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寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

「解説文で解るマルクス・ガブリエル....。」と「統合失調症の原因....。」

今回は、「統合失調症の原因」と「マルクス・ガブリエル」に付いて書いて見ました。何時もよりblog記事の量が少ないです。興味が無い事かとも思いますが。こう言う事もあると言う事を知って下さい。結構、自分の為になるかもとも思いますよ。是非読んで観て下さいね。よろしく。。。    ✴︎コメントどんどん書き込んで下さいね。よろしくね・・・・。

 

 

 

 

 

 

原田芳雄~松田優作に大きな影響を与えたアウトローな男

 

 

今回は丸ごと、マルクス・ガブリエルです。このブログ記事だけ読めば、彼の概要は全て解ると思います。哲学だから、難しい。だから、読むの嫌だなんて思わないで、、ちょっと勇気出して読んで見て下さい。彼の著作を読まなくてもこのblog記事だけで、大方の筋は解ると思います。本買わなくとも、マルクス・ガブリエルと言う人が何思って居るのか?それが解ると思いますよ。

今日は、近所にある蕎麦屋。「笹陣」に行って。久々に天丼と蕎麦を食べました.....。

皆さんは向精神薬を、つい、精神状態がなんか変だから、最近起こりっぽい。イライラする。寝付きが悪いからと精神科に行って。薬を処方されて居ませんか?精神科ははっきり言って。薬がその儲けの殆んどです。だから言われれば、向精神薬をすぐに処方します。でも、ちょっと待って下さい。向精神薬には強い副作用があるのですよ。だから精神科医に処方される薬の副作用をよく聞きましょう。具体的な例は。まず。喉がすぐ乾く。食べても食べてもお腹が一杯にならない。すぐに腹が減る。こんな事がありませんか?私は統合失調症の障害者です。口が悪い人によっては「キチガイ」と呼ばれます。それは偏見ですが、、世の中では、低い位です。。。私の様な俗に言う「精神疾患者」には向精神薬は必要ですが、、最近は手軽に精神科に行き向精神薬を処方して貰い、気軽に飲む人たちが増えて居ます。しかしそれは危ない事なんですよ。勝手、ハルシオンと言う。睡眠誘導剤がありました。受験生が明日テストだからと、ハルシオンを飲んで寝て、朝起きたら、昨晩のあんなに夜遅くまで勉強した事が綺麗さっぱり忘れてしまって居て。テスト会場で、パニックに陥ったと言う事がありました。そう言う事が束重なるので、副作用が酷いと。この薬は廃止になりました。では統合失調症とはどんな精神病なのかと言いますと。精神病とはづばり、脳の疾患なんですよ。下に詳しく説明します。

 

【統合失調症の原因】

統合失調症の原因は残念ながらまだはっきりとは解明されて居ません。現時点では患者の脳内で神経伝達物質の濃度異常が起きている事が、発症と関係して居ると言われて居ます。神経伝達物質とは、脳を構成している神経細胞同士の情報伝達に利用される物質を指します。

具体的には、三大神経伝達物質の1つであるドーパミンという物質の作用が過剰となると、幻覚や妄想が出現しやすくなる事が解って居ます。統合失調症の陽性症状のとき脳内では、ドーパミンの過剰発生が起きて居ると考えられて居ます。

『ドーパミン』は、『セロトニン』『ノルアドレナリン』と合わせて三大神経伝達物質と言われて居ます。

これらは脳内や中枢神経系で働く神経伝達物質のうち、モノアミン神経系と呼ばれる神経伝達物質です。人の感情や精神面、記憶や運動機能、睡眠といった、人体の重要な機能に深く影響を与えて居る為、しばしば三大神経伝達物質と呼ばれます。

 

 

此処で、少し休憩です。音楽を聴きましょうね。。。

あしたのジョー  好きなシーン集めてみました‼️

あしたのジョー Kizudarake No Eikou (Anniversary Version)

K.O. - Yazuo Shimizu [ Sub. Español ]

 

 

 

どうしてドーパミンが過剰になると、統合失調症の症状がでるのか。今回は、ドーパミンを含め、セロトニンとノルアドレナリンそれぞれの働きの特徴などをご紹介します。

 

【それぞれの役割と特徴】

ドーパミンの役割と特徴

≪役割≫

・快楽を司り報酬系と言われる神経伝達物質

・向上心やモチベーション、記憶や学習能力、運動機能に関与

・ノルアドレナリンの前駆体

≪特徴≫

分泌が不足すると、物事への関心が薄れ、運動機能、学習機能、性機能が低下する可能性があります。ドーパミンの分泌が過剰だと、統合失調症や過食症、その他アルコール依存症やギャンブル依存症など様々な依存症を引き起こす可能性があります。

 

ノルアドレナリンの役割と特徴

≪役割≫

物事への意欲の源、生存本能に深く関係します。ストレスに反応して怒りや不安・恐怖などの感情を起こすため、「怒りのホルモン」や「ストレスホルモン」などとも呼ばれます。また、交感神経を刺激して心身を覚醒させる働きがあります。

≪役割≫

分泌が不足すると、気力や意欲の低下、物事への関心の低下など抑うつ状態になりやすいとされ、うつ病の原因とも考えられて居ます。逆に、分泌が過剰だと、怒りっぽく、イライラ、キレやすくなり、躁状態を引き起こします。血圧が上がる為、高血圧症や糖尿病の原因になるとも言われて居ます。

 

セロトニンの役割と特徴

≪役割≫

精神を安定させる役割があります。ノルアドレナリンやドーパミンの分泌量のバランスを取る働きをして居ます。咀嚼や呼吸、歩行と言った反復する運動機能にも関与して居ます。

≪役割≫

セロトニンが不足すると、ぼーっとしやすい、鬱っぽくなる、パニックを起こしやすいなどの症状が現れます。投薬などで過剰になると、精神が不安定になったり、発汗や発熱、振戦(震え)など、セロトニン症候群という症状が起こる事があります。

 

『相互に影響しあう3つの関係』

通常は、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンはそれぞれが相互にバランスを保つ事で、心身の安定が保たれます。

例えば、セロトニンとドーパミンの関係は、セロトニンがドーパミンの働きを制御する事で保たれます。物事への興味や関心を得るためのモチベーションは、ドーパミンが放出される事で得られる「快感」によって生み出されて居ると考えられて居ます。

一方、ドーパミンのみが過剰の分泌されると快感への欲求が止まらなくなります。そうならない様に欲求の制御を行い、正常な欲求の状態を維持する役割をするのが、セロトニンです。

セロトニンとドーパミンの分泌バランスが崩れると、心身に様々な影響が生じます。

ドーパミンの分泌が過剰な事で起こると考えられている疾病の一つが統合失調症があります。ですので、統合失調症の投薬治療には、セロトニンやドーパミンに働きかける薬が使用されます。

 

また、セロトニンとノルアドレナリンには、ノルアドレナリンによる身体の興奮をセロトニンが落ち着けて居ると言う関係があります。

ノルアドレナリンは、主にストレスに反応して分泌される物質で、ストレスに対して怒りや恐怖、不安などの感情の反応を示します。これは主に、本能的に心身を興奮状態にするスイッチとなります。ノルアドレナリンはアドレナリンの材料となるものです。火事場のバカ力の源になります。

ノルアドレナリンは脳を覚醒させ、集中力や判断力を高めまるなどの興奮作用があります。

ノルアドレナリンが過剰に分泌された時、その働きを抑えて精神を鎮静させるのがセロトニンです。セロトニンは抗ストレス作用を持ち、怒りや恐怖と言った不安を鎮めて、感情を安定させます。

 

最後はドーパミンとノルアドレナリンの関係です。

「快楽を司るドーパミン」と「怒りのホルモン・ノルアドレナリン」には、同じような作用があります。

ドーパミンとノルアドレナリンはストレスに強い関わりがあります。ストレスを受けると、ストレスに抗う為にノルアドレナリンが分泌されますが、同時にドーパミンも分泌されやすくなります。

ストレスはドーパミンから快感を得る事で素早く解消する事が出来ます。その為強いストレスを受け続けると、その解消手段として快感を得られる何かを体が欲しがります。ドーパミンが暴走すると、アルコールなどの依存症に陥りやすくなります。

 

私たちの脳内では見えない処で、感情を司る神経伝達物質が様々な感情が過剰にならない様に制御してくれて居るのです。 

 

 

「醜い、豚姿をお見せしました.....。ご容赦のほどを・・・・・。」

                   kiyasume....。

 

 

 

 

マルクス・ガブリエルの事を考える前に哲学史を考えて見よう。。。。

 

 

西洋哲学史を古代からニーチェまで一気に解説

 

この動画をご覧になったら、哲学の流れが解ったと思います。マルクス・ガブリエル氏は最近出てきた気鋭の哲学者です。彼は、日本でも可成りな人気者ですよ。皆さん名前ぐらいは覚えておきましょう。それでは、マルクス・ガブリエル氏の紹介です。。。。

 

 

 

Markus Gabriel in Japan 

 

 

 

 マルクス・ガブリエルMarkus Gabriel, )は、ドイツの哲学者。現在、ボン大学教授。専門書だけでなく、哲学に関する一般書も執筆して居る。

哲学、古典文献学、近代ドイツ文学、ドイツ学をハーゲン大学、ボン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。2005年、イェンス・ハルフヴァッセンの指導のもと、後期シェリングの研究によりハイデルベルク大学から博士号を取得した。2005年にリスボン大学の客員研究員、2006年から2008年にかけてドイツ研究振興協会の研究員としてハイデルベルクに滞在した。2008年には古代哲学における懐疑主義と観念論についての研究によりハイデルベルクにてハビリタチオン(大学教授資格試験)に合格する。2008年から2009年にかけて、ニューヨークのニュースクール大学哲学部で助教を務めた。2009年7月にボン大学に着任し、認識論・近現代哲学講座を担当すると同時に、同大学国際哲学センターのディレクターも務めて居る。過去にはカルフォルニア大学バークレー校の客員教授も務めた。

複数の言語(ドイツ語、英語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語、中国語)を自在に操り、また古典語(古代ギリシャ語、ラテン語、聖書ヘブライ語)にも習熟して居る。 

マルクス・ガブリエル氏

『世界は存在しない』

 本書は2013年に刊行されるやいなや哲学書としては異例のベストセラーを記録し全世界を驚愕させた、哲学界の新星マルクス・ガブリエル(当時33歳)の出世作である。

 本書の内容を一言で言えば、それは現代に巣喰う「無意味」の底をぶちぬいて「意味」へと突破しようとする哲学的思索の努力と要約しうるであろう。ガブリエルによると、私たちは二重の無意味にとりつかれている。第一に、自然科学的世界像が唯一正しいとされるものの、そこには人間の居場所がどこにもない。このような状況に面してポストモダンは、科学的世界像も含め「あらゆるものは幻想である」と主張した。しかし第二に、このように言う事によってこの立場そのものも一個の幻想と化して仕舞う。こうした二重の無意味に囲まれながら、私たちは意気消沈し、なす術を知らず相変わらず自然主義の抑圧に屈して居る。この二重の無意味からの脱却の切り札をガブリエルは「世界は存在しない」という洞察に求める。これは「あらゆるものは幻想である」と言うポストモダンの主張を「世界は存在する」と言う「唯一の幻想」へと縮減する事である。しかし「世界は存在しない」ならば、世界にかんする像もありえない。それゆえ、自然科学的な世界像もなく、自然科学は世界についての理論である事を止めて、単なる科学的探求へと引き戻せされる。 

「もっとも自然科学は世界像である限りは間違って居るが、事実そのものを捉えていないのではない。それどころかあらゆる場面に於いて私たちは事実そのものに触れて居る。自然科学のみならず、あらゆる人間の営みは実在への通路なのである。これがガブリエルの「新しい実在論」である。それは「存在する」と言う事を「意味の場に現象する」事と捉える一方で、これら無限の意味の場を包摂する最後の意味の場(世界)はないとするのである。「あらゆるものが存在する、ただし世界をのぞいて」。

究極の審級をもたない、多次元的で重層的な意味の場から意味の場への不断の移行が、私たちの生きている現実であり、しかもその一つ一つが実在そのものとの接触である。この観点からすると自然科学はたった一つの意味の場でしかない。これによってそれ以外の意味の場が、自然科学と平等の権利をもって息を吹きかえしてくる。ガブリエルが言うように、私たちの日常の些細な感情や他愛ない空想までもが、実在との関係においては自然科学の営みと同等のものである。それどころかそうした意味の場こそが圧倒的な数的優位を占めているのである。ガブリエルによれば、私たちの人生は、あらゆるものを唯一の観点から一元的に判定するための拠り所がそもそもないなかで、無数の意味の場をくぐりぬけながら自己自身を探求しつづける事である。

ガブリエルはこの様な人間のあり方を「精神」と呼び、その概念把握を試みているが、少なくとも本書においては十分にそれに成功しているとは言いがたい。それにもかかわらず本書の主旨は明白である。決定的とも見える単独支配と絶望に抗して、それからの脱出口を思考によって切り開き、多数の抑圧されたものどもにその内部にひそむ本来の力への自覚をうながしながら、ゆるやかな連帯を呼びかけるというのが、本書全体をつらぬく思考の運動の主旋律である。しかもそこに哲学的思考そのものの新生というもう一つの旋律が重ねあわされる。実際これは他に類をみない哲学と現実の架橋の試みである。本書は平易な語り口のゆえに非専門家向きの哲学書と言われている。しかし要点はそこにはない。「新しい実在論」は思想そのものも、あらゆる事物と同じように現実に存在すると主張するのである。

ガブリエルの「新しい実在論」とは、如何なるものなのか。ひとまず、「世界は存在しない」というキャッチーな主張は脇に置くことにする。それは実は、二次的なことだからだ。ガブリエルの言わんとする事の本体は、「本質主義vs.相対主義」と言う対立から抜け出す第三の道を開く事である。本質主義vs.相対主義と言うのは、極端に単純化すれば、次のような対立だ。

富士山を、別の場所からAさんとBさんが見て居るとする。本質主義によれば、富士山「自体」が唯一の実在であり、AとBはそれを異なる見方で見ているが、「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」は、単なる見方にすぎず、実在的ではない。自然科学によれば、富士山の実在は物質的・数理的に説明されるべきものであり、そしてその説明だけが真である。

相対主義によれば、我々はつねに何らかのパースペクティヴから見た富士山の見方しか知る事が出来ない。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」がそれぞれにあるだけだ。そしてそれはどちらも「主観的な構築」であり、我々に問題にできるのはそれだけである―実在的な富士山にはアクセス出来ない。

こうした対立が、大ざっぱではあるが、「ポストモダン」思想以後、解決できない問題としてくすぶり続けてきた。特に人文学においては、「ポストモダン」以後に相対主義的傾向が強まり、それへの批判がたびたびなされて来た。

ガブリエルはこう論じる。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」があるのは確かなのだが、それはたんに主観的な構築なのではない、それぞれに実在的なのだ。と言うのは、物事の実在はそもそも、特定の「意味の場」と切り離せない。

以上の場合では、「Aから見る」、「Bから見る」と言うのが「意味の場」の形成であり、富士山の実在性はそれに依存している。では、富士山「自体」はどうかと言うと、富士山「自体」とは、諸々の実在的なパースペクティヴの交差のことなのである―「意味の場」から完全に孤立しているような富士山「自体」は考えようもない。

非常に民主的な哲学ではないだろうか。これは、複数の「意味の場」を共存させるオントロジー(存在論)だ。此処で、「世界は存在しない」というテーゼの意味が明らかになる。「世界」とは、実在のすべてを包括する最大の集合であるが、その様な包括は今や出来ないのだ。実在的パースペクティヴは際限なく増加するからである。

ガブリエルは、自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だと言う(広く支持されている)立場に否を突きつける。そうした科学主義は、特定の「意味の場」を特権化して居るからだ。非科学的な実在性もあるし、ファンタジー的な実在性もある……しかしこの主張には少なからぬ人々が反発するのではなかろうか。

 見方はいろいろだと言う相対主義ならばまだ「認識論的」だったわけだが、ガブリエルはさらに「存在論的」に相対主義を徹底して居る、

ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護すると言う意味に於いて。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示して居るとも言えるかも知れない。

 

 

マルクス ガブリエルが語るSNS、自由、民主主義

欲望の時代の哲学ガブリエルNYドキュメント 第三夜「闘争の資本主義を越えて」 0210 202003102250 動

 

 

マルクス・ガブリエルと言えば、最近ではNHKのテレビでも特集がおこなわれ、「哲学界のロックスター」として、日本でも随分と知られる様になった。彼の名前を使った書物は売れ行きがよく、一般の読者層に広がって居る様に見える。たとえば、社会的な出来事について、インタビュー形式で発言したものが色々と出版されて居るが、これらは「分かりやすい」と言う声をよく聞く。

 
「新実存主義とは・・・・。」
 
 
 
 
 
 
 
 

しかしながら、そもそも「新実存主義」と言うタイトルを、どう理解したらいいのだろうか。と言うのも、ベストセラーとなった『なぜ世界は存在しないのか』(2013)に於いて、マルクス・ガブリエルは「新実在論」の立場を表明し、同じころ話題となって居た「思弁的実在論」と共に、「実在論」の一翼を担って来たからだ。「実在」論と「実存」主義は、日本語では似て居るかも知れないが、歴史的にはまったく異なる系譜に属して居る。どうして、今回の本は「新実存主義」なのだろうか。

 
 

1.「新実存主義」への軽い疑問

 

疑問は「新実存主義」としてどんな思想家が想定されて居るかを見ると、氷解するどころか、いっそう膨らむ事になる。たとえば、「新実存主義」の考えを説明するため、その系譜として、次の様に語られて居る。

 
実存主義の伝統に連なる思想家として、カント、ヘーゲル、ニーチェ、キルケゴール、ハイデガー、サルトルがいる。彼らが共有する最小限の前提は、精神、つまり人間の心に制度をつくる能力があるという信念である。(70頁)
 

これとは少し文脈は違うが、カントの他に、「ヘーゲル、マルクス、ニーチェが属す」と言われる事もある。その為、彼の「新実存主義」の系列には、「カント、ヘーゲル、マルクス、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトル」が想定されて居る、と考えられる。

 

この中で、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトルは通常理解された「実存主義」と関係して居るとは言え、カント、ヘーゲル、マルクスは、いわゆる「実存主義」とは程遠い様に見える。カントの普遍的理性、ヘーゲルの民族精神、マルクスの革命的なプロレタリアートは、今まで「実存主義」の対極に位置づけられて来たのでは無いだろうか。少なくとも、キルケゴールが「実存」概念を独自の意味として提示したとき、ヘーゲルの「精神」概念に対する批判が意図されて居たのは間違いない。

 

だとすれば、「精神の伝統」に立つヘーゲルと、「決断主義」の典型であるサルトルを、ともに「実存主義」として一括りにするのは、かなり無理があるように思われる。その為、論者の一人であるチャールズ・テイラーがやや婉曲的に次のように語るのは、不思議な事ではない。「ガブリエルが自分の立場を指して言う『新実存主義』という言葉の使い方をきちんと理解できたかは自信がない。」(87頁)

 

したがって、カント、ヘーゲル、マルクスを含めて「新実存主義」の系列に置くのであれば、従来の「実存主義」とは違う定義が必要になるだろう。ガブリエルが言って居る「人間の心にある制度をつくる能力」から、カントやマルクスやヘーゲルの思想を「実存主義」としてくくってしまう立場は、哲学史的な観点から見てどうなのだろうか。

 

小学生でもわかる哲学の歴史・前編

小学生でもわかる哲学の歴史・後編

 

 

そもそも、「新実存主義」とは何だろうか。どうして、マルクス・ガブリエルは自分の立場をそう呼ぶのだろうか。

 

この問題を考えるために、「新実存主義」の主張をあらためて確認しておく事にしよう。彼はこんな風に語って居る。

 
新実存主義とは、「心」と言う、突き詰めてみれば乱雑そのものと言うしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしないと言う見解である。(16頁)
 

あるいは、

 
新実存主義が掲げる根本の主張は次のようなものである。心的語彙は時代や場所によってさまざまなかたちを取るが、そうした語彙によって拾い上げられる一個の対象(entity)など、この世界には存在しない。(16-7頁)
 

だが、「新実存主義」のこうした主張も、じつを言えば、あまり分かりやすいものではない。ここで表明されているのは、「心」という言葉(term、vocabulary)が通時的にも、共時的にも多様な意味内容を持つ事だ。具体的には、「明らかに物理的なものから現実には存在しない(non-existing)ものまで」、さまざまなスペクトルがあるとされる。そのため、この多様性を否定して、ただ一つの(single)ものに還元することは許されない訳である。

 

処が、自然主義は「心」の多様性を認めず、むしろ「脳」と言うただ一つのもの、つまり「一つの自然種(a natural kind)」によって捉えようとした。しかしながら、「新実存主義」の主張によれば、「人間の心は一つの自然種ではない」と言わなくてはならない。

 

此処から分かるのは、マルクス・ガブリエルが「新実存主義」を標榜するとき、根本にあるのは「自然主義の批判」である。だが、それは当然なのかも知れない。と言うのも、表題論文「新実存主義」のサブタイトルが、「自然主義の失敗の後で、人間の心をどう考えるか」となっていからだ。

 

こうして、「新実存主義」の主張がサルトルの様な「決断主義的な実存主義」と言うより、むしろ「自然主義の批判」にある事が明らかになる。とは言え、どうして「自然主義の批判」が必要なのだろうか。

 

これを理解するには、『なぜ世界は存在しないのか』で宣言された「新実在論」がどんな立場なのか、あらためて確認しなくてはならない。と言うのも、マルクス・ガブリエルにとって、「新実存主義」の主張は「新実在論」から導出されるからだ。

 
 
「なぜ世界は存在しないのか」
 
 
 
この本の内容は、大きく分けると2つに分かれて居ます。第3章までではガブリエルの基本思想が開陳され、第4章以降からは開陳された基本思想を基にして科学や宗教などのあり方が捉え直されています。

序章は「哲学を新たに考える」です。この本の基本思想は、「世界は存在しない」と「新しい実在論」です。新しい実在論は、「形而上学」が認める人間に依存しない現実それ自体と、「構築主義」が認める人間に対して現れているかぎりの事物は両方とも存在すると考える立場です。
 
第1章は「これはそもそも何なのか、この世界とは?」です。ガブリエルは、特定の種類の諸対象を包摂する領域を「対象領域」と呼びます。例えば銀河という対象領域には、星や惑星などの対象が包摂されています。ガブリエルのいう「世界」とは、「すべての領域の領域、すべての対象領域を包摂する対象領域」です。
 
第2章は「存在するとはどのようなことか」です。ガブリエルは、何かが現れてくる場を「意味の場」と呼んでいます。何かが何らかの意味の場に現れるとき、その何かは存在します。
 
第3章は「なぜ世界は存在しないのか」です。ガブリエルは、「世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がその中に現象してくる意味の場である」と厳密に定義し直します。世界は世界のなかに現れる事が出来ないので、存在しないとガブリエルは考えます。その為、すべてを包摂する領域である世界は存在せず、無限に増殖していく無数の意味の場だけが存在する事になります。

第4章は「自然科学の世界像」です。自然科学によって世界それ自体を認識しようとする科学主義を、ガブリエルは厳しく批判します。ガブリエルは世界それ自体は存在しないと考えて居るので、どんな科学的世界像も成立しないと言います。また、宇宙はただ単に自然科学によって研究できるものの総体であり、宇宙を考察して居るだけでは人間的な意味を取りこぼして仕舞う事が指摘されて居ます。
 
第5章は「宗教の意味」です。ガブリエルは、宇宙・世界・現実全体を俯瞰的な視点から眺める「神の立場」は幻想にすぎないと言います。ガブリエルは世界の存在を否定して居るので、すべてを取りまとめて組織化する原理としての「神」の存在も否定します。宗教で本質的に問題になるのは人間の実存であり、私たちは自分とは何者なのかを常に探求し続けて居ると言う事が書かれています。
 
第6章は「芸術の意味」です。芸術の中には私たちが能動的に解釈しないと意味がわからない作品があり、能動的な態度によってはじめて存在を認められる意味があると言う事が指摘されて居ます。芸術は対象を現象させるだけでなく、その対象が現象して居る意味も現象させるとガブリエルは言います。世界が存在しない事が全体主義への誘惑を克服し、無数の意味の場が存在する事が多様性の肯定につながると言う事が語られて居ます。
 
第7章は「エンドロールーテレビジョン」です。私たちの身の回りには意味が溢れており、私たちはただ生きているだけで無数の意味に関わって居るという形でこの本は幕を閉じます。
 
 
どうだったでしょうか・・・・。これで、マルクス・ガブリエルの言わんとする事が少し理解出来たと思います。今回の文章を書くに当たって、西洋哲学近代史の書籍を多数執筆して居られる岡本裕一朗さんの文献を参照致しました。此処に謹んでお礼を申し上げて於ます。
 
 
此処まで読んでくれて有難う御座いました。何でも構いませんので、コメントを頂けると、、
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