私の履歴書と遺言書

健康、趣味、家族、時事を中心とした日記ブログです。現在高血圧、尿酸値、コレステロール値、花粉症で薬を大量服用中です。

事業部内最年少課長就任

2010年12月01日 02時18分13秒 | 履歴書(社会人 30代)

 その時は突然にやってきた。

 

 35歳の9月末、部長から同期と一緒に別室に呼ばれ、『10月から部下を持って長として頑張って欲しい』前触れが無かったので、超サプライズだった

 

 2人とも異動が無い部内昇格だったので、自分が担当していたお客様もマネージャーとして担当した。非常に珍しいケースであり、また今までの同僚がいきなり部下になる事では後輩はとても喜んでくれた。年上の先輩方は、部外からの大きな反響と同様に羨ましい対応であった

 

 2007年問題(団塊の世代の退職者が最も多く発生したのが2007年)を前にした2001年で、どの会社でも上はつかえて昇格は諦めている時代に多くの先輩を飛び越え管理職という社命を受けた。自分は当事者だったので嬉しかったが、諸先輩方からすれば気分の悪い人事だったと思う。

 

 私の最初の部下は4名と少なかったが皆が私の最初の立ち上がりを汚してはいけないと必死に仕事をしてくれた。それは当然成果に結びつき報奨の海外旅行、一時金を就任早々にもらえた。本当に有り難い事でその時の部下と仮配属で私の直下にいた新卒を我が家に招き労をねぎらった。

 

 その時は2人の子供達も8歳と3歳で小さく、人懐っこい性格と愛想の良さ・可愛さの印象が強かったようで、部下達はその後何年経っても子供の名前を覚えており気に留めてくれる。今もそうであるが良い部下に恵まれる事は仕事をやる上では一番大切な事である。

 

 そして管理職としてその環境に甘える事無く、部下のために働き易い環境を作る事が自分が一番やらなければならない事なのである。


次女の誕生まで

2010年11月30日 00時21分14秒 | 履歴書(社会人 30代)

 7月のイタリア旅行を境に自分の公私の中でも重要な30代の記事が空いてしまったので、久しぶりに振り返ってみたい。

 プライベートでは次女の誕生が一番の出来事である。

 長女が誕生して4年が経ち、家族3人の生活も慣れ2人の趣味である海外旅行も幼児である長女と一緒に楽しく過ごしていた。自然の原理でも私達親の方があの世に先に旅立つ、子供は最低2人、血の繋がった横の関係を最低1人持っている事は何よりの絆で拠り所でもある。

 妻は長女の出産の時に逆子が戻らず帝王切開で出産した。通常分娩より楽と言われるが、結構そうでも無く麻酔は利いていても切腹と同じで縦20cm位の痛々しいキズが残っており、二日間の管を着けた尿瓶生活の絶対安静は産んでから数年置かなければ妻の二人目を出産する決心は直ぐにはつかなかった。

 いざ子作りとなるが長女の時はコウノトリがすぐに運んで来てくれたが、二人目は9ヵ月経っても中々来てくれない

 長女の幼稚園(年中)入園前に今の所に引っ越しその月に授かった。環境の変化だけですぐに授かったが神様に本当に感謝した。笑える話しであるが私は、ここに越して来た日をいつも次女の誕生日から10ヵ月引いて計算している程である。

 長女同様に帝王切開で生まれた次女は、この世に出た瞬間から大きな声で出てきたので、待合室で一緒にいた義母はその声から「男の子よ」と言った位に元気だった。生まれつき目がくりくりして二重まぶただった。私が自称奥二重なので次女は本二重で良かった。未だに一重の長女からブツブツ文句を言われている。

 

 日曜日は次女に数学の基本(絶対に覚える事)を教えたが、彼女の理解度にビックリした。本人も私の解り易い説明に集中したようで夕飯前の1時間であったが、お互いの信頼感は増したと思った。

 事実、今日の塾のお迎えで何年ぶりかの笑顔で私に接してくれ、家に着いてからも勉強以外の事でも次女から質問をしてきた。次女との長~いトンネルをやっと抜けたようである。日曜日の最後の算数の問題も通過算の電車がトンネルを抜けた時のトンネルの長さを求める問題だった。

 私の答えは3年だ


宝くじ的な介護老人保険施設

2010年07月17日 03時17分17秒 | 履歴書(社会人 30代)

 今日は妻の父方の義祖母の7回忌の法要である。
妻の4人の祖父母はみんな90歳近く長生きをし、孫婿ではあるが全員の最後を見届けさせてもらった。

 新婚時から祖父母両家には妻と共に何度か訪問した。お婆ちゃん子である私は孫娘の夫を見たい祖父母の気持ちと祖父母の孫に対する想いは昔から良く理解していたので、妻にお誘いがあるとすぐに両家には一緒に訪問するようにしていた。

 妻の母方の祖父母は八王子に住んでいたので、妻の実家に行く度に訪問していた。妻の母同様に義祖母は料理が上手で、最初にお邪魔した時の里芋の煮つけにゴマを振りかけた手料理は未だに忘れられない。私は美味しさをすぐに言動に出すので、この里芋の煮つけはそれからも良く出してくれた。妻曰く小さい頃八王子のお婆ちゃんの所に行くといつもカレーうどんだったので、未だにカレーうどんにはトラウマ的な抵抗があるそうだ。

 義父方の祖父母は戸塚の公団に住んでいた。戸塚からバスに乗り原宿交差点をドリームランド側に曲がってすぐの所にあった。土曜日によく行ったがいつも原宿交差点が混んでいてバスは中々曲がることが出来なかった。

 義父方の祖父はかなり頭が良く自称一橋大学を卒業され、笹川良一さんと意見を良く取り交わしたそうだ。かなりの財を若い頃残されたようだが、最後は戸塚の団地であった。義父の話しからだと若い頃は国立の一軒家に住んでいて、そこを売ったお金で湯河原の山の上に別荘的な温泉付き一軒家を購入、最後はそこを売って戸塚の団地であった。私が結婚した時は戸塚だったのでゴージャス時代の義祖父母は見れなかった。

 私が初めて訪問した時の義祖父は白内障で目が不自由であったが「近くで顔を見せてくれ!」と孫娘の夫である私の顔を冥土の土産だと言って関心を持ってくれた。正直来て良かったと思った。後妻である義祖母は妻にとっては唯一血の繋がりの無い祖父母であったが、妻と同様に私を可愛がってくれた。当然ではあるが私に取って4人とも血の繋がりは無いので同様に接する事は出来た。


 今日はその義祖母の7回忌の法要である。

 義祖母の後半は妻の実家に同居していたが、痴ほう症に悩まされ私が行った時にも「今度こちらに越して来た○○です。そちら様はどちら様ですか?」といつも訪ねられた。義母が長い間介護をしていたが、たまに義祖母の気分転換に連れて行った介護老人保険施設にだめもとで申し込み予約をしていた。ある日突然、「空きが出たので入所はいかがですか?」と電話が入った。

 申し込みをして数ヶ月の事で入所は宝くじに当たる確率とまで言われていたので、義祖母を始め皆に喜ばしい出来事であった。施設に入れる事は何か気持ち的に抵抗はあるが、それ以前に義母は体力的・精神的限界に来ておりワラにもすがる思いであった。変な話しであるがこの空きが出た時というのは、入所しているどなたかが亡くなった事を意味している。

 その後その施設には義父母はマメに顔を出して義祖母は5,6年後に亡くなったと思う。それから四十九日、1周忌、3回忌、そして今日の7回忌の法要を迎える事になった。

 何年か経過後の現在も介護老人保険施設や、女性が働くために子供を預ける保育施設は中々空きが無い話しは未だに聞こえてくる。国は早くこの仕組みに政治介入して優遇措置を取り入れなければ高齢化は進むばかりで、本来働きたい方も働けない仕組みになっている。


つまずき(後編) 役割の重要性

2010年07月10日 00時00分10秒 | 履歴書(社会人 30代)
 私の上司は新任課長でIT分野を得意とした会社が次世代を任せたい人物の1人の方だった。
私は以前にも仕事を一緒にした事があり親しい関係ではあったが、まさか自分の上司になる方とは思っていなかった。中央大学法学部出身の頭の良い方で性格もとても良い方ではあったが、人の前に立って引っ張るカリスマ的要素は昔から無い人であり、自分でコツコツ夜遅くまで仕事をして1つのお客様に特化して大型案件を獲得する営業であった。

 課員が集まりチームリーダーを決める時、新しい組織ゆえ課長が決めるべき事項であるが皆の場の雰囲気=一番の年配者にメンバー全員の意志で決まった。実はここから上司の決断が鈍っており、何年か経ち後の祭りでその上司本人から聞いた話しではリーダーは本来私にして課を引っ張ってもらうよう上からは言われていたそうだ。

 私が課の役割で任された事は、会社が新しい方向に向かうべきIT系の商談をメインに担当する専門職であった。社命を受けた時はあまり経験したことの無い内容であったが『やはり会社から期待されているんだあ!』と胸を膨らませた。

 しばらくすると現実を身に染みはじめた。
上司は元々その分野のスペシャリストでメンバーがお客様からヒアリングして来た商談に繋がる良い情報・相談はすべてその上司に行ってしまい、その情報は私に伝わる事なく上司とメンバーでそのお客様に訪問していた。メンバーの行動は一番出来る人に相談するのは当然であり、私の出る幕は無かった。

 弊社のようにお客様毎に営業担当制を引いていると私が勝手にお客様に訪問することは中々できない。そして私が得意としている営業スキル、パターンは会社が我々部門に期待している内容では無かった。

 上司の部下に対する対応のまずさは明白だが、冷静に自責を問うならば私自らが早い段階で上司と話し合う場面を持たなければならなかった。その時は全員の目標設定が課のチームターゲットだった事もあり、全員の幸せを願う私は、全体最適では上司が商談に行くべきと自分を完全に犠牲にしようとその時は決断した。

 1年我慢した結果は、前半6ヶ月・後半6ヶ月共に課は部門の中で最下位であった。夜遅くまで仕事して残業代を多く使い、結果が出ない会社に取って生産性最悪集団となっていた。

 この1年の屈辱が今の私のマネージメントにとても役立った。売れない時代を経験しないで課長になっていれば多くの営業マンをダメにしていただろう。2対8の法則というものがあり、2割の人で営業成績の8割を稼ぐというもので弊社も例外でなくこのとおりになっている。出世欲の強い方々はこの2割を大事にしてより良い人間を集めようとする。売れない気持ちが解らなければ私もこの嫌なタイプの課長になっていたかもしれない。私に取っては貴重な1年を経験出来た。

 人間生かすも殺すもその人間に期待役割の定量値を示して具体的に指示できるかどうかで決まる、期初におけるマネージメントが本当に重要なのである

30代入社以来初のつまずき(前編)

2010年07月08日 23時20分47秒 | 履歴書(社会人 30代)
 係長格までは全国営業同期の中で最短で昇格出来た。
営業系は他職種より最初の昇格は早く、他職種は解らないが私の知っている限りでは営業系同期
5人が最短昇格である。

 入社時から決まっている基幹人材ならばこの位迄には営業以外の主要部署に自分が希望しなくても異動するのだが、一般叩き上げは通常同じ場所に留まる。私の場合もそれで初の送別会は入社後
16年経った38歳、それも都内から都内の部門間異動であった。

 30
歳前半で昇格した半年後、会社の組織が入社以来最大と言える程組織変革をした。
行政区単位の従来の部門をお客様の規模別にわけた。私の配属先は
26歳~40歳の一番働き盛りの世代が集まった部署で、個々の営業レベルは高い所であった。私は不幸にも一般職の中では格が一番上であったがその事実は1年後に知らされ、波乱の1年の幕開けであった。

 半分以上は先輩の環境の中で私の社会人生活で(現時点)どん底を味わう期とは想像もしていなかった。会社変革に合わせた上司と自分の能力を最大限に生かした活動を率先して出来ず、リーダーシップの重要性をトコトン感じる期の始まりであった。