実家の母は、私の弟と二人で暮らしている。
父が亡くなってから5年の間に、要支援1から要介護2へと、
確実に老化が進んでいる。
食事も排泄も入浴も一人ででき、会話も普通にできているが、直近の
ことはほとんど忘れてしまう。
でも、明るくて元気だ。
コロナによる行動規制が緩和された過日、3年ぶりに母に会うために
帰省した。思い出話に花が咲いた。
昔のことはよく覚えているので、次から次へと話題は尽きない。
初めて聞く話もあって、驚かされた。
その日、母の頭が一段と冴えていたので、私は、聞きたいことは今の
うちに聞いておこうと思い、母に尋ねた。
「これまでの人生で、一番嬉しかったことは何?」
母は、2、3秒後にこう答えた。
「女の子が生まれたこと」と。
私はそれが、すぐに自分のことだとは分からなかった。
「それって、私のこと?」
炬燵に寝ころんでいた私は、起き上がって間抜けな質問をした。
他に誰がいるというのか。母の子供は弟と私の二人しかいない。
「初めての子供は女の子がいいなと思っていたから、女の子が生まれ
てすごく嬉しかった。毎日、顔ばっかり眺めていた」
母は、こともなげに言った。
意外だった。もちろん仲が悪い訳ではない。
でも、もっと違う答えが返ってくると思っていた。
私は母の期待をずっと裏切ってきたと、自分では思っていた。
思いもよらなかった母の言葉に、胸が温かくなるのが実感として分かった。
(胸って本当に温かくなるのだ!)
母はお世辞を言うような人ではないので、私はその言葉をそのまま受け取った。
本当に嬉しかった。
72歳にもなって、こんなに嬉しいものかと、自分でも呆れるほどに。
そして、どんなことがあっても、母を守りたいと思った。
さて、後日気が付いたことだが、私はもう一つの大事な質問を忘れていた。
「人生で一番悲しかったことは何?」
私の予想は父との別れだが、もしかしたら違う答えが返ってくるのかもしれない。