はじめに 中国の服飾文化
中国は悠久の歴史をもつ多民族の文明国である。そしてその発展と変革を最も直観的に感じさせるものは、おそらく「服飾文化」であろう。数千年の間、デザイナーたちは一代また一代と自分たちの創造力を武器に、かねてから「服装の王国」と称えられてきた中国の服飾に心血と知恵を注ぎ、元々体を隠すことを目的としていたこれまでの服装を、中華文化を構成する一つの重要な部分にまで昇華させ、この文化の独特な魅力を世界の人々にも広めている。(「チャイナ服・中華服飾の歴史とあゆみ」より)
伝統衣装の漢服
漢服とは、漢民族の伝統的民族的服飾のことで、また漢装、華服とも言う。主に17世紀中葉以前の漢民族の民族文化を基礎に形成された民族の特徴をもった服装飾体系、すなわち明末清初以前の漢民族が着ていた、漢民族の風格が濃厚で、代々伝えられてきた民族服飾を総称して言う。
約5千年前中国の新石器時代、仰韶文化の頃に農業と紡績業が始まった。麻で衣服が作られるようになった。その後、蚕を飼い絹糸を取ることを知るようになり、人々の衣冠服飾も日々整っていった。黄帝時代に冕冠(冠)が現れ、服飾制度が次第に形成されていった。夏殷以降、冠服制度が確立され、西周の時に完成された。周後期、政治、経済、思想文化は急激に変化し、特に百家争鳴で服飾について論議が尽くされ、その影響は諸国の衣冠服飾や風俗習慣にも及んだ。冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑になっていった。
漢服の変化
漢民族のこの服飾制度は周から明代に至るまで、三千年来漢人の服装の基本的特徴には大きな変化はない。三百年ばかり前の清初、この服飾制度は崩壊する。清朝の統治者は明との戦争中、漢人の民族としての連帯感を弱めるため、また中国統一のため、1644年、明朝滅亡後に満州族の髪型と満州族の服装を強制し、漢民族の服飾を身に付けることを禁止した。史上名高い剃髪易服(髪を剃り、服を替える)である。これにより漢服は次第に消滅させられた。今日の旗袍、長衫、馬褂はいずれも満州族の民族衣装を改良し発展させたものである。
辛亥革命で満州貴族の統治を倒した後、人々の思想は西洋化に向かい、西洋風の服装に変わり、漢服の回復はなかった。しかし21世紀初めになり、中国の国力が発展するに従い、人々の目は自国の伝統文化の優秀な面に関心を寄せるようになった。一部の人は、伝統的漢服の復興を呼びかけ、率先して漢服を着て普及運動を始めている。これらの漢服復興運動に対して、一般社会からは様々な意見が出されている。
漢服の特徴
漢服の主な特徴は、襟があり、襟に続くおくみ(衽)、ボタンを使わず、帯で締めることにある。見るものに、ゆったりとして飄逸な感じを与えた。これらの特徴は、他の民族の服装とは明らかに違うものだ。漢服には礼服と普段着の別がある。形の上から見ると、主に上衣下裳(上は襟のある上着、下は裳というスカート状の下衣、衣裳はここから出来た言葉)、深衣(着丈の長い、裾の広がったゆったりした衣服)、褥裙(短い上着とスカート)などの形があった。このうち、上衣下裳に冠をかぶるスタイルは帝王や百官の厳粛で正式な時に着る礼服で、袍服(深衣)は百官、知識人達の普段着、褥裙は女性が好んで着た。一般の下層の人々は上は短い上着、下は長いズボンだった。(フリー百科辞典「Wikipedia」より)
「弁服」「長袍」「深衣」
中国の服装の基本には、「弁服」「長袍」「深衣」の3種類がある。こうした三種類の服装に共通する特徴は、長衣がゆったりしていること、袖が大きいこと、直線の組み合わせによる構成。生地がたっぷり使われているので、垂れ下がったり腰紐で束ねられたりすることで自然に作り出される美しい装いも大きな特徴である。服の基本構造がシンプルだからこそ刺繍や別布で縁どりする、絹織物を羽織る、肩掛けをまとう、腰を飾るなど、着こなしが工夫された。そして、袖や襟への縁どりやさまざまな刺繍は中国服飾の特色の一つとなり、その美しさを花咲かせたのである。
旗袍
チャイナドレス(旗袍)は、満州民族の民族服が元に成っている中国風のドレス。現在着られているチャイナドレスは中華民国時代に旧来の旗袍のデコレーションを洋服に適用したもので、いわゆる伝統的な民族衣装とは言いがたい。また、深いスリットやボディラインを強調した一部のデザインは実際の中国または華僑社会の女性の日常服に採用されたことはない。(フリー百科辞典「Wikipedia」より)
旗袍の由来
旗袍(チーパオ):チーパオの「チー」は満州族のことを指し、17世紀に満州族の軍隊、政府組織を意味している。「パオ」は長い衣服の意味である。
清朝時代の服装はその地位によりデザイン、刺繍柄などが全て細かく決められており、個人の好みは完全に排除された。多くの規制によりファッション的な自由度、価値はほとんど見出すことが出来ず、清朝の滅亡とともに、当時の服装の規制、習慣も終焉の時を向かえた。(「時代と共に移り変わる旗袍の歴史」より)
旗袍の変遷
女性にとって清朝の滅亡、そして中華民国誕生による最も大きな変化は纏足(てんそく)の法律による禁止で、漢の時代から続いていた女性の足を布できつく縛り、小さいままに留めておくという習慣がほぼなくなった。それでも中国農村部も含めて完全にその習慣がなくなるまでは20世紀半ばまでかかって、中国女性の新しい時代が始まった。中華民国時代には新文化運動の影響で徐々に新しいスタイルの旗袍が現れるようになってきた。民国時代初期の旗袍は体の線を強調せずゆったりとしたラインで広い袖、右開き(右大襟)のデザインが主流であった。この時代のチャイナドレスはまだズボンを一緒に着用するのが一般的であった。旗袍の丈、ズボン丈も服装の規制が緩和されたことにより、以前よりも短めのものを着用できるようになった。(「時代と共に移り変わる旗袍の歴史」より)
中山装
「中山装」は中国民主主義革命の先駆者、孫中山(孫文)によって考案された。革命家として中共、台湾の両方から崇拝されている孫中山はその生涯のうち、のべ約10年を日本で過ごした。その間孫中山は日本の学生装を愛用し、常に襟の立った7つボタンの服装を着用していた。「中山」とは孫文が日本滞在中に、日比谷公園近くにある中山忠能公爵(明治天皇のご生母)邸の前を通りかかったとき、その表札を見て自らの名前を「中山」と号するようになったと言われている。辛亥革命を行なって大総統に就任した孫中山は政府に日本学生装と西洋の軍服を参考にしてデザインした中山装の着用を制度化した。ボタンの数は7つから5つに、また襟の形も変更され、今の中山装が一般的なデザインとして定着した。
人民服
人民服はかつて中華人民共和国の国民服ともいうべきものであった。1980年代はじめまでは、中国の成人男性のほとんど全てが着用しており、女性にも多く着られていたが、現在ではほとんど過去のものとなっており、現在の中国で人民服を手に入れることは難しいといわれる。原型は孫文(孫中山)がデザインしたという中山服で、折り襟、2つの胸ポケットに2つの裾ポケットをもった(無いものもある)前開き5つボタンの上衣と、ズボンでセットになっている。頭には前つば付き帽子、所謂人民帽と呼ばれる帽子をかぶる。色はカーキ、紺、青、濃緑など様々であるが、いずれも無地である。人民服は北朝鮮、ベトナムなどの周辺国々の服装にも大きな影響を与えた。(「Wikipedia」より)
中国服飾の影響
衣装の歴史はそれを取り囲む社会や政治、文化の歴史と重なり合っているため、時代や流行によって装いも大きく変化する。また衣装に関する美意識の変容は、異文化の影響によるものも多い。服飾史の検証は必然的に異民族の交差という問題に直面する。明治以前の東アジアや東南アジアの一部の地域は、長く中国を中心とした儒教的価値観に支配されてきた。当然ながら中国の服飾文化もその重要な要素のひとつとなっている。日本や朝鮮半島の衣装が、有史以前から中国の影響下に置かれていたことは長年数多くの出土品の発見や文献資料の調査研究の成果によって明らかであり、日本の服飾の歴史的位置付けを明示するためには、中国服飾史との比較研究を進めなくてはならないし、さらにヨーロッパを中心とする西洋服飾史においても、中国服飾文化との歴史的交流、チャイナドレスのルーツと思われる北方遊牧民族の胡服系統との影響関係にも無関心ではいられないだろう。 (「衣装文化で読む中国」より)
中国の建築
古代建築の概況
建築は「凝っている音楽」とも呼ばれ、人類文明の重要な役割を担っている。中国の古代建築は漢族の木造建築を主として、少数民族の素晴らしい建築も含んでいる。これらの古代建築は中国伝統文化から生れ、発展、成熟し、紀元2世紀から紀元19世紀の半ば頃まで、閉鎖的かつ独立した体系を形成していた。また、高い審美価値と工芸レベルを持ち、奥深さを持っている。中国の古代建築芸術は世界でも歴史が最も長く、地域分布が最も広く、風格が非常にはっきりとした独特の体系である。日本、朝鮮、ベトナムの古代建築に直接影響を与え、17世紀以後はヨーロッパの建築にも影響を及ぼしている。
中国は領土が幅広く、民族が多いため、中国の古代人は異なる自然、地理条件に合わせ、異なる構造方式や芸術風格の古代建築を築き上げた。中国北方の黄河流域では、古人は木材と黄土で家屋を造り、南方では、建築材料は土と木のほか、竹や芦なども使われている。一部の地方では、古代人は湿気を防ぎ、空気の流れをよくするため、家屋の下層部には欄干式構造を採っている。其のほか、山岳地帯に住んでいる中国の古代人は石や木などで井戸式の建築を造った。(中国国際放送局より)
三つの発展ピーク
中国の古代建築は三つの発展ピークを経た。それは秦と漢の時期、隋と唐の時期、明と清の時期である。これら三つの時期は中国建築発展史上で大量の代表作を有している。例えば、宮殿や陵墓、都、防御工事などが挙げられる。また、建築様式や材料の選択などの面でも、後世に影響を与えている。そのうち、秦朝に建てられた秦の始皇帝陵と万里の長城、隋代の趙州橋、明清の帝王宮殿紫禁城などは現在までも、世界の人々に中国古代建築の独特な魅力を与えている。
しかし、月日を経るに従い、雨や風の侵蝕や戦火などにより、一部長い歴史の古代建築は姿を消した。現在残されている中国の古代建築はほとんど唐代(紀元7世紀)以後のものになる。
唐代の建築
唐代(紀元618-907)は中国封建社会の経済文化の発展期にあたる。この時期の建築技術や芸術が大きな進展を遂げた。唐代建築の特徴は、勢いがあり、雄大なものだった。唐代建築の規模は大きく、規制は厳密で、中国建築群の全体的な規制はこの時期に日増しに増えていきた。唐代の都である長安(現在の西安)と東都である洛陽では、規模が膨大な宮殿、庭園、官署が造られ、建築配置も更に模範的かつ合理的になった。長安はその時代、世界で最も雄大な都市で、その規制は中国古代都市のうち、最も雄大でした。長安城内の帝王宮殿である大明宮は極めて雄大で、その遺跡範囲は明代と清代の故宮である紫禁城の総面積より3倍以上も大きいものである。
唐建築の特徴
唐代の木造建築は芸術加工や造形の統一を実現し、斗拱、柱、梁などの建築部は力強さと美しさを完璧に結合させている。唐代建築は素朴かつ穏やかで、色調もシンプルかつ鮮やかである。山西省五台山の仏光寺は典型的な唐代建築でこれらの特徴を表している。
其のほか、唐代の煉瓦建築も一層発展した。仏塔はほとんどが煉瓦と石で造られ、西安の大雁塔、小雁塔、大理の千尋塔など中国現存の唐代の塔はすべて煉瓦と石で造られたものである。
明代の建築
明代(1368―1644)の建築様式はほとんど宋代の伝統に従い、著しい変化は少なかったようである。しかし、建築の設計と企画はスケールが大きくなり、雄大であることが主な特徴と言えるだろう。明代の都市規制と宮殿建築はすべて後世に使われている。都の北京と中国で現存し、規模の最も大きい古い都である南京はこの時期の都市規制と経営に恵まれている。明代の北京城は元の基礎に基づいて改築され、外城、内城と皇城の三つからなっていた。
万里の長城
明代は引き続き雄大な防御建築――万里の長城の修築に力を入れていた。長城の多くの重要な区切りのある城壁、関所は煉瓦で作られ、高い建築レベルに達している。明代の長城は東は鴨緑江から、西は甘粛省の嘉峪関まで、5660キロの長さに達した。山海関、嘉峪関など有名な城楼は中国の建築芸術で独特な風格を持つ傑作である。北京の八達嶺長城、司馬台長城なども高い芸術価値を有している。
清代の建築
清代(1616-1911)の建築は大体明代の伝統に従って発展し、革新され、更に華麗な風格を追求していた。清代の都である北京は明代の風貌をほとんどそのまま保っていた。都は20の城門があり、そのうち、内城の正陽門が一番立派だった。また、清代の帝王は明代の宮殿をそのまま使い、大規模な皇室庭園を作った。これらの庭園建築は清代建築の傑作と言われ、その中には、華麗な園明園と颐和園が含まれている。また、清代末期、中国では一部東西文化の調和した新しい建築様式が出てきた。
宮殿建築
宮殿建築は宮廷建築とも言う。宮殿は皇帝が自分の統治を強化し、皇帝の権利と権威を強め、精神生活と物質生活を満足させるため造ったスケールの大きい建物である。これらの建物の多くはゴージャスで、立派に見立てている。
建築から見る等級観念
皇帝の権利が無上である思想を示し、皇帝の権利を核心とする等級観念を表わすため、中国古代の宮殿建築は厳格な中軸対称の配置方式を採っている。中軸線の上に聳え立つ建築はスケールが大きく、華麗で、これに対し、中軸線の両側に並んでいる建物は比較的低く、シンプルである。中国の礼儀思想には祖先を尊敬し、親孝行を提唱し、五穀を重んじ、土地の神を祭るなどの内容が含まれている。中国の宮殿建築は通常、左前は祖廟(太廟とも言う)で、祖先を祭る場所である。また右前は社稷壇で、土地の神と食糧の神(社は土地、稷は食糧)を祭る場所である。このような建築様式は『左祖先に右社稷』とも言う。また、古代の宮殿建築は二つの部分に分けられる。即ち『前朝後寝』である。『前朝』は帝王が執政する場所や、式典を行う場所で、『後寝』は皇帝や皇后、妃らの住む場所である。
寺院建築
寺院は中国の仏教建築の一つである。中国の寺院建築はインドの寺院建築が起源で、北魏の時代から中国で盛んになってきた。これらの建築は中国の文化発展と宗教の盛衰を表わし、重要な歴史価値と芸術価値を持っている。中国の古人は建築様式に対し、深い陰陽宇宙観や、対称、秩序、安定を求める審美心理を持っていた。中国の寺院建築は中国独特の祖先と天地を祭っており、平面の南北中軸配置を採り、対称式で安定感を求める建築群となっている。其のほか、庭園式の寺院は中国でよく見られるものだ。この二種類の建築様式から見れば、中国の寺院建築が厳格な寺院の雰囲気を求める一方、自然の趣に富み、奥深さを追求していることが分かる。
寺院の構造的特徴
中国古代の寺院はほとんど正面の中路は山門で、山門の内側に左右それぞれ鐘楼と鼓楼が配置されている。そして、正面は天王殿で、中には四天王の仏像が祭られている。その後ろは大雄宝殿と蔵経楼で、左右両側には僧舎、斎堂がある。大雄宝殿は寺院の中で最も重要で、最も雄大な建築である。『大雄』と言うのは、即ちお釈迦様のことを指す。隋代と唐代以前の寺院は一般的に寺院の前か境内の中心部に仏塔を造る習慣があったものの、隋代と唐代以後、仏殿は仏塔に代り、寺院の内部でまた塔院を建てている。
庭園建築
中国の庭園建築は悠久な歴史を持っており、世界庭園史上でもその名を知られている。凡そ3000年前の周の時代、中国で最初の庭園が出てきた。その後、都と地方の有名な都市では庭園建築の修造が絶え間なく続いた。都市部の庭園建築は豊富多彩で、世界の三大庭園体系にランクされ、著しい地位を占めている。
山水を重んじる中国の庭園建築は風格が独特で、変化にとんだ配置で、人工の美と自然の美がバランス良く調和し、一体となり、素晴らしい効果をもたらしている。これらの庭園建築は自然の美を源とし、自然を強調し、建物を山水の自然環境に取り込み、自然の美しさを更に高いレベルに取り入れている。
庭園建築の巧み
中国の庭園建築は雄大な皇室庭園と巧みな個人庭園からなっている。これらの建築は山水などの地形、花、草、樹、木、亭、台、回廊、橋、対句、横額などに合わせ、精美に装飾されている。山、石、水などの生き生きとした趣を生かしている。中国庭園をおおざっぱに分けると、治世境地、神仙境地と自然境地の三種類に分けられる。
中国庭園と西洋庭園の違いと言えば,西洋庭園は幾何数学の原則を表わし、建築そのものを重んじている。これに対し、中国庭園は自然景観への観賞者の感覚を重んじ、天人統一を追求している。
中国現代建築
中国の現代建築とは19世紀半ば以来の中国建築を指す。1840年阿片戦争が勃発してから1949年新中国が成立するまでの間、中国建築は東西の風格を融合させ、多様な特徴を見せている。この時期、伝統的な中国旧建築体系は依然として数の上では優位を占めていた。しかし、劇場、酒屋、旅館などの娯楽業、サービス業における建築や、デパート、市場などの商業建築はほとんど伝統的な建築様式を取り入れず、人々のコミュニケーションの空間として、中国と西洋結合の建築様式が取り入れられた。西洋建築の風格も中国の建築に現れ、上海、天津、青島、ハルビンなどの租界では、外国の領事館、商店、銀行、レストラン、クラブなどの外来建築がどんどん出てきた。この時期に近代の民族建築も現れ、これらの民族建築は新しい機能、新しい技術と民族風格をよりよく統一させている。
中華人民共和国の建築
1949年中華人民共和国が成立してから、中国建築は新たな歴史時期に入り、大規模で、計画的な国民経済建設は建築業の速やかな発展を促した。中国現代建築は数量、規模、類型、地域分布及び現代的レベルにおいて局限を突破し、新しい発展をみせた。前世紀80年代以来、中国建築は徐々に開放し、更に多様な発展趨勢を見せている。
中国の住民建築
中国各地の住宅建築は住民建築とも呼ばれている。住民建築は最も基本的な建築類型であり、最も早い時期に建てられ、多くの地域に広がり、数もとても多いである。中国各地の自然環境やそこに住む人間などの違いによって、各地の住民建築も多様に変化している。
四合院
中国の漢民族地域では、伝統的な住民建築の主流は決まった形式の住宅である。中枢対称式の配置を採った北京の四合院はその典型的な代表といえる。北京の四合院は前後二つの建物に分けられている。真中の正房は威厳ある場とされており、家庭内の式典などを行なう時や、来客に会う場合に利用されている。四合院のすべての部屋は庭に面しており、回廊で繋がっている。北京の四合院は中国古いの観念や家庭制度などが住宅建築に現れたものである。庭は広く、落ち着きをもたらす。また、花木が植えられ、理想的な屋外の生活空間ともなっている。また、華北や東北地区の住民建築もほとんどこのような広い庭園式になっている。
土楼
土楼は中国南部福建省南西部の客家人の集中住まいであり、「客家土楼」とも呼ばれる。土楼の形は円形、半円形、長方形など数種類ある。円形土楼は客家の人々が自らの住宅を保護するために建てた封鎖的な土木構造の環状建築であり、三階建てのものが多い。外側の塀は厚さ1メートル、環状の中心部は井戸を掘り、出入り口の正門は1つだけ、1階は台所と食堂で窓はなく、2階は穀物や農具などの倉庫、3階は寝室である。
弄堂
上海は19世紀初期から発展してきた国際大都市で、各国の建築物が上海で見られる。しかし、上海の庶民達の居住生活は「弄堂」が基本である。狭い通路に、石畳で作った一階また二階建ての建物が横並び、多数上海人は「弄堂」で人生を過ごし、多彩な「弄堂文化」作り上げた。夏になると、暑苦しいの部屋から逃れるために、納涼人が座椅子を家から出し、部屋の前の狭い通路に置き、近所の人達とお喋り、若者がトランプ、将棋をやり、女性はひまわり種を食べながら子供を寝かす。一番楽しいのは子供たち、「弄堂」でわいわいはしゃぎ、ピン玉を打ったり、紙ゲームをやったり、楽しい時を過ごす。「弄堂」には家庭の中にない雰囲気があふれ、家庭にはない人生の楽しさを味わえる。
終わりに 新建築「10大奇跡」
中国の建築の現状は、2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博というインターナショナルなイベントを控え、華やかな国際コンペ、建設ラッシュが続いている反面、こうした国家級のプロジェクトが世界の著名建築家の実験場(じっけんじょう)と化しているというのも事実である。
中国の建築デザインに対する海外メディアの注目が最近、これまでになく高まっている。2005年12月23日付けの米誌「ビジネスウィーク」は、中国の最近の建築物から10件を掲載し、「10大奇跡」と評価した。選ばれたのはそれぞれ、北京五輪メーンスタジアムの国家体育場、国家水泳センター、北京首都国際空港、上海世界金融センター、国家大劇院、中央電視台(中央テレビ、CCTV)、上海崇明東灘生態城、当代MOMA(北京)、長城脚下の公社(コンドミニアム型宿泊施設)、東海大橋(上海)。うち北京の建築は7件。 (「人民網日本語版」2006年2月21日報道より)
思考問題
1、 着物から見た日中交流の歴史
2、 中山装から見た近代中国歴史
3、 「漢服」、「唐装」の復旧についてコメントしなさい
4、 古代中国の建築は日本の伝統建築にどんな影響を与えたについて述べなさい
中国は悠久の歴史をもつ多民族の文明国である。そしてその発展と変革を最も直観的に感じさせるものは、おそらく「服飾文化」であろう。数千年の間、デザイナーたちは一代また一代と自分たちの創造力を武器に、かねてから「服装の王国」と称えられてきた中国の服飾に心血と知恵を注ぎ、元々体を隠すことを目的としていたこれまでの服装を、中華文化を構成する一つの重要な部分にまで昇華させ、この文化の独特な魅力を世界の人々にも広めている。(「チャイナ服・中華服飾の歴史とあゆみ」より)
伝統衣装の漢服
漢服とは、漢民族の伝統的民族的服飾のことで、また漢装、華服とも言う。主に17世紀中葉以前の漢民族の民族文化を基礎に形成された民族の特徴をもった服装飾体系、すなわち明末清初以前の漢民族が着ていた、漢民族の風格が濃厚で、代々伝えられてきた民族服飾を総称して言う。
約5千年前中国の新石器時代、仰韶文化の頃に農業と紡績業が始まった。麻で衣服が作られるようになった。その後、蚕を飼い絹糸を取ることを知るようになり、人々の衣冠服飾も日々整っていった。黄帝時代に冕冠(冠)が現れ、服飾制度が次第に形成されていった。夏殷以降、冠服制度が確立され、西周の時に完成された。周後期、政治、経済、思想文化は急激に変化し、特に百家争鳴で服飾について論議が尽くされ、その影響は諸国の衣冠服飾や風俗習慣にも及んだ。冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑になっていった。
漢服の変化
漢民族のこの服飾制度は周から明代に至るまで、三千年来漢人の服装の基本的特徴には大きな変化はない。三百年ばかり前の清初、この服飾制度は崩壊する。清朝の統治者は明との戦争中、漢人の民族としての連帯感を弱めるため、また中国統一のため、1644年、明朝滅亡後に満州族の髪型と満州族の服装を強制し、漢民族の服飾を身に付けることを禁止した。史上名高い剃髪易服(髪を剃り、服を替える)である。これにより漢服は次第に消滅させられた。今日の旗袍、長衫、馬褂はいずれも満州族の民族衣装を改良し発展させたものである。
辛亥革命で満州貴族の統治を倒した後、人々の思想は西洋化に向かい、西洋風の服装に変わり、漢服の回復はなかった。しかし21世紀初めになり、中国の国力が発展するに従い、人々の目は自国の伝統文化の優秀な面に関心を寄せるようになった。一部の人は、伝統的漢服の復興を呼びかけ、率先して漢服を着て普及運動を始めている。これらの漢服復興運動に対して、一般社会からは様々な意見が出されている。
漢服の特徴
漢服の主な特徴は、襟があり、襟に続くおくみ(衽)、ボタンを使わず、帯で締めることにある。見るものに、ゆったりとして飄逸な感じを与えた。これらの特徴は、他の民族の服装とは明らかに違うものだ。漢服には礼服と普段着の別がある。形の上から見ると、主に上衣下裳(上は襟のある上着、下は裳というスカート状の下衣、衣裳はここから出来た言葉)、深衣(着丈の長い、裾の広がったゆったりした衣服)、褥裙(短い上着とスカート)などの形があった。このうち、上衣下裳に冠をかぶるスタイルは帝王や百官の厳粛で正式な時に着る礼服で、袍服(深衣)は百官、知識人達の普段着、褥裙は女性が好んで着た。一般の下層の人々は上は短い上着、下は長いズボンだった。(フリー百科辞典「Wikipedia」より)
「弁服」「長袍」「深衣」
中国の服装の基本には、「弁服」「長袍」「深衣」の3種類がある。こうした三種類の服装に共通する特徴は、長衣がゆったりしていること、袖が大きいこと、直線の組み合わせによる構成。生地がたっぷり使われているので、垂れ下がったり腰紐で束ねられたりすることで自然に作り出される美しい装いも大きな特徴である。服の基本構造がシンプルだからこそ刺繍や別布で縁どりする、絹織物を羽織る、肩掛けをまとう、腰を飾るなど、着こなしが工夫された。そして、袖や襟への縁どりやさまざまな刺繍は中国服飾の特色の一つとなり、その美しさを花咲かせたのである。
旗袍
チャイナドレス(旗袍)は、満州民族の民族服が元に成っている中国風のドレス。現在着られているチャイナドレスは中華民国時代に旧来の旗袍のデコレーションを洋服に適用したもので、いわゆる伝統的な民族衣装とは言いがたい。また、深いスリットやボディラインを強調した一部のデザインは実際の中国または華僑社会の女性の日常服に採用されたことはない。(フリー百科辞典「Wikipedia」より)
旗袍の由来
旗袍(チーパオ):チーパオの「チー」は満州族のことを指し、17世紀に満州族の軍隊、政府組織を意味している。「パオ」は長い衣服の意味である。
清朝時代の服装はその地位によりデザイン、刺繍柄などが全て細かく決められており、個人の好みは完全に排除された。多くの規制によりファッション的な自由度、価値はほとんど見出すことが出来ず、清朝の滅亡とともに、当時の服装の規制、習慣も終焉の時を向かえた。(「時代と共に移り変わる旗袍の歴史」より)
旗袍の変遷
女性にとって清朝の滅亡、そして中華民国誕生による最も大きな変化は纏足(てんそく)の法律による禁止で、漢の時代から続いていた女性の足を布できつく縛り、小さいままに留めておくという習慣がほぼなくなった。それでも中国農村部も含めて完全にその習慣がなくなるまでは20世紀半ばまでかかって、中国女性の新しい時代が始まった。中華民国時代には新文化運動の影響で徐々に新しいスタイルの旗袍が現れるようになってきた。民国時代初期の旗袍は体の線を強調せずゆったりとしたラインで広い袖、右開き(右大襟)のデザインが主流であった。この時代のチャイナドレスはまだズボンを一緒に着用するのが一般的であった。旗袍の丈、ズボン丈も服装の規制が緩和されたことにより、以前よりも短めのものを着用できるようになった。(「時代と共に移り変わる旗袍の歴史」より)
中山装
「中山装」は中国民主主義革命の先駆者、孫中山(孫文)によって考案された。革命家として中共、台湾の両方から崇拝されている孫中山はその生涯のうち、のべ約10年を日本で過ごした。その間孫中山は日本の学生装を愛用し、常に襟の立った7つボタンの服装を着用していた。「中山」とは孫文が日本滞在中に、日比谷公園近くにある中山忠能公爵(明治天皇のご生母)邸の前を通りかかったとき、その表札を見て自らの名前を「中山」と号するようになったと言われている。辛亥革命を行なって大総統に就任した孫中山は政府に日本学生装と西洋の軍服を参考にしてデザインした中山装の着用を制度化した。ボタンの数は7つから5つに、また襟の形も変更され、今の中山装が一般的なデザインとして定着した。
人民服
人民服はかつて中華人民共和国の国民服ともいうべきものであった。1980年代はじめまでは、中国の成人男性のほとんど全てが着用しており、女性にも多く着られていたが、現在ではほとんど過去のものとなっており、現在の中国で人民服を手に入れることは難しいといわれる。原型は孫文(孫中山)がデザインしたという中山服で、折り襟、2つの胸ポケットに2つの裾ポケットをもった(無いものもある)前開き5つボタンの上衣と、ズボンでセットになっている。頭には前つば付き帽子、所謂人民帽と呼ばれる帽子をかぶる。色はカーキ、紺、青、濃緑など様々であるが、いずれも無地である。人民服は北朝鮮、ベトナムなどの周辺国々の服装にも大きな影響を与えた。(「Wikipedia」より)
中国服飾の影響
衣装の歴史はそれを取り囲む社会や政治、文化の歴史と重なり合っているため、時代や流行によって装いも大きく変化する。また衣装に関する美意識の変容は、異文化の影響によるものも多い。服飾史の検証は必然的に異民族の交差という問題に直面する。明治以前の東アジアや東南アジアの一部の地域は、長く中国を中心とした儒教的価値観に支配されてきた。当然ながら中国の服飾文化もその重要な要素のひとつとなっている。日本や朝鮮半島の衣装が、有史以前から中国の影響下に置かれていたことは長年数多くの出土品の発見や文献資料の調査研究の成果によって明らかであり、日本の服飾の歴史的位置付けを明示するためには、中国服飾史との比較研究を進めなくてはならないし、さらにヨーロッパを中心とする西洋服飾史においても、中国服飾文化との歴史的交流、チャイナドレスのルーツと思われる北方遊牧民族の胡服系統との影響関係にも無関心ではいられないだろう。 (「衣装文化で読む中国」より)
中国の建築
古代建築の概況
建築は「凝っている音楽」とも呼ばれ、人類文明の重要な役割を担っている。中国の古代建築は漢族の木造建築を主として、少数民族の素晴らしい建築も含んでいる。これらの古代建築は中国伝統文化から生れ、発展、成熟し、紀元2世紀から紀元19世紀の半ば頃まで、閉鎖的かつ独立した体系を形成していた。また、高い審美価値と工芸レベルを持ち、奥深さを持っている。中国の古代建築芸術は世界でも歴史が最も長く、地域分布が最も広く、風格が非常にはっきりとした独特の体系である。日本、朝鮮、ベトナムの古代建築に直接影響を与え、17世紀以後はヨーロッパの建築にも影響を及ぼしている。
中国は領土が幅広く、民族が多いため、中国の古代人は異なる自然、地理条件に合わせ、異なる構造方式や芸術風格の古代建築を築き上げた。中国北方の黄河流域では、古人は木材と黄土で家屋を造り、南方では、建築材料は土と木のほか、竹や芦なども使われている。一部の地方では、古代人は湿気を防ぎ、空気の流れをよくするため、家屋の下層部には欄干式構造を採っている。其のほか、山岳地帯に住んでいる中国の古代人は石や木などで井戸式の建築を造った。(中国国際放送局より)
三つの発展ピーク
中国の古代建築は三つの発展ピークを経た。それは秦と漢の時期、隋と唐の時期、明と清の時期である。これら三つの時期は中国建築発展史上で大量の代表作を有している。例えば、宮殿や陵墓、都、防御工事などが挙げられる。また、建築様式や材料の選択などの面でも、後世に影響を与えている。そのうち、秦朝に建てられた秦の始皇帝陵と万里の長城、隋代の趙州橋、明清の帝王宮殿紫禁城などは現在までも、世界の人々に中国古代建築の独特な魅力を与えている。
しかし、月日を経るに従い、雨や風の侵蝕や戦火などにより、一部長い歴史の古代建築は姿を消した。現在残されている中国の古代建築はほとんど唐代(紀元7世紀)以後のものになる。
唐代の建築
唐代(紀元618-907)は中国封建社会の経済文化の発展期にあたる。この時期の建築技術や芸術が大きな進展を遂げた。唐代建築の特徴は、勢いがあり、雄大なものだった。唐代建築の規模は大きく、規制は厳密で、中国建築群の全体的な規制はこの時期に日増しに増えていきた。唐代の都である長安(現在の西安)と東都である洛陽では、規模が膨大な宮殿、庭園、官署が造られ、建築配置も更に模範的かつ合理的になった。長安はその時代、世界で最も雄大な都市で、その規制は中国古代都市のうち、最も雄大でした。長安城内の帝王宮殿である大明宮は極めて雄大で、その遺跡範囲は明代と清代の故宮である紫禁城の総面積より3倍以上も大きいものである。
唐建築の特徴
唐代の木造建築は芸術加工や造形の統一を実現し、斗拱、柱、梁などの建築部は力強さと美しさを完璧に結合させている。唐代建築は素朴かつ穏やかで、色調もシンプルかつ鮮やかである。山西省五台山の仏光寺は典型的な唐代建築でこれらの特徴を表している。
其のほか、唐代の煉瓦建築も一層発展した。仏塔はほとんどが煉瓦と石で造られ、西安の大雁塔、小雁塔、大理の千尋塔など中国現存の唐代の塔はすべて煉瓦と石で造られたものである。
明代の建築
明代(1368―1644)の建築様式はほとんど宋代の伝統に従い、著しい変化は少なかったようである。しかし、建築の設計と企画はスケールが大きくなり、雄大であることが主な特徴と言えるだろう。明代の都市規制と宮殿建築はすべて後世に使われている。都の北京と中国で現存し、規模の最も大きい古い都である南京はこの時期の都市規制と経営に恵まれている。明代の北京城は元の基礎に基づいて改築され、外城、内城と皇城の三つからなっていた。
万里の長城
明代は引き続き雄大な防御建築――万里の長城の修築に力を入れていた。長城の多くの重要な区切りのある城壁、関所は煉瓦で作られ、高い建築レベルに達している。明代の長城は東は鴨緑江から、西は甘粛省の嘉峪関まで、5660キロの長さに達した。山海関、嘉峪関など有名な城楼は中国の建築芸術で独特な風格を持つ傑作である。北京の八達嶺長城、司馬台長城なども高い芸術価値を有している。
清代の建築
清代(1616-1911)の建築は大体明代の伝統に従って発展し、革新され、更に華麗な風格を追求していた。清代の都である北京は明代の風貌をほとんどそのまま保っていた。都は20の城門があり、そのうち、内城の正陽門が一番立派だった。また、清代の帝王は明代の宮殿をそのまま使い、大規模な皇室庭園を作った。これらの庭園建築は清代建築の傑作と言われ、その中には、華麗な園明園と颐和園が含まれている。また、清代末期、中国では一部東西文化の調和した新しい建築様式が出てきた。
宮殿建築
宮殿建築は宮廷建築とも言う。宮殿は皇帝が自分の統治を強化し、皇帝の権利と権威を強め、精神生活と物質生活を満足させるため造ったスケールの大きい建物である。これらの建物の多くはゴージャスで、立派に見立てている。
建築から見る等級観念
皇帝の権利が無上である思想を示し、皇帝の権利を核心とする等級観念を表わすため、中国古代の宮殿建築は厳格な中軸対称の配置方式を採っている。中軸線の上に聳え立つ建築はスケールが大きく、華麗で、これに対し、中軸線の両側に並んでいる建物は比較的低く、シンプルである。中国の礼儀思想には祖先を尊敬し、親孝行を提唱し、五穀を重んじ、土地の神を祭るなどの内容が含まれている。中国の宮殿建築は通常、左前は祖廟(太廟とも言う)で、祖先を祭る場所である。また右前は社稷壇で、土地の神と食糧の神(社は土地、稷は食糧)を祭る場所である。このような建築様式は『左祖先に右社稷』とも言う。また、古代の宮殿建築は二つの部分に分けられる。即ち『前朝後寝』である。『前朝』は帝王が執政する場所や、式典を行う場所で、『後寝』は皇帝や皇后、妃らの住む場所である。
寺院建築
寺院は中国の仏教建築の一つである。中国の寺院建築はインドの寺院建築が起源で、北魏の時代から中国で盛んになってきた。これらの建築は中国の文化発展と宗教の盛衰を表わし、重要な歴史価値と芸術価値を持っている。中国の古人は建築様式に対し、深い陰陽宇宙観や、対称、秩序、安定を求める審美心理を持っていた。中国の寺院建築は中国独特の祖先と天地を祭っており、平面の南北中軸配置を採り、対称式で安定感を求める建築群となっている。其のほか、庭園式の寺院は中国でよく見られるものだ。この二種類の建築様式から見れば、中国の寺院建築が厳格な寺院の雰囲気を求める一方、自然の趣に富み、奥深さを追求していることが分かる。
寺院の構造的特徴
中国古代の寺院はほとんど正面の中路は山門で、山門の内側に左右それぞれ鐘楼と鼓楼が配置されている。そして、正面は天王殿で、中には四天王の仏像が祭られている。その後ろは大雄宝殿と蔵経楼で、左右両側には僧舎、斎堂がある。大雄宝殿は寺院の中で最も重要で、最も雄大な建築である。『大雄』と言うのは、即ちお釈迦様のことを指す。隋代と唐代以前の寺院は一般的に寺院の前か境内の中心部に仏塔を造る習慣があったものの、隋代と唐代以後、仏殿は仏塔に代り、寺院の内部でまた塔院を建てている。
庭園建築
中国の庭園建築は悠久な歴史を持っており、世界庭園史上でもその名を知られている。凡そ3000年前の周の時代、中国で最初の庭園が出てきた。その後、都と地方の有名な都市では庭園建築の修造が絶え間なく続いた。都市部の庭園建築は豊富多彩で、世界の三大庭園体系にランクされ、著しい地位を占めている。
山水を重んじる中国の庭園建築は風格が独特で、変化にとんだ配置で、人工の美と自然の美がバランス良く調和し、一体となり、素晴らしい効果をもたらしている。これらの庭園建築は自然の美を源とし、自然を強調し、建物を山水の自然環境に取り込み、自然の美しさを更に高いレベルに取り入れている。
庭園建築の巧み
中国の庭園建築は雄大な皇室庭園と巧みな個人庭園からなっている。これらの建築は山水などの地形、花、草、樹、木、亭、台、回廊、橋、対句、横額などに合わせ、精美に装飾されている。山、石、水などの生き生きとした趣を生かしている。中国庭園をおおざっぱに分けると、治世境地、神仙境地と自然境地の三種類に分けられる。
中国庭園と西洋庭園の違いと言えば,西洋庭園は幾何数学の原則を表わし、建築そのものを重んじている。これに対し、中国庭園は自然景観への観賞者の感覚を重んじ、天人統一を追求している。
中国現代建築
中国の現代建築とは19世紀半ば以来の中国建築を指す。1840年阿片戦争が勃発してから1949年新中国が成立するまでの間、中国建築は東西の風格を融合させ、多様な特徴を見せている。この時期、伝統的な中国旧建築体系は依然として数の上では優位を占めていた。しかし、劇場、酒屋、旅館などの娯楽業、サービス業における建築や、デパート、市場などの商業建築はほとんど伝統的な建築様式を取り入れず、人々のコミュニケーションの空間として、中国と西洋結合の建築様式が取り入れられた。西洋建築の風格も中国の建築に現れ、上海、天津、青島、ハルビンなどの租界では、外国の領事館、商店、銀行、レストラン、クラブなどの外来建築がどんどん出てきた。この時期に近代の民族建築も現れ、これらの民族建築は新しい機能、新しい技術と民族風格をよりよく統一させている。
中華人民共和国の建築
1949年中華人民共和国が成立してから、中国建築は新たな歴史時期に入り、大規模で、計画的な国民経済建設は建築業の速やかな発展を促した。中国現代建築は数量、規模、類型、地域分布及び現代的レベルにおいて局限を突破し、新しい発展をみせた。前世紀80年代以来、中国建築は徐々に開放し、更に多様な発展趨勢を見せている。
中国の住民建築
中国各地の住宅建築は住民建築とも呼ばれている。住民建築は最も基本的な建築類型であり、最も早い時期に建てられ、多くの地域に広がり、数もとても多いである。中国各地の自然環境やそこに住む人間などの違いによって、各地の住民建築も多様に変化している。
四合院
中国の漢民族地域では、伝統的な住民建築の主流は決まった形式の住宅である。中枢対称式の配置を採った北京の四合院はその典型的な代表といえる。北京の四合院は前後二つの建物に分けられている。真中の正房は威厳ある場とされており、家庭内の式典などを行なう時や、来客に会う場合に利用されている。四合院のすべての部屋は庭に面しており、回廊で繋がっている。北京の四合院は中国古いの観念や家庭制度などが住宅建築に現れたものである。庭は広く、落ち着きをもたらす。また、花木が植えられ、理想的な屋外の生活空間ともなっている。また、華北や東北地区の住民建築もほとんどこのような広い庭園式になっている。
土楼
土楼は中国南部福建省南西部の客家人の集中住まいであり、「客家土楼」とも呼ばれる。土楼の形は円形、半円形、長方形など数種類ある。円形土楼は客家の人々が自らの住宅を保護するために建てた封鎖的な土木構造の環状建築であり、三階建てのものが多い。外側の塀は厚さ1メートル、環状の中心部は井戸を掘り、出入り口の正門は1つだけ、1階は台所と食堂で窓はなく、2階は穀物や農具などの倉庫、3階は寝室である。
弄堂
上海は19世紀初期から発展してきた国際大都市で、各国の建築物が上海で見られる。しかし、上海の庶民達の居住生活は「弄堂」が基本である。狭い通路に、石畳で作った一階また二階建ての建物が横並び、多数上海人は「弄堂」で人生を過ごし、多彩な「弄堂文化」作り上げた。夏になると、暑苦しいの部屋から逃れるために、納涼人が座椅子を家から出し、部屋の前の狭い通路に置き、近所の人達とお喋り、若者がトランプ、将棋をやり、女性はひまわり種を食べながら子供を寝かす。一番楽しいのは子供たち、「弄堂」でわいわいはしゃぎ、ピン玉を打ったり、紙ゲームをやったり、楽しい時を過ごす。「弄堂」には家庭の中にない雰囲気があふれ、家庭にはない人生の楽しさを味わえる。
終わりに 新建築「10大奇跡」
中国の建築の現状は、2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博というインターナショナルなイベントを控え、華やかな国際コンペ、建設ラッシュが続いている反面、こうした国家級のプロジェクトが世界の著名建築家の実験場(じっけんじょう)と化しているというのも事実である。
中国の建築デザインに対する海外メディアの注目が最近、これまでになく高まっている。2005年12月23日付けの米誌「ビジネスウィーク」は、中国の最近の建築物から10件を掲載し、「10大奇跡」と評価した。選ばれたのはそれぞれ、北京五輪メーンスタジアムの国家体育場、国家水泳センター、北京首都国際空港、上海世界金融センター、国家大劇院、中央電視台(中央テレビ、CCTV)、上海崇明東灘生態城、当代MOMA(北京)、長城脚下の公社(コンドミニアム型宿泊施設)、東海大橋(上海)。うち北京の建築は7件。 (「人民網日本語版」2006年2月21日報道より)
思考問題
1、 着物から見た日中交流の歴史
2、 中山装から見た近代中国歴史
3、 「漢服」、「唐装」の復旧についてコメントしなさい
4、 古代中国の建築は日本の伝統建築にどんな影響を与えたについて述べなさい
国を表すこととして、国旗や国歌といった独自の国を象徴するものがある中で、その国を表すものとして他に、服装も大きく上げることができる。これには、世界には様々な服装があるからで、すべての世界の人が同じものを着ていることはないからだ。しかし、現在においては、情報の高度化によっての世界の流行などを把握することができ、遠くに住んでいても同じ服装を着ることが可能である。それで、服装においての各国のイメージは薄れてきているが、しかし、日本においては和服や着物といったものを日本の服装としてあげることができる。当然、中国においても長い歴史の中の一部に「漢服」と呼ばれる服装が17世紀に漢民族によって着られていた。この「漢服」は日本においての和服や朝鮮の韓服にも大きく影響しているのである。しかし、この服装は中国でも薄れていて来ている現実があったのだが、現在はさまざま影響により世間の関心を高めることとなり、復旧の道を歩んできているのである。どのような理由があろうとも、その国の物をその国の人がしっかりと知っておくことは大切だと思う。この復旧によって自国の人は改めて自国について考えるきっかけを得たのかも知れないし、他国の人にとっては、服装から中国文化について興味を持つよいきっかけなのかもしれないと思いました。
今回この着物の由来について調べてみました。
縄文時代は狩猟で手に入れた動物の皮や毛、植物をそのままか少し加工して身にまとっていたようです。弥生時代・古墳時代では他国でもさまざまな衣服を着るようになり、大陸交流も盛んだったため他の国々の影響も受け、日本人の着る物も変化してきました。飛鳥時代・奈良時代になって、遣隋使・遣唐使などにより、中国文化が多く取り入れられた事から、この時代の衣服を見ると日本と中国の衣服がよく似ているなぁという印象を受けました。平安時代になり、遣唐使が廃止され、日本独自の着物を着るようになってきました。この時代の衣服からが私の想像する日本の着物という感じになってきているような気がします。その後、人々の生活や社会の変化に伴って、徐々に着物が変化し、現在に至っています。
今回の課題で気付いたことは、着物は日本独自の文化だと思っていましたが、他国の衣服をヒントに日本の文化を取り入れ作られてきたという事でした。特に遣唐使の存在は大きく、いいタイミングで遣唐使の派遣と廃止がされたと思います。もし中国文化をそのまま引き継いでいたら今のような着物は作られなかったと思います。着物文化においても中国の影響を受けていることを知り、また、中国に対して好印象をもつようになりました。
日本で暮らしていた人々は、縄文時代から弥生時代にかけて、日本独自のとても簡単な着物を着用していました。それこそ、狩猟で手にいれたものを体に巻きつけているだけ、というような、“着物”という意識があまりないようなものが中心でした。しかし、古墳時代に入って、“着物”の歴史は大きく変わります。それは、大和朝廷により、大陸との交流が盛んになり、中国などの影響を受けたからだと考えられています。特にこの時代の上衣では、中国の着物を模倣したような『筒袖(つつそで)』とよばれるものが用いられていて、中国からの影響を大きく受けていたということがよくわかります。また、飛鳥・奈良時代になると、遣隋使や遣唐使が現れ、より一層中国の影響を受けるようになります。この時代は、着物の分野から派生して、例えば『冠位十二階』や『三公服』のように、着物の色によって身分を分けるといった、制度的なものにも、中国の影響をうけていたことがわかっています。 平安時代からは、遣唐使の廃止により、中国との交流はなくなり、日本独自の着物の文化が築かれていくようになりました。しかしその場合にも、それまでに築かれてきた着物の文化が元になって、新しい文化が形成されていくので、中国から受けた影響は、現在の日本の着物にも、いまだどこかで受け継がれているのではないかと私は思います。
このように、日本はずいぶん昔から、中国と多くの交流を持ち、また、多くのことを中国から学んでいたことがわかります。着物の歴史に着目して、日中の交流の歴史を調べたことはなかったので、とてもいい勉強になりました。
縄文時代から弥生時代にかけて人々は狩猟で得た動物の皮を体にまきつけているだけであった。衣服という概念はなく、暑さや寒さを防ぎ、雨風から身を守ることだけが目的であった。古墳時代になると中国とも交流をもち、男女ともに中国の模倣と思われる「筒袖」の打ち合わせた上衣を着ていた。飛鳥・奈良時代には遣隋使や遣唐使などにより衣服以外にもさまざまな分野で中国のものが取り入れら日本は中国の影響を大きく受けた。しかし、平安時代には遣唐使が廃止され、しだいに日本独自の服装に変わっていった。男子は朝服から束帯へ、女子は唐衣裳装束や女房装束といわれる晴装束を公家などが着用していた。また平安時代は、京都の風土の影響や宮廷文化の発達により特徴ある装束がある。十二単である。重ね着するところからついた名称で、「唐衣裳装束」「女房装束」の俗称である。これらは現在の和服、着物の原型といわれている。
このように着物が誕生したのには中国の影響があったことが分かる。今では着物は日本独自の物であるが、その美しさの原点は日中間の交流にあった。
縄文時代から弥生時代では狩猟で手に入れたものを身にまとうだけの簡単なもので、暑さや寒さを防ぐことができればよいというものでした。古墳時代になると大和朝廷により大陸との交流も盛んになり中国など他国の影響を受け、男女ともに中国の模倣と思われる「筒袖」の打ち合わせた上衣を着ていました。飛鳥・奈良時代には遣隋使や遣唐使などによりさまざまな分野で中国のものが取り入れら日本は中国の影響を大きく受けました。そして平安時代に入り遣唐使が廃止されたことでしだいに日本独自の服装に変わっていきました。男子は朝服から束帯へ、女子は十二単といわれる晴装束を公家などが着用していたようです。
このように日本の民族衣装である着物ですがはじめからそうではなく長い歴史の中で中国など他国の影響を受け、現在のように着物として定着しました。今回着物の歴史を調べてみて中国は日本に様々な影響をもたらしているんだと改めて感じました。
今回は中国文化の伝統工芸品「蘇州刺繍」について調べてみました。蘇州刺繍(蘇繍)は中国蘇州市で生まれた2500年の歴史を持つ中国四大刺繍の一つです。他には湘繍、蜀繍、粤繍とあり、刺繍の中ではかなり有名です。蘇繍は日本でも両面刺繍でよく知られているそうです。なぜこんなに刺繍が有名になったかというとやはり芸の細かさではないだろうかと思います。刺繍糸を八分の一の細さに使用した極めて繊細な縫いとりは機械刺繍では真似の出来ない色遣いや生き生きした表情をかもし出しています。それは職人がひと針ずつ手刺繍しているから可能なのだと思います。写真も数点見てみましたが、虎の刺繍などはとても手が込んでいて今にも飛び掛ってきそうなぐらい色鮮やかでした。中国では昔からの伝統文化ですが、日本では70年代から好んで着物や帯に用いられています。
この蘇繍が今後の日本の和柄にたくさんの影響を与えると思いますし、また日本の刺繍も蘇繍に負けないよう切磋琢磨していければ、刺繍文化はさらに躍進していくと私は調べてみて感じました。
2001年上海で開催されたAPEC首脳会議で、ホスト国中国の江沢民元主席をはじめ、会議に出席した20名の各国首脳たちも着ていたのが、それです。テレビを通じて見た世界の人々は色鮮やかで大柄且つカラフルな模様の服装がとても印象的です。ちなみに「唐装」というネーミングは、このとき首脳たちの服をデザインしたデザイナーが、チャイナタウン「唐人街」にちなんでつけた名称です。
2001年上海で開催されたAPEC首脳会議で、ホスト国中国の江沢民元主席をはじめ、会議に出席した20名の各国首脳たちも着ていたのが、それです。テレビを通じて見た世界の人々は色鮮やかで大柄且つカラフルな模様の服装がとても印象的です。ちなみに「唐装」というネーミングは、このとき首脳たちの服をデザインしたデザイナーが、チャイナタウン「唐人街」にちなんでつけた名称です。