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別れのブルースと昔日の神戸メリケン波止場の思い

2013-08-16 19:59:42 | 日記

 

わが青春時代勤めていた神戸の波止場町に建つユニークな7階のビルデイング屋上に無線アンテナが林立した国、県の出先総合庁舎であったが建物の耐震化と市の環境整備のため解体されてポートアイランドへ移転新築されることを知った。このビルは私が下積みの7年、幾多の艱難辛苦に耐え、この世界で初めて幹部へ一歩踏み出した思いで深い庁舎だった。

 当時の神戸港の輸出入は外国から、あるいは神戸港から岸壁に接岸した本船からの荷役と係留代の安い沖のブイに本船を係留して貨物を艀に積み替えて岸壁の倉庫へ荷揚げする方法があった。だから神戸港には挿入写真に見られるように艀群の情景があった。この風景は今日では見ることができない。

下の写真の神戸のメリケン波止場で、小型のボートは沖のブイに係留されている本船から下船して上陸する船員また船に帰る船員や物資を運ぶ海のタクシーである。港では通船業者が経営している。メリケン波止場といえば神戸と横浜の二つで藤浦が詠ったメリケン波止場は横浜市山下町のメリケン波止場で彼がニューグランドホテル3階の窓を開けてメリケン波止場を見ていた。同じく若い女性が窓辺に佇み波止場から潤んで見える情景を見つめているうちに切ない別れを回想するという一連の歌詞のストーリを別れのブルースに

窓開ければ 港が見える メリケン波止場の灯がみえるよ♪ 二番で ♪二度と逢えない心と心踊るブルースの切なさ♪

と歌った。歌手の淡谷のり子は戦争末期(昭和19~20年8月)に戦地を訪れこの歌を歌った。あるとき特攻航空基地を訪れて歌った。基地の隊長から出撃する特攻兵士が中座して失礼すると告げられていた。歌を聴いていた隊員はみな彼女の弟のように若い飛行兵、いまだ恋も知らぬ、あるいは恋人が、許嫁が、父母が腹からの兄弟姉妹があったであろう20歳前後の若者。淡谷は歌っているさ中、幾人かの兵士が彼女に一人、二人と敬礼をして中座していった。中座した隊員には歌詞の通り二度と会えない踊るブルース究極の別れの葬送のブルースであった。

 戦後10年を経て淡谷のブルースはラジオを通じて全国で歌われ私もラジオ聴いて歌詞もメロデイーも知っていたが仕事一筋に生きた青年は、戦地で歌手淡谷のり子が反骨を秘めてどれだけの思いで歌っていたのかインターネットの時代がくるまで知ることができなかった。

歌は、作詞家藤浦洸一が横浜のニューグランドホテルでの窓からメリケン波止場への思いを作詞したエピソード。私は藤浦と淡谷のり子を偲び神戸の異人館の窓から神戸のメリケン波止場を見下ろしながら別れのブルースを口ずさんでいた。いつしか日が沈んでランタンの光芒が佇む人を照らしだした。

 思いは、在りし日、訪ねてきた可憐な女子高校生達だったり、結婚前の妻と、別れのブルースをハモリながら哀調に浸って散策した昔日のメリケン波止場に思いを。波止場は18年前の疎ましい阪神淡路大震災で壊れ去り、私を7年間育んでくれた懐かしいビルも解体された。もう私は別れのブルースを口ずさむことはないだろう。

ビルの解体と敗戦67年をオーバーラップして2013.8.15


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