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神聖ローマ帝国

2024-05-13 00:17:34 | 読書
昨日の日経新聞のOpinionを読んでいて思わず笑ってしまった。
冒頭に1925年にノーベル文学賞を受賞したバーナード・ショーの名言がある。
「楽観主義者と悲観主義者はともに社会に貢献する。
 楽観主義者は飛行機を、悲観主義者はパラシュートを発明するのだ」

あと、今月の私の履歴書が、囲碁棋士の趙治勲さんである。
以前、小林光一さんが四谷三栄町の木谷道場に触れていたが、趙治勲さんは
平塚には思い入れがあるようだが、四谷はあまり触れていない。
以前の記事はこちら 
四谷三栄町の木谷道場
四谷三栄町の木谷道場(その2)

さて、ヨーロッパの中世といえば神聖ローマ帝国なのだろうか。

神聖ローマ帝国、山本文彦、中公新書

古代ローマ帝国の後継国家であり、845年の歴史を有するのだが
「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国でもない」と評された国である。
しかし最近は、EUの統合が進む中で、国民を持たないが多くの民族を統合し、
中央集権的ではないが紛争解決能力を有し、異なる文化を包摂する連邦的な政治組織体だった
と評価されるに至ったそうである。
現在のドイツを中心に、スイス、オーストリア、チェコ、スロバキア、オランダ、ベルギー、
ルクセンブルクを含む地域である。

本書では二つの視点、一つ目は皇帝と教皇の二つの焦点を持つ楕円的統一体、
二つ目は人的関係に依存した「開かれた国制」と制度化していく「凝集化」、
を設け、神聖ローマ帝国の歴史を複合的かつ重層的に描いている。
章立ては
 序章 神聖ローマ帝国の輪郭
第1章 ローマ帝国の継承者    -神権政治の時代
第2章 金印勅書と七選帝侯    -皇帝と教皇の対立の時代
第3章 両ハプスブルク家の黄金期 -帝国国制の制度化の時代
第4章 宗教対立と三十年戦争   -宗派の時代
第5章 ウェストファリア条約   -皇帝権の復興の時代
第6章 帝国の終焉        -多極化の時代
 終章 神聖ローマ帝国とは何だったのか

最初の頃は、東フランク王国の国王が選ばれ、その後、皇帝に選ばれるという手順である。
場所はアーヘン(現在のドイツ西部、国境付近)である。
その後、皇帝戴冠はローマで教皇により行われるようになる。

で、教皇と皇帝はどっちが偉いんだと「カノッサ事件」が起きる。
世界史の教科書にはカノッサの屈辱とあった。教皇が勝ったとする見方と、
最終的には皇帝が勝ったという正反対の二つの見方があるそうだ。
著者の分析は、皇帝ハインリッヒ四世の行動は、和解のための儀礼であり、
皇帝がそのような行動を立った場合、教皇は受け入れるしかなかった、と。
従って、この時は暫定的な妥協が成立しただけ、というものである。なるほど。
この後、皇帝は教会の支配者ではなく、教会に世俗的権利を与える立場となる。
宗教的秩序と政治的秩序の分離である。

王を選挙で選ぶのはゲルマン時代からの慣習だが、誰が投票権を持つのか。
選帝侯が誕生し、1356年の金印勅書で七名の諸侯に確定する。

そしてハプスブルク家が登場する。スイスの弱小貴族が勢力を拡大する。
婚姻政策の幸運に恵まれたのだ。
東方ではオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼし、神聖ローマ帝国が対峙することになる。
また宗教改革後も宗教平和令以降しばらくは平穏だった。が三十年戦争になる。
プラハ城窓外放擲事件(皇帝の代官と書記三名を窓の外に放り出したが、三名とも無事)が
発端だそうだが、う~む、避けようと思えば避けられたようにも思える。
戦場は北ドイツに拡大しデンマーク王が介入し、その後、スウェーデン王グスタフ・アドルフが
ドイツに上陸する。スペインは皇帝軍を支援し、対抗するフランスが介入する。
戦争は1618年から1638年まで続くのだが、途中で何度も終わられる試みは失敗する。
最終的にウェストファリア条約が結ばれる。平和を再建するキーワードは四つ。
「永遠の忘却」「赦し」「友好的妥協」「裁判」
著者は「この実現が難しいことを後世に生きる私たちはよく知っている」と記している。

神聖ローマ帝国の歴史を知ると、今のドイツが分権的な連邦である理由がよく分かる。
EUの、権限が有るような無いような形態も、ヨーロッパの人達には受け入れ易いのかも
しれない、そんなことを思った。
では。





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