「たま」は、密かに僕が最も愛してやまないバンドである。
とりあえず、詳細をウィキペディアで確認してみる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%BE_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)
僕は幼かったので知らないが、彼らは「イカ天」というテレビ番組でブレイクし、その後、「さよなら人類」のヒットによって世間に知られることとなる。
僕が小学生のころ、作文のコンクールに入賞し、その賞として沖縄旅行に初めて行ったとき、行く先々で、乗るバスの中で、ひたすら「さよなら人類」がヘビーローテーションされていて、幼い僕の脳裏に深く焼きつけられることとなる。
しかし、その後、しばらくは「たま」のことを忘れて日々を生きる。
高専に進学したとき、寮生活の中で、同級生の寮生に、ふと「たま」の「さよなら人類」の話をしたところ、彼が
「CD持ってるで。あげようか?」
と言って、シングルCDをくれた。
そのCDで再び「さよなら人類」と「らんちう」を聴いて、その世界にとらわれてしまった。
「たま」の魅力とは何か?
人それぞれ違うと思うが、僕は、「たま」というバンドの魅力は、音楽という分野にSF(サイエンス・フィクションではなく、サイエンス・ファンタジー)と不条理が融合した独特の世界観を構築し、そこにリアルなかなしみや、欲望(本能的な、または性的な)を叩き込んだことにあるのではないかと思う。
音楽という分野において、ラブソング、バラード、ロック、ブルースなど、愛や社会的な反抗を歌ったものは数知れずあるが、それらとは全く無関係に、不条理なSF的世界を構築して、独特なメロディで歌いあげる。
そんなバンドが、「たま」と名乗り、初めて生まれたのではないか。
そして、一般的には「たま」は「さよなら人類」一発で終わったバンドだと認識されているようだが、非常に息の長い活動を続けて、そして現在も解散しつつもそれぞれのメンバーが活動し続けている。
これはすごいことだと思う。
小説や漫画、アニメの世界では、「アド・バード」の椎名誠(彼は「岳物語」やエッセイで有名だが、この作品をはじめとする初期のSF小説が僕は好きだ。)や、「アキラ」の大友克洋(彼もまた、いろいろと実験的でジャンクなショートSF漫画を描いている。)、「ナウシカ」の宮崎駿など、近未来の退廃とした世界を描くSF作品が流行していた。
しかし、音楽の世界でそれを表現しようとしたのは、僕の知る限り、「たま」が最初で最後なのではないだろうか。
当然、「たま」の「さよなら人類」のヒットに触発されて、フォロワー的なバンドがいくつか生まれ、そうだと思われるCDを中古で買って聴いてみたが、詞の深さ、音楽性、すべてにおいて「たま」は圧倒している。
僕は、「さよなら人類」のCDをきっかけに、たまたま高専の図書館にアルバム「きゃべつ」があったので借りて聴き、さらにその世界観にはまりこむことになる。
そして中古CDショップで「さんだる」が500円で売っていて、買って聴きこんだ。「さよなら人類」の別バージョンおよび「らんちう」を含む、「たま」のメディア的な一つの栄光期のアルバムだろう。どの曲もいい!
ちなみに母はイカ天時代の「たま」をリアルタイムで見ていたらしく、
「私は『ロシヤのパン』が好き。」
と言っていた。
家族的に「たま」が好きだったのは珍しいかもしれない・・・
そしてアルバム「たま」をニューアルバムとして初めて買うことになる。
この中には、アニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマとして一時期流れていた、「あっけにとられた時のうた」が入っている。
シングル版「あっけにとられた時のうた」のカップリング曲である「あるぴの」がちょうど知久寿焼氏歌・作詞作曲である。
「あるぴの」とはアルビノのウーパールーパーのことらしいと調べてわかったが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%91%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%99%82%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9F
が、それを知らずにこの詞
http://gakufu.gakki.me/m/data/DT03970.html
を知久氏の歌にのせて聴いていると、人類が楽しみのために生み出した生物に対する謝罪、子供のまま子供を産み子供のまま死んでいくという「若さ」だけは手に入れたが、結局不老不死を手にすることができない科学技術の限界。そして自分が造り出した生物に対して自分は神だといいながらも、逆にそのいびつな生物が自分の神であると受け入れる寛容さを示しているという妄想を僕はいだいてしまう。
オカシイのかもしれないが・・・
しかし、古来、トランス状態になるシャーマンなどは、神との交信者としてあがめられつつ、隔離されて生きてきた。その中には、精神的、知的障害を持った者も多かったという話も聞く。
ある物差しによってはかられ、そこからずれたものを障害者などと呼び切り捨てていく現代社会に対して、あがめつつ隔離するという古来の形があり、さらに未来には、人が異能者を造り出す可能性があり、それをどう受け止めていくかという問いかけが、同じく人がたまたまもてはやしたアルビノのウーパールーパーの歌としてなされているのではないかとさらに妄想を膨らませてしまう。
ちなみに、同アルバムに収められている同じく知久寿焼氏歌・作詞作曲の「ねむれないさめ」に触発されて、僕は自分の作品である詩画集の一つ、「停止」を描いた。
止まると死んでしまう、ねむれないさめ。ちょうど自分がワーカホリック気味だったときに、仕事やなんやかんやに追いかけられて苦しんでいて、でも走ることをやめられない。でも自分が走るから追いかけられるんじゃないか?追いかけているのはひょっとしたら自分の背中なんじゃないか?そんなことを考えて詩を描いて、「ねむれないさめ」のビジョンが浮かんで、絵が生まれた。
バンド「たま」は僕の想像力の触発に深い影響を与えている。
ミラーボールのように、カットされたダイヤやぎやまんのように、玉虫のように、光の当て方によっていろいろな姿が見え、僕の妄想を加速させていく・・・それがとても好きだ。
「たま」のCDはなかなか売っていないので、他のアルバム「ひるね」「ろけっと」「犬の約束」はiTuneで購入した。本当はCDがほしいのでAmazonで探してみたいと思っているが・・・
ちなみに、本来、バンド「たま」は
知久寿焼=ボーカル、ギター、マンドリン、ウクレレ、ハーモニカ
柳原幼一郎(現:陽一郎)=ボーカル、キーボード(オルガン、ピアノ、アコーディオン、鍵盤ハーモニカなど)、ギター
石川浩司=ボーカル、パーカッション、オルガン、笛
滝本晃司=ボーカル、ベース
の4人構成で、一人一人がそれぞれ均等に作詞作曲し、歌う形をとっている。
だから4人それぞれの個性が曲に出ていて面白い。
有名なのは今回初めてライブを聴く知久寿焼氏と、「さよなら人類」の歌・作詞作曲の柳原幼一郎氏だが、やはり二人ともテイスト的にはよく似たものを感じる。
僕が好きなのもやはりこの二人の曲だ。
どちらかというと、柳原幼一郎氏はSF色が濃く、リズミカルな感じだ。
対して、知久寿焼氏は、SF的な要素もありつつ、普遍的な要素もあり、よりかなしみの感情を深く、独特の声とリズムで歌いあげる。
おそらく「たま」の中で、もっとも「かなしみ」の感情を表現しようとしている思いが強いのではないだろうか。彼の曲「ねむけざましのうた」で、白い犬を亡くした飼い主が、両腕で犬を抱き上げたので、鼻もふけません。といった歌詞が出てくる。飼い主は、犬が亡くなった悲しみで泣き、鼻水が止まらない状態を、その後も続けて詩的に表現している。
ちょうどこの歌を聴いたときに、最愛の犬を亡くされた方がいらっしゃったので、その方の悲しみを思いながら聴いた。
どちらもいい感じにやわらかいというかゆるいが、豆腐でいうと木綿豆腐と絹ごし豆腐みたいな感じだろうか?
石川浩司氏は、例えると爆弾みたいなものだ。その容姿から、ダウンタウンに「たまのランニング」と呼ばれるぐらい押しの強い恰好をしているが、音楽も強烈だ。強烈かつ「全裸でゴ・ゴ・ゴー」のようにむき出しではじけ飛んでくるので正直ちょっと苦手だ・・・
しかし、他のボーカルのバックに回った時のパーカッションと合いの手の絶妙さは天才的だと思う。いろいろな楽器を使いこなすし・・・
滝本晃司氏は、例えるとこう、甘くて苦い正露丸糖衣Aみたいな感じかな・・・
ちょっと甘くキザな感じの歌い方で、毒のある歌を歌う。
メンバーの中では3番目に好きだ。
とまあながながと語ってきましたが、バンド「たま」の中でどの曲が好き?と聞かれるといろいろ迷うのですが、ふと口ずさんでいるぐらい入っている曲は、今回ライブを聴きにいく知久寿焼氏歌・作詞作曲の「おるがん」だったりします。
http://www.youtube.com/watch?v=AdAtG3YVNTA
まあ何を書いているのか理解できない人が大半だと思いますが、とりあえず文章の長さで、僕の「たま」に対する、知久寿焼氏に対する一方的な思いと、明日のライブをどれぐらい楽しみにしているかをわかっていただけると?幸いです・・・
とりあえず、詳細をウィキペディアで確認してみる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%BE_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)
僕は幼かったので知らないが、彼らは「イカ天」というテレビ番組でブレイクし、その後、「さよなら人類」のヒットによって世間に知られることとなる。
僕が小学生のころ、作文のコンクールに入賞し、その賞として沖縄旅行に初めて行ったとき、行く先々で、乗るバスの中で、ひたすら「さよなら人類」がヘビーローテーションされていて、幼い僕の脳裏に深く焼きつけられることとなる。
しかし、その後、しばらくは「たま」のことを忘れて日々を生きる。
高専に進学したとき、寮生活の中で、同級生の寮生に、ふと「たま」の「さよなら人類」の話をしたところ、彼が
「CD持ってるで。あげようか?」
と言って、シングルCDをくれた。
そのCDで再び「さよなら人類」と「らんちう」を聴いて、その世界にとらわれてしまった。
「たま」の魅力とは何か?
人それぞれ違うと思うが、僕は、「たま」というバンドの魅力は、音楽という分野にSF(サイエンス・フィクションではなく、サイエンス・ファンタジー)と不条理が融合した独特の世界観を構築し、そこにリアルなかなしみや、欲望(本能的な、または性的な)を叩き込んだことにあるのではないかと思う。
音楽という分野において、ラブソング、バラード、ロック、ブルースなど、愛や社会的な反抗を歌ったものは数知れずあるが、それらとは全く無関係に、不条理なSF的世界を構築して、独特なメロディで歌いあげる。
そんなバンドが、「たま」と名乗り、初めて生まれたのではないか。
そして、一般的には「たま」は「さよなら人類」一発で終わったバンドだと認識されているようだが、非常に息の長い活動を続けて、そして現在も解散しつつもそれぞれのメンバーが活動し続けている。
これはすごいことだと思う。
小説や漫画、アニメの世界では、「アド・バード」の椎名誠(彼は「岳物語」やエッセイで有名だが、この作品をはじめとする初期のSF小説が僕は好きだ。)や、「アキラ」の大友克洋(彼もまた、いろいろと実験的でジャンクなショートSF漫画を描いている。)、「ナウシカ」の宮崎駿など、近未来の退廃とした世界を描くSF作品が流行していた。
しかし、音楽の世界でそれを表現しようとしたのは、僕の知る限り、「たま」が最初で最後なのではないだろうか。
当然、「たま」の「さよなら人類」のヒットに触発されて、フォロワー的なバンドがいくつか生まれ、そうだと思われるCDを中古で買って聴いてみたが、詞の深さ、音楽性、すべてにおいて「たま」は圧倒している。
僕は、「さよなら人類」のCDをきっかけに、たまたま高専の図書館にアルバム「きゃべつ」があったので借りて聴き、さらにその世界観にはまりこむことになる。
そして中古CDショップで「さんだる」が500円で売っていて、買って聴きこんだ。「さよなら人類」の別バージョンおよび「らんちう」を含む、「たま」のメディア的な一つの栄光期のアルバムだろう。どの曲もいい!
ちなみに母はイカ天時代の「たま」をリアルタイムで見ていたらしく、
「私は『ロシヤのパン』が好き。」
と言っていた。
家族的に「たま」が好きだったのは珍しいかもしれない・・・
そしてアルバム「たま」をニューアルバムとして初めて買うことになる。
この中には、アニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマとして一時期流れていた、「あっけにとられた時のうた」が入っている。
シングル版「あっけにとられた時のうた」のカップリング曲である「あるぴの」がちょうど知久寿焼氏歌・作詞作曲である。
「あるぴの」とはアルビノのウーパールーパーのことらしいと調べてわかったが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%91%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%99%82%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9F
が、それを知らずにこの詞
http://gakufu.gakki.me/m/data/DT03970.html
を知久氏の歌にのせて聴いていると、人類が楽しみのために生み出した生物に対する謝罪、子供のまま子供を産み子供のまま死んでいくという「若さ」だけは手に入れたが、結局不老不死を手にすることができない科学技術の限界。そして自分が造り出した生物に対して自分は神だといいながらも、逆にそのいびつな生物が自分の神であると受け入れる寛容さを示しているという妄想を僕はいだいてしまう。
オカシイのかもしれないが・・・
しかし、古来、トランス状態になるシャーマンなどは、神との交信者としてあがめられつつ、隔離されて生きてきた。その中には、精神的、知的障害を持った者も多かったという話も聞く。
ある物差しによってはかられ、そこからずれたものを障害者などと呼び切り捨てていく現代社会に対して、あがめつつ隔離するという古来の形があり、さらに未来には、人が異能者を造り出す可能性があり、それをどう受け止めていくかという問いかけが、同じく人がたまたまもてはやしたアルビノのウーパールーパーの歌としてなされているのではないかとさらに妄想を膨らませてしまう。
ちなみに、同アルバムに収められている同じく知久寿焼氏歌・作詞作曲の「ねむれないさめ」に触発されて、僕は自分の作品である詩画集の一つ、「停止」を描いた。
止まると死んでしまう、ねむれないさめ。ちょうど自分がワーカホリック気味だったときに、仕事やなんやかんやに追いかけられて苦しんでいて、でも走ることをやめられない。でも自分が走るから追いかけられるんじゃないか?追いかけているのはひょっとしたら自分の背中なんじゃないか?そんなことを考えて詩を描いて、「ねむれないさめ」のビジョンが浮かんで、絵が生まれた。
バンド「たま」は僕の想像力の触発に深い影響を与えている。
ミラーボールのように、カットされたダイヤやぎやまんのように、玉虫のように、光の当て方によっていろいろな姿が見え、僕の妄想を加速させていく・・・それがとても好きだ。
「たま」のCDはなかなか売っていないので、他のアルバム「ひるね」「ろけっと」「犬の約束」はiTuneで購入した。本当はCDがほしいのでAmazonで探してみたいと思っているが・・・
ちなみに、本来、バンド「たま」は
知久寿焼=ボーカル、ギター、マンドリン、ウクレレ、ハーモニカ
柳原幼一郎(現:陽一郎)=ボーカル、キーボード(オルガン、ピアノ、アコーディオン、鍵盤ハーモニカなど)、ギター
石川浩司=ボーカル、パーカッション、オルガン、笛
滝本晃司=ボーカル、ベース
の4人構成で、一人一人がそれぞれ均等に作詞作曲し、歌う形をとっている。
だから4人それぞれの個性が曲に出ていて面白い。
有名なのは今回初めてライブを聴く知久寿焼氏と、「さよなら人類」の歌・作詞作曲の柳原幼一郎氏だが、やはり二人ともテイスト的にはよく似たものを感じる。
僕が好きなのもやはりこの二人の曲だ。
どちらかというと、柳原幼一郎氏はSF色が濃く、リズミカルな感じだ。
対して、知久寿焼氏は、SF的な要素もありつつ、普遍的な要素もあり、よりかなしみの感情を深く、独特の声とリズムで歌いあげる。
おそらく「たま」の中で、もっとも「かなしみ」の感情を表現しようとしている思いが強いのではないだろうか。彼の曲「ねむけざましのうた」で、白い犬を亡くした飼い主が、両腕で犬を抱き上げたので、鼻もふけません。といった歌詞が出てくる。飼い主は、犬が亡くなった悲しみで泣き、鼻水が止まらない状態を、その後も続けて詩的に表現している。
ちょうどこの歌を聴いたときに、最愛の犬を亡くされた方がいらっしゃったので、その方の悲しみを思いながら聴いた。
どちらもいい感じにやわらかいというかゆるいが、豆腐でいうと木綿豆腐と絹ごし豆腐みたいな感じだろうか?
石川浩司氏は、例えると爆弾みたいなものだ。その容姿から、ダウンタウンに「たまのランニング」と呼ばれるぐらい押しの強い恰好をしているが、音楽も強烈だ。強烈かつ「全裸でゴ・ゴ・ゴー」のようにむき出しではじけ飛んでくるので正直ちょっと苦手だ・・・
しかし、他のボーカルのバックに回った時のパーカッションと合いの手の絶妙さは天才的だと思う。いろいろな楽器を使いこなすし・・・
滝本晃司氏は、例えるとこう、甘くて苦い正露丸糖衣Aみたいな感じかな・・・
ちょっと甘くキザな感じの歌い方で、毒のある歌を歌う。
メンバーの中では3番目に好きだ。
とまあながながと語ってきましたが、バンド「たま」の中でどの曲が好き?と聞かれるといろいろ迷うのですが、ふと口ずさんでいるぐらい入っている曲は、今回ライブを聴きにいく知久寿焼氏歌・作詞作曲の「おるがん」だったりします。
http://www.youtube.com/watch?v=AdAtG3YVNTA
まあ何を書いているのか理解できない人が大半だと思いますが、とりあえず文章の長さで、僕の「たま」に対する、知久寿焼氏に対する一方的な思いと、明日のライブをどれぐらい楽しみにしているかをわかっていただけると?幸いです・・・
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