本願寺の大谷光瑞(鏡如)法嗣(後継者)は、明治32(1899)年、中国とインドの仏蹟巡拝を行い、ついで欧州の宗教事情を調査に赴きました。そしてその地でイギリス・フランス・ドイツ・スウェーデン・ロシアの各国が、仏教の栄えていた中央アジア(西域)に探検隊を派遣して、仏教遺跡調査を実施していることを知りました。
そこで鏡如法嗣は明治35(1902)年八月にイギリスからの帰路に、渡辺哲信・堀賢雄らとともに、ロシア領トルキスタンから南下して中央アジアに入り、仏教遺跡の探検に向かいました。そしてコータン・クチャなどの遺跡を発掘し、多数の仏教関係遺物を発見しました。
渡辺哲信・堀賢雄には西域調査をそのまま続けさせて、鏡如法嗣自身は本多恵隆・井上弘圓の2名を連れて、日本からきた日野尊宝・島地大等とともにインドの仏教遺跡調査を行いました(浄土真宗 必携 み教えと歩む より)。

それでは、これから、大谷光瑞(鏡如)法嗣とはどういう人物か、何故、探検隊を組織したのか、中央アジア(西域)とインドでの行程とは、そして、インドでどの様な仏教遺跡調査を行ったか等についてお話いたします。
最初に、鏡如法嗣(以下光瑞氏)の経歴を紹介しましょう。
1876 明治9年 (西)本願寺派第21代門主・明如門主の長男として誕生。幼名は峻麿(たかまろ)
1885 明治18年 9歳 得度
1886 明治19年 10歳 上京し学習院に入学するが退学。その後、共立学舎(英学校)に入学するも退学。京都に帰り前田慧雲(後の東洋大学学長・龍谷大学学長)に学ぶ。
1894-1895 日清戦争
1898 明治31年 22歳 九条籌子と結婚
1899 明治32年 23歳 清国を巡遊
1900 明治33年 24歳 ロンドンに遊学
1902 明治35年 27歳 第一次大谷探検隊(1902~1904)
1903 明治36年 27歳 1月に父・明如門主がご往生。継職し第22代門主となる。
1904-1905 日露戦争
1908 明治41年 32歳 第二次大谷探検隊(1908~1909)
六甲山麓・岡本に二楽荘(盟友伊東忠太の設計)を建て、探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための学校(現在は甲南大学理学部)、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。教育・文化活動の拠点とした。
1910 明治43年 34歳 第三次大谷探検隊(1910~1914)
1913 大正2年 37歳 孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任。
1914 大正3年 38歳 大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため、門主を辞任。伯爵の地位から退き、大連に隠退。二楽荘と探検収集品もこの時に手放す。
1934 昭和9年 58歳 現代の様式の築地別院完成。(親交のあった東京帝国大学工学部教授伊東忠太による設計
1941 大東亜戦争
1941-1945 大戦中は近衛内閣で参議、小磯内閣で顧問をつとめる。
1945 昭和20年 69歳 膀胱癌に倒れ、入院中にソ連軍に抑留される。
1947 昭和22年 71歳 帰国
1948 昭和23年 72歳 別府にてご往生。
光瑞氏がロンドンに向かったころのインドは、イギリス統治下にあったため、仏教資料や経典のほとんどがロンドンに持ち去られていました。このため、本願寺では、新鋭の学僧をイギリスに勉学のため派遣していましたが、学問に深く興味を持つ光瑞氏は、自ら渡英の意志を固めます。
光瑞氏は、父・明如門主に反対されると思いながらロンドン留学を伝えたところ、快く認めてもらえます。これは父も同じ志を持っていましたが、病気がちで自分の果たせなかった夢を若い光瑞氏に託したのです。
光瑞氏がロンドンを目指していた1900年のヨーロッパでは、中央アジアに眼が向けられていました。
後に英国に帰化したハンガリー出身の探検家のオーレル・スタインは、1900年、東トルキスタン(今のカザフスタン)地域へ探検旅行に出発し、更にキルギスを越えてコータン近郊のニヤ遺跡を発掘調査します。そして、スウェーデンの地理学者で探検家のスヴェン・ヘディンは、1900年、中央アジアで古代都市、楼蘭の遺跡を発見し「さまよえる湖(ロプノール)」を発見します。ドイツの探検家、グリュンヴェーデルとル・コックは、1902年から4度にわたり中央アジア(クチャ、トゥルファン、カラシャールなど)の探検を行い多くの遺跡を発見します。そして、フランスの東洋学者・探検家のポール・ペリオは、1908年、敦煌の莫高窟の文献をフランスに将来します。
この様に、彼らヨーロッパ探検家は、それぞれ国を挙げ、古代の埋蔵文化財の発掘に邁進し、多くの成果を上げていました。彼らは、国のバックアップもあり、中央アジアで発掘作業に邁進します。光瑞氏は彼らに影響を受け、中でもスタイン氏とヘディン氏には直接会って西域調査への決意を固めます。
光瑞氏は「彼らはキリスト教徒だが、自分は仏教徒で、多くの門信徒から仰がれる宗主である。インドや中国の仏教は、ほとんど滅び形骸化しているが、日本は、数少ない仏教国の1つで、自分が、その源流の地に入り、調査しなければならない。」という想いが強く芽生えていました。
とは言え、通信手段も乏しい時代、ましてや、未開の地に、本来は国の事業として行われるべき探検調査を、一教団の本願寺が、しかも、次期門主を約束された新門が行うことは、病気がちの父・明如門主も快く送り出したとはいえ、大谷家や全国の門信徒の心配は大変なものだったに違いありません。
さて、イギリスを出発する第一次探検隊のメンバーは主宰者の大谷光瑞氏を始め、井上弘圓、本多恵隆、渡辺哲信、堀賢雄の5人です。明治35年8月16日午前10時、光瑞氏一行は、ロンドンから列車で出発します。ドーバー海峡を船で渡り、列車で、ベルリンを経てロシア・サンクトペテルブルクに到着。この地で、トルキスタン地方の旅券を取得し、8月28日にカスピ海に面するバクーに到着します。

バクーからカスピ海を汽船で300キロ渡り、再び、列車で2,200キロ離れたキルギスのアンジジャンに9月3日に到着します。

8月16日にロンドンを出発した一行は、アンジシャンまで約20日間、概ね順調に来ましたが、これから苦難の旅が始まります。
ヨーロッパから来て、中央アジアを探検する場合は、ここから標高5,000メートル級のパミール高原を越えたカシュガルに向かうことになり、インドへは、標高7,000メートル級のカラコルム山脈を越えたスリナーガルがインド調査の拠点となります。光瑞氏一行は西域とインドとの調査を予定していたため、これらの高原と山脈を越えて行く必要があるのです。

さて、アンジシャンから近郊のオッシュに移動した後、

馬30余頭、人夫5人を雇いキャラバン隊を組織し、先頭に光瑞氏、その後に渡辺、堀、本多、井上の順で500キロ先のカシュガルに向け出発します。

ところが、出発して4時間ほどで、呼吸困難に陥るほどの、砂嵐に会い、一行はテントを張り初めての野営をします。それでは、ここで、津本 陽氏の小説を読んでみましょう。

「このなかへ座ったら、文明社会へ戻ったような気がするなあ」。光瑞氏は本多らと顔を見合わせ、笑みを交わすが、あまりにはげしい気候のただなかにいて、緊張を解くことができない。テントの支柱はきしみ、風をはらんだ帆布は、やぶれるかと、あやしむほど鳴りはためく。
光瑞氏は4人の学僧に聞いた。「今度の探検で、もし遭難したら、どうや。おそろしいかね。」本多は考える様子であった。「渡辺、どうかね」「そうですね。私はなぜか、遭難しても死ぬとは思えません。生きて帰れるつもりです。どのような危険に遇うかも知れない、とは思うのですが、なぜか、恐怖心はありません。」
「その通りや。俺もおなじ気持や。前途への不安はあるが、死ぬかも知れないとは考えない。これは若い俺たちがつよい生命力に支えられているからや。」

標高5,000メートル級のパミール高原を、キャラバン隊は頭痛や吐き気など高山病の症状を訴えつつ進みます。一行は2週間をかけ、9月21日夕方、 西域探検の拠点、カシュガルに到着しました。
カシュガルで一行は、イギリスの駐在事務官マイルス中佐から歓迎を受け、疲れをいやします。中央がマイルス中佐で、左右に井上と大谷光瑞氏。左端が渡辺、右端が堀です。本多はカメラマンで写っていませんが、柔道とボートで鍛えたスリムながらがっちりした青年です。

光瑞氏は、カシュガルで、マイルス中佐から、土地勘に詳しいヘンドリック牧師を紹介され、今後の調査計画を相談します。光瑞氏は、まずタクラマカン砂漠を東のクチャに向い、昔の亀茲国の跡をたずね、砂漠を南下し、コータン遺跡を探検した後、ヤルカンドを通ってインドに出る行程を考えていました。

それに対し、ヘンドリック牧師は答えます。それでは、津本 陽氏の小説を読んでみましょう。
「いまからご予定のルートを進まれるのは、無理です。その辺りは例年11月初旬から降雪期にはいります。だから冬のあいだは中央アジアのどこかで過ごし、来年の5、6月頃をまってインドへ出るより方法はありません。中央アジアからインド国境へかけての気候のきびしさは、想像を絶するほどで、真夏でさえ吹雪で人が死ぬこともあります。それに冬期は、強盗に襲われやすいのです。」
光瑞の胸は波立った。せっかくここまできて、三蔵法師の足跡をきわめずに帰国するのは、残念でならない。ただ、帰国が翌年まで延引するのを避けたい事情があった。父の明如上人が萎縮腎の病で静養しており、病状がすぐれないとの知らせを受けていたのである。
考え込む光瑞に渡辺が告げた。「新門さまは本願寺にとってかけがえのないお方です。ながく当地に滞在されるのは、適当ではありません。私たちのうちから越冬隊を残し、インドへ直行されてはいかがですか。越冬隊は来年の春にクチャ、コータンの遺跡を探ります」。
「そうするか。いたしかたないが誰が残るのや」渡辺、堀が残留するという。光瑞は無言でうなずく。
一行はともかく「タクシュルガン」まで同行して、そこで隊を分けることとして、一緒に「タクラマカン砂漠」西端の平原を、野営や、村に宿を求めながら、旅を続けます。

ヤルカンドに近づいたころ、この辺りは気候も悪く、水も不便で、住民の衛生状態もひどく、ゆく先々で、村人から病を治してほしいと懇願されます。光瑞氏は、その都度診療して薬を渡すと、村人は元気になり、喜んで帰っていったため、村では、名医が現れたとのうわさが広まり、多くの患者が、光瑞氏を求めてやってきます。
ヤルカンドに到着したころには、大半の常備薬を使い果たしますが、元気を取り戻し喜んでくれる村人の笑顔を見るのは光瑞氏にとって格別嬉しかったそうです。
後年、光瑞氏の妹、九条武子女史が、関東大震震災による負傷者・孤児の救援活動(あそか診療所)事業を推進した際、この時のエピソードを参考にされたとも言われています。
そして、ヤルカンドからは、標高7000メートルの山々があるカラコルム山脈の峠を越えて行きます。

馬も、泡を吹き、苦しげに息を弾ませるほどの高地で、一行は、連日、高山病による呼吸困難を訴えながら進んでいきます。 そして10月12日にタクシュルガンに到着し、この地で、渡辺、堀と別れます。

それでは、津本 陽氏の小説を読んでみましょう。
「君たちは2人で行動するのやから、十分に慎重な進退をとってくれ。探検の成果よりも生きて帰るのが大切や。どうか無理しないよう、頼んだぞ。」
「わかりました。私たちは新門さまのご期待を、満足しうる成果を、かならずあげて帰ります。進退には常に注意し、犬死はいたしませんから、どうかご安心ください。」ペスト流行の情報が入っている折柄、渡辺は同行の堀とともに、頬をひきしめ、別離の感慨に瞼を熱くしていた。
「では幸運を祈る」。光瑞は本多、井上とともにキャラバンの先頭に馬をならべ、鞭をふるい出発した。

この地からは、標高5,100メートルのミンタカ峠越えになるため、馬から、高所に強いヤクに乗り換えて進みます。一行は、泥まみれ、汗まみれとなり、全員が割れるような高山病の頭痛に苦しみ、顔つきも変わってしまったようですが、念仏を唱えながら必死に進みます。

ミンタカ峠を無事越えた後は、フンザ川沿いの断崖絶壁の悪路に挑みます。

案内人のアリーはいう。それでは、津本 陽氏の小説を読んでみましょう。
「ミスガルからギルチャまで、約16キロメートルの間は、このような世界にもめずらしい悪路です。馬は人足が連れてフンザ川を渡らせ、人は絶壁に身をもたせて歩むよりほかはありません」。アリー氏は、難路の通行に慣れた兵士、人足をまず行かせた。彼らは声をかけあい、腰をおとし、岩肌にしがみつくと慎重な横歩きをはじめた。ヤモリの移動するに似た身ごなしである。
アリー氏が光瑞氏に聞く。「つぎにいらっしゃいますか。なるべく路面の踏み荒らされないうちが、いいと思いますが。」
本多がいった。「私が先に試みましょう」。しかし光瑞がさえぎった。「いや、俺がゆくよ。どうせ通らなければならぬ道や。なまんだぶ。なまんだぶ。」あとにつづく本多と井上は、わが身の危険を忘れ、光瑞を見守っていたが、無事に悪路を通過したのを見届けると、涙をこぼし狂喜した。
本多は日記に述べている。「断崖を、手を横しまに、手と足をもって進む猊下、無事通過はおそらく仏天の加護ならん」

九死に一生を得て、カシュガル出発から約一カ月後の10月23日、インド領バルチットに到着し、久しぶりの文明の風に当たることができます。そして11月9日、インド仏蹟調査の拠点スリナーガルに無事到着しました。

そこで鏡如法嗣は明治35(1902)年八月にイギリスからの帰路に、渡辺哲信・堀賢雄らとともに、ロシア領トルキスタンから南下して中央アジアに入り、仏教遺跡の探検に向かいました。そしてコータン・クチャなどの遺跡を発掘し、多数の仏教関係遺物を発見しました。
渡辺哲信・堀賢雄には西域調査をそのまま続けさせて、鏡如法嗣自身は本多恵隆・井上弘圓の2名を連れて、日本からきた日野尊宝・島地大等とともにインドの仏教遺跡調査を行いました(浄土真宗 必携 み教えと歩む より)。

それでは、これから、大谷光瑞(鏡如)法嗣とはどういう人物か、何故、探検隊を組織したのか、中央アジア(西域)とインドでの行程とは、そして、インドでどの様な仏教遺跡調査を行ったか等についてお話いたします。
最初に、鏡如法嗣(以下光瑞氏)の経歴を紹介しましょう。
1876 明治9年 (西)本願寺派第21代門主・明如門主の長男として誕生。幼名は峻麿(たかまろ)
1885 明治18年 9歳 得度
1886 明治19年 10歳 上京し学習院に入学するが退学。その後、共立学舎(英学校)に入学するも退学。京都に帰り前田慧雲(後の東洋大学学長・龍谷大学学長)に学ぶ。
1894-1895 日清戦争
1898 明治31年 22歳 九条籌子と結婚
1899 明治32年 23歳 清国を巡遊
1900 明治33年 24歳 ロンドンに遊学
1902 明治35年 27歳 第一次大谷探検隊(1902~1904)
1903 明治36年 27歳 1月に父・明如門主がご往生。継職し第22代門主となる。
1904-1905 日露戦争
1908 明治41年 32歳 第二次大谷探検隊(1908~1909)
六甲山麓・岡本に二楽荘(盟友伊東忠太の設計)を建て、探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための学校(現在は甲南大学理学部)、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。教育・文化活動の拠点とした。
1910 明治43年 34歳 第三次大谷探検隊(1910~1914)
1913 大正2年 37歳 孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任。
1914 大正3年 38歳 大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため、門主を辞任。伯爵の地位から退き、大連に隠退。二楽荘と探検収集品もこの時に手放す。
1934 昭和9年 58歳 現代の様式の築地別院完成。(親交のあった東京帝国大学工学部教授伊東忠太による設計
1941 大東亜戦争
1941-1945 大戦中は近衛内閣で参議、小磯内閣で顧問をつとめる。
1945 昭和20年 69歳 膀胱癌に倒れ、入院中にソ連軍に抑留される。
1947 昭和22年 71歳 帰国
1948 昭和23年 72歳 別府にてご往生。
光瑞氏がロンドンに向かったころのインドは、イギリス統治下にあったため、仏教資料や経典のほとんどがロンドンに持ち去られていました。このため、本願寺では、新鋭の学僧をイギリスに勉学のため派遣していましたが、学問に深く興味を持つ光瑞氏は、自ら渡英の意志を固めます。
光瑞氏は、父・明如門主に反対されると思いながらロンドン留学を伝えたところ、快く認めてもらえます。これは父も同じ志を持っていましたが、病気がちで自分の果たせなかった夢を若い光瑞氏に託したのです。
光瑞氏がロンドンを目指していた1900年のヨーロッパでは、中央アジアに眼が向けられていました。
後に英国に帰化したハンガリー出身の探検家のオーレル・スタインは、1900年、東トルキスタン(今のカザフスタン)地域へ探検旅行に出発し、更にキルギスを越えてコータン近郊のニヤ遺跡を発掘調査します。そして、スウェーデンの地理学者で探検家のスヴェン・ヘディンは、1900年、中央アジアで古代都市、楼蘭の遺跡を発見し「さまよえる湖(ロプノール)」を発見します。ドイツの探検家、グリュンヴェーデルとル・コックは、1902年から4度にわたり中央アジア(クチャ、トゥルファン、カラシャールなど)の探検を行い多くの遺跡を発見します。そして、フランスの東洋学者・探検家のポール・ペリオは、1908年、敦煌の莫高窟の文献をフランスに将来します。
この様に、彼らヨーロッパ探検家は、それぞれ国を挙げ、古代の埋蔵文化財の発掘に邁進し、多くの成果を上げていました。彼らは、国のバックアップもあり、中央アジアで発掘作業に邁進します。光瑞氏は彼らに影響を受け、中でもスタイン氏とヘディン氏には直接会って西域調査への決意を固めます。
光瑞氏は「彼らはキリスト教徒だが、自分は仏教徒で、多くの門信徒から仰がれる宗主である。インドや中国の仏教は、ほとんど滅び形骸化しているが、日本は、数少ない仏教国の1つで、自分が、その源流の地に入り、調査しなければならない。」という想いが強く芽生えていました。
とは言え、通信手段も乏しい時代、ましてや、未開の地に、本来は国の事業として行われるべき探検調査を、一教団の本願寺が、しかも、次期門主を約束された新門が行うことは、病気がちの父・明如門主も快く送り出したとはいえ、大谷家や全国の門信徒の心配は大変なものだったに違いありません。
さて、イギリスを出発する第一次探検隊のメンバーは主宰者の大谷光瑞氏を始め、井上弘圓、本多恵隆、渡辺哲信、堀賢雄の5人です。明治35年8月16日午前10時、光瑞氏一行は、ロンドンから列車で出発します。ドーバー海峡を船で渡り、列車で、ベルリンを経てロシア・サンクトペテルブルクに到着。この地で、トルキスタン地方の旅券を取得し、8月28日にカスピ海に面するバクーに到着します。

バクーからカスピ海を汽船で300キロ渡り、再び、列車で2,200キロ離れたキルギスのアンジジャンに9月3日に到着します。

8月16日にロンドンを出発した一行は、アンジシャンまで約20日間、概ね順調に来ましたが、これから苦難の旅が始まります。
ヨーロッパから来て、中央アジアを探検する場合は、ここから標高5,000メートル級のパミール高原を越えたカシュガルに向かうことになり、インドへは、標高7,000メートル級のカラコルム山脈を越えたスリナーガルがインド調査の拠点となります。光瑞氏一行は西域とインドとの調査を予定していたため、これらの高原と山脈を越えて行く必要があるのです。

さて、アンジシャンから近郊のオッシュに移動した後、

馬30余頭、人夫5人を雇いキャラバン隊を組織し、先頭に光瑞氏、その後に渡辺、堀、本多、井上の順で500キロ先のカシュガルに向け出発します。

ところが、出発して4時間ほどで、呼吸困難に陥るほどの、砂嵐に会い、一行はテントを張り初めての野営をします。それでは、ここで、津本 陽氏の小説を読んでみましょう。

「このなかへ座ったら、文明社会へ戻ったような気がするなあ」。光瑞氏は本多らと顔を見合わせ、笑みを交わすが、あまりにはげしい気候のただなかにいて、緊張を解くことができない。テントの支柱はきしみ、風をはらんだ帆布は、やぶれるかと、あやしむほど鳴りはためく。
光瑞氏は4人の学僧に聞いた。「今度の探検で、もし遭難したら、どうや。おそろしいかね。」本多は考える様子であった。「渡辺、どうかね」「そうですね。私はなぜか、遭難しても死ぬとは思えません。生きて帰れるつもりです。どのような危険に遇うかも知れない、とは思うのですが、なぜか、恐怖心はありません。」
「その通りや。俺もおなじ気持や。前途への不安はあるが、死ぬかも知れないとは考えない。これは若い俺たちがつよい生命力に支えられているからや。」

標高5,000メートル級のパミール高原を、キャラバン隊は頭痛や吐き気など高山病の症状を訴えつつ進みます。一行は2週間をかけ、9月21日夕方、 西域探検の拠点、カシュガルに到着しました。
カシュガルで一行は、イギリスの駐在事務官マイルス中佐から歓迎を受け、疲れをいやします。中央がマイルス中佐で、左右に井上と大谷光瑞氏。左端が渡辺、右端が堀です。本多はカメラマンで写っていませんが、柔道とボートで鍛えたスリムながらがっちりした青年です。

光瑞氏は、カシュガルで、マイルス中佐から、土地勘に詳しいヘンドリック牧師を紹介され、今後の調査計画を相談します。光瑞氏は、まずタクラマカン砂漠を東のクチャに向い、昔の亀茲国の跡をたずね、砂漠を南下し、コータン遺跡を探検した後、ヤルカンドを通ってインドに出る行程を考えていました。

それに対し、ヘンドリック牧師は答えます。それでは、津本 陽氏の小説を読んでみましょう。
「いまからご予定のルートを進まれるのは、無理です。その辺りは例年11月初旬から降雪期にはいります。だから冬のあいだは中央アジアのどこかで過ごし、来年の5、6月頃をまってインドへ出るより方法はありません。中央アジアからインド国境へかけての気候のきびしさは、想像を絶するほどで、真夏でさえ吹雪で人が死ぬこともあります。それに冬期は、強盗に襲われやすいのです。」
光瑞の胸は波立った。せっかくここまできて、三蔵法師の足跡をきわめずに帰国するのは、残念でならない。ただ、帰国が翌年まで延引するのを避けたい事情があった。父の明如上人が萎縮腎の病で静養しており、病状がすぐれないとの知らせを受けていたのである。
考え込む光瑞に渡辺が告げた。「新門さまは本願寺にとってかけがえのないお方です。ながく当地に滞在されるのは、適当ではありません。私たちのうちから越冬隊を残し、インドへ直行されてはいかがですか。越冬隊は来年の春にクチャ、コータンの遺跡を探ります」。
「そうするか。いたしかたないが誰が残るのや」渡辺、堀が残留するという。光瑞は無言でうなずく。
一行はともかく「タクシュルガン」まで同行して、そこで隊を分けることとして、一緒に「タクラマカン砂漠」西端の平原を、野営や、村に宿を求めながら、旅を続けます。

ヤルカンドに近づいたころ、この辺りは気候も悪く、水も不便で、住民の衛生状態もひどく、ゆく先々で、村人から病を治してほしいと懇願されます。光瑞氏は、その都度診療して薬を渡すと、村人は元気になり、喜んで帰っていったため、村では、名医が現れたとのうわさが広まり、多くの患者が、光瑞氏を求めてやってきます。
ヤルカンドに到着したころには、大半の常備薬を使い果たしますが、元気を取り戻し喜んでくれる村人の笑顔を見るのは光瑞氏にとって格別嬉しかったそうです。
後年、光瑞氏の妹、九条武子女史が、関東大震震災による負傷者・孤児の救援活動(あそか診療所)事業を推進した際、この時のエピソードを参考にされたとも言われています。
そして、ヤルカンドからは、標高7000メートルの山々があるカラコルム山脈の峠を越えて行きます。

馬も、泡を吹き、苦しげに息を弾ませるほどの高地で、一行は、連日、高山病による呼吸困難を訴えながら進んでいきます。 そして10月12日にタクシュルガンに到着し、この地で、渡辺、堀と別れます。

それでは、津本 陽氏の小説を読んでみましょう。
「君たちは2人で行動するのやから、十分に慎重な進退をとってくれ。探検の成果よりも生きて帰るのが大切や。どうか無理しないよう、頼んだぞ。」
「わかりました。私たちは新門さまのご期待を、満足しうる成果を、かならずあげて帰ります。進退には常に注意し、犬死はいたしませんから、どうかご安心ください。」ペスト流行の情報が入っている折柄、渡辺は同行の堀とともに、頬をひきしめ、別離の感慨に瞼を熱くしていた。
「では幸運を祈る」。光瑞は本多、井上とともにキャラバンの先頭に馬をならべ、鞭をふるい出発した。

この地からは、標高5,100メートルのミンタカ峠越えになるため、馬から、高所に強いヤクに乗り換えて進みます。一行は、泥まみれ、汗まみれとなり、全員が割れるような高山病の頭痛に苦しみ、顔つきも変わってしまったようですが、念仏を唱えながら必死に進みます。

ミンタカ峠を無事越えた後は、フンザ川沿いの断崖絶壁の悪路に挑みます。

案内人のアリーはいう。それでは、津本 陽氏の小説を読んでみましょう。
「ミスガルからギルチャまで、約16キロメートルの間は、このような世界にもめずらしい悪路です。馬は人足が連れてフンザ川を渡らせ、人は絶壁に身をもたせて歩むよりほかはありません」。アリー氏は、難路の通行に慣れた兵士、人足をまず行かせた。彼らは声をかけあい、腰をおとし、岩肌にしがみつくと慎重な横歩きをはじめた。ヤモリの移動するに似た身ごなしである。
アリー氏が光瑞氏に聞く。「つぎにいらっしゃいますか。なるべく路面の踏み荒らされないうちが、いいと思いますが。」
本多がいった。「私が先に試みましょう」。しかし光瑞がさえぎった。「いや、俺がゆくよ。どうせ通らなければならぬ道や。なまんだぶ。なまんだぶ。」あとにつづく本多と井上は、わが身の危険を忘れ、光瑞を見守っていたが、無事に悪路を通過したのを見届けると、涙をこぼし狂喜した。
本多は日記に述べている。「断崖を、手を横しまに、手と足をもって進む猊下、無事通過はおそらく仏天の加護ならん」

九死に一生を得て、カシュガル出発から約一カ月後の10月23日、インド領バルチットに到着し、久しぶりの文明の風に当たることができます。そして11月9日、インド仏蹟調査の拠点スリナーガルに無事到着しました。

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