粕谷友運のカスや言うん?

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下河原線→武蔵野線の思い出

2023-04-21 20:26:00 | 日記
毎度おおきに!
粕谷友運です♥

こんな記事があったので、1本書いてみたくなりました♥





JR東「武蔵野線」はなぜ生まれた?首都圏の“人と貨物”輸送を支えた50年史

府中本町から西船橋まで都心から約20~25キロ圏をぐるりと描く環状線、武蔵野線が1973年4月1日の府中本町~新松戸間開業から50周年を迎えた。
山手線の外側で人と貨物の輸送を支える縁の下の力持ち、武蔵野線の歴史を振り返りたい。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)

● 貨物列車のために 作られた武蔵野線
武蔵野線は南武線、中央線、埼京線、京浜東北線、常磐線、総武線のJR6路線に加え、西武池袋線、東武東上線、埼玉高速鉄道、東武伊勢崎線、つくばエクスプレス、新京成電鉄、北総鉄道、地下鉄東西線、東葉高速鉄道、の私鉄9路線、合計15路線と連絡する。
都心から郊外に向かう放射路線と異なり、都心周辺部を横に結ぶ環状路線は1本では都心に出ることはできないものの、各路線間の乗り換えを容易にするネットワーク上の効果が大きい。
そのためJR東日本は2008年以降、武蔵野線や南武線を「東京メガループ」と名付け、機能強化を図っている。
これは人だけでなく貨物も同様だ。武蔵野線は京葉線、常磐線、東北貨物線、中央線、さらに西武池袋線(現在は車両搬入でのみ使用)と線路がつながっており、貨物専用線である府中本町~鶴見駅間を含めて首都圏の貨物列車のバイパス路線としての役割も担っている。
というよりも武蔵野線は元々、貨物列車のために作られた路線であった。首都圏の縁の下の力持ち、武蔵野線の歴史を振り返りたい。

● 都心にのみ込まれた 山手線は用地確保が困難に
東京の環状線といえば山手線だ。
現代的目線では都心のど真ん中を周回する路線という印象だが、1885年の開業当時は都心を避けて東北・高崎線・中央線と東海道線を結ぶバイパス路線であり、旅客と貨物を各方面に振り分ける役割を担っていた。
山手線は田端~池袋駅間などが順次、延伸してネットワークが拡大していき、同時に田端~大崎間に並行する貨物線を増線。
1925年に山手貨物線の整備が完了し、旅客線の環状運転が始まると、全ての旅客、貨物が山手線に集中する仕組みが構築された。
しかし東京の郊外化が進み、新宿や渋谷がターミナル駅として成長すると、山手線は都心にのみ込まれていく。
増え続ける貨物に対応するため貨物ターミナルを拡張しなければならないが、都心の用地確保は困難だ。
また都心が目的地ではなく、通過するだけの貨物列車の設定は過密ダイヤを助長し、旅客列車増発の妨げとなる。
後にこれと似たようなことが道路でも起きている。
都心を走る首都高速道路(首都高)の環状線は長らく皇居周辺を走る都心環状線(C1)しかなく、東京を通過する長距離トラックが全て都心に流入していた。
そこで都心の交通量を分散させるために中央環状線(C2)、東京外郭環状道路(外環、C3)、首都圏中央連絡自動車道(圏央道、C4)の整備が2000年代以降加速し、都心の渋滞は劇的に改善しつつある。
● 開業時の武蔵野線は 日中40分間隔の運行
山手線の外側にもうひとつの環状線を建設しようという構想は古くから存在したが、議論が加速したのは1950年代に入ってからだ。
国鉄は1955年、首都圏の貨物輸送を抜本的に改善するため、都心部を避けて内陸部を横断し、東北・常磐線などを結ぶ内陸ルート(後の武蔵野線)、東京湾の京浜・京葉工業地帯を結ぶ湾岸ルート(後に旅客線の京葉線、りんかい線として開業)の貨物線整備計画を策定した。
1日100本以上の貨物列車を山手貨物線から武蔵野線に転移することで、都心部の貨物線を旅客輸送に利用できるようにするとともに、放射路線相互の連絡が改善し、通勤輸送の混雑緩和も期待できる。
こうして1957年に鉄道建設審議会が武蔵野線の整備を答申し、1965年から1967年にかけて建設が認可され、整備に着手した。 国鉄は武蔵野線を貨物のバイパスルートとして期待していたが、埼玉県を中心とした沿線自治体は沿線開発にも期待を寄せていた。
首都圏の都心30~40キロ圏には東武野田線、川越線、八高線、横浜線という環状線が存在するが、山手線とその中間にあたる近郊地域には三郷や吉川、新座などの鉄道空白地域、あるいは私鉄はあるが国鉄が走っていない地域が多かったからだ。
そこで地元が建設を受け入れる見返りとして貨物列車の合間に旅客列車を運行することが決まったが、1973年の開業時は、朝ラッシュ15~20分間隔、日中40分間隔というローカル線のような運行だった。




画像とは無関係に、この記事には続きがあるのだが、僕の書きたいことには充分な導入部である。

ハッキリいうと、僕が生まれ育った町&我が母校になる小学校の裏手に武蔵野線は建設されたのだ。





そこから数m先で画像みたいに、西武線とクロスして武蔵野線は長いトンネルを走るのである。
西武線がはしってないから、説得力に欠けるかな?

その地点の脇には、当時の国鉄の社宅にあたる数棟の団地が建てられ、転校生もきたのである。

国鉄→JRへの流れから、その社宅は文字通りの社宅になったかは覚えていない。

僕の亡き父は、T社の府中工場勤務だったので実家の場所を決めたのだろう。
当たり前のことだが、結婚した翌年で僕の生まれる4年前のことであるが。

トドメの屁理屈は、母の実家の近辺でもある?
なんて母から聞いたのかな?

父方の祖父母は東京の東端=千葉との境目の区に住んでいた。

なので僕は、記憶の定着する前の中央快速線&記憶にある総武快速線の工事を見ているのである。



さて武蔵野線に話を戻すと、大阪は千里で万博が開かれ阪急が自動改札を取り入れました。

そこから3年後、東日本で初の自動改札を取り入れたのが武蔵野線でしたね



その対極になるのかな?

昔の車内乗り越し精算券ですかね♥

文字が手書きなのも古いですが、まずは東小金井駅がなくて高尾駅が浅川駅になってるのが古いですよね?

これが1964年以前だと知らしめるのは、画像の右側です。

横浜があるのに新横浜がありませんよね?


そして····


国分寺駅から線が出ています。

それが白黒の国分寺駅の画像です。



この画像は当時の国分寺駅の、通路です。

武蔵野線以前は、国分寺から下河原線が走っていてT社の府中工場&東京競馬場へ人を運んでいました。



平日の日中&競馬のない日曜日は、画像の感じで



通勤&競馬の時は、中央線と同じ車両が走ってました。

武蔵野線開業と共に下河原線は廃線になりました。




画像の東京競馬場前駅も廃止され、平成の世に長い駅名な名付け合戦を招きました。



改めて下河原線のホームの画像ですが、数本の線路があって切れた右側に中央線のホームがありますが、下河原線廃止後に詳しい期間は忘れたけど、JRになってからも僕にしてみればやっとって頃に国分寺駅の大改造によって、特別快速の停車する駅になり、駅ビルも出来ました。




さて、府中本町〜新松戸が開業して半世紀ですか。

そこから西船橋へ延伸した時にウチに取ってラッキーだったのが、新八柱駅の開業です♥




新八柱駅の近くに八柱霊園があり、そこにウチの墓があるんです。

春&秋お彼岸は確実に常磐線の松戸駅からの直行バスがあったんですけど、ウチの近くから、乗り換え無しで約1時間は乗ると新八柱まで着く様になりました。

その頃から全国的に自動改札が導入されて、今はIC系交通カードの時代になりました。




もう東京都内&大阪府内から路面電車以外で1両の電車とかいなくなりました。

んまぁ確かに電車は2両以上じゃないと動かせなくなった感じかな?



ある意味で、武蔵野線は高架線を多用して踏切を無くした新幹線以外の路線として名を馳せました。

そんな路線が開業から50年!

なんか感慨深いですね♥

って訳で今回はここまで♥


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