飛騨高地の鳥帽子岳に源を発し、岐阜県と富山県を北流して日本海に注ぐ庄川。その上流には白川郷や五箇山などの山村が点在し、長い間秘境と呼ばれていた。
庄川上流は合掌造の故郷としてよく知られている。合掌とは屋根を支える構造に叉首組を使い、屋根裏を広く利用できるように工夫されてもので、その形が両方の掌を会わせたようにみえることからこの名がある。のほんの草屋根民家の構造としてはごく普通のものだが、この地域のものは屋根裏を何層のも分けた大規模なものなので、民家形式を分類する際の名称にも用いられている。
この地域は、また大家族制の村としても有名である。戸主と長男のみが妻と同居し、次三男は親元で働きながら妻の生家の通う、妻間嫁のかたちをとっていた。山間に立地するために耕地が少なく、分家が出来なかったこと、また副業の養蚕に多くの女手を必要としたので、娘を嫁に出さなかったことなどが、こうした大家族制を生んだ理由である。これを合掌造と短絡させて、屋根裏を何階にも分けて、居住部分はあくまでも1階にあり、中二階の一部を寝所とすることはあっても、他の上部分、すなわち屋根裏部屋は人間の生活空間ではなく、養蚕に使用されていたのである。
それはさておき、白川村は御母衣ダムの近くに建つ旧遠山家住宅(重要文化財・旧白川郷民俗館)は、合掌造民家中最大級の規模を誇る。平面規模は桁行11間、梁行6間半で、大きな切妻造民家茅葺の屋根をもち、名内部は4階になっている、1階の居間は7室もある。遠山家は、大正9(1920)年の国勢調査では家族数31人と報告れており、白川村屈指の大家族制を維持していたが、住宅規模もまさにそれと対応しているといえよう。
旧遠山家住宅の便所は、主屋の南妻側に下屋形式で取り付く。地元ではヘンチャと呼んでいるが、雪隠の訛ったものであろう。このヘンチャの柱に文政10(1827)年の墨書があり、当住宅の建築年代がほぼ明らかになるのは、民家研究史上重要なことである。内部に入ると、地面に直径7尺(約2、1メートル)深さ5尺(1,5メートル)という大桶を埋め、周囲を赤土で固めてある。上には壺板と呼ぶ板を7寸(約20センチ)の間隔をあけて何本も渡してあり、そのうちの2本の板に上に両足をおいて用を足す。桶の口の有効面積は畳2帖分もあるから、一度に複数の人が利用することも可能である。
さすがに大家族制の下で工夫されてきた飛騨の合掌造だけあって、便所もそれにふさわしい構造をもっていたことがわかる。
庄川上流は合掌造の故郷としてよく知られている。合掌とは屋根を支える構造に叉首組を使い、屋根裏を広く利用できるように工夫されてもので、その形が両方の掌を会わせたようにみえることからこの名がある。のほんの草屋根民家の構造としてはごく普通のものだが、この地域のものは屋根裏を何層のも分けた大規模なものなので、民家形式を分類する際の名称にも用いられている。
この地域は、また大家族制の村としても有名である。戸主と長男のみが妻と同居し、次三男は親元で働きながら妻の生家の通う、妻間嫁のかたちをとっていた。山間に立地するために耕地が少なく、分家が出来なかったこと、また副業の養蚕に多くの女手を必要としたので、娘を嫁に出さなかったことなどが、こうした大家族制を生んだ理由である。これを合掌造と短絡させて、屋根裏を何階にも分けて、居住部分はあくまでも1階にあり、中二階の一部を寝所とすることはあっても、他の上部分、すなわち屋根裏部屋は人間の生活空間ではなく、養蚕に使用されていたのである。
それはさておき、白川村は御母衣ダムの近くに建つ旧遠山家住宅(重要文化財・旧白川郷民俗館)は、合掌造民家中最大級の規模を誇る。平面規模は桁行11間、梁行6間半で、大きな切妻造民家茅葺の屋根をもち、名内部は4階になっている、1階の居間は7室もある。遠山家は、大正9(1920)年の国勢調査では家族数31人と報告れており、白川村屈指の大家族制を維持していたが、住宅規模もまさにそれと対応しているといえよう。
旧遠山家住宅の便所は、主屋の南妻側に下屋形式で取り付く。地元ではヘンチャと呼んでいるが、雪隠の訛ったものであろう。このヘンチャの柱に文政10(1827)年の墨書があり、当住宅の建築年代がほぼ明らかになるのは、民家研究史上重要なことである。内部に入ると、地面に直径7尺(約2、1メートル)深さ5尺(1,5メートル)という大桶を埋め、周囲を赤土で固めてある。上には壺板と呼ぶ板を7寸(約20センチ)の間隔をあけて何本も渡してあり、そのうちの2本の板に上に両足をおいて用を足す。桶の口の有効面積は畳2帖分もあるから、一度に複数の人が利用することも可能である。
さすがに大家族制の下で工夫されてきた飛騨の合掌造だけあって、便所もそれにふさわしい構造をもっていたことがわかる。