最近は映画館へ足を運ばなくなって久しい。昔は、1960年代後半から1980年代はよく映画館で映画を見て居たものだ。私は最近のハリウッド映画が嫌いなのです。マーベルコミックの映画化とか、「スパイダーマン」とか嫌いなのです。だから映画館には最近は滅多に足を運びません。最近観に行ったのは、若松孝二と女性助監督の映画「止められるか、俺たちを」を去年の暮れぐらいに新宿ピカデリーに観に行ったきりです。最近になって若松孝二監督の昔の映画に興味を持ち始めて居ます。
私は小さい頃から映画が好きだった。映画館にもよく通っていた。テレビで映画がやっていれば、なるべく見るようにしていた、そんな子供だった。
一番最初に見た映画は、おそらくテレビでやっていたチャップリンやらキートンのドタバタ喜劇だった、と思う。当時はレンタルビデオもなく、映画を見るといったら、映画館かテレビだったので、特に子供時代は、テレビで放映する映画はとても貴重なものだった。今でこそ、『君の名は』がテレビで放映されると、ツイッターなどと連動して、みんなで盛り上がるが、当時は純粋に、真剣にテレビに釘付けだった。自分と映画と一対一だった。小学生の頃は東宝の「ゴジラ」映画を観に行って居た。親父に連れられてだが、おかげでゴジラ映画と合併で放映して居た「若大将シリーズ」は全部見た勘定になる。若大将の影響で加山雄三が好きになり彼のハードボイルド映画、「狙撃」「弾痕」「豹は走った」なども映画館で見た。特に「狙撃」などはアメリカでも公開され、「ブリッド」に次ぐ、ハードボイルド映画として評価が高かった。
蒼い星くず 加山雄三
東宝ニューアクション 映画『狙撃』加山雄三
この当時、よくラジオから聞こえてきた反戦歌「死んだ男の残したものは」が印象深く思い出される。私が小学生の高学年頃だったと思う。。。
死んだ男の残したものは 谷川俊太郎/武満徹 Cover by YO-EN
A Lone and Angry Man / Una Bara per lo Sceriffo (by RYUKI)
復讐のガンマン・ジャンゴ
High Plains Drifter (covered by RYUKI)The Great Silence (Il grande silenzio) Trailer
Joe Kidd Official Trailer #1 - Robert Duvall Movie (1972) HD
この頃に成ると私は高校生に成って居た。ちょうど高校1年の時に第2次アニメブームがやって来た。私は松本零士のアニメ映画が好きに成った。イメージ・フォーラムでは1970年に制作されてベルリン映画祭に出品された、「哀しみのベラドンナ」のフランス公開バージョンを見た。フランス語の字幕が入って居るのだ。私は「ベラドンナ」での画家でもあった作画担当の深井国の原画に強く惹かれた。ビデオデッキを初めて買った時に初めて購入したビデオソフトが「哀しみのベラドンナ」だった。エロスと魔女狩り、フランス革命に翻弄されるジャンヌを描いた一編だ。その高い芸術性には可成り驚かされたものだ。
Belladonna Of Sadness (1973) - HD Red Band Trailer [1080p] // 哀しみのベラドンナ
かおりくみこ やさしくしないで
私は、いつの間にかアニメを可成り見る様に成って居た。そして1980年代に成った。劇場で映画を見る割合はどんどん低くなっていった。何故ならビデオデッキが登場し、レンタルビデオ屋が出来たからだ。私は輸入版ビデオを購入し始めたので、貴重な映画を見始めた。マカロニ・ウエスタンの秀作「傷だらけの用心棒」は、この時代に輸入版の海賊ビデオで見た。それまで、なかなか映画劇場では放映されない名作映画たちもビデオで購入した。ジャン・ピエール・メルビル、のフィルム・ノワール作品「サムライ」「仁義」や同じくフィルム・ノワール作品「狼は天使の匂い」「真夜中の刑事」などだ。
CEMETERY WITHOUT CROSSES - TRAILER
『サムライ』予告編
La course du lièvre à travers les champs (Bande annonce originale)
Police Python 357 (1976)
そして現在に至る。私は1980年代から「うる星やつら」で知った、押井 守が好きになり、また彼の作品は海外でも高い評価がされており、彼の撮ったアニメや実写作品を映画館で観た。それから出崎 統監督作品、そして日本映画の名作、黒澤明とか小津安次郎、溝口健二は言うに及ばず、岡本喜八、三隅研次、市川 準、などの映画を買い求めた。それと、バンド関係で知ることになった原田芳雄の出演映画作品も好きで購入し始めた。そして今は、数年前に亡くなった、元ピンク映画界の黒澤明と言われた若松孝二の映画作品を劇場に観に行き、DVDを買い求めています。
紅い眼鏡 予告編 【川井憲次】
Avalon _2001 Log off
立喰師列伝 予告編
『キャタピラー CATERPILLAR』 予告編
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」予告編
反逆のメロディー
冬物語
浪人街 RONINGAI(予告)
市川準監督傑作選 観客が選んだBEST5 予告
所有しているパンフレッドの一部です。。。
処で私は1970年代からずぅ〜と聞いている5人のシンガーソングライターが居ます。その3人とは山崎ハコと浅川マキと三上 寛、長谷川きよし、そして泉谷しげるです。なんだかアングラですね・・・でも、いまだにレコードを手放していません。ここに挙げておきますので、聴いて見て下さいね。
Hako Yamasaki 山崎ハコ- Nostalgia 望郷 (Bōkyō) (1975)
山崎ハコ~流れ酔い唄
Hako Yamasaki - かざぐるま
Hako Yamasaki - Indigo Poetry/山崎ハコ - 藍色の詩 (1977)
♪ 浅川マキ - ちっちゃな時から
浅川マキ 「ふしあわせという名の猫 (歌詞付) 」
♫ 赤い橋 ♫ 浅川マキ
三上寛
三上寛 夢は夜ひらく
三上寛 誰を怨めばいいのでございましょうか
長谷川きよし / MANHA DE CARNAVAL
泉谷しげる
記事はジャック・マンデルボームというベテラン映画記者が書いたもので、見出しからして「失敗したクーデター、失敗した映画」という否定的なもの。ネットで見た限りではほかの新聞や雑誌には短い評しか見当たらないし、こういうものは日本で紹介されないと思うので、一部引用する。
「三島の政治的な捨象は、この人物の持つ意味を否定するかのようだ。三島はまるで趣味の悪い芝居のように演じられている。たぶんこの極端な儀式性こそ若松が見せようと思ったのだろう。しかし三島を(作品についても、家族関係についても、武道の理想と同性愛の間の緊張関係についても一切触れず)、狂信的な漂流者としてのみ描いたために、この人物の複雑な魅力が描けなかった」
その後に「最小限の演出の純度の高さやドキュメンタリーと再現ドラマの混淆、映画のコードを大胆に破る形式など、いつもの若松の豊かな表現も、今回の障害は越えられなかった」と締めている。
この記事の論理は単純だ。三島は偉大である。若松も(三島ほどにではないにしても)、重要な監督だ。ところが若松は三島の魅力をファシズム的側面に限定したために、失敗してしまった、というもの。フランスにおいて、1980年代までは(つまり大江健三郎がノーベル賞を取り、その後村上春樹が流行する前は)、日本文学といえば、まず谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成の3人だった。現在でも三島由紀夫の小説の人気は高い。
一方、若松孝二も国立ポンピドゥ・センターで全作品上映が企画されるなど、フランスではすでに巨匠の扱いだ。記事は、今回はアプローチを間違っただけだとし、若松自体の才能は否定していない。
この映画の公開当時、三島由紀夫の楯の会生き残りが、あるパーティーで若松孝二に礼を言っていたそうだ。。。
「素晴らしい映画を撮ってもらい、ありがたいです。感激しました。三島先生、森田必勝さんも喜んでいると思います!」と口々に言う。森田必勝氏は「楯の会」学生長で、三島由紀夫と共に自決した。25歳だった。
若松監督の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』は、森田氏ら若い青年たちの、国を思い、決起へと思いつめる様子が実にリアルに描かれていると元「楯の会」の人たちが言っていたそうだ。
「左翼の若松監督が三島先生や森田さんの映画を撮るというので、心配だった。左翼の人なんかに分かるはずはないと思っていた。でも、映画を見て驚いた。先生や森田さんたちの気持ちが一番分かっている。感激しました」と。
若松監督は、「左翼」と思われているが、左翼・右翼などという小さな区分はとうに超えていた。パレスチナには何度も行っているし、日本赤軍の人たちとも親しい。映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮った。だから「左翼」と思われている。
ところが今度は三島だ。「我々の仲間だと思っていた監督が、どうして右翼の映画を撮るのだ?」と左翼の人々は戸惑った。
右翼の人たちだって反発した。右翼にとって三島は神だ。「それを左翼の監督が撮るなんて」と思い、「許せない」と口走る者もいた。
「そんな連中など、全て敵に回してもいい」と思い、若松監督は撮った。勇気のある人だ。周りは皆、敵だ。支援する人はいない。そんな状態で映画を撮ろうと思う人はいない。ただ一人、若松監督だけだ。
三島や「楯の会」に対する単線的、表面的な見方に我慢がならなかったのだろう。右翼的な三島が、右翼的な青年たちと、右翼的に思いつめて決起した。そんなものではない。全共闘への共感もあり、失望もあった。「よど号」ハイジャック事件、金嬉老事件、ベトナム戦争……そうしたものが、つまり、あの時代が三島や若者たちを突き動かした。あの時代の若者たちの愛や夢や理想を描きたかった。それは左翼や右翼を超えてあったものだ。
『11.25自決の日』の中で、「よど号」ハイジャックのニュースを見て、三島が「先を越された!」と叫ぶシーンがある。これは事実だ。そのことを聞いた「楯の会」の人間を、撮影前に若松監督に紹介したそうだ。今の右派的な若者は言った。「我々の尊敬する三島先生が左翼なんかに好意を持つはずがない。“先を越された”と叫ぶはずがない」と。
しかし、そんな「左右のくだらない区分」を超えていた人だ。三島は。そして若松監督も。
若松孝二監督が死去してから約5年半、若松プロダクション再始動の第1弾として「止められるか、俺たちを」が製作された。今作のメガホンをとったのは、若松プロ出身で現在の日本映画界を牽引する白石和彌監督。主演を門脇麦、若松孝二役を井浦新が演じた映画は1969年、若松プロダクションの門を叩いた少女の眼差しを通して、「ここではないどこか」を探し続けた映画人たちの怒涛の生きざまを描く。
くしくも、この日は若松監督生誕82周年となった。白石監督は、「まさかの若松プロを舞台とした青春映画を恐れ多くも監督しました。この映画は僕にとっての英雄譚であり、僕自身の物語でもありました」と語っている。そして、「井浦新さんが若松孝二だとカッコよすぎると思ったあなた、ぜひ見てください。俳優って、新さんって、凄いなと思うはずです。そしても門脇麦さん。もう言うことありません。麦さんを通して、この映画があなた自身の物語になることを切に願っています」とキャスト2人を称えている。
門脇は、若松プロの助監督・吉積めぐみ役を熱演。「私は若松監督にも、もちろん当時の若松組の皆さんともお会いしたことがありません。そんな中、白石監督をはじめ、若松組をよく知る皆さんのもと、当時の皆さんの背中をひたすら必死に追い求めながら挑んだ作品です」と撮影を振り返る。また、「スクリーンの中の彼らは青春を生きる若者の姿そのもので、とにかく輝いていて、胸があつくなりました。私はこの先何度も彼らに会いたくなって、この映画を見るんだろうなと思います。この出会いは私の一生の財産です」と思いを馳せた。
一方、井浦は若松監督本人に扮した。ベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞と国際芸術映画評論連盟賞のダブル受賞を果たした「実録・あさま山荘への射程」への出演をはじめ、「11、25 自決・三島由紀夫と若者たち」では主人公の三島を熱演。12年に若松監督が他界する直前まで行動を共にし、告別式では弔辞を読んだ井浦。それだけに、「若松プロの集結した親しい顔ぶれ、真新しい風を吹かせた若者たちと、むちゃくちゃで幸せな夢をみた。ただただ感謝しかありません」と、短いながらも若松監督に対する今も冷めぬ“熱情”をにじませるコメントを寄せた。
若松プロ出身の井上淳一が脚本を執筆した今作は、原宿セントラルアパートの一角にあった若松プロダクションが舞台。青春を映画に捧げた若者たちの、むき出しともいえる生のグラフィティに肉迫する作品です。
「止められるか、俺たちを」予告編 10月13日公開
井浦新、白石和彌監督、井上淳一(脚本)『止められるか、俺たちを』名古屋舞台挨拶REPORT
1960年代当時、最も過激な映画を撮っていたのが若松孝二だった。若松さんは元々、左翼ではなかった。1936年、宮城県涌谷町出身。地元の農業高校を二年で中退。家出し上京してからは、職人見習いや新聞配達、ヤクザの下働きなどを転々とした。
1957年、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、ひどい取り調べを受けた。そして、反権力的な映画を通じて警察への怒りを表現しようと考え、映画の世界へ踏み込んだ。監督デビュー作の『甘い罠』は、まさに警官殺しの映画になっている。
監督として有名になってからも、自ら交通整理をしたり小道具の料理を作ったり、手と身体を動かさずにはいられない人だった。脚本や企画書を数本、いつもカバンに入れて持ち歩き、最後まで、新作を撮ることに意欲的だった。
私は若松孝二監督については原田芳雄さん主演の「キスより簡単」「シンガポール・スリング」そして私が大好きな芳雄さんの映画「われに撃つ用意あり」と「寝取られ宗介」で知っていた。若松監督の初期作品は「東京マッド」をDVDで所有している。
そして、「実録・あさま山荘の射程」「キャタピラー」「11,25、自決の日・三島由紀夫と若者たち」と最近の話題作は映画館で見て居る。特に「11,25、自決の日・三島由紀夫と若者たち」では若松監督と会い、話もした。監督はスタイリッシュでもう歳なのに、これからまだまだ映画を撮るぞと言った感じだった。ああ、この映画のBlu-rayを持って居るのだが、引越し業者の若いのが、ラックにわざと入れなかったことがあった。彼は三島が自決した当時を知らない。恐らく、自決した犯人という認識なのであろう。三島由紀夫自決当時、私は12歳だった。子供心に当時のきな臭い事件として記憶して居る。あの当時は世相が揺れていた時代だ。次々と事件が起こり、そして1960年代の亡霊を拭い去って1970年代に入っていったのだ。
最近の若者は大人しいが、一歩間違えると大変な事件を起こす。三島は主義主張があった。だが今の若者は、世間を変えようとするのではなく、世間を憎む。だからこそ、反権力を謳った若松孝二の映画が身に染みるのです。。。
『キャタピラー CAERPILLAR』若松孝二監督インタビュー1
『キャタピラー CATERPILLAR』若松孝二監督インタビュー2
『キャタピラー CATERPILLAR』若松孝二監督インタビュー3
圧倒的な存在感と行動力で、古き慣習の残る日本映画界を切り開いてきた若松孝二監督は2012年10月に急逝されました。しかし、巨頭死しても魂は死なず! 映画を志す若き人たちと積極的に交流を持ってきた若松監督には多くの「若松学校」卒業生がおり、新たな道を作るべく奮闘しています。彼らは若松監督から何を学び、受け継いでいこうとしているのか。俳優、元助監督など側近5人が若松監督の足跡と破天荒エピソードを振り返りながら、自分たちができることについて大いに語り合いました。(取材・文:中山治美)
若松孝二監督との出会い、その衝撃
――それぞれの若松監督との出会いを教えてください。
井上淳一(以下、井上) 高校のときに若松監督の『水のないプール』(1982)を観て衝撃を受け、さらに若松さんの著書「若松孝二・俺は手を汚す」(ダゲレオ出版)を読んで、田舎の映画青年はイカれちゃったわけです(笑)。書いてあるわけですよ。あの監督もこの監督も若松プロ出身だと。で、浪人のとき、名古屋のシネマスコーレへ映画を観に行ったら(劇場オーナーの)若松さんが視察に来ていて、「弟子にしてください」とお願いしたんです。
すると「東京に出てきたらな」と言ってはもらったんですけど、これじゃどこにでもいる映画青年と同じだと思って、名古屋駅まで若松さんを送りに行って、そのまま東京まで付いて行っちゃった。入場券だけで(苦笑)。それでようやく本気だと信じてくれたようで「ウチ(若松プロ)は大体3~4年で監督になってる。でも給料は払わないから大学4年間は親の仕送りで生活して、その間に監督になったらいいじゃないか。だから1回、大学を受けて出直して来い」と。
井上 早稲田です。日大藝術学部と早稲田大二文に受かって、若松さんに「どっちにしましょうか?」と相談に行ったら……。
榎本 若松さん的には早稲田だ。
井上 そうです。「映画はウチで学べるから早稲田の名前を取れ」と(笑)。ただ、僕が若松プロに入ったときは若松さんの低迷期。携わった作品は、松居一代主演の『衝撃 パフォーマンス』(1986)から原田芳雄さんの『われに撃つ用意あり READY TO SHOOT』(1990)まで約5年半。本当に仕事がなくて、若松さんは好きなテレビを一日中見ては、ああでもないこうでもないとつぶやいていた。
片嶋一貴(以下、片嶋) 僕はその『われに撃つ用意あり』に照明助手で参加したのが最初で、『キスより簡単2 漂流編』(1991)と『寝盗られ宗介』(1992)の3本。でも、実は『キスより簡単』(1989)に主演していた早瀬優香子の「永遠のサバンナ~薔薇のしっぽ~」のPVを手伝ったのが最初。撮影場所がパレスチナ?
井上 チュニジア。当時はバブルだから結構な予算が出て、若松さんが「海外ロケをやりたい。どうせやるならPLO(パレスチナ解放機構)本部があるチュニジアで」と言い出して。そしたら現地通訳兼コーディネーターがアラファト議長(2004年に死去)の単独インタビューが取れそうだからとそっちにかかりきりになっていなくなるわ、砂漠で若松さんは歯痛になるわで、大変な撮影に(苦笑)。
片嶋 帰路のパリで若松さんが勾留されてね。
井上 若松さんは現金商売の人なので、釣り用ベストに現金を入れていたんです。荷物検査をしたら大金が出てきて、さあ大変。それで空港に一晩泊められた。当時の某新聞には「日本赤軍の資金がフランスに流入か?」と書かれました(笑)。
大西信満(以下、大西) 僕は作品の関わりとしては『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2007、以下『連赤』)ですけど、原田芳雄さんにお世話になっていたので面識はありました。以後、『千年の愉楽』(2012)までの5本に参加させていただきました。
■大西信満(おおにし・しま)1975年神奈川生まれ。荒戸源次郎監督『赤目四十八瀧心中未遂』(2003)の主演に抜てきされ、毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞などを受賞。その後、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2007)、『キャタピラー』(2010)、『海燕ホテル・ブルー』(2011)などに出演。来年には若松孝二監督『千年の愉楽』、大森立嗣監督『さよなら渓谷』、蔦哲一朗『祖谷物語―おくのひと―』が公開予定。
――大西さんは『連赤』で一番厳しく指導されたのに(苦笑)。
大西 今となっては本当に感謝しています。ただ『連赤』のときは、カメラが回っていようがいなかろうが、常に若松監督が怒っているような現場だったんです。よく笑い話にするのが、衣装合わせで監督が「雪の中を歩くから黒い服を着ろ」と。でもいざ現場へ行ったら「おまえ、何カッコつけて黒い服着てるんだ!」と。
辻智彦(以下、辻) 黒い服で怒ったのは、大西さんに当たる光の加減が良くなかった。それをスタッフに言うより、現場全体を考えると大西さんのせいにした方がいいと計算していたみたいなんです。
大西 現場の締め方、緊張感の作り方とでもいうのかな。しょせん僕らの世代は、『連赤』の彼らの気持ちを自分たちで持ち上げようがない。だから理不尽でも強引でも、監督は僕ら俳優を追い詰めていくやり方を取ったのだと思います。
辻 僕は公開順でいうと『完全なる飼育 赤い殺意』(2004)ですが、『17歳の風景 少年は何を見たのか』(2005)が最初です。撮影初日が御殿場の自衛隊演習場、新宿駅西口の地下街、そして都庁前と全部ゲリラ撮影。やっぱり若松組はすごいと(笑)。
■辻智彦(つじ・ともひこ)1970年和歌山生まれ。日本大学藝術学部卒。カメラマンとして「ザ・ノンフィクション」「世界の車窓から」など数多くの番組を担当。若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2007)では三浦賞(新人撮影賞)、毎日映画コンクール撮影賞などを受賞した。ほか『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』(2011)など。
――ドキュメンタリー畑の辻さんが若松組に参加したきっかけは?
辻 僕が撮影で参加したドキュメンタリー『日本心中』(大浦信行監督、2001)を自主上映したとき、ゲストを呼ばないと客が来ない。じゃあ、客寄せパンダで若松孝二を呼ぼうと。
(一同爆笑)
辻 もちろん学生時代から好きだから若松監督の名前を出したんですよ。で、上映後のトークで若松さんが『17歳の風景』の構想を話し始めたんですけど、「この映画のカメラマンが撮影することになった」と言うんです。こっちは何も聞いてない(苦笑)。その時点でほぼ、僕がやることに。
井上 劇映画は初めて?
辻 はい。だからどう撮るのかもわからなかった。ただ一つだけお願いしたのは、やるならビデオカメラでと。ちょうど若松さんは『飛ぶは天国、もぐるが地獄』(1999)でビデオを使ったそうで、「興味があるんだ」と言っていました。
榎本 僕は、荒井晴彦さんの初監督作『身も心も』(1997)をプロデュースしたんですけど、よく荒井さんの部屋に行くと若松さんが突然来た。で、「荒井と付き合うなんてやめとけ」とか、勝手なことを言っては帰っていく。じゃあ、来なきゃいいじゃんって思うんですけどね(笑)。
――荒井さんとは、学生運動時代にやり合ってからの盟友です(苦笑)。
榎本 その後、時々、新宿のスポーツジムで若松さんに会っていたんです。
井上・片嶋 えっ!? それは知らなかった。
榎本 若松さんはジャグジーにつかっているだけなんですけど、そこでいろんな企画の話をしてくれました。ただ、若松さんの追悼の際、荒井さんが厳しいことを言っていましたよね。晩年の若松さんは荒井さんや足立正生さんを退けて裸の王様になったんじゃないか、と。これまでは、若松作品の観念的な部分を足立さんの脚本が支え、映画的な肉体性を若松さんがうまく接続していた、いい時代があったと言うんです。そこで今回、片嶋さんプロデュース&井上さん監督の新作『戦争と一人の女』(2012)に、初期若松イズムが継承されているのでは? と期待しています。脚本の荒井さんはある意味で『キャタピラー』(2010)への挑戦状だとも。そのあたりをお二人は、どう考えているんですか?
――『戦争と一人の女』は元軍人が、戦後に連続強姦(ごうかん)事件を起こした実話がベース。元軍人が片腕を失っており、『キャタピラー』で大西さんが演じた四肢をなくした元軍人と通じるものがあります。実際、『キャタピラー』に対抗しているんですか?
片嶋 全然そんなつもりはないですよ。でも確かに、僕ら全員がいかに『キャタピラー』が戦争に対して本質的に何も批判してないじゃないか? というところから始まりましたね。
榎本 その意見は理解できます。
片嶋 若松さんは反権力や反権威をファッション化して映画を作り、ビジネスにしたと思う。本当に危険な人は周りからちやほやされないです。
井上 辻さんは、ウチの師匠・荒井晴彦の発言でお怒りになったことがあると(苦笑)。
辻 若松さんと初めて会った夜、一緒に新宿で飲んでいたら、荒井さんがふらっと店に入って来て、「若ちゃん、また太鼓持ち連れて来たの?」と(苦笑)。
井上 荒井さんの根っこにあるのは、榎本さんがおっしゃった「足立さんや自分がいたときにはNOを突き付けられたけど、今はおまえらがNOと言わないからダメなんだ」という批判なのかな? ま、僕も批判されたけど。
辻 立場の違いがあると思うんです。荒井さんや足立さんは、若松さんと年齢が近いから意見も言える。
榎本 荒井晴彦を弁護すると、深作欣二さんとか目上の人にも堂々と文句を言いますよ。無礼なのは褒められたことではないかもしれないけれど、一貫性はある(笑)。
辻 恐らく自分たちの時代の、若松作品を神格化しているんじゃないかと思います。僕も昔の作品は好きだけど、単純に今の方が面白いから作品に参加してますし。でも、それらの批判が『戦争と一人の女』の原動力になっているのならいいんじゃないですか。
――『連赤』も、原田眞人監督『突入せよ!「あさま山荘」事件』(2002)が体制側からしか描いていないことに怒りを感じて作られました。
大西 今のお話を伺って思うのは、昔の作品は良かったけど、近年のは良くないって聞こえて同調できません。もちろん感じ方や捉え方は人それぞれで自由だけど、今回の趣旨とは違うと思います。初期の作品を好きな人もいれば、近年の作品の方が好きだという人もいるし、どちらにしろ全部若松監督なんですから。何より近年の作品群を監督と共に必死に作り上げていた自分たちの前でそんなことを言われて黙っていたら、一緒にやってきた全てのスタッフ・キャストに対し申し訳が立ちません。『キャタピラー』にしろ国内外でちゃんと評価されて興行的にも成功しているわけだから、批判はあってもそこは認めなければいけないと思います。
――さらに『キャタピラー』は、高校生に観てほしいと入場料金を500円に。また自主配給を手掛けるなど、若松監督は興行面でも革命を起こそうとしていたと思います。『連赤』の上映館だった東京テアトル元社員の榎本さんはどう評価します?
榎本 会社としては、常識的な映画ビジネスのルールにのっとった話ができる配給会社に委託してほしかったと思うんです。それに若松さんはケチだから宣伝費を使わないのではないかと(苦笑)。興行サイドとしては、宣伝費を使ってくれた方が(認知度が広がるという)安心材料になりますからね。でも若松さんは「俺がもうけさせてやるから大丈夫だ」の一点張り。でも、それが事実になりました。
大西 500円層は来たんですか?
榎本 数字まではわからないけど、話題になることの方が大事だからね。
大西 宣伝になりますもんね。
榎本 ここにいる全員にいえるのが大きな組織に属していないってことだよね。映画業界は大手の一人勝ちで真ん中がなく、小さな所から風穴を開けていくしかない状況なんだけど、簡単に若松さんの方法論を実践するのは無理でも、小さな所から風穴を開けていく精神だけは引き継ぎたい。それしかないしね。
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最後に自撮りです。最近は少しだけ痩せてきたかな・・・・