第13話 再 会
(10)
午後の陽射しが、高層ビルの巨大な窓ガラスを通し部屋の其処彼処に影をつくっている。
社長室という崇高な空間で、上体を少し屈ませながらPC画面に見入る夫。
腰に左手をあて、右手はキーボードをタッチしながらも、時折、指先が顎のあたりを漂い眉が微かに動く。
その立ち姿はなんとも形容し難いほどに美しく、成熟した男の色香を放っていた。
新しく立ち上げた会社を僅かな期間で軌道に乗せ、今、彼は自信に満ち溢れているように見える。
脳裏には、将来に亘ってのビジネス・ビジョンがびっしりと描かれているのだろう。
(このひとは、成功したんだわ・・・)
ヨンスはつくづくそう思った。
漢江やソウルの街並みを一望出来るこの場所にオフィスを構えた事実だけを切り取ってみても、それは明白だ。
そして夫は、尚、その歩みを止めようとはしていない。
「・・・」
心のどこかで、失意の中にも慎ましやかに家族四人で暮らしていたあの頃のほうが、ずっと幸せだったような気がしている。
不本意とはいえ、そんな想いが微かにあるということは認めなくてはならない。
(・・・!)
ヨンスは咄嗟に頭を振った。
(なに、贅沢なこと言ってるの・・・!?)
いじましい発想しか出来ない自分が、ほとほと情けない。
目頭がかーっと熱くなってしまう。
(学費の工面に悩むことなく復学できたのは、なぜ・・・?)
(仕事もせずに贅沢な暮らしが出来るのは、どうして・・・?)
(ううん、そんなことじゃない!)
ヨンスは唇を噛み締めた。
(私が今、こうして元気で生きていられるのは、いったい誰のお陰・・・?)
どれだけ感謝してもし足りないのに、ただ過去を懐かしむばかりでは申し訳ない。
そんなことをしていたら、未来を見つめているこのひとの足を引っ張ってしまう。
(しっかりしなきゃ・・・)
つまらないことを考える己にウンザリしたヨンスは、夫に気付かれないよう小さなため息をついた。
「・・・どうした?」
「えっ」
「なんだか冴えない表情をしている」
「そ、そんなことないわ」
「・・・もしかして、結婚写真のこと?」
「・・・?」
「あの写真なら、<Planning> にある個室の机に飾ってあるからね」
「・・・!」
「今は未だ、此処で席を温めるほど優雅な身分じゃない」
「・・・」
「あっちで仕事をする時間が圧倒的に多いから、だから・・・」
確かに、この部屋は塵ひとつ落ちておらず、整然とし過ぎている。
机上には、最新型のデスクトップのPCが置いてあるだけだ。
「・・・ここで過ごす時間が増えたら、移すつもりだよ」
「あなた・・・」
胸が詰まって、思わず声が掠れてしまった。
結婚アルバムの中から、夫が会社のデスク用にと写真を一枚選んだのは知っていたが、それが何処に飾ってあるかを確かめるほど精神的余裕はなかった。
それなのに、このひとは、これほどまでに気遣ってくれている。
(・・・)
ヨンスは自分の了見の狭さが恥ずかしくて、話を変えた。
「・・・これから、益々、忙しくなっていくのでしょう?」
「そうじゃないと困るね」
「・・・それなら、誰かスケジュール管理をしてくれる人を探した方がいいわ」
「・・・」
「主任に頼んでみては、どうかしら?」
「主任・・・?」
「絶対、喜んで引き受けてくれるわ・・・」
ミンチョルは笑ってヨンスをソファに座らせると、自身もその隣りに座った。
「僕は専属秘書って持ったことないんだ。鬱陶しくてね」「そういえば、父はいつも連れて歩いていたけれど・・・」
「でも、あなたが不在の時、責任を持って対応してくれる人がいないと皆さんが迷惑するわ」
「・・・」
「キチャンさんもキュソクさんも立派な幹部なのだから、軽々しく扱っては駄目よ」
「・・・わかっているよ」
穏やかな表情で肯く。
「主任も担当の仕事が忙しくて無理なら・・・」
「・・・?」
「いっそ公募するとか」
「・・・公募?」
「ええ、ほら、新聞広告とか・・・」
「そりゃー無理だな。条件が厳しすぎて見つかりっこない」
「条件って、そんなに厳しいの?」
「ああ」
ヨンスは、ミンチョルの顔をそっと窺(うかが)う。
「もしかして・・・」
「ん・・・?」
「モデルさんや女優さんみたいに、綺麗でスタイルが良くないと駄目なんでしょう?」
「それは最低条件だ」
ヨンスは「まぁ・・・」という風に睨んだ。
「それに、秘書っていうのは気配りが出来ないと不味いだろう?」
「ええ、そうね・・・」
「責任感があって、思いやりがあって、頑張り屋で」
「・・・」
「優しくて、芯は強くて」
「・・・」
「あと、僕より勇気があって・・・」
「・・・まだ、あるの?」
「まだまだ、ある」
ヨンスは呆れて、夫の顔を見つめる。
「できれば、感性が豊かな方がいいな。こういう業界だからね」
「感性・・・」
「僕は背の高い女性が好みだし、それに肌は白くて綺麗じゃないと駄目だ」
「・・・」
「髪は長くて艶々した黒髪で・・・」
ミンチョルはそこまで言うと、ヨンスの髪を撫でた。
「つまり」
「・・・?」
「そういう女性は、なかなかいないってことだよ」
「・・・そうねぇ・・・」
ミンチョルは、考え込んでしまった妻を深い眼差しでじっと見つめた。
「さあ、行こうか・・・?」
「そろそろ時間だ」
パーティー会場となるホテルのスイートルームの一室には、既にスタイリストとヘアメイクが待機していた。
共にミンチョルの職権濫用で召集された、業界トップクラスの実力者である。
「・・・んまぁぁぁ!」
「お美しい方ですこと・・・!」
「本当にお綺麗!」
「今後とも、どうぞお引き立て下さいませぇぇぇ」
二人は交互にそんなことを口にしながらヨンスを両脇から挟み、有無を言わさずベッドルームに連れ込む。
(まるで拉致だな・・・)
ミンチョルは笑いを噛み締めながら後を追ったが、当のヨンスは困惑気味だ。
広々としたベッドルームには十数着のイブニング・ドレスがかけられたラックが置かれ、ドレッサーの上には色とりどりの化粧品やカーラーなどが所狭しと並べられている。
「君に似合いそうなドレスを集めてきて貰ったんだが・・・」
ミンチョルはラックを一通り眺めると、「これなんて、どう?」とハンガーを一つ、手に取った。
鮮やかな紫が目に眩しいシルクチュールのティアード・ドレスは、その軽やかさが今の季節にピッタリだ。
「髪をコンパクトに纏めて、大振りのイヤリングをすると可愛いね」
イタリアのプレタポルテ(高級既製服)である。
ところがヨンスは、浮かぬ顔で答えた。
「嫌よ・・・」
「なぜ?」
「色が派手すぎるもの・・・」
「絶対、似合うのに」などと独りごちながら他のドレスに視線を移すと、スタイリストも激しく肯きながらハンガーを受け取る。
「・・・じゃあ、これは?」
ミンチョルは別のドレスを手にした。
フランス製のソワレは、ビーズや銀糸の精緻な刺繍が前面に施されたシャンパンカラー。
立体的なギャザーとコットンシルクサテンの深い陰影は、ヨンスのめりはりあるボディを一層、魅力的なものにしてくれるはずだ。
「このドレスには、レースを模したダイアモンドのネックレスがお似合いかと・・・」
スタイリストは、すかさず宝石ケースを差し出した。
「なかなか素敵じゃないか・・・?」
「あなたっ」
ヨンスは首をブンブンと横に振る。
「胸元も背中も剥き出しよ?こんなの、恥ずかしいわっ」
「なぜ?」「君はデコルテがとても綺麗だから、別に構わないよ・・・」
「そんなっ」
「夜のパーティーっていうのはね、肌を隠し過ぎると野暮ったいものなんだ」
ここぞとばかりに、スタイリストが口を挟む。
「室長、あ、いえ、社長の仰るとおりですわっ!」
「で、でも・・・」
「このお色は、お客様のような陶器肌を一段と美しく見せてくれますのよ」「それに・・・」
美辞麗句は延々と続くが、それでもヨンスは眉を顰め、なんとも不服そうな表情をしている。
「じゃあ・・・」
ミンチョルがハンガーを手にし「これは?」と言った瞬間、ヨンスは「無理よ」と即答した。
純白の其れは、胸元の大きな黒のリボンが特徴的だ。
同色のスパンコールやビーズが艶やかなリボンの表面を美しく飾っており、背面から流れるように広がっているトレーンはウエディングドレスを彷彿とさせる。
(・・・)
確かに、このドレスは時期尚早だ。
裾を踏んで転ぶのが関の山かもしれない。
勿論、転ぶ姿もキュートだろうが、何も人前で妻に恥をかかすことはない。
そういう姿を見る権利があるのは、自分だけだ。
(モノトーンは、ヨンスの凛とした華やかさに相応しい)
(あと三年くらいしたら、着こなせるだろう・・・)
「あなた・・・」
妻の瞳が何かを訴えたがっている。
「なんだい?」
「私、前に着た・・・」
「・・・」
「・・・ああいうドレスがいいわ」
ミンチョルには妻の言わんとしていることが解(わ)かっていた。
つまり、なるべく露出の少ないデザイン、身体の線の隠れるライン、決して派手ではない色味・・・それらの条件をクリアした服を着たいのだろう。
あの場所 ―レコード製作者協会主催のパーティー会場― でヨンスが纏ったローブデコルテは、上品かつ清楚で素晴らしく似合っていた。
同じドレスを今、着ても、当然、似合うとは思う。
しかし、今のヨンスには、もっと相応しいドレスがあるはずだ。
それは、当時のヨンスに具(そな)わっていなかったもの ―大人の女性の艶やかさだったり、恐らくは無意識であろうが場数を得て身につけた自信や余裕だったりする― が、彼女の内面だけでなく姿かたちの印象をも変化させているからである。
それはそうだ。
当然といえば当然だ。
あの時、ヨンスは何も知らない生娘で、今はその官能を開花させつつある人妻なのだから。
(ふっ・・・)
思わず、口元が弛んでしまう。
夫である自分が言うのもなんだが、ヨンスは本当にいい女になった。
元々、素材がいい上に、最近ではすっかり垢抜け洗練されてしまって、ちょっとお洒落をして街中を歩こうものなら注目の的である。
そして、そんな妻には、今、ピッタリと似合うドレスを着て欲しい。
「プロに任せればいいよ」
「・・・」
「とにかく試着してみて、それから決めればいいさ。まだ時間はたっぷりあるからね」
「ええ、そうですとも」
「お任せ下さいませ」
「・・・」
「そうだ」
ミンチョルは二人の専門家に向かって、真顔で言い放つ。
「事前にも確認したけど、露出し過ぎはNGだよ」「あくまで上品に」
上客の支離滅裂な言い分は手馴れている。
スタイリストは恭(うやうや)しく頭を下げた。
ヨンスは不安だったが、結局、すべてを彼女達に任せた。
自分の希望が通るとは思えなかったし、だいたい着てもいいと思えるようなドレスはそこには見当たらない。
今夜は、夫の、そして夫の会社であるVARIOUSの晴れ舞台なのだから、彼の望むようにするべきだとヨンスは自分に言い聞かせた。
(フルレングスのドレスなんて、着慣れないから・・・)
(みっともなく見えないといいけれど・・・)
夫に恥をかかすことだけは、なんとしても避けたい。
途中、部屋に電話が入った。
「僕も着替えを済ませて、ちょっと会場を覗いてくる」と言い残し、姿を消した夫からだ。
『どう?ドレスは決まった?』
「ええ、結局・・・」
『ストップ』
「・・・?」
『あとの楽しみにとっておくよ』
「あなた・・・」
『支度が出来たら連絡して』『迎えにいくから』
「大丈夫よ・・・」
『ん・・・?』
「お忙しいのでしょう?」「私、独りで行けるわ」
『本当に・・・?』
「子供じゃないのよ?」
『・・・わかった』『じゃあ、下で待ってる』
「うわぁ・・・」
「素敵・・・」
「仕事柄、私どもが手がけてきたモデルや女優は数多(あまた)おりますけれど」
「これほどにお美しい方は、滅多にお目にかかれませんわっ」
「本当に!イ社長はお幸せねぇぇぇ・・・」
「・・・」
鏡の中に映る自分を見て、ヨンスの脳裏を過(よ)ぎった「虚像」という言葉は、歓声で瞬時に掻き消された。
スタイリストもヘアメイクも、業界では有名な存在だ。
顧客リストには女優やモデル、名流婦人が名を連ねる。
かつての得意先のパートナーとあらば、どれだけ高慢で高飛車かと警戒していた二人。
ところが、拍子抜けするほどに大人しく従順で、おまけに常識的な女性が現れた。
しかも、この女性、服飾やヘアメイクの専門家の腕を鳴らすだけの類いまれな容姿とスタイルを兼ね備えている。
二人は、心底、惚れ込んでしまった。
勿論、この先も公私共に関わりを持ちたいという営業上の欲も、見え隠れしているのは否めない。
飛び鳥落とす勢いのVARIOUS社長に愛されているのは一目瞭然だ。
あのハンサムな青年実業家は、この女性の為なら惜しげもなく金を使うだろうというのが、この二人の一致した意見だった。
「それでは・・・」
退(ひ)け時を心得ている二人は、あっという間に全てのものを片付け部屋を出て行った。
ヨンスは、ポツンと取り残されてしまう。
「・・・」
突然、不安になってくる。
(どうしよう・・・)
(大丈夫かしら?)
(みっともなくないかしら・・・?)
突然、部屋の電話がけたたましく鳴った。
ヨンスは飛び上がると、恐る恐る受話器に手を伸ばす。
「も、もしもし・・・」
『僕だ。準備が出来たって連絡が入ったけど』
「・・・」
『・・・どうした?下りておいで』『ホールの脇の控え室に・・・』
「あ、あなたぁ・・・」
『ん・・・?』
「お願い・・・」
『なんだい?』
「迎えに来て・・・」
『すぐ行く』
ヨンスの脚は、やがてガクガクと震えだした。
急に緊張してきてしまったのだ。
靴のヒールは、これまで履いたことのない高さだ。
(私、大丈夫なのかしら・・・?)
このパーティーでは数多くの来客がある。
メインバンクや証券会社、官公庁の幹部クラスも多いと聞いていた。
(もし、粗相をしてしまって、あの人に恥をかかせたらどうしよう・・・?)
「・・・」
ミンチョルは絶句した。
目の前に立つ女性が自分の妻であることは確かなのに、神々しいことこの上ない。
(参ったな・・・)
まるで女神のようなオーラを放っている妻を前に、ただ呆然と立ち尽くす。
(そうだ・・・)
(ヨンスは僕の女神かもしれない・・・)
(僕の・・・)
(幸福の女神)
「・・・行こうか」
ミンチョルは唾を飲み込むと、左肘を折り妻の手を誘った。
「あなた・・・」
「ん・・・?」
「わたし・・・」
小さな声が震えている。
ミンチョルはヨンスを見つめると、優しく微笑んだ。
「凄く綺麗だ」
「・・・」
「とても素敵だよ・・・」
「・・・ほんとう?」
「ああ!」
「大丈夫?」
「・・・なにが?」
「私、変じゃない?」
「・・・あまりに魅力的で、このまま抱き上げてベッドに倒れこもうかと思った」
「もうっ」
少しだけ緊張がほぐれる。
ミンチョルはヨンスの背を撫で、肩にチュッとキスをした。
「これで大丈夫」
「・・・?」
「緊張しないおまじない」
「・・・ありがとう」
「本当はね、唇なんだ」
「え・・・?」
「でも今夜は、君の唇、グロスでキラキラしているからね」
「あ」
「せっかくのプロの仕事を台無しにするのは気が引ける」「我慢するよ」
「・・・あなたったら!」
「さあ、行こう・・・」
ミンチョルは、頬を赤く染めた妻を満足そうに見つめた。
新進気鋭の作曲家や作詞家といった音楽家、アン会長夫妻を始め、銀行・証券会社役員等のVIP、政治家や官僚、選りすぐった業界関係者に加え、自社の役職者を含めた総勢百数十名程度の立食パーティーは異様な熱気に包まれた。
これは、VARIOUSが今や業界のみならず経済界においても注目株であるということを示している。
パーティー会場で、ヨンスはミンチョル以上に注目を浴び、多勢の招待客から挨拶を受けた。
「あら、イ社長のパートナーはモデル?」
「お綺麗よね・・・背が高くて」
「恋人かしら?もしかして奥様?」
「さあ・・・?」
「彼が今、付き合っているオンナってところだろう」
「なんでも、例のVICTORYにいらした方らしいわよ・・・」
「なるほど」
「フフッ・・・倒産した会社の商品に手をつけた、というわけかな?」
誤解をしている者も少なくないようだったが、ヨンスはこの席で初めて、イ・ミンチョル社長のパートナーと認識された。
ミンチョルは、ヨンスを敢えて妻とは紹介しなかった。
立場を公にすると、それだけヨンスに負担がかかるからだ。
彼女は現役の学生だ。
長い闘病生活もあった。
夜な夜な付き合いの席やパーティーにかり出すつもりは毛頭ない。
ただ・・・やはり一度くらいは、華やかな席に同伴したかった。
これは、美しい妻を持つ男の我が儘だ。
一流ホテルのバンケットルーム。
華やかな雰囲気の招待客で賑わうその会場で、ヨンスは圧倒的に美しい。
息を呑むほどの存在感だ。
長い黒髪は柔らかく波打ち、ふんわりと後頭部で纏められ、端整且つ上品な顔立ちはフルメイクで完全に素人離れしている。
どちらかといえば薄化粧の類いではあるが、それでもプロの手にかかると素材の良さが自然と際立ってしまう。
何よりもその立ち姿が美しかった。
顔が小さい上に手足が長く、肌が透き通るように白い。
ハリウッドでも通用するかのようなバランスだ。
まるみを佩びた胸元からウエストの括れに向けてのソワレのラインは、男ならずとも注視せざるをえない妖艶さである。
招待客がモデルと勘違いしても仕方がない。
彼女にだけ、燦燦とスポットライトが当たってように見える。
それは自分だけの思い込みではないはずだ。
なぜなら、その場にいる誰もが彼女の一挙一動に注目していたからだ。
ヨンスは自身の魅力をわかっていない。
行動も当然、いつも通り控えめだ。
決して目立とうとはしない。
しかし、招待客の誰もが畏敬と緊張で遠巻きにするアン会長夫人と、和やかに会話できる気質と度胸を持っている。
夫人が手にした飲み物などに気を配りつつ、周囲への配慮も忘れない。
その奥ゆかしさが、華やかな席では一層、引き立つし、彼女の魅力を倍増させる。
―ひっそりと咲いている、目立たぬ花のような印象の女―
かつては、彼女をそう喩えたものだ。
それが、いつの間にか衆人の注目を集める華やかさと艶やかさを備え、大輪の花を咲かせている。
嬉しくも切ないという不可解な感情を、ミンチョルは持て余していた。
(自分だけのものにして、隠しておきたい・・・)
それが本音だが、今の立場ではそうもいかないのが歯痒い。
「えっ!?」
「あの・・・今、なんて・・・?」
ヨンスの視線は、背の低い女の顔に釘付けとなった。
瓜実顔の細目の女性従業員は眩しそうにヨンスを見上げると、今、口にしたばかりの言葉を抑揚なく繰り返す。
「はぁ、あの、イ・ソンジェ様がキム・ヨンス様に御用がおありとのことで、お言付けがございました」
「それで、あの、当ホテル最上階のラウンジ奥の窓際のお席にてお待ちとのことでございます・・・」
(10)
午後の陽射しが、高層ビルの巨大な窓ガラスを通し部屋の其処彼処に影をつくっている。
社長室という崇高な空間で、上体を少し屈ませながらPC画面に見入る夫。
腰に左手をあて、右手はキーボードをタッチしながらも、時折、指先が顎のあたりを漂い眉が微かに動く。
その立ち姿はなんとも形容し難いほどに美しく、成熟した男の色香を放っていた。
新しく立ち上げた会社を僅かな期間で軌道に乗せ、今、彼は自信に満ち溢れているように見える。
脳裏には、将来に亘ってのビジネス・ビジョンがびっしりと描かれているのだろう。
(このひとは、成功したんだわ・・・)
ヨンスはつくづくそう思った。
漢江やソウルの街並みを一望出来るこの場所にオフィスを構えた事実だけを切り取ってみても、それは明白だ。
そして夫は、尚、その歩みを止めようとはしていない。
「・・・」
心のどこかで、失意の中にも慎ましやかに家族四人で暮らしていたあの頃のほうが、ずっと幸せだったような気がしている。
不本意とはいえ、そんな想いが微かにあるということは認めなくてはならない。
(・・・!)
ヨンスは咄嗟に頭を振った。
(なに、贅沢なこと言ってるの・・・!?)
いじましい発想しか出来ない自分が、ほとほと情けない。
目頭がかーっと熱くなってしまう。
(学費の工面に悩むことなく復学できたのは、なぜ・・・?)
(仕事もせずに贅沢な暮らしが出来るのは、どうして・・・?)
(ううん、そんなことじゃない!)
ヨンスは唇を噛み締めた。
(私が今、こうして元気で生きていられるのは、いったい誰のお陰・・・?)
どれだけ感謝してもし足りないのに、ただ過去を懐かしむばかりでは申し訳ない。
そんなことをしていたら、未来を見つめているこのひとの足を引っ張ってしまう。
(しっかりしなきゃ・・・)
つまらないことを考える己にウンザリしたヨンスは、夫に気付かれないよう小さなため息をついた。
「・・・どうした?」
「えっ」
「なんだか冴えない表情をしている」
「そ、そんなことないわ」
「・・・もしかして、結婚写真のこと?」
「・・・?」
「あの写真なら、<Planning> にある個室の机に飾ってあるからね」
「・・・!」
「今は未だ、此処で席を温めるほど優雅な身分じゃない」
「・・・」
「あっちで仕事をする時間が圧倒的に多いから、だから・・・」
確かに、この部屋は塵ひとつ落ちておらず、整然とし過ぎている。
机上には、最新型のデスクトップのPCが置いてあるだけだ。
「・・・ここで過ごす時間が増えたら、移すつもりだよ」
「あなた・・・」
胸が詰まって、思わず声が掠れてしまった。
結婚アルバムの中から、夫が会社のデスク用にと写真を一枚選んだのは知っていたが、それが何処に飾ってあるかを確かめるほど精神的余裕はなかった。
それなのに、このひとは、これほどまでに気遣ってくれている。
(・・・)
ヨンスは自分の了見の狭さが恥ずかしくて、話を変えた。
「・・・これから、益々、忙しくなっていくのでしょう?」
「そうじゃないと困るね」
「・・・それなら、誰かスケジュール管理をしてくれる人を探した方がいいわ」
「・・・」
「主任に頼んでみては、どうかしら?」
「主任・・・?」
「絶対、喜んで引き受けてくれるわ・・・」
ミンチョルは笑ってヨンスをソファに座らせると、自身もその隣りに座った。
「僕は専属秘書って持ったことないんだ。鬱陶しくてね」「そういえば、父はいつも連れて歩いていたけれど・・・」
「でも、あなたが不在の時、責任を持って対応してくれる人がいないと皆さんが迷惑するわ」
「・・・」
「キチャンさんもキュソクさんも立派な幹部なのだから、軽々しく扱っては駄目よ」
「・・・わかっているよ」
穏やかな表情で肯く。
「主任も担当の仕事が忙しくて無理なら・・・」
「・・・?」
「いっそ公募するとか」
「・・・公募?」
「ええ、ほら、新聞広告とか・・・」
「そりゃー無理だな。条件が厳しすぎて見つかりっこない」
「条件って、そんなに厳しいの?」
「ああ」
ヨンスは、ミンチョルの顔をそっと窺(うかが)う。
「もしかして・・・」
「ん・・・?」
「モデルさんや女優さんみたいに、綺麗でスタイルが良くないと駄目なんでしょう?」
「それは最低条件だ」
ヨンスは「まぁ・・・」という風に睨んだ。
「それに、秘書っていうのは気配りが出来ないと不味いだろう?」
「ええ、そうね・・・」
「責任感があって、思いやりがあって、頑張り屋で」
「・・・」
「優しくて、芯は強くて」
「・・・」
「あと、僕より勇気があって・・・」
「・・・まだ、あるの?」
「まだまだ、ある」
ヨンスは呆れて、夫の顔を見つめる。
「できれば、感性が豊かな方がいいな。こういう業界だからね」
「感性・・・」
「僕は背の高い女性が好みだし、それに肌は白くて綺麗じゃないと駄目だ」
「・・・」
「髪は長くて艶々した黒髪で・・・」
ミンチョルはそこまで言うと、ヨンスの髪を撫でた。
「つまり」
「・・・?」
「そういう女性は、なかなかいないってことだよ」
「・・・そうねぇ・・・」
ミンチョルは、考え込んでしまった妻を深い眼差しでじっと見つめた。
「さあ、行こうか・・・?」
「そろそろ時間だ」
パーティー会場となるホテルのスイートルームの一室には、既にスタイリストとヘアメイクが待機していた。
共にミンチョルの職権濫用で召集された、業界トップクラスの実力者である。
「・・・んまぁぁぁ!」
「お美しい方ですこと・・・!」
「本当にお綺麗!」
「今後とも、どうぞお引き立て下さいませぇぇぇ」
二人は交互にそんなことを口にしながらヨンスを両脇から挟み、有無を言わさずベッドルームに連れ込む。
(まるで拉致だな・・・)
ミンチョルは笑いを噛み締めながら後を追ったが、当のヨンスは困惑気味だ。
広々としたベッドルームには十数着のイブニング・ドレスがかけられたラックが置かれ、ドレッサーの上には色とりどりの化粧品やカーラーなどが所狭しと並べられている。
「君に似合いそうなドレスを集めてきて貰ったんだが・・・」
ミンチョルはラックを一通り眺めると、「これなんて、どう?」とハンガーを一つ、手に取った。
鮮やかな紫が目に眩しいシルクチュールのティアード・ドレスは、その軽やかさが今の季節にピッタリだ。
「髪をコンパクトに纏めて、大振りのイヤリングをすると可愛いね」
イタリアのプレタポルテ(高級既製服)である。
ところがヨンスは、浮かぬ顔で答えた。
「嫌よ・・・」
「なぜ?」
「色が派手すぎるもの・・・」
「絶対、似合うのに」などと独りごちながら他のドレスに視線を移すと、スタイリストも激しく肯きながらハンガーを受け取る。
「・・・じゃあ、これは?」
ミンチョルは別のドレスを手にした。
フランス製のソワレは、ビーズや銀糸の精緻な刺繍が前面に施されたシャンパンカラー。
立体的なギャザーとコットンシルクサテンの深い陰影は、ヨンスのめりはりあるボディを一層、魅力的なものにしてくれるはずだ。
「このドレスには、レースを模したダイアモンドのネックレスがお似合いかと・・・」
スタイリストは、すかさず宝石ケースを差し出した。
「なかなか素敵じゃないか・・・?」
「あなたっ」
ヨンスは首をブンブンと横に振る。
「胸元も背中も剥き出しよ?こんなの、恥ずかしいわっ」
「なぜ?」「君はデコルテがとても綺麗だから、別に構わないよ・・・」
「そんなっ」
「夜のパーティーっていうのはね、肌を隠し過ぎると野暮ったいものなんだ」
ここぞとばかりに、スタイリストが口を挟む。
「室長、あ、いえ、社長の仰るとおりですわっ!」
「で、でも・・・」
「このお色は、お客様のような陶器肌を一段と美しく見せてくれますのよ」「それに・・・」
美辞麗句は延々と続くが、それでもヨンスは眉を顰め、なんとも不服そうな表情をしている。
「じゃあ・・・」
ミンチョルがハンガーを手にし「これは?」と言った瞬間、ヨンスは「無理よ」と即答した。
純白の其れは、胸元の大きな黒のリボンが特徴的だ。
同色のスパンコールやビーズが艶やかなリボンの表面を美しく飾っており、背面から流れるように広がっているトレーンはウエディングドレスを彷彿とさせる。
(・・・)
確かに、このドレスは時期尚早だ。
裾を踏んで転ぶのが関の山かもしれない。
勿論、転ぶ姿もキュートだろうが、何も人前で妻に恥をかかすことはない。
そういう姿を見る権利があるのは、自分だけだ。
(モノトーンは、ヨンスの凛とした華やかさに相応しい)
(あと三年くらいしたら、着こなせるだろう・・・)
「あなた・・・」
妻の瞳が何かを訴えたがっている。
「なんだい?」
「私、前に着た・・・」
「・・・」
「・・・ああいうドレスがいいわ」
ミンチョルには妻の言わんとしていることが解(わ)かっていた。
つまり、なるべく露出の少ないデザイン、身体の線の隠れるライン、決して派手ではない色味・・・それらの条件をクリアした服を着たいのだろう。
あの場所 ―レコード製作者協会主催のパーティー会場― でヨンスが纏ったローブデコルテは、上品かつ清楚で素晴らしく似合っていた。
同じドレスを今、着ても、当然、似合うとは思う。
しかし、今のヨンスには、もっと相応しいドレスがあるはずだ。
それは、当時のヨンスに具(そな)わっていなかったもの ―大人の女性の艶やかさだったり、恐らくは無意識であろうが場数を得て身につけた自信や余裕だったりする― が、彼女の内面だけでなく姿かたちの印象をも変化させているからである。
それはそうだ。
当然といえば当然だ。
あの時、ヨンスは何も知らない生娘で、今はその官能を開花させつつある人妻なのだから。
(ふっ・・・)
思わず、口元が弛んでしまう。
夫である自分が言うのもなんだが、ヨンスは本当にいい女になった。
元々、素材がいい上に、最近ではすっかり垢抜け洗練されてしまって、ちょっとお洒落をして街中を歩こうものなら注目の的である。
そして、そんな妻には、今、ピッタリと似合うドレスを着て欲しい。
「プロに任せればいいよ」
「・・・」
「とにかく試着してみて、それから決めればいいさ。まだ時間はたっぷりあるからね」
「ええ、そうですとも」
「お任せ下さいませ」
「・・・」
「そうだ」
ミンチョルは二人の専門家に向かって、真顔で言い放つ。
「事前にも確認したけど、露出し過ぎはNGだよ」「あくまで上品に」
上客の支離滅裂な言い分は手馴れている。
スタイリストは恭(うやうや)しく頭を下げた。
ヨンスは不安だったが、結局、すべてを彼女達に任せた。
自分の希望が通るとは思えなかったし、だいたい着てもいいと思えるようなドレスはそこには見当たらない。
今夜は、夫の、そして夫の会社であるVARIOUSの晴れ舞台なのだから、彼の望むようにするべきだとヨンスは自分に言い聞かせた。
(フルレングスのドレスなんて、着慣れないから・・・)
(みっともなく見えないといいけれど・・・)
夫に恥をかかすことだけは、なんとしても避けたい。
途中、部屋に電話が入った。
「僕も着替えを済ませて、ちょっと会場を覗いてくる」と言い残し、姿を消した夫からだ。
『どう?ドレスは決まった?』
「ええ、結局・・・」
『ストップ』
「・・・?」
『あとの楽しみにとっておくよ』
「あなた・・・」
『支度が出来たら連絡して』『迎えにいくから』
「大丈夫よ・・・」
『ん・・・?』
「お忙しいのでしょう?」「私、独りで行けるわ」
『本当に・・・?』
「子供じゃないのよ?」
『・・・わかった』『じゃあ、下で待ってる』
「うわぁ・・・」
「素敵・・・」
「仕事柄、私どもが手がけてきたモデルや女優は数多(あまた)おりますけれど」
「これほどにお美しい方は、滅多にお目にかかれませんわっ」
「本当に!イ社長はお幸せねぇぇぇ・・・」
「・・・」
鏡の中に映る自分を見て、ヨンスの脳裏を過(よ)ぎった「虚像」という言葉は、歓声で瞬時に掻き消された。
スタイリストもヘアメイクも、業界では有名な存在だ。
顧客リストには女優やモデル、名流婦人が名を連ねる。
かつての得意先のパートナーとあらば、どれだけ高慢で高飛車かと警戒していた二人。
ところが、拍子抜けするほどに大人しく従順で、おまけに常識的な女性が現れた。
しかも、この女性、服飾やヘアメイクの専門家の腕を鳴らすだけの類いまれな容姿とスタイルを兼ね備えている。
二人は、心底、惚れ込んでしまった。
勿論、この先も公私共に関わりを持ちたいという営業上の欲も、見え隠れしているのは否めない。
飛び鳥落とす勢いのVARIOUS社長に愛されているのは一目瞭然だ。
あのハンサムな青年実業家は、この女性の為なら惜しげもなく金を使うだろうというのが、この二人の一致した意見だった。
「それでは・・・」
退(ひ)け時を心得ている二人は、あっという間に全てのものを片付け部屋を出て行った。
ヨンスは、ポツンと取り残されてしまう。
「・・・」
突然、不安になってくる。
(どうしよう・・・)
(大丈夫かしら?)
(みっともなくないかしら・・・?)
突然、部屋の電話がけたたましく鳴った。
ヨンスは飛び上がると、恐る恐る受話器に手を伸ばす。
「も、もしもし・・・」
『僕だ。準備が出来たって連絡が入ったけど』
「・・・」
『・・・どうした?下りておいで』『ホールの脇の控え室に・・・』
「あ、あなたぁ・・・」
『ん・・・?』
「お願い・・・」
『なんだい?』
「迎えに来て・・・」
『すぐ行く』
ヨンスの脚は、やがてガクガクと震えだした。
急に緊張してきてしまったのだ。
靴のヒールは、これまで履いたことのない高さだ。
(私、大丈夫なのかしら・・・?)
このパーティーでは数多くの来客がある。
メインバンクや証券会社、官公庁の幹部クラスも多いと聞いていた。
(もし、粗相をしてしまって、あの人に恥をかかせたらどうしよう・・・?)
「・・・」
ミンチョルは絶句した。
目の前に立つ女性が自分の妻であることは確かなのに、神々しいことこの上ない。
(参ったな・・・)
まるで女神のようなオーラを放っている妻を前に、ただ呆然と立ち尽くす。
(そうだ・・・)
(ヨンスは僕の女神かもしれない・・・)
(僕の・・・)
(幸福の女神)
「・・・行こうか」
ミンチョルは唾を飲み込むと、左肘を折り妻の手を誘った。
「あなた・・・」
「ん・・・?」
「わたし・・・」
小さな声が震えている。
ミンチョルはヨンスを見つめると、優しく微笑んだ。
「凄く綺麗だ」
「・・・」
「とても素敵だよ・・・」
「・・・ほんとう?」
「ああ!」
「大丈夫?」
「・・・なにが?」
「私、変じゃない?」
「・・・あまりに魅力的で、このまま抱き上げてベッドに倒れこもうかと思った」
「もうっ」
少しだけ緊張がほぐれる。
ミンチョルはヨンスの背を撫で、肩にチュッとキスをした。
「これで大丈夫」
「・・・?」
「緊張しないおまじない」
「・・・ありがとう」
「本当はね、唇なんだ」
「え・・・?」
「でも今夜は、君の唇、グロスでキラキラしているからね」
「あ」
「せっかくのプロの仕事を台無しにするのは気が引ける」「我慢するよ」
「・・・あなたったら!」
「さあ、行こう・・・」
ミンチョルは、頬を赤く染めた妻を満足そうに見つめた。
新進気鋭の作曲家や作詞家といった音楽家、アン会長夫妻を始め、銀行・証券会社役員等のVIP、政治家や官僚、選りすぐった業界関係者に加え、自社の役職者を含めた総勢百数十名程度の立食パーティーは異様な熱気に包まれた。
これは、VARIOUSが今や業界のみならず経済界においても注目株であるということを示している。
パーティー会場で、ヨンスはミンチョル以上に注目を浴び、多勢の招待客から挨拶を受けた。
「あら、イ社長のパートナーはモデル?」
「お綺麗よね・・・背が高くて」
「恋人かしら?もしかして奥様?」
「さあ・・・?」
「彼が今、付き合っているオンナってところだろう」
「なんでも、例のVICTORYにいらした方らしいわよ・・・」
「なるほど」
「フフッ・・・倒産した会社の商品に手をつけた、というわけかな?」
誤解をしている者も少なくないようだったが、ヨンスはこの席で初めて、イ・ミンチョル社長のパートナーと認識された。
ミンチョルは、ヨンスを敢えて妻とは紹介しなかった。
立場を公にすると、それだけヨンスに負担がかかるからだ。
彼女は現役の学生だ。
長い闘病生活もあった。
夜な夜な付き合いの席やパーティーにかり出すつもりは毛頭ない。
ただ・・・やはり一度くらいは、華やかな席に同伴したかった。
これは、美しい妻を持つ男の我が儘だ。
一流ホテルのバンケットルーム。
華やかな雰囲気の招待客で賑わうその会場で、ヨンスは圧倒的に美しい。
息を呑むほどの存在感だ。
長い黒髪は柔らかく波打ち、ふんわりと後頭部で纏められ、端整且つ上品な顔立ちはフルメイクで完全に素人離れしている。
どちらかといえば薄化粧の類いではあるが、それでもプロの手にかかると素材の良さが自然と際立ってしまう。
何よりもその立ち姿が美しかった。
顔が小さい上に手足が長く、肌が透き通るように白い。
ハリウッドでも通用するかのようなバランスだ。
まるみを佩びた胸元からウエストの括れに向けてのソワレのラインは、男ならずとも注視せざるをえない妖艶さである。
招待客がモデルと勘違いしても仕方がない。
彼女にだけ、燦燦とスポットライトが当たってように見える。
それは自分だけの思い込みではないはずだ。
なぜなら、その場にいる誰もが彼女の一挙一動に注目していたからだ。
ヨンスは自身の魅力をわかっていない。
行動も当然、いつも通り控えめだ。
決して目立とうとはしない。
しかし、招待客の誰もが畏敬と緊張で遠巻きにするアン会長夫人と、和やかに会話できる気質と度胸を持っている。
夫人が手にした飲み物などに気を配りつつ、周囲への配慮も忘れない。
その奥ゆかしさが、華やかな席では一層、引き立つし、彼女の魅力を倍増させる。
―ひっそりと咲いている、目立たぬ花のような印象の女―
かつては、彼女をそう喩えたものだ。
それが、いつの間にか衆人の注目を集める華やかさと艶やかさを備え、大輪の花を咲かせている。
嬉しくも切ないという不可解な感情を、ミンチョルは持て余していた。
(自分だけのものにして、隠しておきたい・・・)
それが本音だが、今の立場ではそうもいかないのが歯痒い。
「えっ!?」
「あの・・・今、なんて・・・?」
ヨンスの視線は、背の低い女の顔に釘付けとなった。
瓜実顔の細目の女性従業員は眩しそうにヨンスを見上げると、今、口にしたばかりの言葉を抑揚なく繰り返す。
「はぁ、あの、イ・ソンジェ様がキム・ヨンス様に御用がおありとのことで、お言付けがございました」
「それで、あの、当ホテル最上階のラウンジ奥の窓際のお席にてお待ちとのことでございます・・・」