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神武天皇詔勅謹解08

2006-04-09 14:18:43 | 神武天皇詔勅謹解
 この詔敕は、九州の地を發して以來の事を述べさせられ、又、當時の民情を詳にせられて、ここに帝位に即いて統治せらるべき御趣旨を述べさせられて居る。今便宜三節に分つて、その御趣旨を述べよう。初から「大壯を規り摹るべし。」までが第一節で、九州御出發以來、天つ神の御威に依つて兇徒を討伐し、中央の地方を御平定になつたことを述べられ、當に都を定め宮殿を建造すべしとの御趣旨を述べさせられて居る。次に「今運此の屯蒙に屬ひ。」から「正しきを養ひ給ひし心を弘めむ。」まで第二節で、時代のまだ早しくて民心が醇樸である事を述べられ、帝皇として制を立てるのは時機に從ぐべし、民を利す事があらば、これを行ふべしとし、帝位にお即きになつて天つ神の國を授けになつた御にお答へ申し上げ、更に天孫の正しき道を養ひになつた御心を廣めようとの御趣旨を述べさせられて居る。次に「然して後に、」以下第三節で、更に進んでは國土を併せて都を開き、天下を掩うて家となすもよからずやとし、畝傍山の東南の橿原の地を以つて國の中心として、此處に都せらるべき御趣旨を述べさせられて居る。今更に各節に亘つてこの詔敕の意義を明にしよう。
 第一節、大意、日向國を發して東に向つてから茲に六年である。天つ神の御威に依つて兇徒が誅伐せられた。片田舍は未だ鎮まらず、殘つて居る賊が猶強猛であるけれども、中央の國には騷亂が無くなつた。誠に帝都を雄大しに、宮殿を建設すべきである。
 この詔敕を降された紀元前二年は、己未年であるから、日向を御出發になつた甲寅年から六年になる。斯くして大和を中心とする地方が既に平靜に歸したので、茲に帝都を定め宮城を御造營になるべきであるといふ意味をお述べになつて居る。餘の妖尚梗しとは、兇徒にして今だ皇軍の征討を蒙らざる者の殘つて居る事をお仰せられて居る。梗は勇猛にして荒き事を言ふ。恢廓は恢弘と同じく、雄大にする事である。大壯は易經にある語で、宮殿の壯大なるものを言ふ。斯くの如く帝都を定め宮殿を營まれるのは、天下統治の基礎としてその中心をお定めになる御義である。

神武天皇詔勅謹解07

2006-04-09 14:18:28 | 神武天皇詔勅謹解
 當時の大阪灣附近は、今日の淀川と大和川とが河內國に於いて合流して居つたものと傳へられ、これを溯つて御船は直に草香山の麓に御到著になつたのである。當時の大和國の事情は、上揭の詔敕にも見えるやうに、小勢力分立を為し、各各相爭つて居たものである。今當時の重なものを舉げて見ると、鳥見(生駒郡)の地に長髓彥があり、宇陀の地に兄滑・弟猾があり、磯城の地に兄磯城・弟磯城があり、その外八十梟帥等、各地に賊徒が割據して居つた。そこで四月に孔舍衛坂の戰があり、皇兄五命は賊の流矢に當つて傷かれた。天皇は天照大神の御子にましまして、今東の方、日に面して戰ふ事良からずとされ、更に南の方に迂迴せられて、紀伊國を經て大和國に入らうとせられた。その途中、紀伊國の雄水門に於いて五命は遂に薨去せられた。斯くて熊野の地を經て大和國に入り、各地の賊徒を順次御討伐になつた。
 斯くて紀元前二年三月に至つてほぼ國內平定の事が成つたので、玆に詔敕を降して、更に天下統治の御精神を宣揚せられた。その文中、八紘を掩ひて宇と為すの句があるので、八紘一宇の詔敕と稱し奉りこともある。今その詔敕を次に紀し奉る。

  我東を征ちしよりここに六年なり。皇天の威をりて、凶徒就戮さえき。邊の土今だ未だ清まらず、餘の妖尚梗しといへども、中洲の地に復風塵無し。誠に皇都を恢廓めて、大壯を規り摹るべし。今運此の屯蒙に屬ひ民の心朴素なり。巢に棲み穴に住む、習俗惟常となれり。夫大人の制を立つるは、義必時に隨ふ。茍も民に利きこと有らば、何ぞ聖の造に違はむ。且山林を披き拂ひ、宮室を經營りて恭みて寶位に臨みて元元を鎮むべし。上は天靈の國を授け給ひてに答へ、,下は皇孫の正之しきを養ひし心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇と為さむこと、亦可からずや。夫の畝傍山の東南の橿原の地を觀れば、蓋し國の墺區か。治らすべし。


神武天皇詔勅謹解06

2006-04-09 14:18:14 | 神武天皇詔勅謹解
この詔敕は、將に日向を發して御東征の途にお上りにならうとして發せられた所であつて、天つ神が天孫にこの國を授けになつた事より說き起され、その天孫降臨の御精神を實地に當つて行はうとする御趣旨に拜せられる。神武天皇御一代の大業は、全くこの詔敕の御趣旨を實行せられたものと拜察し奉るのである。『古事記』『日本書紀』の如き最古の歷史書に於いては、神武天皇の御事を「天つ神の御子」と申し上げてゐる。その御方が此の國に御出現になり、天皇としての大業を行はせられるのは、高天原から天つ神の御命をお受けになつて御出現になつたものであり、或る意味に於いては、天孫降臨の御事蹟を再び此處に實現せられたものと申し奉る事が出來るのである。今、神武天皇御即位の年を記念し、その御事蹟を仰ぎ奉るに當つて、玆に先づその大方針とも申すべき詔敕を拜誦し奉るのは非常に大きな意味がある事である。


三、紀元前二年の詔敕
 神武天皇が上揭した詔敕をお降しになつたのは、甲寅の年であつて、實に紀元前七年の事であつた。その年直に、諸皇子及び舟師を率ゐて御東征の途にお上りになつた。十月に御出船になり、速吹の門を經て筑紫の菟狹にお著きになつた。速吹の門は今日の豐後水道で、菟狹は大分縣宇佐である。十一月筑紫の崗の水門に到り、十二月には安藝國の埃宮においでになつた。翌年三月には吉備國に入り、高嶋宮にましました。これは今日岡山縣に屬して居る。そこで更に準備を整へられ、紀元前三年の二月に難波崎に到り、三月河內國の白肩津に御船が到著した。この間詳細な記事の傳はつてゐるのは無いが、やはり處處の土民を心服せしめられたものと拜察される。

神武天皇詔勅謹解05

2006-04-09 14:17:59 | 神武天皇詔勅謹解
 第三節、大意、斯くの如くにして今鹽土老翁に聞いた事である。これより東方に善き國があつて、青青とした山が四方に周つて居る。その中に天の磐船に乘つて飛び降りた神があると言つて居つた。そこで思召されるには、その國は必天皇統治の大業を廣大にし、天下に威風を示すに足りるであらう。思ふにそれは國土の中心であらうか。その飛び降りた神は饒速日命であらう。その地に赴いてこれを帝都と為すべきである。
 鹽土老翁とは、鹽は海水、土(ち)は尊稱で、いかづち(武甕槌神‧雷)、かぐつち(軻遇突智‧火)と同じである。海水を尊稱して言ふ。海水は全世界到る處の海濱にうち寄せる物であつて、自然世界の事情、殊にその地理的知識に通達して居る者として、これを人格化して言ふのである。曾つて彥火火出見尊が海濱に徘徊せられた時にも、この神が海神の宮へと御案內申したと傳へて居る。この老翁の言に聞くにと仰せられてゐるのは、天皇が、例へば漁夫の者などから御知識を得させられて居るのを、有識者といふ意味に代表的な者の名を舉げさせられたのである。東に美しき地ありといふのは、本州の事であるが、主としてその中の大和の國をお指しになつて居る。天磐船に乘つて飛び降る者があるとは、後の文に「謂ふに饒速日か。」とあるやうに、饒速日命の事である。この神は、系譜は未詳であるが、忍穗耳尊の御子とも傳へてゐる。天磐船は堅固な船の意味で、古代の船は多く楠材等で造るから、磐楠船などとも言ふ。船に乘り海を航して到り著いたのを、神話の形で、天から飛び降りたといふ現し方をなされてゐる。饒速日命は、河內國の河上の哮峰にお降りになり、大和國の鳥見の白庭山に移り、長髓彥の妹を娶つて、その主君として仰がれたが、後に長髓彥の皇軍に敵對するのを憎まれ、これを誅して歸順せられた。その子孫は物部氏である。元來この方が、大和國に降られたのは、神武天皇の御出現をお慕ひ申し上げて、先づその國に降つたのだと傳へられて居る。天業を恢弘するとは、天業は天神のお授けになつた大業の意で、天下御統治の聖業をいふ。恢弘は何れも廣くする意味の語で、天皇としての聖業は雄大に擴張せられる義である。天下に光宅するとは、光は大、宅は居で、堂堂としてまします義である。六合は、天地及び東西南北の四方で、六合の中心とは、天下の中心といふが如き意である。以上は大和國は天下の中心であり、且美しき國土であることを述べさせられ、そこにお移になつて、天下統治の大業を完成させられようとする御趣旨をお示しなつたものである。
 この詔敕は、將に日向を發して御東征の途にお上りにならうとして發せられた所であつて、天つ神が天孫にこの國を授けになつた事より說き起され、その天孫降臨の御精神を實地に當つて行はうとする御趣旨に拜せられる。神武天皇御一代の大業は、全くこの詔敕の御趣旨を實行せられたものと拜察し奉るのである。『古事記』『日本書紀』の如き最古の歷史書に於いては、神武天皇の御事を「天つ神の御子」と申し上げてゐる。その御方が此の國に御出現になり、天皇としての大業を行はせられるのは、高天原から天つ神の御命をお受けになつて御出現になつたものであり、或る意味に於いては、天孫降臨の御事蹟を再び此處に實現せられたものと申し奉る事が出來るのである。今、神武天皇御即位の年を記念し、その御事蹟を仰ぎ奉るに當つて、玆に先づその大方針とも申すべき詔敕を拜誦し奉るのは非常に大きな意味がある事である。

神武天皇詔勅謹解04

2006-04-09 14:17:42 | 神武天皇詔勅謹解
 高皇產靈尊は、天地の初に御出現になつた御方で、萬物の出現を司る尊き神である。天照大神の御子なる天忍穗耳尊が、この高皇產靈尊の御女栲幡千千姬尊をお妃として、御子瓊瓊杵尊を產まれたのである。この御緣故で、この神は天孫を非常に御寵愛あらせられて居る。それでの敕語の中にもこの御方の名が舉がられて居るのである。又萬物を產み出すこの神の御は、天照大神の御の一面を現したものとも考へられるのであつて、瓊瓊杵尊が高千穗の峰に御降臨になつた事は、即、この國に御出現になつた事になるから、この神の御威の現れたものであるとも見られるのである。大日孁尊は天照大神の御事である。天の關を闢きとは、高天原からの御通路に當る門戶をお開きになる事である。雲路を披きてとは、高天の原からの御降臨になるのに、すべて天からお降りになるといふ形で神話が說かれて居るので、雲の道を押し分けてといふ意味に仰せられて居る。仙蹕を駈せて戾りますとは、仙蹕とは、御行列の前を聲を掛けて拂ふ事で、先驅の者を差し立ててお降りになつたといふ事である。運は鴻荒に屬ひ時は草昧に鍾るといふは、對句で現されて居るが、古代の時今だ文化に浴せず、萬事草創の際で何事もまだ發達するに至らなかつた狀態を言ふ。蒙くして正しきを養ふとは支那いの易經にある句であるが、その時に當つてその正しい道を御養成になる事を言ふ。意は聖賢の道をお立てになつたといふ事である。
 第二節、大意、彥火火出見尊並びに鸕鶿草葺不合尊の二代は、續いて猶日向にましまし、いとも尊き君でおいでになり、慶福を積み、光輝を重ねて多くの年代を經た。しかしながらその地より猶遠方の土地は、未だ皇室の御恩惠に浴せず、遂に地方地方にこれを領する者が出來で、それぞれ境界を分ち、互に爭鬥するに至つた。
 皇祖皇考は、神武天皇の御祖父の君なる彥火火出見尊と、御父君にまします鸕鶿草葺不合尊とを指し奉る。この二代は、日向にましまして、將來發展の準備をなされた時代であつた。神にしてまた聖にましますとは、至つて御賢明であつて仰ぎ貴むべき御方であつた事を言ふ。慶を積み暉を重ねは、君としての御をお積み遊ばされ、自然に慶賀すべき事の多かつた事を言ふ。遼邈な地は、九州南方より指して申されるので、主としてそれより東北方に當る本州及びその他の諸國をいふ。邑に君あり村に長あり云云は、王化の今だ十分に至らざるに乘じて、小勢力が各地方を占據して居た實狀をお述べになつて居る。當時九州南方は、彥火火出見尊の御征討の御事蹟に依り、全く王化に服したのであつたが、自然遠方の地にまでは及ばなかつたのである。この一節は、やがて次の更に東方本州の地にお移りにならうとする御趣旨の據りどころとなるて居る。