遺書
二十二名の私たちが自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかし御迷惑と深くお詫び申し上げます。私たちは敗れたりといえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の土に止り、日本が再びこの地に還って来る日、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、この満州の土にして下さい。
昭和二十一年六月二十一日
旧満洲新京
通化路第八紅軍病院
荒川さつき 池本公代 石川貞子
井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ
大島花枝 大塚てる 柿沼昌子
川端しづ 五戸 久 坂口千恵子
相良みさえ 澤口一子 沢田八重
澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ
杉まり子 松永はる 田村 馨
垂水よし子 中村三好 服部律子
林 千代 林 律子 古内喜美子
細川たか子 森本千代 山崎とき子
吉川芳子 渡辺静子
看護婦長 堀喜身子
【青葉慈蔵尊由来】(墓石裏の文章)
中村武彦様 記す
昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が抑留され勤務していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受け その九名の消息も不明のまま更に四回目三名の派遣を命ぜられた 拒否することは不可能であることを覚悟したその夜 最初に派遣された大島看護婦が満身創痍瀕死の身を以って逃げ帰り 全員堪え難い凌辱を受けている惨状を報告して息絶えた 慟哭してこれを葬った二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く 制服制帽整然として枕を並べて自決した
先に拉致された同僚たちも 恨みを呑んで自ら悲惨なる運命を選び 満州の土と消えた
二十三年の暮 堀看護婦長に抱かれて帰国した二十二柱の遺骨は 幾辛酸の末 漸く青葉園園主の義侠により此地に建立された青葉慈蔵尊の台下に納められた 九名の友の霊も合わせ祀られ 昭和三十一年六月二十一日開眼供養が行われて今日に至った
凛烈たる自決の死によってソ連軍の暴戻に抗議し 日本女性の誇りと純潔を守り抜いた白衣の天使たちの芳魂 とこしなえに此処に眠る 合掌