葉隠の里 みつばち通信

佐賀の山里、アルゼンチンの田舎の風景や出来事をお伝えしたいと思っています。

「本日はラッコ状態なり」

2010-07-14 10:20:47 | Weblog
一週間も経つと、先月末の「大漁感覚」が沸々と蘇り、どちらともなく「行こうか」ということになり、天気を見計らって早朝の海へ車を走らせた。

幸い波は穏やかで絶好の釣り日和だった。

しかし、友人が釣り始めたらすぐ入れ食い状態になった前回とは違って、今度はなかなか当りが来なかった。

二時間近くたってぼちぼち釣れ始めて勢いが出てきた頃、「海上生け簀」の養魚に給餌する船がエンジン音を響かせてすぐ近くにやってきた。しかも、今回の給餌時間は長かったためエンジンの音を嫌ったのか、あるいは向こうの餌に引き寄せられたのか、パタッと当りが止んでしまった。

腹立たしいが、向こうは生活がかかった商売だから仕方がない。



あまりに当りがないので、隣のボートの友人は「ラッコ」になってホントに眠ってしまった。



今回は、近所に分けるほどは釣れなかったが、それでも脂の乗った鰺や小型の鯖が釣れた。それで「干物」にしておいたのを泊まりに来た友人たちに出せたので「いい接待」ができたのではないか、と思っている。

自分で育てた野菜や、釣った魚を捌いて料理したり、加工したものでもてなすのは少し質が違うことのように思えたのであるが、一昔前の田舎暮らしはたいていがそういうものであったわけだ。

人や物事との関わり方に「身体性」があった分、それだけ濃い感覚が余韻として残っていたように察せられる。

参院選では民主党は惨敗だったが、実社会での実務や仕事現場での経験がほとんどなく「なんとか政経塾」を出たばかりで議員になった人材や、内外での学歴ばかりがいくつも連なる議員たちには「身体性」が欠けているのではなかろうか?
いろんな意味で「感覚が希薄」なのではないか、と思うが、彼らは弁舌が立つだけに自覚するのが難しいのだろう。

そこに選挙民たる生活人は「偽物性」や「頼りなさ」を嗅ぎ取ったのだ。

「自然に従う1/4農1/4漁、そして半ビジネス」

2010-07-02 16:47:32 | Weblog
携帯電話というものが普及していろいろと便利になったものだ。
海面にボートを浮かべて釣りをする友人に、車上から小さな電話で連絡できるのだから感激だ。また、今日は無料通話のスカイプを使ってアルゼンチンの原君とゆっくり話せた。以前は用件のみを手短に話して素早く切らねばならなかった。国際通話料金は結構高くついていた。それが今では無料だ。情報分野の先進技術には敬意を表さねばなるまい。

前の晩から雨が降っていたので「海での釣りは無理だろう、今回は仕事だけ済ませて帰るしかあるまい」と大方諦めて、ゆっくりと家を出たが、友人からの電話で「朝七時から釣り始めた。釣り始めから鰺が入れ食い状態だ」とのこと。

そいじゃ、やっぱり行かねば。。。

仕事を終えて、友人が釣っている海岸に着いたのはもう昼を過ぎていた。

「おっ、やってるな」

海に浮かんだボートは写真で見ると岸からすぐのように見えるが、ゆうに三百メートルは離れている。



「土谷の棚田」

釣り場へ行く途中に見える「美しい風景」だ。バリ島にも「ツリタガンガ」という千枚田があるが、アジア稲作山間地のいたる所に見られる、自然と人の織りなす造形美である。



小生は午後からボートを浮かべて釣り始めたが、久しぶりによく釣れた。大型の鰺に加えてキスも最大級のが釣れたので満足感も大きかった。

昨年友人に誘われて、106尾釣れたのもこの海だったし、時期も7月上旬だった。途中で少し雨が降ったのも状況が似ていた。
やはり、自然の仕組みに従わなければ原始的な装備ではたいした収穫はできない、ということらしい。

心行くまで海上にいて、もう帰ろうか、という頃には西に陽が沈むころだった。

右手に海を見ながら走らせる車を止めて美しい夕日に感動。

乗田画伯の言葉のように「一日一生」に感謝。