京陶器『陶花源』 ☆ 雑記 ☆☆

器、料理 etc. 文化に関するいろいろ

古代史の謎 弥勒菩薩はイエス=キリスト?

2008年06月01日 | 歴史の謎
  今回から数回にわたって京都を中心とする古代史の謎を話させてもらいます。教科書や観光ガイドブックには載っていない事が中心で,“えっ,嘘だろ~”と思われる方も多いと推測しますが,このような“謎の歴史”を知っていると観光旅行の楽しみも倍増するというものです。
  紀元後に日本に来た渡来人の中で,最大人口を占めたのが秦氏と呼ばれる一族(部族)と考えられています。彼らは中央アジアにあった弓月国から中国・朝鮮を経て4~5Cの日本に到来し,その数は2万人近くに及び,ちょっとした民族移動だったのではと思われます。彼らは大陸から先進の技術・文化を日本にもたらし,帰化して政治・経済・文化など多方面で日本の中枢を担う活躍をし,平安京の建設に最も貢献したのも秦氏だったと言われています。よく知られたところでは,彼らは中央アジア出身だった関係から養蚕と絹織物の技術に優れ,当時の日本の養蚕業・絹織物業は彼らによって支えられていたのです。その結果,今日まで続く「ハタ織り(秦織り)」という言葉が使われるようになったのです(今日の「機織り」という表記は後世の当て字)。
  ところで,中央アジアの弓月国はキリスト教国(東方に伝わった原始キリスト教)で,住民の大部分は,中央アジアに定住するようになっていたユダヤ人だったと考えられています。ユダヤ人が頑なにユダヤ教を守り続けたのはヨーロッパ方面での話で,中央アジア方面に移住したユダヤ人は,後から入ってきたキリスト教(原始キリスト教やネストリウス派キリスト教)を信仰するようになったと考えられています。ただし,古来からのユダヤの習慣も保持し続けたので,秦氏はユダヤ的習慣を持つキリスト教徒だったということになります。そうなると,キリスト教は16Cにイエズス会宣教師によって伝来したという既成概念を否定することになりますが,キリスト教が教団組織を通じて布教目的で入ったのが16Cというだけで,キリスト教そのものは渡来人を通じてその1000年以上前に入り込んでいたのです。百歩譲って秦氏とキリスト教が無関係だとしても,唐の時代の中国で景教(ネストリウス派キリスト教)が外来人の間で流行しており,日本は遣唐使などを通して唐の制度・文化を吸収しているわけですから,唐の文化の中で“景教だけが日本に入らなかった”と考える方が無理があるというものです。景教も闥教(ゾロアスター教)も日本に入っていたと考えるのが当然で,火を使った儀式が日本各地に残るのはゾロアスター教の影響だとする説まであるくらいです。

      太秦の標識と広隆寺の山門
  秦氏が多数住んだ場所が京都の太秦(うずまさ)で,行ったことがある方も多いと思いますが,時代劇の撮影でおなじみの東映映画村のある一帯です。秦氏が住んだ関係から太秦という地名になったのですが,太秦をどう読めば「ウズマサ」となるのでしょうか。これも日本語以外の言葉,アラム語を使えば「イエス=キリスト」という意味になるそうです。中央アジアにアラム語が伝わっていたことは明白で,中央アジア出身の秦氏がアラム語を知っていた可能性は高いわけです。ところで,その太秦に不思議な神社・寺が3つあり,何れも秦氏による建立と考えられています。
   ① 木島神社(別名「蚕の社」)
   ② 大酒神社(別名「太秦明神」)
   ③ 広隆寺
  日本に帰化した秦氏は神道や仏教を奉じるようになりましたが,それまでの宗教や習慣を捨て去ったのではなく,キリスト教やユダヤ的習慣を神道や仏教の中に組み入れたと考えられます。神道には元来一義的な教義・儀式が存在せず,仏教に至っては元々さまざまな教えを“取り込む宗教”だったのです。京都の三十三間堂を訪れると分かるように,仏教の神々の中にはヒンドゥー教など他の宗教の神だったものが存在します。多神教というものは多くの神々が存在するのだから,くだけた表現をすれば“神の数がいまさら5人増えようが10人増えようが大成に影響はない。ありがたい神なら仲間に入れちゃえ”といったノリがあり,仏教がキリスト教の要素を取り込んだ可能性は十分に考えられるのです。

        木島神社の拝殿・本殿
  ①の木島(このしま)神社についてですが,「蚕の社(かいこのやしろ)」という別名が示すように,今日では養蚕業・絹織物業の神社として知られています。先に述べたように秦氏が養蚕業・絹織物業で活躍したことに由来するのですが,本来は天之御中主神(アメノミナカヌシの神)を祭った神社で,アメノミナカヌシの神とは日本神話において一番最初に出現した,宇宙の中心に住み天地の全てを統轄する神と言われます。性格がどこかユダヤ教の唯一神ヤハウェやキリスト教の“父なる神”に似ています。そして,何よりもこの神社を特徴づけるのが不思議な形の鳥居の存在です。この鳥居は「三柱鳥居」と呼ばれ,鳥居を3つ重ねた形態で,真上から見ると正三角形をなし,3本の柱で支えられています。

         木島神社の三柱鳥居
 三柱鳥居は全国的でも珍しい形の鳥居で,キリスト教の三位一体の象徴ではないかという考えがあり,秦氏がキリスト教を神道の中に取り込んだ結果ではとする説が存在します。

              大酒神社
  ②の大酒(おおさけ)神社についてですが,「太秦明神(うずまさみょうじん)」という別名が示すように,ウズマサ神を祭る神社として代々伝えられてきました。先に述べたようにウズマサとはイエス=キリストを意味するわけですから,その名の通りイエス=キリストを祭る神社ということになります。また,大酒神社の由緒書には,神社の名は元来は「大辟(おおさけ)」と書いたと記されており,辟とは君とか天子という意味で,直訳すれば“大君神社”“偉大なる天子の神社”ということになります。「大君」「偉大なる天子」とはイエス=キリストのことでしょうか,それとも別の誰かを指すのでしょうか。

          大酒神社の由緒書

        大酒神社の由緒書(部分)
  由緒書の祭神の中に,弓月王(秦氏の出身地の弓月国の王)などと並んで意外な人物の名が書かれています。その人物とは始皇帝で,もしかしたら「大君」「偉大なる天子」とは始皇帝のことなのかもしれません。ユダヤ人(あるいはユダヤ人の末裔)と考えられる秦氏が始皇帝を神として祭るということは,中国の秦朝とユダヤ人との関係が示唆されることになり,非常に興味深いことになります。(この件についても近いうちにお話します)
  そして③の広隆寺についてですが,誰もが知っている京都観光のメッカ,国宝の「弥勒菩薩」がある超有名な寺です。ところで,弥勒菩薩の姿は他の仏像とどこか違いますよね。同じ菩薩像でも奈良東大寺の二月堂の月光菩薩や日光菩薩は“仏像らしい姿”をしているのに,弥勒菩薩はどこか“仏像らしからぬ姿”をしていますよね。さらに,右手の親指の先と薬指の先を合わせて三角形をつくっている独特のフィンガーアクション,何か意味があるのでしょうか。実はこのポーズは中央アジアのキリスト教関連の遺跡でも見られるもので,当地の原始キリスト教徒やネストリウス派キリスト教徒が描いた宗教画の中でイエスがとっているポーズで,三位一体を象徴するポーズだと言われています。広隆寺の弥勒菩薩が同じポーズをとっているということは,イエス=キリストが仏教の神々の中に組み込まれ,弥勒菩薩として信仰されるようになった結果とも考えられます。広隆寺は仏教以外の宗教の寺院として建立され,後に仏教寺院に改変されたとする説は,かなりの信憑性をもって語り継がれている事実です。

 広隆寺の弥勒菩薩
  仏教において弥勒とは“未来における救世主”を意味し,弥勒が下生することで犯罪・天災・戦乱のない至福の世界が訪れるとされ,キリストの再臨により地上に至福の「千年王国」が訪れるとする聖書の教えにそっくりなのです。弥勒思想というものは,ユダヤ教やキリスト教の「メシヤ(救世主)」思想がインドに入って生まれたもので,インドでメシアが「マイトレーヤ」と変化し,それが中国に入って「ミレフ」,日本に入って「ミロク(弥勒)」と呼ばれるようになったと言われます。日本に伝来した大乗仏教そのものがキリスト教(原始キリスト教)の影響で成立したという説があり,現在ではかなりの信憑性が認められています。大乗仏教の最大の特徴である衆生済度と菩薩信仰の2つをとっても,両者ともそれまでの仏教(原始仏教や上座部仏教)とは大きくかけ離れた考えで,両者ともキリスト教の考えにより近いものなのです。

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