embrace:everything

他愛ない日常に
流れゆくものすべてを
あるがままに。

パズルのピースが繋がった 国立競技場DVD

2013-03-05 01:04:20 | L'Arc-en-Ciel

今日はわたしが勝手に感動してる話です。すみません(笑)


国立競技場DVDの10種類のジャケットが公開されて、
しばらく経ってるんですけど、
わたしは小さなサムネイルでしか見てなかったんです。
それでも、あの10種類が並んでる画がすごく綺麗やったんで、
そうや、PCのデスクトップに設定しようと思って、
PCサイトに接続して見たら…


http://www.larcom.net/worldtour2012final/dvd.html

ジャケットが全部で一つの絵になってるのはわかってたんですけど、
よく見たら、パズルのピースが繋がってて。

わたし、去年の自分のブログで、
彼らの活動を、パズルに例えていたんですね。
(ちょっと重い(?)内容なので、読まれる方はご注意を)

L:L'Arc~en~Ciel -THE HYDE- http://blog.goo.ne.jp/kylarc/e/bac41fee81a6806c138d8e4111f8de5e

パズルのピースがどんどんつながって、
世界をひとつに繋いでくれるといいね、って、
そう書いてたんです。

だから、
ジャケ写で、
各国の都市の名前と、
国花が、
パズルで繋がって、ひとつになってるのを見て、

なんかほんまに、
夢が…それは彼らの目標でもあったんやろけど、
自分の夢でもあって、
それが、叶ったんや、って、思って。

ワールドツアーは1年前で、
その時も、彼らが一つ一つの公演を成功させていくたび、
そう思ってたんですけど。

MSGを見て、
わたしらもここに連れてきてもらったんやって、
思ったばっかりやったんですけど、

感動のワールドツアーに、
さらに感動のラストを用意してもらったような気がして。

もうこういう感動を表現したいのに何やのこの自分のボキャブラリーの少なさ!!!

とにかく、胸が熱くなってちょっと…
こみ上げてしまって、PCの前でしばらく泣いてしまいました。
勝手にごめんなさい…ただの偶然やのに。

それでも、自分にはめっちゃ嬉しかったんです。

さすがに全種類買える財力がなくてですね…
長年切望していたマルチアングルの、初回Blu-rayは予約済です。
ホノルルは完売とのことですが、
その次のお給料の時にまだ買えるようであれば、
ジャカルタが欲しいなあと思っています。

今から発売が楽しみです。

【今更感想文】L'Arc~en~Ciel MADISON SQUARE GARDEN

2013-01-08 02:33:08 | L'Arc-en-Ciel
※ちゃんと細部まで触れられた感想文ではないですごめんなさい(笑)



実はこれ、わたしが初めて買ったL'Arc~en~Cielの映像作品なのです。
以前も触れましたがわたし、L'Arc~en~Cielのライヴは20thの京セラが初めてで。
自分がそれまでライヴに行ったことなかったのもあって。
でもこれは絶対に欲しかったから予約開始日に予約しました。

で、今日やっと、最後まで観れたんですが、
ちょっとその勢いで書くので多分ひどいことになると思うけどもういい(笑)



これを「音楽作品」として、「映像作品」として、
出したかったんやな、と思いました。
わたしは音楽も映像も知識がないから詳しいことは何も分からんのですけど、
ライヴDVDというものの中でほんまにそのクオリティが高かったと思う。

ライヴDVDって、作るのめっちゃ大変なんやろなって思うんですよ。
…すいませんこんな凡庸な表現で…すいませんtetsuyaさん…
いや、だってね、yukihiroさん以外のメンバーは基本的には動いてるし、
それをライヴという生きた状態でカメラで撮ってて。
要するに全部のカメラがどんな映像を撮れてるのかのチェックって、
台本通りに撮った映画やドラマより、遥かに難儀な作業ですよね。
動いてないメンバーでも、そのなかにも動きがあって、
指先、腕、視線、膝や爪先、
そういったものの僅かな動きを、凄く効果的に撮れてる部分がたくさんあって。
いわば奇跡的に撮れたそれらを、
いかに美しく、強弱をつけて繋ぐか、ってもう芸術の境地じゃないですか。
そこに、演奏、歌があって、
どの音が鳴ったときにどの映像を見せるのか、っていう、
聴覚と視覚の効果を生み出す作業なわけですよ。
もちろんライヴの演出にもその要素が大いに(特にL'Arc~en~Cielには)取り入れられてますが、
DVDって、永遠に繰り返し観ることも、
一時停止かけることも、スロー再生もできるわけですよ。
それに耐えうる作品でなければならない、
そういう熱意が、このDVDにはあると、わたしは個人的に思いました。
もちろん、今までのライヴDVDもそうなんですけど。
これには、特にそういう、メンバーやスタッフの沽券というかプライドを見た気がしました。



と、技術に関する(薄っぺらい知識に基づいた)感想はそれくらいにしておいて。



とりあえず泣きました。ライヴDVDで久しぶりに泣いた。
DVDを見る時間がなかったんで、音源CDを先に聴いてるときから泣いてたんですけど。
『あなた』に。
これは、LIVE IN PARISでも、ラピニュ(皆さん覚えてますー!?笑)の中継でも泣いたんですけど、
その時とは違った。
泣くやろなとは思ってたんですけど。
その気持ちは違ったんです。

わたしはね、
彼らが、わたしたちを、あそこへ連れていってくれた、って思ったんです。
国も人種も違うファンたちが、
日本語であの歌を合唱する姿を見て。

そのときに、ああ、って。
分かったことがあって。

THE HYDEの中で、またそれ以外でも、
「L'Arc~en~Cielは、大きな船」という表現をhydeさんがしてて。
本の感想ブログでわたしは、
彼の、彼個人の視点から想像するに、
それは巨大なパズル、
巨大な絵を創る作業に似てるんちゃうか、
て書いたんですね。

でもね、
わかったんですよ、
彼はその船に、メンバーやスタッフ、そして彼らの夢、
ファンの夢や希望とか、
そういったものを乗せてるんやと言うてはって。
自分も、そう思ってた。
わたしたちの夢や希望を乗せてくれてるって。
でもね、
遥かな海を越えて、
国境を越えて、
彼らの歌があそこに届いた、
その全てを見届けることができたときに、
ああ、

L'Arc~en~Cielという船に、
わたしたちも乗せてもらってるんや、

って思ったんですよ。

わたしたちの夢だけじゃなく。
希望や想いや…それだけじゃなく、
わたしたち自身が、
L'Arc~en~Cielというあの船に乗ってるんやって。
その船がずっと、
20年かけて、
わたしたちを、あそこに連れていってくれた、
って思ったんです。

この表現が正しいのか分からへんのですけど。

この航海が、どれほど長く、時には辛く、
厳しいものやったんやろう、
と思って。
そのことに、今まで気が付かなくて。
あなたたちは本当に辛いときだって、
何も言わずに、わたしたちを乗せていてくれた、
という気持ちの後に、
ここまで、
わたしたちを連れてきてくれてありがとう
という気持ちが溢れてしまって。

残酷なのかも知れませんが、
何度も言うてるんですけどわたしは、
彼らとわたしたちの間には、
絶対に埋まらない距離があると思ってるんです。
わたしは、彼ら自身を愛しているのと同じくらい、
彼らとの間の、その距離感を愛しているんですね。

船に乗せてもらっていたって、
舵を取れるわけでもないし、
その手に、わたしたちの手を重ねることもできない。

でも、
少しでも、
進む力になれるんじゃないか、
そう思うんです。



多分ね、ライヴに行ったから。
この感覚が生まれたんちゃうかなと思います。
例えて言うなら、
L'Arc~en~Cielという船は、
ライヴ会場という寄港地で、
そこに集まったお客さんを乗せて、
次の港に向かう、そういうイメージ。

MSGにいたあのお客さんたちも、
もう、乗客の一員なんやって思う。



ああこれ…恥ずかしいこと書いてるんじゃないですかわたし…
でもいい、そう思ってんから(笑)



あれを音楽作品、映像作品として捉えたという気持ちを伝えたいので、
そりゃもう個人的な萌は全カットにありましたが、
それについてはここでは割愛するとして(笑)

やっぱりkenちゃんは凄いな、って思いましたね。
あの時間を一番純粋に「楽しんでた」。
彼に言葉は要らんのやなと思った。
彼にはギターの音があればいいんやって。
言葉通じなくても文化が違っても、
彼は彼のギターでお客さんと会話してましたよね。
そしてそれを楽しんでた。
本当に穏やかに、時には茶目っ気たっぷりに笑う、
あの表情で彼の人となりが十分に伝わるカットがいくつもあった。

hydeさんは、前半は挑みかかるような感じ。
彼らはやはり、海外では挑戦者なのであって。
フロントマンは文字通り、そのfrontにいるわけですもんね。
後半には、彼の素の表情が出てた、その流れが凄くよかった。
慈しむような眼差しで客席を見て微笑む表情が。
歌の表現は、彼にしかできないことをやり抜いたと思う。
XXXは今まで聴いた中で一番やったかも知れへん。
歌うことが楽しくなった彼の伸びやかな声は本当に美しいですね。

yukihiroさんの凄いところは、
彼の役目を、どんな場所でも必ず、ひた向きにやり遂げるところ。
その姿勢、いつだってジャストを目指すドラミング。
ライヴでの彼の持つ安定感って、音源で聴くものより、
ずっとずっと強い。
MSGでもそれは変わらなかった。
そして、観客に向かって礼をする、
シャイなyukihiroさんなのに、
そこで見せるその心に本当にグッと来る。

tetsuyaさんは緊張してるなって思って。
緊張というかね、
ここまで来ることに、本当に、一番、努力した人やと思うから。
一番辛かった人やと。
その胸によぎるものがどれほどのものか、
わたしには想像もつかないですけど、
きっと込み上げるものがあるんやろうなって思った。
彼は、夢を叶えることを決して諦めなかった。
そして、これからも、そうあってもらえたら。
しゃんとした背筋、真っ直ぐな眼差し、
彼のそういったものを見て、
わたしたちが少しでも、その力になれればと。



ライヴがお休みの間だって、
わたしたちは、
あの船に乗って、長い航海に出てる、
そう思ったら、
彼らが次の寄港地を決めるまで、
ちゃんと待っていられる。

その時を、心待ちにしながら。

VAMPS LIVE 2012 大阪に行ってきた!!

2012-10-13 15:55:06 | VAMPS
日記を上げるのが遅いですね!!
すみませんもうラスト終わってから1週間やんか…

まず、今回は様々な奇跡に恵まれまして…

①チケが3枚とも良番だった
②ライブじゃない日にプレボだけしに会場に行った帰り道で入りのHYDEさんの車に遭遇。
 交差点にわたし一人立ってる場所で思いっきり手を振ったら振り返していただいた
③10月3日のライブ前にプレボったK.A.Zさんのイラストが、VAMPSライブダイアリーの写真の中で、
 K.A.Zさんの鏡の横に貼っていただけていた

などがあり、もう…思い残すことの95%は消化した次第です。
生きてて良かった…( ;∀;)

参戦は9月29日、

【VAMPS20120929殴り書きレポ】 by kyla on pixiv

</noscript>

10月3日、

【VAMPS20121003殴り書きレポ】 by kyla on pixiv

</noscript>

10月7日。

【VAMPS20121007殴り書きレポ】 by kyla on pixiv

</noscript>

どの日ももちろん一柵目に入りました。ドセン~K.A.Zさん側。
HYDEさんが一番近かったのは初日でしたが、
柵が一番近かったのは最終日でした。
多分WOWOWの撮影があったので、最終日は柵がステージよりややセットバックしてたんちゃうかと。

でも、どの日程もほんとによくて、特にサウンドはわたしが今まで行った中で一番でした。
ギター持たないHYDEさんはほんとに生き生きしてて楽しそうやった。
口から水もかけてもらいましたし、
今回は初めてK.A.ZさんのMC聞けたりとか(今まで聞けなくて…)
アーリーに水かけてもらったりとか(全身びしょびしょ)
ほんっと楽しかった。

そして例によって、会場の外で絵を描いてお渡ししてたんですけど、
見ず知らずのお姉さまお二人に、描いてください!!っておっしゃっていただいて、
描いてお渡ししたんですね。
そしたら

「こんな幸せを人にあげてるんだから、きっといいことありますよ!!」

って言うていただいて…ちょっと泣きそうになりました…。
わたしは自己満足でやってるだけなので、
そんな風に思って下さる方もいらっしゃるんだって嬉しくなって…。

本当に、忘れられないライブになりました。

最終日は映像化されるとのことなので、
参戦された方もされなかった方も、
是非楽しみにお待ち下さい!(わたしはWOWOW難民ですが!)

『生きる』ということ【稚拙philosophy】2

2012-09-14 20:58:30 | 稚拙philosophy
【ご注意】
自殺に関する記述があります。
残された側の当事者として、
またそれを考えたことのある当事者として
書いています。
読んでショックを受けるかも知れないと思ったら、
ページを閉じて下さい。




















 足跡ひとつ残せなくても
 この命は まだ 旅の途中

      (L'Arc~en~Ciel『ALONE EN LA VIDA』)



人は、何のために生きるのですか。

それは永遠の問いやって言われますけど、
何となく、
そういうことを、わたしたちは、
なんでもない、いつもの日常の中でも、
冷静に考えた方がいいって思うんですよね。

っていうのはね、
自分はいったい何のために生きてるんやろう?
って、
『辛いときだけ』考えてたなあって思って。

辛くないときには、
そんなこと考えもしないで、
辛くなったときだけ、
生きる意味を問うのって、
なんか…言い方悪いですけど、
ゲンキンやっていうか、
そんなときだけかよって、
自分で思ってしまって。



わたしは幼い頃に、
とても近しい親族を亡くしていて。
『生きること』について意識するよりも早く、
『死ぬこと』を知りました。
二度と会えなくなる。
その悲しみは、静かに暮らしのなかに降りてきて。
大好きな人やったから、
きっとその人も、
死んでしまって、
わたしたちに会えなくなったことをすごく、
悲しんでるんやろうなって思ってました。

事故やったんですけど、
わたしがもう少し大きくなってから、
もしかしたらその人は、
自殺やったかも知れんねん、と、言われて。
事故は事故やとしても、
なぜ、その場所に行ったのか、誰にも分からなかった。
何の用事もない場所に行って、
ケガが原因で亡くなったんですけど、
それは、
自ら、命を断つ決意やったんじゃないかって。

そういう原因となるものが、
誰にも分からへんところに、
隠してあったみたいなんです。
遺書はもちろんなかったし、
それがほんまに原因なんか、
誰にも、分からんのですけど。



その事実は少なくとも、
わたしに、そして残された人に、
罪悪感を、後悔をもたらしました。
わたしたち親族を置いていったその人を責めたり、
も、しました。

なぜ。

誰のせいなの。

わたしやろうか。
それとも、あの人やろうか、それとも。
あの日、最後に会ったとき、
今思えば何か違ったような気がする。
わたしは止められなかったんやろうか。
幼かったとはいえ、
踏みとどまらせることのできる何かを、
わたしは、ほんまに持ってなかったんやろうか。

わたしは、愛されてなかったんやろうか?

とても優しい人で、家族も親戚も大事にしていて、
いつも笑顔で遊んでくれて。
叱られて泣いてるわたしをなだめながら、
なぜ叱られたのか、わたしが分かるまで諭してくれた。
あの人が、
わたしと、会えなくなってもいいって、
思ったの?

わたしのことなんかどうでもいいから、
自分から、さよならしてしまったの?



その疑問は、劣等感へと変わって行きました。
自殺によって親族を亡くした人は、
多かれ少なかれ、罪悪感や劣等感を持つんだそうです。
そういう事実を知って、わたしだけじゃないんや、
って知ったとき、変な言い方ですが、ホッとしたというか。
それまでは、
そんなことを誰にも言えないし、
ましてや親になんて…親だってショックを受けてましたから、
わたしがそんなことを言うたらアカンと、
どっかで思ってたんでしょうね。



今では、
その人は、その人なりに、
親族を愛してくれていたんやろう、
って、思えるようになりました。
その人が取った行動は間違ってる。
それは事実です。
誰にも、悩みを言えなくて、
言えばなんとかなったかも知れんのに、
言わずに抱え込んで、
迷惑をかけられないから、と、
そういう結果を選んでしまった。
わたしたち親族を置いていって、
あなたに会えない悲しみを、苦しみを、
置いていった、そのことは間違ってる。

でも、
命をかけてまで、
守ろうとしてくれたんじゃないか、って。
わたしたちはそんなこと、
望んではいない。
わたしたちのために命を投げ出したのだとしたら、
その人の人生は、
わたしたちのせいで、奪われたことになる。
それでも、
間違ってるなりに、
愛してくれてたんじゃないか、と。



しかし、
生きることは、時にとても難しく、
辛く、苦しいですよね。
こんな思いをしてまで生きていかなアカンのやろうか、
それを考えたことのない人は、
考えたことのある人より少ないんじゃないですか。

自分にも、そういうときは何度か訪れました。
ここにいても、
大切な人たちに迷惑をかけるだけなんちゃうか。
わたしがいない方が、
みんな、幸せなんちゃうか、と。

そこを踏みとどまることができたのは、
先の、大好きな人を失った経験があったからです。
わたしには妹がいます。
憎まれ口も叩くけど、年も近くて、
色んな相談に乗ったり乗ってもらったり、
助けてくれる妹です。
わたしが自ら命を断ったら、
彼女にどれだけの傷を負わせてしまうんやろう。
その思いが、
生きる力とまではいかなくても、
今、ここで、死なんでええやんか、
と、思わせてくれました。

いつか、死ぬねん。
その時は絶対に来るし、
死のうと思えばいつでも死ねる。
だったら、
死んで、彼女のその先の人生を滅茶苦茶にする、
その覚悟があるぐらいなら、
その覚悟で、今は生きたらどうやねん。
と。



それからも、辛いもんは辛かった。
でも、
結局、その辛さは、わたしが作り出してるんです。
分かって欲しいんやったら、
分かってくれって、
誰かに言わな、どないもなれへんのですよ。

言うてもどないもなれへんかもしれません。
でも、どないかなるかもしれへんのです。

言うて、分かってもらえるようになるまで、
途方もない時間がかかるんかもしれません。
でも、その努力は、やってみる価値があるんちゃうかと。

死ぬのは、死んだつもりで、
その努力をやってみてからでも、ええんちゃうか、って。



その努力は、
現在進行形です。
前の章でも書きましたが、
伝えようとすることは、
ほんまはとても難しくて、
努力し続けて行かなアカンのです。

でも、
ちょっとずつ、伝わり始めてるんです。
この努力を始めてから、大方6年。
365日、顔を合わせる相手と6年ですよ。
膨大な時間ですよね。
せやけど、人生80年あるんでしょ。
その中の、たかだか数年なんて。
大したことあれへんわ、
と、…これは自分に言い聞かせてるんですけどね(笑)、
そう思えば、まあ大体のことは、なんとか頑張れるかなって。



それでね、
最初のほうに書いたことなんですけど。

辛いときだけ、生きる意味を探すん?

自分を受け入れてくれて、
自分のためになにかをしてくれるような、
そんな人いてへんわ、
わたしは孤独で、誰にも必要とされなくて、
生きてる意味も価値もない人間なんや。
そんな風に思ったことないですか。

わたしは思ってたんですよ。
とても愛した人と別れた時とか。

でもね、冷静に考えたらおかしいでしょ?
わたしの価値は、
『わたしを必要とする誰か』が、勝手に決めるん?
その『誰か』って、誰?
その人かって、わたしと同じ人間でしょ。
なんで、
その人に、わたしの価値を決めて、なんて、
カミサマみたいな大役押し付けるん(笑)
わたしカミサマは信じてませんよ(笑)仏様もよくわからん。
無宗教なんで。

でも、そんなんおかしいでしょ。
逆に人から、
「かいらちゃん、ぼくの価値は、
きみがぼくを必要としてくれることだけやねん、
ぼくの価値をきみが背負って」
って言われたら。
いや、なんでわたしが…
そんなこと言われても…
ようせんわ、ってなりますやん(笑)

わたしにしか、彼の価値がないはずないですやん。



『誰かの為に生きる』って、よく言いますよね。
わたしもよく言うてました。
でも、その意味を、わたしは勘違いしてたんです。
その誰かに依存して、
その誰かの為に、自分の何かを犠牲にしてた。
それは、
その人の為に生きるって言いながら、
その人の『せい』に、してたんですよ。

あなたさえいればいいから、
他の人はどうでもいい。
自分の時間をあなたにさえ使えればいい。
それは、
あなたに全部あげるせいで、
わたしには何も残らない、
それは仕方ない、わたしが悪いんじゃない。
あなたのせい。
そう、言うてるんと同じとちがいますか。

それは、ほんまに、相手を大切にできてるんですかね。

逆で考えてみたんですよ。
わたしは、大切な人に、
どうあって欲しいやろうか、って。

その人が望むことをして欲しい。
人生を、悔いのないように生きて欲しい。
失敗したってかまへんのです。
何回こけてぶつかっても、
ひたむきに、日々を着実に、夢に向かって歩いて欲しい。
夢は、何もどえらいもんじゃなくていいんです。
歌が上手くなりたいとか。
字がキレイにかけるようになりたいとか、
一人でも多くの人としゃべれるようになりたいとか、
些細と思われるような、そんなことでいいんです。
ただ、前に…昨日より今日、と、前に進む、
その姿を、わたしはきっと、
誇りに思えるやろう、って。



そこまで思って、ようやく、
ああ、誰かの為に生きるということは、
『その誰かが、わたしを誇りに思えるように生きる』
ってことなんちゃうん、と、気づいたんですね。

それはつまり、
わたしが、ちゃんとすることなんです。
何をどう、ちゃんとするんかは難しいですけど、
要するに、
わたしが、
わたしの為に、生きることでもあるんですよね。




幸せなときには、こういうことってなかなか考えへんのです。
それどころか、幸せであることすら、
わたしたちは忘れがちなんですよね。

でも、わたしらの毎日の為に、
どれほど多くの人が、頑張ってくれてるんか、
何でもないときに、考えてみたんです。

わたしが朝起きて、
顔を洗うためにひねった蛇口から、
飲んでもお腹を壊さないような綺麗な水が出るために、
一体どれほどの人が、働いてくれているんか。
わたしが捨てたごみを、最後まで処理するのに、
延べ何百人が働いてくれているんでしょう。
電気が送られてくるために。
パンを、コーヒーを口にするために、
日本だけじゃない、この地球の上にいる、
遠い遠い国の人が、働いてくれているんです。

そして、
わたしたちは、その人たちに、
それらを利用することでさやかな対価を支払い、
僅かでも、彼らのお役に立てているんですよね。

誰も、あなたのために、何もしてくれていませんか?
あなたは、ほんまに、誰の役にも立たへんのですか。
そんなことない。
あなたがそこにいて、
何かしら、生活をすることで、
あなたに助けてもらっている人はいてるんです。

あなたは、日々を暮らすだけで、
いつも、見たことのない誰かに、
助けてもらっているんですよ。



それでは不満ですか?
誰かの、たった一人になりたいですか。
だったら、努力です。
まずは、精一杯、自分のために、生きる努力。
それは途方もないパワーも、時間も必要とします。
それができて、ようやく、
誰かのたった一人になれるほどの、
努力ができる『スタート地点』に立てるんですよね。



生きるということは、
本当に努力の要ること。
でも、そうやって、歯をくいしばりながら、
時には泣いても、
大切なものは何なのか、
それを知って、生きている人を、
わたしは尊敬するし、憧れます。



先日、
妹の同級生の方が、
自ら命を断ち、
還らぬ人となってしまいました。

もしもどこかで、
そういうことをあなたが考えているなら、
少しだけ、ここに書いたようなことを、
考えてもらえたらなあ、と、思います。

『伝わる』ということ 【稚拙philosophy】1

2012-09-04 19:05:12 | 稚拙philosophy

 足りない言葉並べても
 本当のことは伝わらない
 優しいだけじゃ守れない
 正しいだけじゃ伝わらない

        (L'Arc~en~Ciel『bravery』)


この曲の詞自体衝撃的なんですけど、
(ちなみにわたしが好きなラルク曲トップ10に入る)
『伝わる』ということについて、
短くもズバッと核心をついた表現ですよね。

正しいだけじゃ伝わらない。

『正しさ』と、『伝わる』ということ。
ここでは、『伝わる』ということについて書こうと思います。
ていうのも、【序】で書いた通り、
「お前の言うてること分からへん」からスタートした企画(?)なので、
じゃあ、伝わるってどういうことなん、
と、自分なりに知恵を絞ってみようということで。



実は、『伝わる』ってことにはすっごい複雑なプロセスがあるんですよね。
わたしが、わたし以外の人に、
何かを伝えようとする行為にはいろんなもんがあって。
言葉、表情、しぐさ、とか。

わたしは「言うてることが分からん」て言われたので、
言葉で伝えるということについて考えてみました。


言葉で『伝わる』ためには、いくつかの段階があります。

まず「その言語を理解できること」、
つまり日本語が分かるかということがありますよね。
この場合の『分かる』ってレベルは、
りんごを見て、
「これは『りんご』や」って考えなくても、『りんご』って出てくるレベル。
「えーと『りんご』は…英語でapple…」
って、英語を使いこなせないわたしにはそういうワンクッションがあるんですけど、
それがない状態で、言語を理解してること。
そして、相手も同じ状態であること。
相手の「話が分かる」のに、最初に必要な段階ですよね。


それから「言葉が持つニュアンスが理解できること」
ちょっと難しくなってきますね。
最初の段階がクリアされてへんと、これがかなり難しくなる。
言葉のニュアンスて微妙ですし、
お互いが言語を理解していても、
世代によってこれが違ってくることもあります。
もし、言葉が持つニュアンスを、わたしと相手が違ったふうにとらえていたら、
「そんなつもりで言うたんじゃないのに…」
ていうことが起こることもあります。
ここらへんから、『伝えようとすること』と、
『実際に相手に伝わったこと』には、ギャップが生まれてきます。


今度は「相手が言うてることが、どういうことを意味してるのか、
自分の経験から推測して、理解すること」
こう書くとなんか小難しいですけど、
わたしらが普通に日常の中で、
相手の言うてることを理解している、ってことは、
実はこういうことなんですよね。

わたしたちは、
当然ですけど、『自分』を通してしか『経験すること』はできない。
つまり、わたしたちが『“実際に”知っていること』は、
『自分が経験したこと』でしかないわけです。

でも、実際に経験したことじゃなくても、
知ってることはいっぱいありますよね。
むしろ、自分が実際に経験したことよりも、
経験してなくても、知ってることの方がはるかに多いわけです。
たとえば、北極がめっちゃ寒いとこやとか。
国会議員っていう人たちは、国会議事堂で、難しいことを話し合ってるとか。
わたしは北極に行ったこともないし国会議員でもないけど、
そういうことは知ってる。

どうやって?

それは、メディアを通して見て知ってるものが大半です。
「北極がめっちゃ寒いとこ」っていうのは、
北極にテレビカメラを持ってってる人がいて、
そこの映像を、わたしが見て。
雪と氷がいっぱい映ってて、
そこにいる人は分厚い防寒着を着てて、吐く息がもっそい白い。
雪や氷が冷たいものっていうのは、
その冷たさを経験したことはあるから(せいぜいスキー場の雪ぐらいですけど)
わたしは「経験していて」知ってます。
それで、想像するわけです。

わたしが知ってる寒いとこより、もっといっぱい雪も氷もあるから、
北極ってきっとめっちゃ寒いんやろうな、
とか、
わたしが行ったことある寒いとこが、マイナス5度とかやったから、
マイナス40度って、きっとめっちゃ寒いんやろうな、
とか。

「想像する」って一言で言いましたが、それはつまり、
「自分の経験から推測して、理解する」
ってことなんですね。

今は映像について言うたんですけど、
これは、言葉についても同じようなメカニズムがあるんです。

相手の話してることは、
『自分が経験したこと』ではないわけです。
でも、その話を聞きながら、
わたしらは無意識に、
自分が経験し、感じ、考えたことを、
相手の言葉にあてはめて、理解しようとしているんです。


「朝電車乗るときさー、ホームで並んどったのに、
 電車が来たとたんにいきなり目の前に横入りしてくる人おって、
 つきとばされてさー、めっちゃ腹たったわー」

って友達がわたしに話すとして。

わたしは無意識に、自分の経験を、記憶の中からひっぱりだして、
頭の中で、そのシーンを再現するわけです。

混んでるけどそれなりに整然と人々が並んでる朝のホームで、
(もしかしたら人がまばらな駅を想像した人もいるかも知れません)
黙々と順番通りに電車に乗る人たち…
そこに、ふいに左から(これは右から、を想像してる人もいるでしょう)
おばちゃん(おっちゃんや若い人を想像した人もいるはず)がやってきて、
わたしに体当たりして、電車に乗ってもうた…
眠たくてダルくて早よ電車けーへんかなって待ってたとこに、
やっと電車来て、あーやっと乗れるって思ったのに、
どーんって当たられて順番抜かされたら、ムッとする。

「なにそれー、そうゆうのん腹たつよなー」

って返事するまでの、ほんの数秒の間に、
わたしの頭の中では、上のような作業が行われてるってことですよね。

これはわたしの経験からの想像やから、
カッコ書きにした、わたしの想像とは違う様子を想像した人も、
いっぱいいてはると思います。
その他にも「ホームで並んどった」列の人数の多さ。
ホームの広さ。
ボヤっと想像する、そういうものは、
想像するその人によって、多分全然違います。
でも、この話の結論には、
その部分の違いは大した意味を持たへんから、そこはスルーでいいわけです。

「順番抜かされて腹立った」話を理解するだけでも、
これだけのプロセスがあるんですね。



そう考えると、
人に、何かを説明して、
理解してもらうことって、
すっごい大変なことやと思いません???

自分の話を相手が理解してくれるかどうか、は、
話す側である自分が、ちゃんと説明できるかどうか、
ということも大事やけど、
相手がどういう経験をしていて、
どういう感じ方を持っていて、
わたしの話に、その中の、どれを当てはめたのか、
に、実は、大きく左右されてるんですよ。



例えば、もっと抽象的な…
あるいは、人によって『経験』そのものに大きな差が起こるようなことって、
めっちゃ難しいですよね。

さっきの北極の話やったら、
雪も氷も見たことのない国に住んでる人が考える『寒さ』と、
それを知ってる人が考える『寒さ』って、絶対違うはずですよね。

そして、【序】でわたしが書いたようなこと。
人と人との繋がり…人づきあいっていうこととか、
人を好きになるってどういうことなん、とかっていうのは、
考え方や、感じ方が、人によって絶対に違うんですよ。
そんで、それが、当たり前なんですよね。

「そもそもそういうこと考えたこともない」
って言われてもうたこともあるんですけど、
その人は、「その物事について考える」っていう『経験』もしてないわけです。

そんな相手に、
わたしが、わたしの話を理解してもらおうと思ったら、
どういうことが必要やったんやろう?

多分、話の途中途中で、
今の喩え、わかったんかな?とか、
どういう風に思ったんかな?って、
確認せなあかんかったんちゃうんかと。

それとか、
「●●っていうことについて、△△っていう風に感じる」
“だろう”、とか、“そう感じて当然”と、
“思い込んで”、話をしたらあかんのやなって。

その『思い込み』は、あくまで『わたしの個人的な経験』なんですよね。

けっこう、そういう『思い込み』による話のすれ違いって、
起こりやすいと思うんです。
だいたい、誰かとケンカになるときの原因って、
そういうこと多くないですか?(笑)
話の思い違いとか、いわゆる『誤解』って、そういうことですよね。

思い込みや思い違いに気付くのって、難しい。
でもね、
なんかね、「ん?」て思うことって、あるんですよ。
ないときもありますけどね(笑)
なんて言うか、こう、わたしの話に対しての相手の相槌が、
なんかちょっと違う、みたいな…ほんま微妙なんですけど、
モヤッとするんですよ(笑)
多分、そのモヤッとを、見逃さんようにすることが大事なんでしょうね。


そういうことも踏まえて、
理解してもらって、
その次に、ようやく『伝わる』が来ると思うんですよ。
言語の持つ細かい意味とかちょっとわたしアホやからようわからんので、
これは個人的な考え方なんですけどね、
『理解する』と『伝わる』は、ちょっと違うと思うんです。

言葉の意味を『理解』して、
その内容について(同意するかしないかは別として)『納得する』≒『伝わる』
みたいな感じなんちゃうかなーと…。
腑に落ちるっていうんですか、
ほう、そういうことか!って納得するっていうか。
なんでそうなる(考える)のか、理由から結果まで『納得する』、
みたいな…なんかうまく表現できひんのですけど。
自分がそうするかどうかとか、
自分がそう思うかどうかじゃないんです。
ただ、相手がそうする、そう思うってことについて、
なるほど、そういうことか、って思えるってこと。

そこまでいって、やっと『伝わる』んちゃうんかなって。



だれかに、考えを伝えようとするなら、
ほんまはすごい努力が要るんですね。
途中で諦めてもうたり、
なんで分かってくれへんのよ!ってイライラしたりしたら、
伝えたいことは、伝わらない。

あのね、
わたし一時期は、
「どうせ、人は自分以外の人の考えてることを、
 100パーセント分かることはできひんねんから、
 分かってもらおうとすることなんか無駄ちゃうん。
 そんな努力、めんどくさいわ」
って思ってたんです。若いときね。

でも、ほんまにそれでええんかなあって。
確かに100パーセントは絶対伝わらへんのですよ。
でも、努力すれば、50が60に、60が70になるとは思うんです。

自分が、ほんまはこう思ってるってこととか、
言われて嬉しいこととか、悲しいこととか。
相手が気付いてないことがいっぱいあって。

それが、ちょっとでもたくさん伝わったら、
ああっ、伝わった、
分かってもらえた、
って思うんです。

その気持ちって、
自分で思う以上に、結構、しあわせな気持ちなんですよね。



こういうことを自分で分かってはる人にとって、
わたしのこんな話は、
お前その歳で何当たり前の話しとるん、
て感じやと思うんですすいません…

でも、
わたしの周りにね、
ちょっと前のわたしがそうやったみたいに、
伝わったときのしあわせな気持ち…
分かってもらえたときのしあわせな感情を、
しらない人がおる、
そういう気がしたんですよね。

そんな人に、
ちょっと、こういうことについて、
考えて欲しいなあ、という気持ちも込めて書いた…んですけど、
出来る限り分かりやすく書いてみようと思ったんですけど、
分かんのかこれ…
(実は書き始めたの昼の1時過ぎですよ…どんだけ頭わるいの自分)


分かってもらえて当たり前、とか、
分かってくれへん相手が悪い、とか、
もし誰かに対して思ってたら(私も思ってたことあるから)、
ちょっと、
だまされたと思って、考えてもらえたらなー。


<ちなみに>

冒頭の歌詞は、伝えようとする努力が足りないって意味じゃなく、
むしろ、受け手側に、
伝わるだけの何か、が、足りてないってことなんちゃうかと思ってるんですけど、
どうですか?
「you have no bravery to know the truth」やから、
あえて、伝わらない状態であっても、かまわない、
そこには、
彼らの、優しさ、を感じるんです。わたしはね。