想いつくままに

若い人達にぜひ伝えたいこと

引越し

2007-06-01 15:11:04 | 無題
今までこのブログをお読みくださった方々へ。

度々お立ち寄りくださり大変ありがとうございました。この1ヶ月ほどこのブログを試してみましたが、どうも私には今ひとつ使いづらいところがあり、次のブログに戻ることにいたしました。ぜひ引きつづき下記ブログでご覧くださるようお願い申し上げます。忌憚の無いコメントお待ちしています。

http://blog.livedoor.jp/konton_1937/

今日の言葉:「雨霰雪や氷とへたつれと とくれはおなし谷川の水」一休

2007-05-28 10:44:19 | 人生の知恵
 これは『一休骸骨』にある歌で、読みやすい書き方にあらためますと;「雨アラレ 雪や氷と隔(ヘダ)つれど 溶くれば同じ谷川の水」<o:p></o:p>
とても分かりやすいですね。雨粒とかアラレや雪や氷の結晶と姿形は変わって別物に見えるけれど、溶ければ皆同じ谷川の水だ、と言っているのですね。宇宙の真理を見事に言い当てています。
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宇宙にはエネルギーが存在するのみです。エネルギーという全く形の定まらないものと、物質という確たる存在とは全く別物であると最近まで科学は信じていました。しかし、アインシュタインが発見したエネルギー・質量保存則によって、物質もエネルギーの一部が存在の在り方を一時的に変えたものに過ぎないことが明らかになりました。私は「人間が死ぬとどうなるか」の考察で、肉体は結局は分解されて再びライフ・チェーン(命の鎖=循環)に取り込まれて利用されますが、心は多分宇宙に偏在するエネルギーに戻るのではないかと考えました。その様子は、ちょうど生きているときの命のエネルギーは雨粒みたいに個の存在ですが、死ぬと大海に溶け込んで他の水と区別がつかなくなる、すなわち宇宙に偏在する(あまねく存在する、一箇所に片寄って有るのではなく何処にでも同時に存在する)エネルギー(海)の一部になると考えたのです[]。本質的に同じ真理を、一休は見事に喝破し、この歌に易しく表現していると思います。<o:p></o:p>

[]次のブログを参照ください。このブログでは「雨粒」の代わりに「波」を使ってお話しました:2006/3/28「生きていることと死ぬということ――命ってなに?」http://blog.livedoor.jp/konton_1937/archives/50465281.html<o:p></o:p>

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憲法を考える(Ⅱ):「憲法9条」について本当に考えなければならないことは?(その3)

2007-05-26 08:22:30 | 憲法
 戦後世代の日本人には、戦争は「他人事」になってしまっていると思います。子供の時とは言え戦争を体験した一人として戦争についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。世界の歴史を振り返ってみて、戦争によって問題が解決したことがあるでしょうか。特に世界大戦以後に限ってみても、戦争の火蓋を切る側は最初は常に「正義の味方」ですが、つねに泥沼にはまってしまって、何のための戦争だったのかも不明確になってしまっています。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、湾岸戦争そして今のイラク戦争。どこにも「正義」は無かったものばかりです。「正義」すら大国のエゴに過ぎなかった事例ばかりです(特にイラク戦争ははじめから嘘の塊でした)。そして戦場になった国民、一般市民は悲惨な状況に耐えなければならないのです。戦争を仕掛けた張本人たちは、のほほんとして生命の危険すら感じないで済んでいるのです。特にアメリカは自国内で戦争した(攻められて戦場になった)経験が無いのです。

 そこで提案できるのが、国際紛争解決のために国際連合に強力な警察機構を置く事です。今の
PKO活動(軍そのものはPKF)の拡大版と考えてよいでしょう。その第一歩を日本が提案し実行することです。上に書いたことの繰り返しになりますが、専守防衛の軍隊をそのままそっくり国際連合の管理下に置き、日本国としては一切それに干渉しないことを宣言することです。その軍の維持は日本国が責任を持つ。国民が同意する範囲の(税金の使い方の)規模を維持すればよいのです。そして他の国々にも呼びかけ、地球上で最強の軍備を国連に持たせることです。これによって、強国の勝手(エゴ)をゆるさないようにすることができるでしょう。その先には安保理での強国の拒否権も有名無実になること(国連の民主化)も考えられます。

 明治維新後に廃藩置県が実施されて始めて日本は国家として一つに統一されました。警察機構も一本化されて国内の治安が守られるようになりました(少なくとも制度としては)。これと同じことを世界規模で行うことは可能なはずです。将来の理想としては国家というものを廃止して世界連邦に統一し、一つの警察機構で世界の平安を維持することにするのです。ここへ一足飛びに到達することは現実的でないとするならば、上に書いた各国の軍隊を国連の統治下に置くことから始めればよいのではないでしょうか。それに伴って軍を預けた国が集まって新しい「安全保障理事会」を作り(拒否権無し)、この国際警察機構の維持・運営に当たるというのはいかがでしょうか。現在の安保理では強国のエゴ(拒否権)に支配されていて、強国のエゴの支配を認めていることになっています。これではとても民主主義とは言えず、国家間の格差が拡大するばかりで、世界平和は永遠にやってこないでしょう。


 徹底した専守防衛の考え方と実効方法については、中国・戦国時代の墨子の「墨攻」が大変参考になります。彼の非戦論は徹底したものです。私のブログをご参照ください:
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07/1/14:「専守防衛」と墨子の「非戦論」:政治と外交  | 人生の知恵http://blog.livedoor.jp/konton_1937/archives/50903576.html<o:p></o:p>

 いわゆる「不戦条約」といわれるものは、歴史的に第
9条が初出ではありません。第1次大戦後にできた「パリ不戦条約(1929)があります。この条約の第1条と2条を読むと、現在の9条によく似ていることがお分かりになると思います。<o:p></o:p>

第1條 : 締約國ハ國際紛争解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳肅ニ宣言ス <o:p></o:p>

第2條 : 締約國ハ相互間ニ起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス<o:p></o:p>

 明らかに国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、平和的手段(すなわち外交だと思われます)以外のものは使わない、と誓っているのです。結構な条約ですが、例によって国際連盟にしても国際法にしても何ら規制する力を持っていないために有名無実のままになっています。
GHQのメンバーが憲法9条を書いた動機にはこの果せなかったパリ条約を「今度こそは」実現したいという意気込みが有ったのではないでしょうか。しかし現実は厳しいですね。こうした苦い経験を2度と繰り返さないようにする具体的な私の提案が上記の国連の警察機構なのです。<o:p></o:p>

 以上3回にわけて憲法9条についての私見を述べてみました。大切なことは、これからの日本が世界の中での他国との関係をどう位置づけていくのか世界をどの方向に持って行こうとしているのか、を考えることだと思います。そうすれば憲法9条をどうするべきかがはっきり見えてくると思うのですがいかがでしょうか。こうした視点からの議論がほとんど聴かれないことを心配しています。忌憚の無いコメントをいただければ幸いです。
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憲法を考える(Ⅱ):「憲法9条」について本当に考えなければならないことは?(その2)

2007-05-23 17:43:04 | 憲法
 「その1」で書きましたように、ことは簡単明瞭なのです。現憲法を素人的な常識として文字通り解釈し実行しようとすれば、それは完全に軍隊を持たない、(どんな事態になっても)戦争もしない、ということでしか有り得ません。問題の種は、戦後まもなくの冷戦、さらに19506月に起きた朝鮮戦争に対応してGHQの指令によって設立した「警察予備隊」(19508月)から始まり、次々になし崩し的に進められた言葉(憲法に書かれていること)と現実の乖離です。終戦により一旦一切の武器を放棄させ、永遠にこの状態を保ちますと誓わせておいて、冷戦が始まり、朝鮮戦争が始まるや否や、舌が乾かないうちにその誓いを破らせたのです。その主役はもちろんアメリカ合衆国です。それを一層推し進めているのが日米安保条約です。これは歴史が明らかにしていることです。<o:p></o:p>

 このように現時点での憲法
9条の問題は、「現憲法のとおりに完全に軍を持たない国(非武装中立)にするのか、それとも武装中立を国策とするのか」と言い換えることができると思います。ことは本当に単純なのです。この2者択一の問題に対する国民の選択を総選挙で問うべきでしょう(間違っても他の憲法条文の改変と一緒にさせないことが重要)。<o:p></o:p>

 もし前者をとるならば、非武装中立の現実性を十分検討しておかなければなりません。それで日本の国民の安全を保障できることを納得できるかたちで具体的に国民に提示できなければなりません。それは果して可能でしょうか。敢えて申し上げますが、日本は外交ゼロの国です(戦後の事実が示しています)。外交で平和維持ができる政府であったためしがありません(隣国の韓国や中国とですらできていません)。だとすると、他国から攻められた場合の対策を具体的に決めておかなければならないでしょう。日米安保条約は有効性でしょうか。アメリカのエゴで切り捨てられる可能性は無いと言い切れるでしょうか。または国連に日本の安全を預けることができるでしょうか。今の国連の実力は信頼できるでしょうか。安保理だって結局は大国のエゴで動いているのではないでしょうか。いずれも、他力本願の甘い希望や夢に過ぎないのでは。
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 もし後者(自力で国民の安全を確保する)をとるならば、その現実は「武装中立」しか有り得ません。それこそ文字通りの「自衛隊」=
defense-armyではないでしょうか。過日ブログに書いたことを繰り返しておきますが、もし武装中立を採った場合には、将来できるだけ速やかに全軍事力の使用権を国連に託すべきでしょう。有事(日本が攻められた場合)には日本を守ることを国連軍の義務とすることを条件にするのです。これに習って世界の多くの国の軍隊が国連の管理下におかれるようになれば、真の平和が実現されるのではないでしょうか。ついでに現存する全ての核兵器も国連の管理に移されるべきです。本当の核拡散防止の実現です。<o:p></o:p>

 武装中立(専守防衛)にしても、軍隊を持つ前に(もう持ってしまっていますが)私たち全員が考えておかなければならない重要なことがあります。戦争が始まったら誰が戦場に出るかです。戦場に派遣されることは完全に国民全体で平等であるべきです。「私は武力を国家が持つことは賛成だが、戦争には参加しないよ」で済ませる人間が居てはいけないのです。一旦戦争をする可能性を受け入れた場合には、全員が交代で責任を負うべきでしょう。この覚悟が無い限り武力保持の議論をする資格は無いと思うべきです。国民全員が平等に戦争参加の義務を負うとなると、これは「国民皆兵」しかありません。しかも私が主張したい国民皆兵は、「例外なし」のものです。すなわち首相だろうと誰であろうと平等に交代で義務を負うということ。「え、首相が」という声が聞こえそうですが、首相が前線で活躍している間は副首相が政務を担当すればよいだけのことです。それくらいの覚悟がない首相や国会議員に憲法改正を議論する資格は無い、と心得るべきです。ブッシュでも前線で戦う義務があったならば、嘘で固めた愚かなイラク戦争は起きなかったのではないでしょうか。
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 「その3」に続きます。
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健康のための正しい食とは・・[11]正しい調味料(酒の巻・その2)

2007-05-21 04:30:42 | 食事で健康を
 「その1」では日本酒そのものの話が長くなってしまいましたが、一口に日本酒といってもネーミングの曖昧さとその内容は複雑なものだということがお分かりいただけたと思います。私流に言えば、純米酒以外は「まがい物」です。世界的にもアルコールを添加したものは「酒」ではありません。「リキュール」に分類されるべきものです。<o:p></o:p>

 では、世の中にある「調理酒」とか「料理酒」と言われている酒は一体どんなものなのでしょうか。普通の酒とどこが違うのでしょうか。世の中で「料理酒」と呼ばれるものは、実用上大きく3種類に分けられるでしょう。まず第一は「塩」が入っている(2~3%)ものです。いわゆる「不可飲処置」がなされたものです。これによって税法上「酒」ではなくなり、そのために安く買えるのです。そしてライセンスの無いところでも売ることができるます。「安いのなら塩くらい入っていたっていいじゃないの」とか、「どうせ調理で塩を使うのだから酒に混ざっていたっていいじゃない」と言われる方はそれでよいのですが、微妙な味を大切にしている人にはお勧めできません。調味料を加える順序は「さしすせそ」とよく言われるとおり、「塩味は甘みの後」が常識です。塩で食材が締まってしまうのです。一方、お酒は下処理に使われる場合も味付けに使われる場合も、調理のはじめに加えられるものなのです。<o:p></o:p>

 最近では「料理用の清酒」が比較的安価に(と言っても塩入に較べれば高いですが)出回るようになりました。これには大きく分けて2種類あります。純米酒に属するものと、味付けのために糖類などが添加されたものです。<o:p></o:p>

 全部で3種類の「料理酒」があることがお分かりいただけたと思います。料理に使う場合のそれらの違いを理解するために、まず、調理に期待する酒の効能を確認しておきましょう; ①生臭みを消す、②素材を柔らかくする、③コクと旨みを追加する、の3つがその代表的なものです。<o:p></o:p>

 ①のくさみをとるのは酒に含まれている有機酸とアルコールによります。した処理として食材を酒に漬け込んでいる間に有機酸が働いて臭みを消してくれます。また加熱されてアルコール分が揮発するときに臭みも一緒に飛ばしてくれます。②の効果は、酒に含まれているアルコール分によります。しかし「塩入」を使ったのでは逆に硬くしてしまいます。③は酒に含まれる旨み成分によります。<o:p></o:p>

 これらの調理効果のうちアルコール分によるものはともかく、有機酸旨み成分によるものは、現代の純米酒や吟醸酒(お酒として飲むもの)にはあまり期待できません。なぜでしょうか?それは消費者の好みである「より切れのある淡麗な辛口」を実現するために、精米度を上げてきて、極端な場合は50%以上になってしまっているからです。旨み成分や有機酸は比較的米粒の表面に含まれているものです。ですから飲むお酒に期待するキレと、料理酒に必要な効能は相反する要素なのです。そこで近頃メーカーは、キレのある辛口清酒の他に、調理に適した「料理酒」を製造販売するようになってきました(あるメーカーの分析ではアミノ酸量は純米酒の約3倍とのこと)。日本酒はめったに飲まないが料理には毎日使う私などは、「待ってました」とばかりに喝采を送りたいところです。<o:p></o:p>

 しかし喜んでばかりも居られないのが世の常でして、添加剤(化学薬品)で旨みを補うことによってローコストで同じ効果を狙う「まがいもの」があります。それが3番目のものです。正しい味覚を身につけたい方は、純米料理酒をお使いください。塩入と添加物入りでは味覚を破壊されてしまいます。<o:p></o:p>

 参考のために或るメーカーの料理酒のラベルをコピーしてみましょう;「アルコール分:13.0度以上14.0度以下。原材料名:米、米こうじ、醸造アルコール」。アルコールが添加されていることから「純米酒」ではありませんがまあ「吟醸酒」の類と言えそうです。(「その1」をご参照ください。)<o:p></o:p>

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今日の言葉:「心頭を滅却すれば火も亦た涼し」

2007-05-19 12:17:11 | 人生の知恵
 これはたいていの日本人が知っている言葉ですね。塩山恵林寺の快川紹喜(カイセンジョウキ)が信長の敵将を匿っていたときに、信長の嫡男信忠に寺を攻められ、焼き討ちを受け、一山の僧たちとともに焼死しました。その時の辞世の句として有名になったものです;「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」。<o:p></o:p>

 しかしこれは彼のオリジナルではなく、中国の杜荀鶴(トジュンカク、10世紀の人)の詩のコピーです。まあ、死を直前にしてとっさに思い出して自分の辞世の偈に利用できたのはさすが教養高い人だったと言えるでしょうか。杜荀鶴の詩は;夏日、悟空上人の院にて題すとして、「三伏門を閉ざして一衲を披く 兼ねて松竹の房廊を陰らす無し 安禅は必ずしも山水を須いず 心頭を滅却すれば火も亦た涼し」というものです。簡単に意訳してみますと、「この厚い夏の時期に寺の門を全部締め切ってしかも僧衣をきちんと着ている。陽は高くにあって樹木も陰をつくっていない。でも安らかに座禅をしていれば山水(良い景色)はいらない。無心になれば火ですら涼しいものだ」。<o:p></o:p>

 これと同じような内容を説いた言葉が『菜根譚』にも有ります。「熱は必ずしも除かず、而(シカ)してこの熱悩(ネツノウ)を除かば、身はつねに清凉台上にあらん。窮(キュウ)は遣()るべからず、而してこの窮愁(キュウシュウ)を遣らば、心はつねに安楽窩中(アンラクカチュウ)に居らん」/『菜根譚』後集28。私流に意訳しますと;暑さそのものを取り除くことはできないが、暑さに苦しむ心に捉われないならば、いつも縁側で涼んでいる気分になれるものだ。貧乏も同じで、これに捉われなければ、けっこう人生を楽しむことができるものだ。」といったところでしょうか。こちらの方が現代的で実用的かもしれませんね。<o:p></o:p>

 今の日本は、格差拡大で普通の人間である私たちには息苦しい世の中になってしまっています。小泉以来、安部になって「ワーキング・プア」の増大など状況は悪くなるばかりです。対応の仕方は2通りです。第1は日本の政治・社会のシステムを変革すること、第2は自分自身の心のあり方を工夫することです。第1のやり方は、日本の国そのものをよくすることで大変ですが、現代の北欧諸国がお手本になります。とは言え、なにせ日本の文化の歴史も100年以上ですから(農耕文化の影響を考えると25003000年でしょうか)、容易なことではありません。特に為政者と大衆の関係の長い歴史はそう簡単に改めることはできないでしょう。北欧のやり方を単に移入する(真似をする)ことは不可能です。文化の質量と言いましょうか、慣性は大きなものでそう簡単に方向変換はできるものではありません。多分100年以上かかるのではないでしょうか。改善される前に日本ないし地球が沈没(環境悪化で生存できなくなる)しないことを祈るのみです。<o:p></o:p>

 第2の方法は、誰にでも今直ぐにでも取り掛かることができることです。法然や親鸞が貧窮の極みに居た民衆を、浄土教という仏教思想を使って救った史実を思い出しました。現代では宗教にすがることも、心理療法に頼ることも必要ありません。科学的にこの宇宙の真実をあなた自身が納得すればよいだけのことです。現代の宇宙物理学はそこまで発達しています。そこらへんのことは項を改めて「Konton-Cosmology」として近いうちにお話する予定です。<o:p></o:p>

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憲法を考える(Ⅱ):「憲法9条」について本当に考えなければならないことは?(その1)

2007-05-16 22:29:27 | 憲法
 世の中、改憲か護憲かで喧(カマビス)しいですが、それしかないのでしょうか?まるで原発の賛成・反対と同じで、日本人はどうしてYESNOしか議論できないのでしょうか? 私は法律の専門家ではありませんが憲法は国民全体のものですから、勇気を出して以下に私見を述べてみたいと思います。アプリオリを捨てて、科学的に(客観的に)、歴史も含めて考えてみたいと思います。<o:p></o:p>

念のために憲法9の全文をコピーしておきましょう:<o:p></o:p>

第2章 戦争の放棄-第9条: <o:p></o:p>

1.      日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。<o:p></o:p>

2.      前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。<o:p></o:p>

これが9条の全てです。こんなに短く簡単なのです。<o:p></o:p>

これを法律の専門家ではない私たち素人が読めば「平和憲法」そのものと理解するでしょう。小学生に読み聞かせる時には、たぶん「私たち日本は平和を愛する国として、軍隊は持ちませんし、全ての戦争もしません。世界の平和のためには武力以外の方法を使います」といったものになるのではないでしょうか。いわゆる「平和憲法」であり「戦争放棄」以外のなにものでもありません。それがどうして何時の間に強力な軍隊を持ち、アメリカのいうままに海外に軍隊を派遣して、ドンパチこそしないが、アメリカが仕掛けている戦争に乗っかってしまっているのでしょうか。それで止まっていればまだしも、いまや堂々と軍隊を持ち、戦争ができるようにしょうと意気込んでいるのですから、誰が考えても憲法違反ではないでしょうか。もうこれ以上口先だけでは誤魔化せなくなった、いちいちうまい言い方を考えるのが面倒になったということで、今回の憲法改変を言い出していることは、戦後の歴史、すなわち自民党による政略の流れをみれば明らかでしょう。<o:p></o:p>

9条の第1項は明確で問題ないでしょう。問題無いというのは誰が読んでもほとんど同じ解釈になるでしょう、という意味です。現実にこの項目は遵守されているといえるでしょう。国際紛争の解決手段としての戦争はしない、ということでしょう。これがいわゆる「戦争放棄」の条文といわれるところです。<o:p></o:p>

問題は2です。前半部分ですでに現実と大きくズレていることは誰が考えてみても明らかですね。「自衛隊」と呼んでも、その実質的な内容は立派な「陸海空軍」です。海外の政府もジャーナリズムも”army”という表現を使っています。すでに現在憲法違反を犯しているとしか素人の私には考えられません。看板に偽りあり、羊頭狗肉といった言葉がおもい浮かびます。<o:p></o:p>

後半部分も物議を醸すものです。素人的に素直に解釈すれば「決して戦争はしません」ということなのでしょうが、此れは何とでも解釈または言い逃れのできる曖昧な表現です交戦権」とは国際法上は一体何を意味するのでしょうか。<o:p></o:p>

「国の交戦権は、これを認めない」というのは、攻めていくのも、攻められた時に受けて立つのも、両方とも「認めない」ということなのでしょうか。前半部分から続けて「素直に」読めば、軍隊は持たないのですから、答えは両方とも認めないと言うことになるはずです。すなわち、自国の安全を守る手段としては外交だけが残された可能性です。「非武装中立」と言ってもよいでしょう。果たして今の世界情勢(国連の実力と、強国のエゴまるだしの戦略)から見てこれは可能でしょうか。まして外交不在の日本の現状を考慮に入れるととても現実的とは言えないのではないでしょうか。<o:p></o:p>

「自分から他国を攻めるような戦争はしません」というならば少し現実的になります。いわゆる「中立」だからです。しかしこの解釈を採用するためには強力な軍隊を持たなければなりません。いわゆる「武装中立」です。しかし、これは明らかに2項前半に違反します。従ってこれは改変を必要とする大変な重要事項です。<o:p></o:p>

以上のように、日本国(日本の現政府)は既に憲法違反をやっていることは明らかです。ただ、現実の世界情勢から考えて、この憲法9条のままで良いのかどうかは慎重に考える必要があるということではないでしょうか。2項の「交戦権」についての不明確さを、国民の誰が読んでも違った解釈が出ないように書き直す必要があるのではないでしょうか。それによって日本の本当にとるべき方向を明確にするべきでしょう。<o:p></o:p>

(その2に続きます)<o:p></o:p>

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健康のための正しい食とは・・[11]正しい調味料(酒の巻・その1)

2007-05-14 20:20:37 | 食事で健康を
 お酒はそれ自体を飲むだけでなく、調味料として欠かせない大切なものです。それは和食に限ったことではなく、フランス料理でもイタリア料理でもワインなどが味の決め手の一つなのです。<o:p></o:p>

お酒にまがい物が有って、その取り扱いには注意を要します。酒と同じものでないことを知っておく必要があります。<o:p></o:p>

もう一つの酒の問題は、その表示に関する規制が曖昧で、名前から実体を正確に知ることはほとんど不可能です。これも日本の政治の実態(メーカーと役所の馴れ合い、消費者不在など)を示す一つではないでしょうか。<o:p></o:p>

日本酒の場合、高級なものほど原料の米の精米度が高いものを使います。その主な理由は、玄米に含まれる胚芽や表層部に多く含まれるタンパク質、脂肪、ビタミン、ミネラル等の成分が醸造の工程で酵母の餌となり、酵母の働きが強くなりすぎて、日本酒独特のキレがなくなったり、色がついたり好ましくない影響がでてしまうからです。そのためにうまみ成分(アミノ酸)も落とすことにはなりますが「清酒」のためには精米度を上げざるを得ないということになるわけです。一方料理に使う場合にはむしろ旨み成分やミネラルなどは残っていた方が好ましいわけで、かえって精米度の低いお酒の方が適しているということができそうです。<o:p></o:p>

さて、このことを確認した上で本論である日本酒の名称に関するお話にもどりましょう。あなたは日本酒の名称あたは分類を正確にご存知ですか。なんだかお酒屋さんにいくとメーカーが勝手に好きな名前をつけているのではないかと思えるほど多種多様ですね。酒税法上の定義を確認しておきましょう。まず「純米」という言葉と「吟醸」という言葉の意味を正確に理解しなければなりません。「吟醸」って高級なお酒のことでしょう・・・ではダメなのです。<o:p></o:p>

原材料として米と米麹と水だけを使って製造された酒には「純米」という言葉を名前に使うことができます。世の中には、「純米大吟醸酒」、「純米吟醸酒」、「特別純米酒」、「純米酒」といった名前が有って、それらの違いは「精米歩合」だけです。<o:p></o:p>

次に「吟醸」という言葉も名称に使われていますが、純米と吟醸の違いは、後者には純米の材料の他に「醸造用アルコール」を添加することが許されている点ですただし米の10%以下)。「大吟醸」、「吟醸」、「特別本醸造」、「本醸造」などの名称が使われています。違いはやはり「精米歩合」です。ここで一言!そもそも「吟醸」って「吟味して醸造した」酒ということだったはずです。ところが実態はアルコールが混ぜてあるのです。見せ掛けもいい加減にしてほしいものですね。完全に消費者を欺くもの意外のなにものでもない、と思いませんか。役人と業者がぐるになって消費者を馬鹿にしているのかと、皆さん怒りがこみ上げてきませんか? <o:p></o:p>

これら純米と吟醸の他に、俗に「普通酒」(増醸酒とも呼ばれる)というものがあって、それは吟醸酒の材料にさらに糖類(ぶどう糖・水あめ)・酸味料(乳酸・コハク酸・クエン酸・リンゴ酸)・化学調味料(グルタミン酸ナトリウムなど)が添加されたものなのです。添加する醸造用アルコールも20%以上です。アルコールを添加しすぎるとただ辛いだけで、飲めたものではありません。そこで「味」を添加剤で修正しなければならず、甘味や酸味や旨みを加えることになるわけです。もはやお酒とは言えない代物です。<o:p></o:p>

お酒の話で長くなってしまいました。料理とお酒のお話は「その2」でお話します。<o:p></o:p>

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今日の言葉:「初めあらざること無し、克(ヨ)く終わりあること少なし」

2007-05-12 12:56:55 | 人生の知恵
 これは 『詩経』(大雅・蕩)にある言葉です。詩経は中国儒教が大切にした四書五経の一つで、中国で最も古い詩を編集したものです。<o:p></o:p>

「物事を始めたときは皆うまくいくように思えたり見えたりするものだが、終わりまで完遂するものは少ない」。英語の”All’s well that ends well.”(終わりよければ全て良し)と同じ考えでしょうね。<o:p></o:p>

私には、人生の真実を言っているようにも思えます。「誰でも同じように(祝福されて)生まれてくるが、良い死に方をする者は少ない」という解釈もできるのではないでしょうか。同じような言葉が『菜根譚』にも見えます;「人を看()るには只だ後の半截(ハンセツ)を看よ」と。その人の後半生を見ればその人の能力とか人格がわかるものだ、ということでしょう。<o:p></o:p>

若い人たちに、「人生は40歳前後が一つのターニングポイントですよ」といったことをお話します。40歳までの自分の人生への取り組み方と、40歳以降の取り組み方、価値観といったものは変わるものです。40まで一所懸命やるべきことを積み上げながら全力を尽くしてきたでしょうが、40過ぎた人生では、そうやって背負い込んだ多くの荷物を一つずつ降ろしながら、今の一瞬一瞬を味わいながら「悟り」への道を登っていくようになるものです。次の二つのブログをご参照ください。<o:p></o:p>

*「人生にはターニングポイントがある」(2006/3/21http://blog.livedoor.jp/konton_1937/archives/50453832.html<o:p></o:p>

*今日の言葉「下載清風」/『碧巌録』から(2006/9/28):http://blog.livedoor.jp/konton_1937/archives/50791096.html<o:p></o:p>

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憲法を考える:「主権在民」の意味

2007-05-10 20:24:59 | 政治のシステム


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C憲法  | 政治のシステム<o:p></o:p>

日本の憲法は「主権在民」であることを明記しています:(憲法前文)「・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。・・・」<o:p></o:p>

簡単に言えば、内閣(行政)のやるべきことは全て国民の幸せのためであって、それ以下のものでもそれ以上のものでもないということです。内閣も省庁も国民を支配するものではない。これは誰でも知っていることでが、政治屋や役人はときどきこれを忘れるようで。或いは忘れている振りをしています<o:p></o:p>

最近は単純に忘れているというより、も少し悪賢くなって、隠すことを覚えたようです。それも実に巧妙にやってのけます。いわゆるトップ以下管理する立場にいる者による隠蔽工作です。連日のように新しいことが「発覚」しています。<o:p></o:p>

此れを防ぐ方法は一つだけ。全ての政府・行政の活動の透明性を確保し、それを維持するための監視機関を設けることです。これが徹底すれば税金の不正な流用は無くなり、国の借金もこれ以上増えることは無くなるでしょう。通常の国家予算の数倍に達するいわゆる「特別予算」なる不思議なものも意味が無くなり自然消滅するでしょう。公共事業での不正入札と役人の天下りの二つ、そしてその二つを実現するための特別予算が税金の不正ないし無駄遣いの典型的な例だからです。これらがなくなるだけで今問題になっている福祉や教育費のカットをせずに済むはずです。憲法にいう国民の幸せのかなりの部分が実現するはずです。<o:p></o:p>

最大で唯一の問題はこの透明性を維持するシステムとしてどんなものを作ればよいかです。上に書いた監視機関ですが、これは完全に利害関係の無い外部機関でなければならないことは言うまでもありません。「○○調査委員会」なんてものではダメです。今までも学識経験者とか有識者なんて人たちが指名されているようですが、正しく機能したことがないのは皆さんよくご存知のとおりです。そもそも権力にとって都合のよい人達が採用されるからです。その基本的な問題を改善するためになすべきことは、少なくとも会議なり委員会の類を完全公開にすることから始めることでしょうか。会議の全公開を義務付ける法律をつくることでしょうか。<o:p></o:p>

このときに参考になるのが長い歴史を持つ(およそ200年!)スウェーデンのオンブズマン制度でしょう。今の日本にあるオンブズマンは名前だけで、為政者に対立する立場にあるものばかりです。為政者または権力が自らの機能の中に組み込まなければオンブズマンでは有り得ません。その点を外さないように参考にしなければならないでしょう。<o:p></o:p>

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