるネット・サーフィンなるものに夢中になった時期がある。
様々な情報へと簡単にアクセス出来ることに驚き、興奮してしまったのだ。

しかし、ある日を境にヨンスはそれを止めた。
理由は、芸能界をある時期少なからず騒がせた事件 ―つまり、ミシェルと所属事務所社長とのスキャンダル― についての数多くのコメントが載るサイトを偶然、見つけたからだ。
それを、つい最後まで読み続けたヨンスは、夜、眠れぬほどの後悔をした。
以来、むやみにネットと接続することは自身に禁じている。



「あら・・・」

パソコンの脇に置いてあるセレウスの鉢植えが、なんとなく元気がない。
電磁波防除の効果があるという図書館で借りた本から得た知識で、ここはセレウスの定位置となった。

「お水を遣りすぎたかしら・・・」

サボテンや、セダム類に代表される多肉植物は、育てやすく手間要らずである。
丈夫な上に厳しい環境にも順応する為、水遣りの回数も少なくて済む。


ダイニングのシンクの際に置かれた白い四角柱の陶器には、アイビーが生い茂っている。
これは乾燥に強く耐寒性もある上、日陰にも耐えるので、この階のパウダールームの洗面ボール脇にも置かれている。
伸びすぎた枝は、バランスを考え切り落とし挿し木にする。
このヴィラに転居してから、アイビーの鉢植えは四つに増えた。



時計を見ると、そろそろ三時である。

(何か温かいものを飲もう・・・)

窓辺から、外の景色を眺めた。
一昨日に舞った雪のせいか、ヴィラに隣接する公園は所々が薄っすらと白い。
が、空は久しぶりに晴れ渡っている。
恐らくこの陽射しで雪は溶けてしまうだろう。
明日は、又、違った景色を楽しめるはずだ。

「・・・」

今日、ヨンスは外出をしていない。
空気は冷たいだろうが、しかし爽快な午後である。

(お茶を飲んだら、散歩にでも・・・)

この辺りは閑静な高級住宅街で、緑が意外と多く散歩にはうってつけだ。
少し歩けば、大きな通りにも出られる。
街路樹が立ち並ぶその通りは、巷ではブランド・ストリートなどと呼ばれていた。
ヨンスは高級店には興味がないし入らないが、ウィンドーを眺めるのは好きだった。
女性が美しい物に惹かれるのは、いつの世も同じである。



「ピンポーン♪」

一階のオートロック・エントランスから、来客を告げるインターフォンが鳴る。
この音が鳴るのは決まって夜だ。
それは夫が帰宅した合図でもある。
しかし、日中にこの音が鳴ることは滅多にない。

「・・・?」

ダイニングの壁際の液晶画面をオンにしたヨンスは、そこに映る人影に驚きの声を上げた。


「セ、セナ・・・!?」
『お姉ちゃん?ココ、早く開けてよ・・・』

ヨンスは慌てて開錠の操作をすると、玄関に向かって駆け出した。



扉の向こうの内廊下に、セナが立っている。

「お姉ちゃん、お久しぶり!」
「セ・・・ナ・・・」


ヨンスはまじまじとセナを見つめる。

(いったい、何年ぶりの再会かしら・・・?)

喜びが徐々に込み上げてくる。
ヨンスは感極まった。


「セナ!」

「・・・セナ!」

「やっと帰ってきたのね?」


セナが小さく肯く。
髪の色は金髪から濃茶になり以前より落ち着いた雰囲気になっていたが、細く華奢な身体つきは相変らずだ。



「・・・?」


ヨンスが可愛い妹を抱き寄せようとした、その時、セナが胸元に抱えていた何かが微かに動いた。

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