日常道場

現代人の道場手記

とらわれない

2010-11-24 13:13:23 | 日記
ここ最近、刀と絵のスランプ状態が続いていた。刀も絵も自分の身心の有様が如実に現れてしまうので誤摩化しがきかない、技術的なことはもちろん大事ではあるが、それよりも身心一如と言われる身体と心が一致した状態にならなければ、刀も絵も腑抜けたものになる。心が考え事などにとらわれていて、雑念妄想の中にさまよい、今この瞬間にいないことが習慣化していたようだ。
 日常生活の中では、心配事や気にかかることが常に発生してくる。しかし、まだ来ない未来のことや過ぎ去った過去などというものは、今この瞬間には存在しない。いくら大事なことのように思えても、それは現実を伴わない妄想である。
 そんなことを言ってはみても、ただ今この瞬間にいるというシンプルなことは簡単ではない、先日の稽古での黙想の時、師範がおっしゃっていたのは、とめどなく雑念妄想が湧いてくるのは当たり前だ、ただそれに気付いて姿勢や息に意識を戻せばよい。というようなことだった。
 何事にもとらわれない、今この瞬間に生き鼓動する身体と心が一致している。そんな当たり前のことが出来ない人間。それを徹底的に意識して無意識でも自然とそうなるようにしてゆく、なんだか自然の働きからはずれてしまった人間が、自然の働きに戻るリハビリをしているようだ。

インド

2010-10-27 12:56:13 | 日記
インドのナグプール、観光ガイドブックなどではほとんど見かけないこの地で、佐々井秀嶺という日本人僧侶が、インド仏教の復興に命を燃やしている。
 今回、佐々井師の尽力により、新しく建設された龍樹大寺の落慶法要に合わせ、日本武徳院師範による奉納演武、及び日本刀の奉納に伴い、ナグプールに行ってきた。
 ナグプール空港に降り立つと、そこにはアンベードカルの像が建っていた。アンベードカルはカーストの最下層の身分として生まれながら、ただならぬ志を持ち勉学に励み、政治と仏教の両側面から、カースト制度に虐げられている人々の生活面と精神面をリフトアップする活動を展開した。その意思を、現在佐々井師をはじめとするインドの僧侶達が引き継いでいる。
 インドラブッタビハールというお寺がナグプール仏教徒の活動の拠点であり、佐々井師もここで寝起きをしている。日本のお寺とは幾分おもむきが違い、コンクリート造りで天井の高い本堂には、ツバメが巣を作っており中空を舞い踊っている。その下で人々が何をする訳でもなく集って世間話をしていたり、仏像の前で法話をしていたり、空手の稽古をしていたりと、多目的な広場としても機能しているようで、大変親しみやすく開かれている。
 お寺を一歩出ると、子供達がきらきらした笑顔で集まって来て、町を案内してくれたり、サインをねだってきたりと大騒ぎになる。インドではお金や食べ物を子供達からねだられるということが常識的に語られているが、ここではサインをねだられる。子供達の身なりを見ると、決して裕福な暮らしをしているとは思えない、この町も元々はスラムだったと聞いた。
 カーストの最下層の人々は『不可触民』(現在は差別用語として使われていない)と呼ばれ。文字通り上位カーストの人々から不浄の者として扱われ、触ることすら拒まれ、共同の井戸から水を汲むことも許されないような不条理な暮らしを、生まれて死ぬまで突きつけられる。しかしそれは共同幻想でありマインドコントロールでもある。本来、人間は一人一人、生命体としての尊厳があり、そこには優劣の差など存在しない、佐々井師をはじめとするインド仏教の僧侶達は、そのことを時間をかけて説き、行動によって示し、何百年にわたる差別の因襲でがんじがらめにされた人々の心をほどき、生きる希望のエネルギーを沸き出させるに至っている。それがこの町の子供達の笑顔に現れているように感じた。
 ナグプール郊外に新設された龍樹大寺の脇に流れる小川に、綺麗な湧き水が湧いて、その中を稚魚の群れが生き生きと遊ぶように泳いでいた。小川の湧き水と今回体験したナグプールの仏教運動が重なって観えた。インドという大きな濁流のようなエネルギーの中で、ありのままの自然を体現し、自らのエネルギーを清く美しく保つことは、なみなみならぬ信念と努力が必要とされるであろう、人の心が変われば行動も変わり環境も変わる。もちろん人間は綺麗ごとだけで生きられない、しかし憎み合って不安の中生きるより、お互い信頼し合い笑い合って生きる方が本質的に楽ではないのか。
 人の我欲が地球上のあらゆるる所で濁流のようになり氾濫して、地球規模で歪みが出て来ているこの時代、その巨大な力に対して小さな湧き水はあっという間に濁流に呑み込まれてしまうかもしれない、しかし己の中の清らかな湧き水を自覚して、それを惜しみなく流れ出るにまかせ、それを絶やさない覚悟を持って生きることは、見方によってはバカらしい不毛な努力に見えるかもしれないが、とても価値のある生き方だと思えた。
 
 
 
 
 

 

 

 
 
 

しんさん

2010-09-24 19:02:36 | 日記
以前働いていた硝子屋の親方のしんさんが、膵臓の癌で入院した。先日久しぶりに電話があり、「暇だから俺も絵を描きたい。」と言った。さっそく、スケッチブックと鉛筆と花を持って見舞いに行った。
 久しぶりに会ったしんさんはガリガリに痩せてミイラのようになっていた。膵臓癌と併発して、胃に潰瘍ができ、三ヶ月間点滴だけで栄養を取り、飯を食っていないという。
 花瓶に花を生けて、スケッチブックと鉛筆を渡すと、しんさんは黙々と鉛筆を走らせ、花を描き始めた。しんさんは人からものを教わるということをしない、大体のことを自分流にやってしまう。
 絵を描いているしんさんを観ていると、とても病人とは思えない集中力を発揮している。僕はしんさんの顔を描くことにした。ガリガリに痩せているが、眼光は鋭く、口元はぐっと引き締まっている。ものすごい力強さを感じた。
 この力強さとは、いったいなんなのだろうかと思った。僕の少ない言葉のボキャブラリーの中から、当てはまる言葉を探すとしたら「生命力」という言葉くらいしか見つからない。
 ふと、僕が刀を通して、そしてこの人生を通して鍛えていこうとしているものも、この「生命力」に通じるものであることを確信した。

初心

2010-09-07 17:41:21 | 日記
一年前まで使っていた模擬刀を、久しぶりに振ってみた。すると、意外なことに刃筋が悪くなっていることに気が付いた。
 真剣を持って約一年、道場にも大分慣れて来た。ある程度斬れるようになって来たので、慢心して中弛みしているようである。
 最近師範も、僕の慢心を見抜き、それとなく指摘してくれているように感じる。
日常では、流れに乗っているのは良いのだが、肝心な絵の鍛錬に手がつけられていない、という状況である。日常と道場は繋がっている。日常生活の状態が、刀に出る。
ここらで一度、初心に還り、改めて自分を静かに見直してみる必要がありそうだ。


 

祭り

2010-08-20 09:30:00 | 日記
近年、R type L という、イベントなどでのデコレーションをするアートチームの仕事を手伝っている。R type Lのデコレーションのやり方は、工事現場などで使う足場資材の単管で構造を造り、そこに廃材を利用したパーツや布、現場で取れる落ち木や大振りの葉、などを組み合わせ作品を構成していく、時に構造の高さが20m位にもなる大掛かりなものだ。
 作業内容としては工事現場に近い、肉体労働である。昼夜を問わず、だいたい三日~四日くらいかけて作業を進め、イベントが始まるギリギリまで、時には開催中も何か付け足したりしている。だから、肉体的にも精神的にも、自分の限界だと思い込んでいるところを軽く超えてしまう、しかし、限界を超えると普段では使わないようなエネルギーがどこからか湧いて来て、どんなに疲れていても動けてしまうから不思議である。それが充実感を伴い、とても楽しいのだ。
パーティー、イベント、フェスティバル、日本語にざっくり訳せば、『祭り』である。一晩、長くて三日間くらいの時間のために全精力を注ぎ込む、非日常な時空間を造り上げ、その中で日常生活では表現できないものを吐き出して、自分をリセットする。かたちとしては後には何も残らない、残るのは現場にいた人々の体験としてである。
 チベットの密教に、砂曼荼羅という儀式がある。極彩色の砂で、緻密な模様を精魂込めて描き上げ、完成したらそれを崩し、壷に納めて川に流す。
 祭りもそれに近いと思う、いつも祭りの後はせつない気持ちになる。それは刹那を感じて、『刹那い』のかな、なんて思ったりもする。しかし思いっきり吐き出した後にできた空洞に、また新しい何かが流れ込んで来るのを感じる。深呼吸するみたいに。