また、更新記事を上げました、一年前に書いた記事です。コメントは書き込んでくれれば必ず返事は書きますから。今回は、多少蘊蓄言って居ますが、、よく読んでくれれば解る内容ですよ。難しいとは思わずに、目を通して見て下さいね。為に成る事を書いたつもりですので。宜しくお願い致しますね......。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
歳を取るのと歳を重ねるのとは違う。年取ってカッコイイ人が居ない。歳を取るから駄目になるのではなくて、努力が足りないから駄目になるのだと思う。歳を重ねると言うのは若い頃に比べたら確かに体力は落ちるかも知れない。しかし人生の応用力は就く。確かに若い頃は解らなかった事が今なら解るなと思えてくる。その上で若い子たちに。「ああ、この人ってカッコイイなぁ、渋いなぁ、、」と思って貰える事が歳を取って行くものの責任なのだと思う。歳を取ると色々と教える事が出来て来る様になる。だから歳を取るとやらなければならない事があるし、歳を取って居るから物事をどんどん置いて行っていい訳ではなくて、一つずつ増えて行くからやらなければならない事が増えるかも知れないけど。それを観て「カッコイイよね」と言って貰えれば頑張って居る意味があるし。「年取るのもそんなに悪くは無いよ」と若者とか年下のものに言える様になると思う。そう言う生き方で歳を取る事と歳を重ねる事とは意味合いが違う。歳を取ると言うのは自分が抱えて居た事を、一個一個取り省いて行く生き方が歳を取ると言う事で。歳を重ねると言う事はやらなければならない事が、どんどん自分の中に重なって行くと言う事だと思う。だから深みも増す。だけども歳を重ねると言う考え方が必然的に結果として当たり前になれば必然的にカッコ良くもなるし、まあ、渋くも慣れるしで、当たり前だけども老けるは老けるけども。だけども渋みを増すと言うか、そう言う大人で居たいではないでしょうか。年取っても何時までも・・・。☆ 『歳を取ったからと言って、年寄りくさい格好は辞めましょう。若作りをすればカッコ良くなれますよ.........。』
残念ながら、私は口でこんな事を言えても不言実行も有言自己は毛頭出来ませんけど..。ただこう言う思いは持っては居ますよ。此れを実行出来て居る人たちは、尊敬に値しますよね。私に取っては原田芳雄さんがそう言う人でした。彼は自分のやって居る事やら、音楽も芝居も「全て遊んで居る」と言う言い方をして居たけど。体もちゃんと鍛えて居たし。頭も良かった。今、此の事が出来て居るのは若い人ならGACKT君でしょうね。私は何一つ能書きは言えても実行が出来ない。前にある女性から、「実行が伴って居ない。食事も納豆とか食べなさいよね」とか言われたけど。私が酷い貧血に陥って居た時に食べて居たのはキムチと納豆だった。それとたまに魚だ。そう言う食事をして居たら大貧血に陥って仕舞った。初めて女医さんの内科医に見て貰った時に。私が2年前に貧血で此の病院に担ぎ込まれたと言ったら。パソコンでデーターを調べて見て。「酷い貧血だったのねぇ...。」と驚いて居ましたよ。ねぇ、日頃、私は本を読んだ知識でなら、どうとでも言えると言いましたが。私の今がそれですよ。人の事は言えません。ただ周りの歳を取った人たちを見て居ると、自分も含めてだけども。歳を取る人は多いが歳を上手く重ねて居る人は少ないですね。やはり歳を行ったものは。歳なりに歳を取って自分にあるものを捨てて行くのではなくて。歳を重ねて物事を深く知り知識が豊富にならないと行けないですよね。そう言う人は余りにも居なさすぎる。だから若者が歳を取った人の事を格好悪いと思うし。一部の知ったかぶりの知識人たちの言う事など。鼻にも引っ掛けない。大体が本当の意味で頭がいいと言う人が居なさすぎる。能書きは書物を読めば幾らでも言えますよ。
ただ此の歳を単に取ると言う事と歳を重ねた利口な人になると言う事は。世の中を見て来て築く事だと思いますよ。ある意味これも哲学的問いなのだと思えますね。人は日々成長して行きます。昨日の自分と今日の自分。そして明日の自分は別物ですから。あるアニメのセリフですが「決まりきった時間が決まりきって、流れて行く事はそれ自体が異常なのだ」と言う話をして居ましたが。私もそう思います。一見。時間は秩序だって立ち現れて来るものだとよく思われて。そう言われて居ますが。私は違うと思います。何故ならその人その人で時間の捉え方が異なるからです。例えば朝、決まって6時に起きる人と朝9時まで寝て居る人。夜遊びする人と夜遊びしない人の時間が一律同じだと言うのはおかしいですね。皆違った次元に居て違った時間を過ごして居る訳だから。そのアニメの中で言って居た「キッチリと流れて居る時間があったとしたら、それこそ異常でっせ」と言う事になる。時間とは意識の産物だからです。それは見た目は朝があり、昼があり、夜はありますが。時間の流れは澱んで居ると思いますよ。もし時間の淀みが均一なものだとしたら。相対性理論では無いけど色々ありますよ、、、時間の概念に移りますが。因みに相対性理論とは、その意味することが正しく理解されたかと言う事を別論として、物理学を始めとする自然科学の分野のみならず、社会的現象として広く受け入れられたものです。その反面として、その結論に同意できない立場などが、科学的反論ではなく、反ー相対性理論とでも言うべき一種の社会的運動となった。特に、此れはアインシュタインがユダヤ系であり平和主義者であると言う事が、国家主義者に嫌悪され、第一次世界大戦にドイツが敗戦した後には、パウル・バイランドによる、反相対性理論キャンペーンがはられたりもした。
クラシックメドレー from SAKURA Spring Music Festival 2017
1921年にアインシュタインはノーベル物理学賞を受賞するが、これは光電効果の発見を理由としており、相対性理論を対象としての授与ではなかった。物理学者の世界においても、ユダヤ的であると言う理由でアインシュタインの業績を認めない、フィリップ・レーナルトやヨハネス・シュタルクらの一派があった。彼らは、相対性理論の結果は認めるがそれをアインシュタインの成果としないと言う立場のゆえに、E=mc2の発見はフリードリヒ・ハーゼードゥルに帰せられるなどの主張を行い、アインシュタインを攻撃した。此れらの一派は、ナチス政権が成立するとそれに同調し、政権崩壊と共に勢力を失った。相対性理論とは、ニュートン力学と光の電磁気理論との矛盾を時間・空間の考え方に新概念を導入して解決したもので、1905年に発表された。此の理論は電磁気の理論の基礎を明らかにしたばかりでなく、その後に発展した原子核・素粒子の研究の手段として活躍した。一般相対性理論は、1916年に完成された理論で、重力の相対論的理論の一つであり、特殊相対性理論と異なり、まだ完全に実証された理論ではない。
物理法則が、それを表現する座標系が変換しても形が不変である処から、あらゆる座標系は互いに対等であり、相対的であると言うのが相対性理論の意味である。「特殊」とは、この座標系の変換を等速運動と言う特殊なものに限って居ると言う意味であり、「一般」とは、加速度をも含む一般運動の変換に一般化されて居ると言う意味である。一般相対性理論は、重力が支配的な役割を演ずる宇宙現象、とくに膨張宇宙論やブラック・ホールなどの解明に大きく寄与して居る。また、素粒子物理学における力の統一理論(統一場理論)の試みのなかでも重要な理論になって居る。アインシュタインは、1905年に発表した特殊相対性理論で、「時間の進み方は、観測者同士のすれ違う速度(相対速度)が小さいうちは眼に見えた時間の差とはならないが、相対速度が亜速度(光速に近い速度)になって来ると、眼に見えた時間の差が現れて来るので、どんな時でも一定ではなく、観測者によって異なる」と主張したのでは無いでしょうか?大森荘蔵の「時間と淀み」の中で彼は常識に対して先入観を排除し考え直そうとする態度とそれを支えて飾らない。此れはものを単に「論理的」に表現したものではない。大森氏は言う。論理的とは決して理路整然としたものではなく、むしろ冗長なものだと。前に既に言った事を論理の規則に則り、繰り返し言い直して居るに過ぎず、事実についての情報を持って居ると言う事ではない。ある言語が日本語より論理的だと言ってもそれは文法が画一的で融通が無いと言った程度のものだとも言って居る。
我々が普通の意味であたりまえに用いて居る〈時間〉とはこう言う事である。私が此処で考えて見たいのは、この様な時間の概念とはまったく別のものですよ。フランスにH・ベルクソン(1859~1941)と言う哲学者が居る。フランス哲学史の中で、殆んどデカルト以来と言ってよい超メジャーな存在であり、ノーベル賞まで取っている彼であるが、その主著『時間と自由』のなかで時間概念の検討を行なって居る。
ベルクソンは二種類の時間があると考える。
例えばアナログ時計が表すような時間は時間に等間隔の刻みをほどこして居る。だが、ベルクソンは、時間に刻みなどあるのだろうかと考える。むしろ、等間隔に刻む事が出来ると言うのは空間や物質の性質、「もの」的な性格なのではないだろうか。だとすれば、時計が刻む時間とは、実は、「空間化された時間」でしかない。だから、「本来の」時間とは、そうした空間的な要素を一切排除した様な純粋な時間の流れ、本来的な時間、空間化されない時間、質的な強度を持つ時間であり、それは本来「意識に直接与えられたもの」(『時間と自由』の元のタイトル)である。即ち「純粋持続」に他ならない。それは分割する事も、固定する事も出来ないものである。つまりベルクソンは時間の本来あるべき姿とは、空間とは共通点のない「純粋持続」であり、物理学的時間とは空間化された時間に過ぎないと考えたのである。『時間と自由』の中でも何度も(しかも批判的に)、「空間に投影された時間」と言う言葉を用いて居る。これはつまり、時間は質そのものであり、均等に計測される様な量ではないと言う事である。この場合均等に計測される様な量とは「空間」の事である。何が言いたいかと言うと、ベルクソンの考えでは時間には、「空間化された時間」と「純粋な本来の時間」とがあると言う事である。すなわち、前者が「過去」であり、後者は「将来(未来)」である。過去とはすでに過ぎ去り、決定され固定された時間であり、分割可能であるに対して、現在から未来への時間は「流れ」として未決定の状態にある。そして此処で彼が考える時間とは、後者の時間であり、純粋な時間の時間の流れ、すなわち「純粋持続」なのである。
さて次に、此れらをどう捉えて行くかと言う事である。時間には上述した様に「空間化された時間」と「純粋な本来の時間」があると言ったが、ベルクソンによると、空間の本質を対象とするのが自然科学であり、時間の本質を対象とするのが哲学である。先にも書いた通り純粋持続は、分割する事も、固定する事も出来ないものである。我々はそれを分析する事は出来ない。我々はそれを直観するのである。分析は科学の仕事であって、哲学のやるべき仕事は直観に他ならないのである。分析による方法は「自然」を静止の状態に於いて捉える事である。分析は概念を操作する(用いる)事によってのみ,働かせうる。概念とは事物・現象に命名する,その結果にほかならない。観測される(見えて来る)現象や事物に「ことば」を与える事によって,自然(現象・事物)を「その動きを止めた状態で」捉えるのが,自然科学の方法である。こうして「科学」は事物と事物の関係を捉えて,それを記号(概念)によって記述する。外からの自然の認識は、現象・事物に記号を与えて、記号の間の関係を明らかにするのみである。この様な方法による認識は,幾ら対象の真の姿を捉えたと称しては見ても,いわば対象の「影」の形を見て居るにすぎない。そのとき,哲学すなわちものの本質を捉える為の形而上学が,ものの真の姿,真の実在を知るための学問として登場する。
では,そのとき哲学(形而上学)は,如何様にして真の実在を捉えようとするのか。それは分析を通してではない。ではどの様に?ベルクソンは真の実在(この場合は持続)を知るのは「直観」によってのみだ,と言う。 私が腕を上げる。私はそれを知って居る。腕を上げたその動きを外から(自然科学の目で)見て,「腕が上がった」その事実を記述する事は出来る。しかしそれは,あくまで"動いて居る"相に於いてではなく,分析と言う(動きを静止の状態に於いてしか記述しえない)方法によって,「概然的に」しか記述する事が出来ない。 科学が自然を捉える仕方は,この様にことば(および記号)によって,現象を分節的に区分けし命名することを通して,「概然的に」(およそ,その様な事として)知る事にすぎない,とベルクソンは言う。 ベルクソンに於いて,直観こそが事実と合一する方法である。直観によってのみ事実の本質に触れる事が出来る。存在の本質は,直観すなわち意識に直接に与えられる仕方によってのみ捉えられる。では,直観が捉える実在の真の姿とは何か。自然(現象・事物)を知るための科学的認識は,変化を,事物の広がりを量的に把握するのに対し,直接に内観される(意識に直接与えられる,直観される)当のものは量的なものではなく,質的なものである。つまり,科学的認識は「流れる時間」を「時計」によって量的に記述する。しかし、そこで計量される時間は,実は(人によって作られた構造物である)時計の針の指し示す「空間」の位置の差を量的に記述するに留まる。したがって,時計の指し示すものは,直接に流れる時間ではない。此れは「時計に時間はない」と言う事でもある。流れた時間の跡付けである「時計の時間」は,真の時間ではなく「空間」にすぎない。この様に空間的なものとまったく区別されるものが「時間」であり,ベルクソンはそれを「純粋持続」と名づける(それは「意識(純粋意識)」でもある)。 勿論ベルクソンのこの時間概念に反する考え方も存在する。以下ではその例を少し考えて見たい。
トルコ行進曲&モルダウ from 超絶ギタリスト養成ギプス「孤高のクラシック名曲編」
G・バシュラール(1884~1962)と言うフランス人哲学者が居る(彼個人の人生と言うか、歴史も非常に興味深いものですが)が、彼はベルクソンの純粋持続に意義を唱える。彼からすれば、ベルクソンが時間を「持続」として考えた事は決定的であり、同時に決定的に間違って居る。何故ならバシュラールに取っての時間の本質とは、持続、すなわち流れではなく、その切断としての「瞬間」にあるからである。これはキュルケゴールが時間を永遠の断続としての瞬間に於けるものとして考えた事と似通って居る様に思う。キュルケゴールの解釈では、その様な瞬間の何らかの連続が時間であるのではなく、その瞬間が一回限りの断続的非連続である事の自覚の場こそが、真の時間と言う事になる。現在と永遠のこの様な絶対の断絶が、瞬間であり、また、此れこそが真の時間であると彼は主張するのである。 話をバシュラールに戻そう。ベルクソンは、時間から極力空間的要素を排除して、純粋な時間を直観しようとした。だがバシュラールは、そうしてベルクソンが見出した「持続=流れ」とはまだ空間化される要素を含んで居るのでは無いかと考える。むしろ時間とはそうした水平に流れるのではなく、垂直に突出する「瞬間=切断」なのだとバシュラールは考える。つまりバシュラールは、ベルクソン以上に空間的要素を排除して時間を純粋化し、極限的な時間としての「瞬間」を見出すのである。フランス哲学界の巨人と言っていいベルクソンは、非常に大きな影響力を持ったが、悲しいかな彼の後継者は殆ど現れなかった。むしろベルクソン以後のフランスの哲学者は、ベルクソン標的とする事から自らの歩みを始める事となる。その代表にして初期の者がバシュラールなのである。
ベルクソンは哲学の仕事は直観であると言う。純粋時速は純粋である以上、いかなる夾雑物も含まず、したがって直観も極めて単純なものでなければならない。彼は「哲学的直観」を論じた講演のなかで言って居る(『思想と動くもの』(岩波文庫)収録)。「哲学の本質は単純の精神であります。・・・哲学すると言う事は単純な行為なのです」。さて此処に木村 敏(1931~)と言う学者がいる。彼は精神病理学を専門とする医学者であるが、同時に時間や自己などについても研究する哲学者でもある。彼はこう考える。果たしてそんな純粋なものが実感出来るのだろうか??ベルクソンの言う「純粋持続」はなんの取っ掛かりもない。我々に実感出来ない純粋な時間と言うベルクソンの考えは、ある意味で徹底して居ながら、同時に我々に時間の実感を与えてくれないと言う意味では不徹底なのでは無いだろうか。そこで彼は考える。ベルクソンの純粋な持続とは、一種の病的な状態なのではないだろうか・・・と。
確かにベルクソンは、時間を「もの」(物質)ではなく、「こと」(作用)として取り出したのだと言える。しかし、全く純粋な「こと」を我々は捉える事が出来ない。それは理念ではあっても、自然な実感を与えてくれない。精神疾患者はむしろそうした抽象的な時間に苦しんで居るのである。むしろ、「こと」はある種の「もの」性との関わりのなかで「不純」となる事が必要なのでは無いだろうか。と言う風に論理を進めて行くのである。これは非常におもしろい考え方である様に思う。さて最後に余談になって仕舞うが、上述した二種の時間とは全く異なる時間も上げておきたい。それはアリゾナ州北部に住むネイティブ・アメリカンでホーピー族と言う部族の話である。彼らの言語体系のなかには過去・現在・未来に該当する言葉が無いのだという。彼らに取っての世界は「開示されたもの」と「開示するもの」の二つの有り様しかない。過去の事象と現在の事象は区別されずに「開示されたもの」と言う言い方で一括りにされる。未来に起こる事と、目に見えない心のなかで起こる事は、未分化の状態の侭で「開示する(される)もの」と呼ばれる。つまり彼らに取って、世界とはすでに時間を超越して「在る」もの、たとえて言えばすでに「書かれてある本」の様なものなのかも知れない。世界はすでに開かれて読まれた頁と此れから開かれて読まれる頁の二種類に別れるが、本そのモノはすでにあるのである。
『時間と自由』ベルクソン(著)平井啓之(翻訳) 白水社
『瞬間の直観』ガストン・バシュラール(著) 紀伊国屋書店
『時間と淀み』大森荘蔵(著)産業図書

「ユー・アー・ラブ You Are Love ~復活の日テーマ~」ジャニス・イアンJanis Ian
此の間、銀行に行ったので、近所の喫茶店に入って、カマンベルチーズとビーフのサンドにマフェインそしてカフェラテを注文したのだが、トレイに乗せて置いて。空いて居ると思った席に行くと、コートが片方の椅子に掛けてあるのを見過ごして、テーブルにトレイを置こうとしたら、50歳ぐらいのオバハンに英語で語り掛けられた。私は「えっ?」となって仕舞ったら、その人が今度は日本語で言って来た。「此処は席取ってあるのですけど、コートを椅子に掛けてありますよ」と言うので、そうかと思い。「すみません」と言って。大きな5人がけのテーブルに腰を掛けて食べ始めたが、隣に座って居た58歳ぐらいの中年の男が、私を怪訝そうな顔をして見て居る。「そして最近の若いは、、」と呟くのだ。多分髪が長いせいだろう。この21世紀ですら、長髪を嫌う人は居るものだと、こっちが逆に呆れた。
私は食事をしながら、その隣の中年の男の様子を何気なく見て居たのだが、何とその人は、携帯電話にスマホ、タブレット端末にノートパソコンを開いて見て居るでは無いか。私は「何だぁ〜いったい?」と思い見て居たら。携帯に入って居るメールを見ながら、スマホで調べ物をして、ノートパソコンから返事を送って居た。まぁねぇ、、何で携帯から返信メールを送らない。スマホで調べものをして居たらタブレット端末やら、ノートパソコンは必要無いでは無いか?何もったいつけて全ての通信機器を総動員して、携帯のメールを送って居るのだ?私は笑って仕舞った。携帯を今、まだ持って居るのも珍しいが。携帯に届いたメールならばそのまま携帯から返信をすればいいだけだ。それをそのメールを読んで、返信文をスマホで考えて、そしてノートパソコンから送って居るのだ。殆んど無駄な作業だ。そしてタブレットは何に使うのかなと思って見て居たら。携帯に届いたメール文をタブレット端末にその内容を書いて居るのだ。
私は「この親父、何考えて居るんだ?」とこっちが訝しがってその作業をずっと見て居た。大体がノートパソコンがあるならそれで全てやれる事だ、最近ではタブレット端末にキーボードを繋げれば、ノートパソコンの代わりにもなる。そして最新鋭のスマホはもはや、ノートパソコンの役割を肩代わり出来るだけの性能はあるのです。おそらくは金を持って居る金持ちだろう。仕事関係で使うのであれば、ノートパソコンは自宅用にして。タブレット端末に別売りのキーボードを付けて。スマホだけを持てばいいのでは無いか....。そうすればタブレット端末だけで事は済む。私もパソコン。iPad。スマホと所有して居るが、iPadはもう古い機種なので最近は使って居ない。iPadは1号機。2号機と所有して居ます。なぜ持って居るかと言うと。亡くなった弟が私の為を思って購入してくれたのですよ。思い出のタブレット端末だから使って居なくても手放せないのですよ。
それに私は携帯に写真を入れないで、iPadに入れて居た。だから処分出来ないんです。今、iPhone8を使って居ますが。矢張り写真は入れては居ない。何故ならデジカメを持って居るから。最近はスマホで皆さん写真を撮るから、デジカメは高性能のものが本当に安く手に入りますよ。私はデジカメ派です。私が写真を撮る用途はほとんどがblogにアップする事に使いますから。スマホに写真を撮り溜めると言う事はしませんよ。だから幾らいいカメラがスマホに搭載されて居ても私に取っては宝の持ち腐れですよ。ただね、最新鋭のiPad・Airとキーボードを揃えて持ちたいですね。まあ、夢ですが、、、確かにスマホがあればいいのでして、ただ大画面で見れるのと、キーボードが付けばもう、ノート・パソコンですよ。セカンド・パソコンとして欲しいですがね。持ち金との相談でして。切に欲しいですよ。今、考え中なんです.....。そして、その50代の親父は私を見て、また、「最近のガキは髪を長くしおってからにけしからん」と呟くので。私は「ああ、此間の誕生日で俺も63歳か、」と呟いたら、、驚愕の顔をして私を見て居る。そして足早に喫茶店の机の上に広げて居た、パソコン類をキャリングケースに詰め込むと、アタフタと出て行った。ねぇ、こんな50代後半じゃあ、若者がカッコイイとは思うまい?歳を重ねて居ないのですよね。年取っただけ・・・。


以前の事だが、訪問看護師が薬をセットして居たので、その間、ストリーミングで日本が世界に誇った、ブルースバンド「憂歌団」の曲をBluetoothでスマホからステレオに繋げて鳴らし、それに合わせてブルース・ハープでアドリブで吹いて見たら。吹いて居る間は、何も言わなかったその女の看護師が一言訊いた。「他の曲でも合わせられるの?」だから言った「曲のkeyさえ解れば何の曲にも合わせられると思いますよ」。そうしたら吃驚した顔をして居る。今までハモニカ吹けると言って居たのは大袈裟な嘘だと思って居たらしい。曲にブルース・ハープで合わせて吹く事など。ある程度吹ける人なら皆んな出来る事だ。アドリブだと言う事がその人は良く解って居ない見たいだった。何か、憂歌団の曲を流して吹いたら、それを聴かせる為に私が猛練習をして吹いて聴かせた見たく思って居るのだ。
私は「何だかなぁ〜〜」と思って仕舞った。アドリブの意味が解って居ない。アドリブとは即興演奏の事だ。クラシックの曲を吹く時に、演奏者は譜面を見る。あれは一つも曲を間違わない様に吹く為にだ。その場合はアドリブでは無い。譜面に記されてある通りに吹くのだ。私は譜面は苦手だ。だから、難しい曲を吹く時は、その演奏者が演奏して居るものを丸々コピーして吹いて居る。アドリブでも、優れた演奏者のフレーズは丸ごとコピーしてそれをアドリブに混ぜて吹いて居るのだ。そうする事によって自分のアドリブの幅が広がる。だからその時の憂歌団の曲もそうした人真似で一生懸命にコピーして練習して吹いたと思ったのだろう。しかしそれは検討外れだ。私は曲に沿って赴くままに吹いたのです。それがアドリブだ。
その人はロックに少し詳しい。私がkeyAの時にブルース・ハープのクロスポジションではDになると言ったら、「Aってドの事よね!」と言うのだ。この事も変だ。私はkeyの事を言って居るのだ。音符のことを言って居るのでは無い。それにAはラだ。Cがドです。keyの事を言って居るのですよね。セカンドポジションのクロス奏法ではkeyがAの場合、4度上のkeyDになるのだ。その事を言おうとしたのです。そして、彼女は私が彼女の大好きな「While My Guitar Gently Weeps」と言う曲を高校生の頃、ライブで弾いたと言うと、驚愕の顔をして嘘だと言った素振りをした。ギターは矢張りkeyとコード進行が決まって仕舞って居れば、この場合もアドリブでリードギターは弾けるものだ。なぜいちいち驚愕に思う必要があるのだ。この曲のリードギターのソロはエリック・クラプトンだ。だから難しいと思って居るのです。よしんばクラプトンと全く同じ様に弾けなくとも、自分のアドリブでソロは弾けるはずですよ?此れだけ解らない人は解らない事を言うのです。
Sparrow_Weeping Harp Senoh
StarDust WeepingHarpSenoh
SENO-TERA SESSION
Wagamama CD 2 Weeping Harp Senoh
"The Roots" japanese TV show [Weeping harp senoh][Shinji Shiotsugu] Second part
また、その人にユーライア・ヒープのある曲のライヴ映像を見せて見たら。ベースはユーライア・ヒープのトレブァー・ホルダーなのに、その人を見てイギリスのロック・スター「イギー・ポップ」だと言い切る。そして私が知らないとばかりに言うのだ。「1970年代から活動して居る人よ!!知らないでしょ...。」私は内心、呆れつつも、「そうですか・・・。」と話を合わせた。なぜ、イギー・ポップなのだ。此処まで来ると笑うしかない。そして私がこの間ブルース・ハープを2本買ったと言うと。「何故?」と聞くから「リードが折れてしまい壊れたから...。」と言ったら。「へ〜〜ハーモニカって壊れるの?」と私が嘘をついて居る様に言うのだ。何も解っては居ない。ハーモニカはすぐに壊れる楽器です。特に、ブルース・ハープは壊れる頻度が高い。だから値段も安い物で1,000円からある。大体が、ブルース・ハープは3千円台で買える楽器です。処でユーライア・ヒープのベーシスト、トレヴァー・ボルダーが最近亡くなった見たいだ。死因は膵臓癌で、享年62歳だった。ユーライア・ヒープに1976年から2013年、37年にわたって在籍してきたトレヴァー・ボルダーは『ファイアフライ』(1977)、『イクエイター』(1985)、『シー・オブ・ライト』(1995)などの重要作、そして最新アルバム『イントゥ・ザ・ワイルド』(2011)に至るまで、数々の作品でフィーチャーされて来た。
1950年6月9日、イングランド北部のハルに生まれた彼は、1971年にデヴィッド・ボウイのバック・バンドに加入。このバンドはそのままスパイダーズ・フロム・マーズに発展し、『ジギ—・スターダスト』(1972)、『アラジン・セイン』(1973)などの名盤を生み出した。タイトにリズム・セクションを支えながら、グルーヴ感をたたえた彼のベース・プレイは、ブリティッシュ・ロックの正統派と呼べるものだった。近年では2001年1月、デフ・レパードのメンバーと共にジギ—・スターダスト時代のボウイの曲を演奏するプロジェクト、サイバーノウツで来日。また、2010年10月にはユーライア・ヒープの一員として日本を訪れ、そのベース・プレイを聴かせてくれた。
彼は今年1月に手術を受け、ユーライア・ヒープは代役ベーシストを起用してライヴ活動を行って居たらしいです。
While My Guitar Gently Weeps (Taken from Concert For George)
URIAH HEEP JULY MORNING 1972
Uriah Heep - Sympathy • TopPop
Ziggy Stardust | David Bowie
処で前に不動産管理会社から、電話が掛かって来て。出て見たら、何か険悪そうな声だ。「あのですね。今月分の家賃がまだ振り込まれて居ないんだけども!!」と可也手厳しい。私は振り込んだ気になって居た様だった。今、通帳を見てみると振り込んだ形跡が確かに無い。多分言われた通り振り込んだつもりになって居て振り込んで居なかったのだろう。この間は月も五日にもなって入って居たと言って居たが、言い訳をしようとしたが辞めて於いた。確か月の終わりの連休と月初の連休が重ねって、私は30日には振り込んだのだが銀行のその間、連休と言う理由で5日に遅れて振り込まれたのだ。不可抗力だったのです。銀行が遅らしたのだから.....。
まあ、私のアパートの大家は結構厳しいのです。だから「明日振り込む」と言ったら。来月の分もちゃんと今月の30日に振り込んでくれと言うので、「明日、来月分と纏めて2回分振り込む」と言った。そうでもしないとあの大家は機嫌が悪くなるだろうから。まあ、私の方が心配だ。来月分も振り込むのだから。家賃は5万だ、合わせて10万だ。大家にして見れば纏った金が入るのでホイホイだろう。そう言ったら、不動産屋はホクホクな声を出して居た。人生、金が全てだ。それは余りに侘しいと言う人も居るだろうが、金が全てなのですよ。人生も人付き合いも。出世も。寿命も。趣味も。全ては金です。私の母は下宿屋をして居たが、その事を身体で覚えたのは父の実家に居た時でした。まだ自分ら夫婦は家が持てず、父方の実家で暮らして居たのです。母は、姑がやって居た下宿屋を姑と共に切り盛りして居ました。
ある日、下宿人の大学生が、下宿代を払う時に1円負けろと言ったそうです。たまたま1円無かったらしい。姑はその学生に怒って言ったそうです。「1円ぐらい、どうとでもなると言う甘えた根性が嫌だ。あんたは下宿を出て行きなさい!!」そしてその学生は出て行く事になって仕舞ったそうだ。私は母が実家で下宿屋をやって居たので、金の大切さは身を持って知って居るつもりだ。でも、私はケチケチはしない性分です。勿論お金は大切だし。節約は考える。だが、掛かって仕舞ったお金は高額でも仕方がないと思って居る。前にもblogで書いて居るが。物事半分も叶えばそれでいいと思って居る。前に、夏場に買って居た長袖のシャツを着ようとしたら。サイズが小さくて入らない。私は普通Lサイズだが、Mサイズの様に小さいのだ。私が太って仕舞ったからかと一瞬考えがよぎったが、そうではなくそのシャツの作りがLサイズでもMサイズぐらいの大きさなのです。
そこは若者向けのネット・ブテックですが、シャツは初めて購入したのです、私は諦めた。最近は外資系の会社が多い。服などは殆どが外資系だ。私はユニクロと日本のメーカーが経営して居るブテックでもシャツを購入して居た。5着のうち、2着が小さくて着られなかった。安いシャツだが1着1,300円です。2着だから2,600円の損だ。私は捨てるのはもったいないし、どうしようかと思って居た。まだ腕も通して居ないのだ。だから私は訪問看護婦の若い女の子が旦那が居ると聞いて居たので、あげる事にした。彼女は散々貰えないと言ったが。貰えないと捨てる事になると言った。「古着屋に持って行けば?」と言うが。私は以前、買取業者を頼んだ事がある。そうしたら服やらシャツなどは有名ブランド物しか引き取らないのだ。よく何でも引き取る業者が居ると言うが。大抵はタダで引き取るのです。UNIQLO、GU のシャツなぞは、絶対に引取りませんよ。
今、流行りの古着屋に持って行くのはいいけど。電車賃で足が出る勘定です。こう言った場合は身近な人に挙げるのが一番です。まあ、2,600円の損ですが、外で美味しい物でも食べたと思う事にしました。処で今私のシャツとズボンのサイズはLLです。太って仕舞ったから。私の母は、物を買うときにケチるなと私に教えて居ましたねぇ、、私は小心者なので、初めてカラーテレビを購入しようとした時に、14型のものを購入したのですが、母に怒られました。後1万円ぐらいの処で、ケチって14型のテレビを買うよりも1万円出して16型のテレビを買った方が良かったと言われました。お金を掛ける時には、躊躇せず、多めにお金を掛けなさいと言いましたよ、お金は掛けただけある物が手に入ると教えられましたよ。安物買いの銭失いにはなったら行けないと、、、
だからカード決済などもリボ払いなどは持っての他。一括で払えと言われた。月賦も勧めないと言われましたね。理由は、つい、月賦だからと複数の品物を購入して仕舞うから。私は持ち金で暮らして居ますが、お金にこそこそはして居ませんね。掛けるときはお金を掛けるし。ただ、最近、無駄金かなと思うことがあるので、気を付ける様にはして居ますよ。持ち金であと1年暮らして、そのあとは如何なるか、成る様にしか成ら無いでしょうから。処でこんな話をして居ると「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と言う映画を思い出しますね。人生はお金ですね。映画まだ未見な人は見て下さい。しかしあなたの心が不快になるのは責任を持てませんが。((((;゚Д゚))))))) 主演は「ビョーク」です。ラース・ファン・トリアー監督作品です。この監督の映画では「エレメント・オブ・クライム」と言う映画が好きですね。近未来のフィルム・ノワールです。
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近年、音楽リスニングと言えば、スマホ、サブスク、イヤホンの組み合わせが主流だが、「CDを聴きたい時やラジオを聴きたい時はどうすれば良いのか?!」と困ったことはないだろうか。またスマホは実用品として常時利用しているため、音楽を楽しむには操作が複雑になる事もあるだろう。
そうした状況を打破しそうな、 “全部入りの万能オーディオ” が登場した。往年のAurexブランドを冠し、新たにBluetooth送受信機能に対応したCDラジカセ「TY-AK2」である。今回は、この懐かしくも新しい本機の “無限” とも言える使い勝手に注目してレビューしよう。
AurexのBluetooth送受信対応CDラジカセ「TY-AK2」を徹底レビュー
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製品の内容は説明するまでもなく、外観から完全に “CDラジカセ” だ。CD、AM/FMラジオ、そして昨今人気が再燃しているカセットテープの録音再生にまで対応している。新たにカセットテープに魅力を感じている若者から、慣れ親しんだシニアユーザーまで、どちらの需要にも応える仕様だ。
さらに、USB端子やSDメモリカードスロットを備え、ハイレゾ音源の再生にも対応しており、非常に多機能。そして “全部入り” の極めつけは、Bluetooth機能が一般的な受信に加えて、「送信」も可能なこと。この辺りの使いこなしで、楽しみ方は大きく広がりそうだ。
そのほかマイク入力、SD/USB/カセットテープへの録音、各種音声のハイレゾアップコンバート機能など、実に盛りだくさん。見た目は昔懐かしい雰囲気のCDラジカセが、正真正銘の最新 “全部入りの万能オーディオ” なのだ。
■多機能ながら操作しやすく、使いこなし簡単。温かみある音質も魅力
本機はカセットテープの「窓」にあたる部分に、ドットマトリクスの液晶パネルを備えている。非常に多機能な製品なので、最初は使いこなせるかどうか不安だったが、この液晶パネルに必要な情報が表示されるので、とても分かりやすく使いやすい。
カセットテープの「窓」部分にあるディスプレイで、現在の使用状況がわかる
USBメモリ再生の場合は、フォルダやトラック数が表示され、複数のフォルダがあればワンタッチで選択が可能。再生中に曲名などの情報は表示されないが、一般的なユーザーが利用する分には不便は感じないだろう。
本体左右にはCD/ラジオ/Bluetoothなどの切り替えボタンと、録音やアップコンバートなど操作ボタンを配置全体的に操作に対する動作はキビキビしていて、気持ちよく使用できる。見た目は少し昔のCDラジカセといった趣だが、中には最新のテクノロジーが詰まっていることがよく分かる。
操作リモコンも付属
何より、温かみのある和らかな音調が心地よく、「スマホ+サブスク」といった最近の聴取スタイルとはまた違った楽しみを再発見できた。本機には圧縮音源のデータを補完し、音質をハイレゾ音源相当の周波数帯域と高解像度音に引き上げるという独自アップコンバート機能を備えている。こちらはラジオにも適用可能で、よりシャキッとして明瞭に感じられる。
アップコンバート機能を使うと、シャキッとクリアな音調で聴きやすく

次は本機の使い方として定番と言えそうなCD再生を試してみた。先ほども言ったように、見た目は昔風のラジカセといった風貌なのだが、そのサウンドは、先入観を打ち破る高音質だ。
筐体が樹脂素材で低域にやや緩い部分はあるが、結構、重低音の量感が豊かで心地よく響く。バスレフ方式で、きちんと設計されているようだ。中高域は高解像度でスッキリと抜けが良く、音離れも立派。総じて、心地よく楽しめ、長時間聴いても疲れない音調は評価に値する。
量感ある低域とスッキリした中高域で、長時間でも聴き続けられるサウンド
また、CD再生にもアップコンバート機能が適用できる。この場合、ボーカル明瞭になって存在感が増し、余韻成分が引き出されることで広がり感が増す。ポップスなども軽快で、楽曲や気分に応じて使い分けると、楽しみが2倍になるだろう。
本機はカセットテープの録音・再生が可能だが、対抗するかのようにBluetooth受信機能も搭載しているのが、今風のラジカセらしく、そのギャップが面白い。スマホでYouTubeの音楽や映像を再生し、その音を本機で聴くといった事もお手の物だ。
懐かしくも新しいカセットテープも再生可能。さらにBluetooth送受信機能で、YouTubeなどの動画音声を本機で再生したり、カセットの音をワイヤレス再生する事も出来る、、
試しにiPhoneと組み合わせてドラマも視聴してみたが、音声の遅延は少なく、リップシンクは違和感なし。受信時のコーデックはSBCに加えAACにも対応しているので、こうした使い方にもオススメできる。また低音がしっかり再生されるので、映画は迫力が増す。Bluetooth送受信のうち、受信時にはアップコンバートが適用できるが、本機能はここでも大活躍。配信かつBluetooth接続で劣化が免れない音源で本領を発揮し、鈍って不明瞭になりがちなサウンドを立て直してくれる。
セット内容:本体、電源コード、リモコン(リチウム電池付属)、AMループアンテナ、保証書付取扱説明書、受信周波数一覧表、ヘッドクリーニングキット。前モデルも私が所有して居るTY-AK1はシルバーと黒の2トーンカラーでしたが、TY-AK2はシルバー1色となり、さらに高級感が増しました。まぁ、内容ははっきり言ってBluetooth機能が付いたと言う事以外は、前モデルのTY-AK1と変わりませんけどね。前の機種は今製造はもう終わって居て在庫も無いですよ。私は此のTY-AK1は最後の3台だけあった在庫のものをAmazonから購入しました。今なら此のTY-AK2を購入する事をお勧めしますよ。此のラジカセは最高ですよ、結構、重低音も出ますしね。。。
懐かしのカセットテープ
椎名林檎 - 歌舞伎町の女王
忌野清志郎 LOVE ME TENDER 【放射能はいらねぇ!】
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〜〜懐かし映画館〜〜
「人斬り」
写真が無いので、ビデオテープのケースから...。
『人斬り』は、1969年(昭和44年)公開。監督は五社英雄製作はフジテレビジョン+勝プロダクション。配給は大映。司馬遼太郎の短編『人斬り以蔵』を参考文献にしたオリジナル作品で、脚本は橋本忍が担当した。この年に劇場用映画製作に進出したフジテレビが第1作『御用金』に続いて放った第2作目で、勝プロダクション初の時代劇製作映画でもある。公開当時は映画倫理管理委員会より成人指定(映倫番号15909)の指定を受けた。
動乱の幕末を舞台に、下級武士出身ながらも今日の都を震撼させ「人斬り以蔵」の名を轟かせた土佐最強の暗殺剣士・岡田以蔵の半生を、土佐勤皇党の党首・武市半平太との関係を基軸に描いた娯楽歴史劇である。キャストは勝新太郎、仲代達矢、三島由紀夫、石原裕次郎といった豪華な顔ぶれで、特に本業が俳優でない三島の起用が大きな話題を呼んだ
人斬り予告
ーあらすじー
時は幕末。文久2年(1862年)の土佐の谷里郷に、剣術の才覚がありながらも藩内の厳しい身分制という壁に阻まれ立身を望めず、その日暮らしに甘んじていた青年・岡田以蔵が居た。彼は背に腹は替えられぬ思いで、ついに家の隅で埃をかぶる先祖伝来の鎧兜を骨董屋に売り払うも相手にされず悲嘆に暮れて居た。
そんな時、土佐随一の政治力を握って居た土佐勤王党の武市半平太は、土佐藩執政・吉田東洋をクーデターよって追い落とし自ら取って代わる事を計画する。師の武市に呼び出された以蔵は、東洋暗殺の様子をじっくり視察せよと命じられた。その夜が、まだ人を斬った事の無い以蔵を変えた。人を斬る、とはこうする事なのか。俺ならもっと上手く斬ってやる、と以蔵は次第に人斬りとしての本能を呼び醒ましてゆき、東洋暗殺現場で耳にした「天誅!」と言う言葉を心の中で何度も繰り返した。
その年の夏、武市率いる土佐勤皇党は京都に上洛した。瑞山と号した武市は数年後に勤皇一派の中心人物となり、都で栄華の限りを尽くして居た。以蔵もまた武市の下で多くの謀略・破壊工作の実行役として加担し、もはや昔のくすぶっていた以蔵ではなく、名うての「人斬り以蔵」として鳴らして居た。そして、土佐勤皇党はこの自分で持って居る様なものだ、とまで得意の絶頂を誇示する以蔵の前に、武市とは異なる道を選んだ男・坂本龍馬が現れる。以蔵と龍馬は子供の頃からの知り合いであった。
本間精一郎、井上佐一郎らを新たに葬った以蔵だが、坂本龍馬は以蔵に人斬りを辞める様忠告した。当初は聞き入れるつもりもなかった以蔵だったが、身分の上下もなく誰も気にする事のない時代を切り開く、との龍馬の言葉に次第に共鳴を覚えてゆく。それは、かつて武市に随行した際に逗留した攘夷派の急進的公卿・妹小路公知邸を訪れた時に出逢った美しい綾姫の存在を忘れる事が出来ずに居たからであった。
綾姫は姉小路卿の妹で、以蔵は惚れた想いを告げるどころか、以蔵の野蛮な容姿に恐怖を覚えた姫から「けだもの」と蔑まれた。だが、想いは一層強くなり、いずれ自分が武市の下で立身出世するか、龍馬が言う新しい時代になった時、綾姫を自分のものに出来るかも知れない、と以蔵はささやかな希望を宿して居た。
そんな折、以蔵の人斬りが目立ち、天皇から自重する様にお達しがあったため、武市は次の大天誅から以蔵を外す事を決め、以蔵にしばらく骨休めの期間をもうけて居た。以蔵は、勤皇派が以前から内密に計画していた大天誅・近江国石部宿での襲撃の先遣隊から自分が外された事を知るや無我夢中で駆け出し、辛くも襲撃隊に合流して薩摩侍・田中新兵衛と共に目覚しい働きを見せるも、その際に藩名と自身の姓名を声高に叫んだ失態を武市から厳しく叱責された。
さらに以蔵は、龍馬から武市の為にもなると依頼され勝海舟の護衛を務めた事も武市の逆鱗に触れ、土佐に帰れと面罵された。以蔵は武市からの離反を試みるが、武市を気づかい、その政治力を恐れた諸藩らから以蔵は雇い入れを拒まれた。やけ酒を飲んで荒れる以蔵を田中新兵衛は慰めた。以蔵の情婦となって居る女郎・おみのは、武市に謝罪する事を薦め、以蔵はやむなく武市のもとに戻り、人斬りの運命から逃れる事が出来なくなって行った。
武市は田中新兵衛の刀を以蔵に持たせて、意見の相違が生じていた姉小路卿の暗殺を密命した。以蔵は驚いたが命令をなんとか実行した。姉小路殺しの嫌疑を掛けられ京都町奉行に捕えられた新兵衛は、犯行を否定したが証拠として自分の刀を見せられると、申しひらきもせず突然その刀で自ら切腹した。以蔵は姉小路卿までも斬り、友の新兵衛まで裏切る形となった直後から、酒に溺れる様になり名声は凋落した。
浪人狩りの網に掛かった以蔵は六角牢に投獄され、「土佐の岡田以蔵だ」と名乗るものの、知らせを受け面会に来た武市から、「岡田以蔵ではない」と見知らぬ者扱いされ見捨てられた為、その尽「無宿者の虎蔵」と名付けられて牢で厳しい拷問に掛けられた。そんな以蔵に手を差し伸べたのは坂本龍馬であった。要約、以蔵は8か月後に赦免されたのち、龍馬の門人として新しい時代を築くために残りの人生を尽くそう、と思い始めた。慶應元年、以蔵は龍馬と九州に行く為に、待ち合わせ場所の土佐に居た。
一方、反動政策により吉田東洋暗殺の嫌疑で武市も土佐で拘束され、藩は東洋暗殺の下手人を探して居た。土佐勤皇党の1人は、以蔵が捕えられるとまずいと考え、土佐から離れるように促した。しかし武市は非情にも以蔵を消し去ろうと図り、かつて以蔵が目をかけた弟分・皆川一郎に毒殺役を命じた。春祭りの酒を持って来た皆川を疑いつつも、毒味で2杯飲んだ皆川が平気な為、以蔵もその酒を飲むが数分後毒が回り始め、皆川が死んで、以蔵は辛くも助かった。
以蔵はこの事で勤皇党の幕を下ろそうと決意し、自らの行なってきた謀略の人斬りと武市一派が行なった計画の全てを告白するため高知城の番所に出向いた。以蔵は武市を売る金の三十両を、借金で遊郭稼業に縛られて居る貧しいおみのに先渡しする事と引き換えに、洗いざらい話した。
5月の土佐の春祭りの日、龍馬は以蔵を迎えにやって来る。だが、そのとき以蔵は磔台に居た。武市が政治犯として切腹を命じられ、自分は一介のならず者の人斬りとして処刑されることを聞いた以蔵は、武市から自由になったと言い、祭囃子を遠くに聞きながら磔の刑に処されて壮絶な最期を閉じた。
「人斬り」岡田以蔵 暗殺剣 [ Hitokiri ] Okada Izou Assassination Sword
この映画はDVD等が出ておらず、なかなか見る機会に恵まれない映画の一つなのであるが。私はレーザーディスクで所有して居たし。フランス盤のPAL盤のDVDをフランスから取り寄せて観て居た。最近では CS放送やらBS放送で結構放送されて居ます。幕末の「人斬り以蔵」として有名な岡田以蔵を主人公に、彼と武市半平太や、坂本龍馬、田中新兵衛らの関係を描いて居るが、橋本忍の脚本は矢張りしっかりとして居て、武市の命令で次々に暗殺を遂行した以蔵が、結局は使い捨てにされて仕舞うと言う悲劇性がよく描かれて居て、見ごたえがある映画で、素直に面白かった。(昔、まだこの映画を観て居なかった頃は観たいと思いながらも五社英雄監督と言う事で凄い映画なんだろうなと思って居たが、今まで見た五社監督の映画の中では一番面白い映画だと思う。)勝新主演映画を見るのが久し振りなのだが、演じる以蔵は豪快な存在感があり、座頭市とはまた違う勝新の魅力を感じる事が出来る。仕事に参加させて貰えなかった以蔵が一日掛けて長距離を走るシーンは映像的にとても美しく、異様な迫力があり、印象に残るし、勝新は「薄桜記」の冒頭とかでも走って居るが、どこか「決闘高田馬場」の阪東妻三郎を彷彿とさせるものがある。武市役の仲代達矢はギラギラした存在感で、武市のこれでもかと言う様な非情さを上手く演じて居て、メイン・キャストの役では久しぶりに見る気がするのだが、あらためて名優だと感じた。この二人に対して竜馬を演じる裕次郎は勝新との共演が見どころとなるが、矢張りと言うか何と言うか違和感があり、裕次郎には時代劇は似合わないかとも思って観て居たが見て居るうちに良く見えて来ると思う。そして忘れてはいけない三島由紀夫演じる田中新兵衛。三島由紀夫を俳優として見るのは「からっ風野郎」以来、二度目なのだが、本作でも演技は硬い。しかし、独特の存在感とオーラを放って居て、その演技の硬さも新兵衛に不思議とマッチして居るし、なかなか味があり、良かった。本業が俳優では無いながら、この役は三島由紀夫の俳優としての代表作になるのではないだろうか。本作は三島事件の一年数か月前に公開されて居るが、濡れ衣を着せられた新兵衛が切腹するシーンはその後の三島由紀夫の運命を予言して居るかのようで驚かされる。そうそう、三島由紀夫の先祖と本物の田中新兵衛と大縁があるとは後で知ってびっくりです。
今回は此処までです。また更新出来たら逢いましょうね。