今日、kiyasumeが作った、大根スープ。初めて作りました、、、(๑>◡<๑)
昨年のblog記事からです。少し加筆して居ます。もう一度読んで貰いたく此処に新しく書きました。宜しくお願い致しますね。。。♪( ´▽`)
山崎ハコさん「硝子のピノキオ」
「kiyasumeの料理」
私は空腹時、大抵はもやしを炒めて食べて居ます。これは良い方法ですよ。2袋食べれば可也お腹が一杯になります。何時もスーパーからもやしを3日分、6袋ぐらい購入して居ます。スーパーだから大量に購入しても大丈夫なんですけどね。あまり多くでは腐ってしまうので。味付けは私は醤油と胡蝶で味付けします。夜中にお腹が空いた時など、結構重宝して居ます。それから今の時期。長芋が良いと言う事が言われて居ますね。身体の善玉菌を増やす作用があるそうです。長芋に含まれるレジスタント・スタージー(消化されない澱粉)をうまく摂ると血糖時の助長を防ぎ肥満やらインフルエンザに効くと言います。トロロご飯などが美味しいし効果があるそうです。短冊切りにして食べるのも良いと言う。あと、納豆も身体に良い。納豆に含まれる食物繊維とビタミンB2は、血糖値の上昇を抑える効果があります。なんとこの効果は、ご飯と組み合わせた状態でも発揮されます!ごはんは糖質なので、血糖値を急上昇させて仕舞う食品ですが、納豆と組み合わせる事で血糖値の上昇を抑えられます。血糖値は急激に上がる事で糖分が脂肪に変わりやすくなる為、ダイエットには血糖値を緩やかに上げる事が効果的。血糖値の上昇を抑える事は、糖尿病の予防などに最適です。
私が良く作る簡単な納豆サンドを紹介して置きます。まず、フライパンにバターをひとさじ落とします。そしてボールに卵を解いて、ソースを少しまぶしラー油を入れて胡椒を少し入れてかき回します。そこにパルメザン・チーズを少し加え、一枚の食パンの上に載せます。そして其の儘の状態で下に向け、フライパンにくっ付けて焼くのです。焼き具合は卵が焼けたらそれで良いです。そしてその上に納豆を載せます。そして端から食べて行きます。
納豆は1日1パック食べると良いと言います。その免疫力は凄い。納豆にある、スペルミジンと言う成分は免疫力がアップすると言います。何と寿命が25%も伸びると言われて居ます。納豆を毎日食べると良いそうです、そして免疫力を更に高める組み合わせがあると言う。それは納豆に酢を合わせる事だと言います。それから、納豆に白菜の漬物を刻んで入れるのも良いそうです。納豆の効用はそれだけでは無く。花粉症などのアレルギーを抑制させる事が出来るそうです。また納豆には骨粗しょう症を防ぐ作用もあると言う。納豆に含まれて居る。スペルミジンとビタミンK2は骨の自己再生能力に効くと言われて居ます。チーズなどと組み合わせて食べると良いと言われて居ます。いずれも毎日納豆を1パック食べるだけで効用があります。納豆料理を此処でもう一品、紹介して置きます。まず納豆と小麦粉を水でかき回し研ぐ。そこにチーズ、ネギ、を入れて、フライパンにオリーブ・オイルを引きカリカリになるまで焼き挙げます。これも結構美味しいです。納豆が食べられない人にはお勧めですね....。そしてこの長芋と納豆を組み合わせて食べる事で、今流行のコロナ・ウイルスにも免疫効果があると言われて居ますよ。それから、最後にミニ知識として、牛乳を飲むと眠気が出ると言われて居ます。それは牛乳に含まれる「トリプトファン」と「メラトニン」という物質にあります。トリプトファンもメラトニンも、睡眠の質を上げる作用がある物質で、医薬品などにも応用されて居ます。牛乳が睡眠の質を上げる可能性があるのは、これらが含まれている為と考えられて居ます。毎日、トロロと納豆を食べると良いと思います。
「テレビの修理」
テレビが壊れた。この間、ブレーカーが落ちたのだ。そしたらテレビが壊れた。私のテレビはジャパネットタカタで購入した物だ。購入したのは2年前の11月だ。買ったばかりなのだ。それなのに壊れて仕舞った。私はこのテレビを引っ越しの時に持って来るに当たって、可也用心をしたのだ。案の定、このテレビの解説書と1年間の保証書。そして、ジャパネットタカタで入った長期5年保証の保証書が、引っ越しのドタバタで無くなって仕舞って居た。私はまだ購入して2年なのだから、5年保証期間中だし、修理代は掛からないだろうと思って居たので、慌てて保証書を探した。しかし何処にも無い。弱って仕舞ったが、取り敢えず、解説書すら無いので、ネットで液晶テレビの壊れたものの復旧を探した。私のテレビはシャープのアクオスだが、壊れたのは、テレビにシャープという文字が出て、丸い輪っかが4つ表示されて、それがくるくると回って居るのだ。ネットで調べると、テレビ本体の電源を5秒長押しして、画面をシャットアウトすると言う事が書いてあった。なのでそれを試みるも電源は落ちない。其れから、コンセントを抜いて1分放置し、また差し込む方法も書いてあるが。 そうして抜いて、またコンセントを差し込むと、また自動的に電源が入り、シャープの文字が出てくるくる廻り結果はどうにもならない。
だから、ジャパネットタカタに電話を掛けて症状を言い、「コンセントを抜くとか試みたが電源が落ちない」と言ったら、「故障の恐れがあるので此方から再度電話を掛けます」と言うのだ。私は電話を待った。しかし3時間が経過しても掛かっては来ない。それで再度電話を掛けた。すると症状をもう一度聞かれて、メーカーに修理の依頼を出すと言う。私は修理はいいけど。5年保証に入って居たけど。保証書を引っ越しのドタバタで無くして仕舞ったと言った。すると、流石はジャパネットタカタだ。名前を言えと言うので、言うと。「お名前で確認が取れました。此方で5年保証に加入して居る事は解って居るので。保証書が無くても大丈夫です.....。」と言われた。ただ、「壊れた原因がブレーカーが落ちた為と言う事ならば、修理代は有料になる可能性もありますよ」と言われた。そして「今からメーカーに修理の依頼を出すので、この後メーカーからの電話をお待ち下さい」と言って電話が切れた。
そして、その1時間後メーカーから電話が掛かって来て、修理人が次の日の朝10時半に来ると言う。ただ、ジャパネットタカタはメーカーには高圧的に話して居ると見えて、受付嬢が、恐る恐る話をして来たので、私は務めて明るく接した。そして「宜しくお願いします」と言った。翌日、時間になり修理人が来たが、スーツに身を包み。ビジネス・マンの様に、少し分厚いアタッシュ・ケースを持って現れて、こう言った「恐らくブレーカーが落ちた時の電圧の当然の変化で内部の回路が異常を起こして居るのだろうと思います。基盤を取り替えれば直りますよ....。」そう言って。ケースから段ボールに入った基盤を取り出して、中の基盤を取り出しテレビの後ろを開けて壊れた基盤と交換して取り付けた。私は丁度、ポートが一つ壊れて居たのでその修理も頼んだ。時間にして45分ぐらいでテレビを修理し蓋を閉めて元に戻して画面を点けた。テレビの画面は初期設定の画面が映って居る。するとその技術者はスマホを取り出し、テレビにかざした。するとテレビが反応し初期設定が始まり完了した。私は直す処から見て居たが。基盤を取り付ける時もスマホをかざしてシャッターを切り。そうする事で修理が進んで行くのだ。最近の家電は全てコンピュター制御なのだ。特に基盤は、BOXになって居た、だからハンダ・ゴテなどの作業はしないのだ。今風だ。私は内心驚いて見て居た。
技術者は一度外した配線を元通りに繋げ、そしてテレビ単体で映るYouTubeとかNetFelixなど、今まで業者がやってはくれなかった事もちゃんとやって帰り際に、「ブレーカーには気をつけて下さい」と言った。私は「有難う御座いました」と礼を言うと、技術者は少し、はにかみながら帰って行った。最近の家電は、そうなのだ、皆んなマイコン制御で基盤が出来て居る。昔みたいな直し方はしないのですね。時代は変わった....。そして修理費用は一銭も取られなかった。私は、カセット・デッキも持って居るが。よく蓋が開かなくなったり、テープの速度が急に速くなる事がある。購入してまだ、数ヶ月だと言うのにもう故障かとは思ったが、試しにコンセントを抜くとその都度元通りに直るのだ。これもマイコン制御だからだろう。最近の家電はもはやコンピューター制御なのだ。そうそう壊れるのではなくマイコンが何かで不具合を一時的に起こすのだ。その場合マイコンの初期化をすれば大抵は治る様です。それが今の家電です。しかし私はカセットデッキも直した。今年の冬にだ。スイッチを入れても動作をしなくなったからだ。この場合はAmazonからの購入だったから保証書に店名と期限が書いて居ない。だから私はTEACの修理センターにその旨聞いて見たら、箱に届けた日にちが書いてある紙が貼ってあるはずだ。それで保証中かどうかは分かる。その横に番号が書いてあり期限は1年ですと言われた。私が夏頃、購入したと言ったら。その紙ごと箱にカセットデッキを入れて送って下さい。と言われてそしてカセットデッキは3日間ほどで直って帰って来た。私はどうやら歳を取りすぎた様だ。
==「マカロニに出演した日本人俳優と映画の歴史を少し解説....。」==
もう、随分と前の事だが、岡本喜八監督の「イースト・ミーツ・ウエスト」と言う。日本人の真田広之と竹中直人に仲代達矢を配し、相手役に外国人を起用してアメリカで撮った西部劇がある。日本人が撮った西部劇だから「スキヤキ・ウエスタン」と当時呼ばれて居た。しかし日本人が出演した西部劇は昔から少ないながらあった。未公開作品だが。トニー・アンソニー主演のストレンジャー・シリーズ(暁の用心棒)と言う作品群がある。その第三弾として、何と日本ロケした映画がある。題して「storanger in japan/英語タイトルThe Silent Stranger」と言う1969年制作のマカロニ・ウエスタンだ。
The Silent Stranger U.S. Film Trailer
THE SILENT STRANGER - CLIP
幻の映画と日本では呼ばれて居る。ストーリーは日本の盗賊がガンマン(日本に流れ着いた)に対抗して、南蛮人の指導の元にガトリング機関銃を作って、戦うと言う物だが、見事にマカロニのツボを抑えたイタリア人気質が迸る、絶品マカロニ・ウエスタンだった。要するに天ぷらそば作っても、タバスコは忘れないと言った処か。私はこの作品は、スペインから海賊版ビデオを取り寄せて所有して居た。画像もまあまあ、良いビデオだった。勿論、字幕は無いが、日本が舞台なので日本語が多く、話の筋は理解出来た。ちなみに最近ドイツでDVDが発売されたらしい。私はビデオテープからDVDにダビングして今だに所有して居る。この作品は京都の撮影所で撮影されて居て、監督は、足が悪い野良犬を連れて来て、この犬はガトリング機関銃の流れ弾に当たったのだと言い、撮影をし、適役で主演した大前均は暴力的な撮影の為、怪我をしたと言う。話は荒唐無稽だ、温泉でのくノ一襲撃で主人公のトニーアンソニー扮するガンマンが危機的状態になるとか。悪侍の婚約者が14歳の少女だとか、、おまけに、日本に来れば財宝がザクザクあると訊いて、アラスカで死んだ日本人から財宝の地図を渡されて、日本くんだりまで船で馬ごと密行して来た”ストレンジャー”が日本の大名の騒動に巻き込まれて、悪代官、旗本の悪侍を日本にあった火縄銃と先込めライフルで撃退し。無理やり悪代官の妾にされ掛かって居た14歳の女の子を救うのだ。最後に落ちがあって、財宝の地図を読んだ、なぜか英語が解る14歳の女の子に「ストレンジャーさん。財宝はカルフォルニアにあると注意書きがしてありますよ?」と言われて、めげるも、馬を飛ばして「さらばだ。カワイコちゃん」と去って行くのだ。船乗らなくてどうやってアメリカまで帰るのか...。?と言うラストだった。思えば、マカロニには、日本人俳優が結構出演して居る。まず、此間書いたが、1968年に仲代達矢がトニーノ・チェルビィの「野獣暁に死す」に出演。イタリア人にあの仲代の目つきはまさにマカロニ的と思えたか、役柄もありがちな日本人の混血などではなくジェームズと言う悪党のボスで主人公の恋人のインディアンの女を犯し、殺し。馬上の上で日本刀ならぬ大鉈を振りまわす、拳銃の腕前も刀も凄いサムライ的なガンマンの演出だ。
Oggi a me,Domani a te!
この映画は主人公が仲間を集めながら復讐へ向かうと言うストーリーの骨格が黒澤の「7人の侍」だし。最後、主人公の「カイオワ」と仲代の「ジェームズ」が決闘する時に、主人公が、「俺が死んでも手を出すな」と周りのガンマンたちに誓わせ、決闘するシーンはやはり黒澤の「椿三十郎」の台詞のパクリだった。それから、「五人の軍隊」と言うマカロニがあるが、此処では、あの丹波哲郎が「芸人に身を窶したと言う日本のサムライ役で出演して居る。丹波哲郎と言えば確か進駐軍の通訳をして居たと言う英語通だが。「007は2度死ぬ」では日本政府の諜報員の現代忍者部隊の闘将、タイガー田中役で出て居る。しかし、何故かこの映画の中では台詞は一切無し。サムライは気安く口を聞かないと言う設定。そしてメキシコ政府軍が列車で輸送する砂金を掻っ払うシーンで列車から転げ落ちて、走って走って列車に追い付くシーンとか、東京オリンピックでの円谷選手を彷彿とさせるシーンを撮り。拳銃相手に刀の居合切りで、ピーター・グレイブス演じるリーダー格のガンマンやら仲間のガンマンを助けるニヒルな男。そうルパン三世の五右衛門のモデルになった役なのだ。
The Five Man Army (Original Theatrical Trailer)
UN ESERCITO DI 5 UOMINI (Ennio Morricone - 1969) : "Una Corsa Disperata (Samurai Runs)"
そして、1970年代になってから真打の三船敏郎が「レッド・サン」に堂々主役級で主演。当時世界の名優と言われて居た、チャールズ・ブロンソンとフランスの2枚目俳優アラン・ドロンを向こうに廻し。堂々たる会心の演技を世界に見せつけた。三船はテレンス・ヤング監督と外人が連想するサムライでは無くて、本当のサムライとはどう言うものかと徹底的に話し合い。アクション・シーンはスタントマンを使わずに全部本人が演じ、リアリズムに徹した。この映画は当時話題作となり。世界的な興行収益もはじき出した。なお。この作品は監督はイギリス人。共演者が、アメリカ人とフランス人と言う映画だが、れっきとしたマカロニ・ウエスタンだ。まさに名作。
Red Sun (1972) Clip
こうして見るとマカロニ・ウエスタンに日本映画が与えた影響は大きい。が、日本人はマカロニをイタリア人が作る前に。1960年代初頭にスキヤキ・ウエスタンと言う、和製西部劇を撮って居るのだ。和田浩二がワイアップ・アープの日系の孫を演じた西川克己監督作「俺の故郷は大西部」などだ。クライマックスは富士山麓の「 OK牧場」ならぬ「大川牧場」と言う怪作。その後日活は1962年に此間亡くなった、宍戸 錠こと「エースのジョー」をメキシコの友人を助けるために海外へ派遣。蔵原椎繕監督作「メキシコ無宿」を撮った。メキシコなのになぜか悪役は藤村有弘だった。まあ、この頃のものは、パロディか、お遊びだった訳で。イタリア人の様に「偽物ウエスタン」と言われようとも。「残酷」「スタイリッシュ」「かっこいい音楽」と言った独自の血と汗を込める様な情熱は日本には無かった様だが、、しかし、マカロニと負けじに我が国も力を入れたスキヤキ・ウエスタンを1968年当時撮って居るのだ。それは佐藤純彌監督が撮った、高倉 健主演でオーストラリアの俳優とロケで撮った「荒野の渡世人」だ。勝海舟率いる臨海丸でアメリカに渡ったサムライの子供が青年に成り、大西部でガンファイトと日本刀を駆使して、アメリカ人の知り合った母親と子供を助けると言った。どちらかと言うと、あの股旅ものの西部劇「シェーン」を彷彿とさせる、秀作だった。
荒野の渡世人(予告編)
拳銃無頼帖 抜き射ちの竜
【渡り鳥】小林旭と宍戸錠 AKIRA & JOE
日活アクションの名役者達:宍戸錠
その後、スキヤキ・ウエスタンは作られず、1970年代に成ると「テレビ時代劇」にガトリング砲が出現し、マカロニ的な時代劇が大流行と成って行った。「必殺仕掛け人。」「必殺仕置人」が出て来て、時代劇もマカロニの影響を見せ始めた「唖侍・鬼一方眼」「子連れ狼」「木枯紋次郎」などが出来た。そしてそれらは、アメリカやヨーロッパで高い評価を受ける様に成って行った。その後、スキヤキ・ウエスタンは1992年頃に岡本喜八監督の「イースト・ミーツ・ウエスト」が出来た。私はこの作品を手に入れたかったのだが、何と当時、セル・ビデオは発売にならず。困った私は発売元の松竹映画事業部まで、電話を掛けたのだった。すると年配の男性が電話口に出て、私が「この作品を絶大に評価して居る」と言って、「低価格ビデオの発売を検討してくれ」とその人に頼んだら、何と電話に出たのは松竹映画の社長さんで、「分かりました。あなたは可也の映画通ですね、この「イースト・ミーツ・ウエスト」のビデオは差し上げますよ。ああ、ちょうど岡本喜八監督のメイキング・ビデオもあるから2本組でお送りしますよ」と言うでは無いか。私は驚いて、「いえ、タダでは貰えないから、お金は払います」と言ったら「ならばビデオ業者に渡すのでビール券をお気持ちでいいから送ってください」と言うので5千円分のビール券を松竹まで送ったら。ビデオが2本届いた。何でも、ものは言って見るものだと思いました。そのビデオは暫く私の宝物と成った。その後、10年程前に三池崇史監督が、あのマカロニの名作「続・荒野の用心棒/ジャンゴ」をオマージュしてスキヤキ・ウエスタンとして「スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ」を撮ったのは記憶に新しい処だ。そして今月の31日にマカロニウエスタンの名作「続・荒野の用心棒」が、4Kリストア・バージョンに成ってリバイバル公開される。今から楽しみだ。。。
Samurai in The Wild West!
Sukiyaki Western Django Best Fight (End)
Sukiyaki OST / BSO - Django Sasurii
必殺仕掛人 梅安蟻地獄(予告)
The Best of Lone Wolf & Cub, Shogun Assassin (1080p) "OROCHI" Beat Prod. by Soulker & Gravy Beats
賞金稼ぎ 第01話[公式]
紋次郎喰い
〜〜読書の仕方〜〜。
ショーペンハウエル『読書について』(1851)を再読したので、それについてふれてみたい(私の中では「ショーペンハウアー」の方が自然なのだが、引用文献の表記に従う事にする)。読書論の古典として読み継がれて居るものだが、基本的には現代でも通用するアドバイスを含んで居るものである。ちなみに、日本語訳ではそのまま『読書について』というタイトルで本が出て居るが、実際にはこれは主著である『意思と表象としての世界』の注釈書『余録と補遺』にあるアフォリズム形式の文章である(日本語訳するとたった20ページである)。ただし、便宜上此所では本として扱う事にする。
最初から余談になるが、『読書について』と言えば、よく引用されるのは次の部分である。
読書は、他人にものを考えて貰う事である。(岩波文庫、斎藤忍随訳。以下同)
この一文は、しばしば「名言」として扱われて居たりする(同じ言葉は『思索』の中にもある)。しかし、多くの「名言」の例にもれず、これが引用される時には、結構誤解されて居る事がある。そのあたりをまず簡単に見て於きたい。そもそも、上の部分は主張の前提であって結論ではない。つまり、この抜粋はかなり恣意的である。したがって、この一文は前後の文脈を抜きにしたらほとんど情報量がない。だから、此れだけが引用されると恐ろしい誤解を生んで仕舞う。中でも最たる誤解は、「読書は無益だ」と言うものである。実際、酷い場合は「ショーペンハウエルも言っている様に、読書なんかしなくていい」などと言われて居たりする。ショーペンハウエルが聞いたら泣くであろう。
当然だが、ショーペンハウエルは「本を読むな」などとは一言も言って居ない。ただ、「読書は他人の思考を追体験するだけの過程なので、それ自体とは別に、自分の軸を持って自分で思考する事も勿論重要ですよ」と言って居るだけだ。そもそも、こんなに短い文章を読みもせずに引用する人が如何に何も考えて居ないかが解ると言うものだが、「本を読むな」と「本」に書いてどうするのだ。本を読んで居るのに本を読むなと言われたら、じゃあこの本はなんだと言う話である。
(ちなみに此れで思い出したが、作家の佐藤優氏に寄せられた相談で「夫が佐藤さんの本を買って来て困って居ます」と言うのがあった『インテリジェンス人生相談 個人編』。氏は「書籍を買うなと言う助言をする作家は居ないのです」と言って居た。)
さて本題だが、最初に『読書について』を私なりに要約すると次の様になる。
- 古典を読め
以上終わりである。此れだけ抜き出すとそれはそれで怒られそうだが、実際、本人の頭の中を想像すると一番言いたかったのは此れだと思う。あとはその注釈の様なものです。
つねに読書の為に一定の短い時間を取って、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。
精神のための清涼剤としては、ギリシア、ローマの古典にまさるものはない。
こんな具合に、古典礼賛の文章がある。そもそも、この本の中では「古典」と「良書」は殆んど同義である。つまり本書は、全体として「古典=良書を読むにあたっての注意点」を語って居ると見る事が出来る。その視点から続けよう。
良書を読む為の条件は、悪書を読まぬ事である。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。
ショーペンハウエルは、古典=良書をすすめる一方で、反対に「悪書」を見きわめて「読まずにすます技術」が重要だと言って居る。その技術とは、「技術」と呼ぶかはともかく、次の様なものである。
多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さない事である。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねる様な政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さない事である。この様な出版物の寿命は一年である。
重要なのは最後の部分だが、要は、流行に左右される様なものに手を出すな、評価の定まって居るものを読め、と言う事である。今風に言えば、ベストセラーを読むな、ビジネス書を読むな、芸能人本、アスリート本を読むなと言う感じであろう。勿論、こうした類の出版物に価値が無いと言う事ではない。それぞれに目的があり、あくまでもショーペンハウエルが此処で前提にして居る読書の目的にはそぐわないと云う話である(本人は本気で価値がないと思って居るかも知れないが....。)処で、もう一つ『読書について』で頻繁に誤解されて居るのは、「多読」について語られて居る部分である。つまり、「ショーペンハウエルも言う様に、多くの本を読む必要はない」とか言ったものである。結論から言えば、これも誤読です。
ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失って行く。
多読すればする程、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。
こうした部分だけを見ると、確かに多読を批判して居る様に見える。しかし、それはまさに、こうした部分だけを見るからである。前後の文脈を見れば、これらは明らかに「多読即悪」の意味ではない。順番に見てみる。
まず、ショーペンハウエルが多読をなぜ疑って居るかと言うと、まさに「読書は、他人にものを考えて貰う事」であるがゆえに、それ一辺倒になると「次第に自分でものを考える力を失って行く」からである。つまり、「多読」そのものがまずいのではない。多読によって「自分でものを考えなくなる」のがまずいのである。逆に言えば、自分でものを考え続けている上で多読するなら、一向に構わない訳である。事実、ショーペンハウエルは「良書を読みすぎると言う事はない」とも書いて居るし、ともかく「多読」そのものを嫌っている感じではない。だからこれは、一貫して「自分でものを考えることを忘れるな」と言って居るにすぎない。
次に、「一日を費やす」という表現を使って居る事からも分かるが、此処で言う「多読」とは「冊数」ではなく「時間数」についての事である。つまり、やはり問題は自分で考える時間が無くなると言う事態に陥る事なのである。いずれにせよ、ショーペンハウエルが呈する「多読」への疑義は、あくまでも「自分でものを考えるのが重要だ」と言う原則の裏返しである。つまり本書の論理が見渡しづらいのは、「読書は他人にものを考えて貰う事である」とすると、「古典を読むことの重要性」を説く一方で「自分で考えることの重要性」についても強調すると言うのが、どことなく矛盾して居る様に見えるからである。しかし、此処まで見て来た様に、きちんと整理すればこれらは「矛盾」するものではない。それどころか、まさに是等を、どちら一方でもなく「両方やるべきだ」と言うのがショーペンハウエルの本質的な主張だとも言えるだろう。バランスが大事だと言う事です。
まとめると、(1)良書を読むことが重要であるがゆえに、悪書を極力読まない様に心がける一方で、(2)読んでばかりでは他人に考えて貰うばかりになるので、自分で考える事を怠るな、となる。
こうしてみれば、今から見れば余りにも当然の事である。しかし、これが実践出来て居るかどうかが重要と言う事であろう。その点はアドバイスとして今でも変わって居ないと思われる。最後に、この解釈を裏付けると思われる部分を、『読書について』と相補的な文書である『思索』から引用して置こう。ちなみに此処で言う「思想家」とは、ただ多読するだけの「博学多識」に対して「自分でものを考える人」と言う意味です。
思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神ははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合する事が出来る。つまりその精神はたえず視界を拡大しながらも有機的な組織を失わない壮大な洞察力の支配下に、その材料を置く事が出来るのである。
と言う事で、「読書=他人の思考を追体験する事」と「思考=自分の軸に基づいて自分で思考する事」を「両方やる」事が大事なのである。それだけの話である。ちなみに、私が『読書について』の中で最も広めるべきだと思うアドバイスは次のものです。
重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知って居るので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象を受けるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。
此れは、あまり耳にしないアドバイスだが、きわめて重要なものだ。実際、その本を初めて読む段階では、内容は殆んど理解しようがない。なぜなら、読んだ事がない状態での自分の視点で部分部分を理解して行くしか無いからである。しかし、一回読み終えて居ると今度は「全体像」を曲がりなりにも知って居るから、部分部分がどのように連関して居るかを理解することが出来る。それを繰り返す事で、最終的には全体を一つのものとして理解出来るのです。
これは、「部分の総和が全体」と言う考えに対して、「部分と全体は双方向的」とする発想に基づいて居るが、つまり、部分が解らないと全体は解らないが、全体が解らないと部分もまた解らないと言う事だ。あらゆる認識でこの原理が働くと言うのは20世紀のゲシュタルト心理学以降に定着した考えだが、つまりショーペンハウエルのアドバイスは、正しく人間の認知的特性に則したものとなって居たのです。
〜〜懐かし映画劇場〜〜
「燃えつきた納屋」(LES GRANGES BRULEES)
-
LES GRANGES BRULEES
製作国:
- フランス
監督
- ジャン・シャボー
脚本
- ジャン・シャボー
- セバスチャン・ルーレ
出演者
- アラン・ドロン
- シモーニュ・シニョレ
- ポール・クローシュ
- ピエール・ルソー
- カトリーヌ・アレグレ
- ミュウ=ミュウ
- 此処はフランスの田舎オートドーフという農村。十一月に入ればもう雪に閉ざされて仕舞う。この村に「燃えつきた納屋」という妙な名の農家がある。家主はローズ(S・シニョレ)と言う女で、年の頃は50歳くらい、ガッシリとした骨格の頭の切れるしっかり者だった。彼女には、夫ピエール(P・クローシェ)、長男ルイ(P・ルソー)、その妻ルシル(B・コンスタンティーニ)、次男ポール(B・L・コック)、その妻モニーク(M・ミュー)、長女フランソワーズ(C・アングレ)と二人の孫があり大家族であった。ある雪の夜、田舎にしては珍らしい大事件が勃発した。ローズの家から少し離れた道路で無残に殺された女の遺体が発見されたのだ。殺人事件と断定した警察は直ちに捜査を開始したが、犯人逮捕の手掛りはつかめなかった。そこで当局は、治安判事ラルシェ(A・ドロン)を首班とする捜査団を派遣した。殺された女性は通りがかりの外来者らしく、勢い、捜査は犯行現場から一番近いという理由でローズの家に絞られる事になった。犯行動機は物盗りと痴情とが考えられ、しかも、ローズ家にとって不利なことは犯行当夜、息子たちが二人とも外出して居た事だった。ラルシェ判事の捜査と取調べが進展するに従い、ローズの立場は次第に苦しくなった。家長の地位にある彼女は、是が非でも一家の安全を守らなければならず、ローズは必死だった。少なくとも、最初のうちは、ローズ家は一丸となって一家に襲いかかった不幸に立ち向かう気構えがあったが、時が経つにつれ、その絆も次第にゆるみ始めた。これは、ラルシェ判事がこの事件を処理するために用いた巧妙なアプローチの成果であった。彼は少しも焦らず、じわじわとローズ一家がかぶって居た仮面を一つ一つはがして行った。このため、一家に根を下ろして居た忌わしい秘密が、次次に明るみにさらけ出されて行った。これに対してローズは敢然と立ち向かい、正にこれはローズ対ラルシェ判事の対決だった。彼女は、これまでとかく姑息な受け身の態度で応対にいどみ、秘密主義を取って居たがガラリと態度を改めた。世間態をはばかっていた彼女が、閉ざしていた門を世間に開放したのである。この為、世間の関心と同情がローズ一家に集中した。彼らはコミューンの一つが外敵に襲われる事を見過ごせなかったのだ。村人が一丸となってラルシェと対決する様になり、さすがのラルシェもこれには手が出なかった。ローズは終始ラルシェに敵対し、彼が根掘り葉掘り家族の者から何か訊き出そうとすれば、彼女は激しく抵抗するばかりだった。ラルシェ判事の取調べが進めば進むほど、ローズは長年の間、自分には気づかないうちに、自身が夫や息子の死命を制して居る事を知らされる。ラルシェ判事の出現で自分の孤独を知らされ、たとえ事件が解決し、家族の無罪が立証されても孤独のまま死を待つ身であろうローズに取って、それは淋しい現実の姿であった。
アラン・ドロンがナビゲーションする、フランス農家の嫁問題 。北の国から風な山村の雪道で医師の妻が殺害され、大金が強奪された事件の担当判事が、現場近くで暮らす牧場の一家を容疑者としてロック・オンし、プレッシャーを掛けて行く。表面的にはクライム・サスペンス前提でストーリーが展開して行くが、これが完全な肩透かしで、実際はシモーヌ・シニョレ演じる牧場の肝っ玉母ちゃんがニートの息子をどこまで信じることができるかという心理スリラー。アラン・ドロン演じる判事の捜査はただズサンで高圧的なだけ。でもなぜか最後は感謝される不思議。この映画を初めて見た時に。その前に「パリの灯は遠く」を見たばかりだったので、ジャン・ブイーズが胡散臭く見えてしょうがなかった。と言うか、あの人何で出て来たの。日常のテーブルワインをコップで飲むフランスの田舎暮らしのスタイルが伺える。
単純にミステリーやサスペンスとして捉えて仕舞うと非常に物足りない作品になって仕舞います。
これはそう言う部分ではなくて、田舎と都会・人と人のドラマを観る作品だと思います。
…だって、肝心の事件に関する話だけをするなら数行で起承転結書けます....。
つまりは事件以外の部分を表現するシーンが沢山あると言う事でもあるんですが…。
印象に残ったのは「疑われる側」の地元民ローズ。
演じて居るのはシニョール・シニョレ。存在感が凄いです。
あと、片田舎が本当に集落、って感じで…。 集落に良くある。強すぎる村民の絆。
無意識的に感じて仕舞う、外部の人間に対する敵意とか。こう言うところは日本人も同じです。
ちょっと怖いよね、集落。
あと寒い地方なので、本当に雪が凄い。
家の中に居るのに皆んな息が白いんですよ。どんだけ寒いんですか。寝て起きて息白いって起きて寝姿のパジャマだけで過ごしたら、間違いなく物凄く寒いですよね。身体おかしく成ります……。そんな中、雪道をミニ・スカートとヒールで歩くお姉ちゃん。一人田舎でパリジェンヌを気取って居る。寒くないのか?(笑)
外の撮影もタイミング難しかっただろうなと思いました。
今回は此所までです。短掛かったですが、、昨年に書いたblog記事の再録でした。もう一度読んで貰いたく。此処にその当時の侭、掲載致しました。此所まで読んでくれて有り難う御座いました。また体調が悪い為、スローペースで更新して行きますので宜しくお願いします。何時か更新出来たらその時に、またお逢い致しましょう......。それではまた。。。。