◇霞ヶ関捨て農業の道--岩手・東和町教育次長、役重真喜子さん
岩手県東和町は、東北新幹線・盛岡駅のひとつ手前「新花巻」駅の東側に広がる田園地帯だ。人口は1万人余り。豊かな自然を引き継ぎ「まほろばの里」と宣言した。理想の里、という意味だ。
県立東葛飾高校(通称・東葛(とうかつ)高校)を85年に卒業した役重(やくしげ)真喜子さんは、東和町教育委員会の教育次長・学校教育課長を務める傍ら、職場結婚した夫と兼業農家を営む。東大法学部を卒業し、農水省のキャリア官僚になったが、「農業をやりたい」と、13年前に引っ越してきた。まほろばの里で探し当てた“第二の人生”に、生きがいを感じている。
◇ ◇
茨城県生まれ、流山市育ち。サラリーマン家庭だから、農業経験はゼロ。動物好きで、将来は「獣医とか、野生動物の保護に携わりたい」と思っていたが、これといった勉強や活動はしなかった。東葛高校時代、所属した陸上部の練習の合間に友人と柏駅前に繰り出し、アイスを食べたりロック系のレコードを探して歩くのが楽しみだった。
そして「何となく」東大法学部に進学。陸上部と軽音楽部に入った。
「食の安全や環境などの政策をつかさどりたい」と農水省入り。畜産局畜産課で、牛肉自由化直後の国内農家保護政策に携わり、法令上の欠陥がないかを審査した。
役重さんの転機は、入省2年目の90年。研修で農家に1カ月間、ホームステイすることになり、東和町での研修を命じられた。初めて経験する農業。牛80頭の世話や稲刈りをした。市場で牛も売買した。
農家が家族一体で働いていることに感動した。父の働く姿を見て、子供が尊敬する。「私は自宅でごろごろしているサラリーマンの父しか見たことがないのに。こういう家族って、いいなあ」。この研修で「私が目指していたのは農業だったんだ」と確信した。
霞が関に戻ると「東和町で農業をします」と辞表を出した。農家出身の上司は「農業は、あなたの思う以上に厳しい」と慰留した。両親も猛反対したが、結局、翌91年から2年間、農水省から東和町役場への出向という辞令を受けた。「自分は優柔不断だけど、この時だけは、あとに引けなかった」
東和町に戻り、研修後に農家に預けた牛2頭をもとに始まった第二の人生。近所の農家が、農業の「いろは」を教えてくれた。交流を助けてくれたのは、お酒。周囲は「都会から来たアネッコだけど、酒が飲めるから」と受け入れてくれた。
出向の2年間が過ぎると農水省を辞職し、正式に東和町職員となった。
役重さんは、実家で農業を営むご主人と結婚する際も、パートナーの牛2頭を連れて嫁入りした。家庭では2人の子供に恵まれた。役場職員としては、環境への配慮を示すISO(国際標準化機構)の認証を役場で取得するルールづくりなどに従事してきた。
その後、役重さんは冬の寒さで体調を崩したことから、牛の飼育をやめ、ペット兼家畜のヤギ2頭を育てている。「2歳の娘は母乳のあと、ヤギの乳で育った」という。
霞が関への未練はないが、歯がゆさが残る。国が「三位一体の改革」と称して進める補助金カット。「市町村を切り捨てる手法。官僚は、頭では分かっているはずなのに……」
◇ ◇
役重さんは、東葛高校時代を「自由な気風をおう歌するばかりに、自分の進路を考えることに熱心でなかった」と反省する。8年前、東葛高校に呼ばれて講演をした際、こうアドバイスした。
「私は運良く東和町に出会えたけれど、回り道をした。人生の進路を選ぶ皆さんは、学校の自由な気風を生かしてボランティアなどを経験して早く自分の進みたい道を探し当て、後悔のない人生を送ってください」【木下豊】=県立東葛飾高校の部は、これで終わります
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/chiba/archive/news/2004/04/22/20040422ddlk12070061000c.htmlより全文引用
岩手県東和町は、東北新幹線・盛岡駅のひとつ手前「新花巻」駅の東側に広がる田園地帯だ。人口は1万人余り。豊かな自然を引き継ぎ「まほろばの里」と宣言した。理想の里、という意味だ。
県立東葛飾高校(通称・東葛(とうかつ)高校)を85年に卒業した役重(やくしげ)真喜子さんは、東和町教育委員会の教育次長・学校教育課長を務める傍ら、職場結婚した夫と兼業農家を営む。東大法学部を卒業し、農水省のキャリア官僚になったが、「農業をやりたい」と、13年前に引っ越してきた。まほろばの里で探し当てた“第二の人生”に、生きがいを感じている。
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茨城県生まれ、流山市育ち。サラリーマン家庭だから、農業経験はゼロ。動物好きで、将来は「獣医とか、野生動物の保護に携わりたい」と思っていたが、これといった勉強や活動はしなかった。東葛高校時代、所属した陸上部の練習の合間に友人と柏駅前に繰り出し、アイスを食べたりロック系のレコードを探して歩くのが楽しみだった。
そして「何となく」東大法学部に進学。陸上部と軽音楽部に入った。
「食の安全や環境などの政策をつかさどりたい」と農水省入り。畜産局畜産課で、牛肉自由化直後の国内農家保護政策に携わり、法令上の欠陥がないかを審査した。
役重さんの転機は、入省2年目の90年。研修で農家に1カ月間、ホームステイすることになり、東和町での研修を命じられた。初めて経験する農業。牛80頭の世話や稲刈りをした。市場で牛も売買した。
農家が家族一体で働いていることに感動した。父の働く姿を見て、子供が尊敬する。「私は自宅でごろごろしているサラリーマンの父しか見たことがないのに。こういう家族って、いいなあ」。この研修で「私が目指していたのは農業だったんだ」と確信した。
霞が関に戻ると「東和町で農業をします」と辞表を出した。農家出身の上司は「農業は、あなたの思う以上に厳しい」と慰留した。両親も猛反対したが、結局、翌91年から2年間、農水省から東和町役場への出向という辞令を受けた。「自分は優柔不断だけど、この時だけは、あとに引けなかった」
東和町に戻り、研修後に農家に預けた牛2頭をもとに始まった第二の人生。近所の農家が、農業の「いろは」を教えてくれた。交流を助けてくれたのは、お酒。周囲は「都会から来たアネッコだけど、酒が飲めるから」と受け入れてくれた。
出向の2年間が過ぎると農水省を辞職し、正式に東和町職員となった。
役重さんは、実家で農業を営むご主人と結婚する際も、パートナーの牛2頭を連れて嫁入りした。家庭では2人の子供に恵まれた。役場職員としては、環境への配慮を示すISO(国際標準化機構)の認証を役場で取得するルールづくりなどに従事してきた。
その後、役重さんは冬の寒さで体調を崩したことから、牛の飼育をやめ、ペット兼家畜のヤギ2頭を育てている。「2歳の娘は母乳のあと、ヤギの乳で育った」という。
霞が関への未練はないが、歯がゆさが残る。国が「三位一体の改革」と称して進める補助金カット。「市町村を切り捨てる手法。官僚は、頭では分かっているはずなのに……」
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役重さんは、東葛高校時代を「自由な気風をおう歌するばかりに、自分の進路を考えることに熱心でなかった」と反省する。8年前、東葛高校に呼ばれて講演をした際、こうアドバイスした。
「私は運良く東和町に出会えたけれど、回り道をした。人生の進路を選ぶ皆さんは、学校の自由な気風を生かしてボランティアなどを経験して早く自分の進みたい道を探し当て、後悔のない人生を送ってください」【木下豊】=県立東葛飾高校の部は、これで終わります
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/chiba/archive/news/2004/04/22/20040422ddlk12070061000c.htmlより全文引用
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