今回のblog記事は長いです。ですから、読みきれない人は。何回かに分けて読んで見て下さいね。結構いい事も書いたつもりですので。宜しくお願い致します。。。それとまた調子が良く無い為に、更新時期が少し遅れるとは思いますが。宜しくお願い致します。それとコメントは貰えたら、必ず返事は書きますので皆さん宜しく。。。。。
モテる60代男性の特徴 ポイント3選
最近、思いますが、人生を如何に、いい加減に生きて居る人間が多いかと思いますよ?私が働いて居た頃に。ある男が「エヴァンゲリオン」を見た事が無いと言うので。全6本をビデオテープにダビングして貸したら。その男が嵌まって見て居て。そして何時か返して来るだろうと思って居たら。その男からこう言われました。「あれ、一体どうするの!!はっきりしてよ!!」どう言う意味だか言われた当初は解らなかった。貸したのだろう?「あれ一体どうするの!!」とはどう言う意味だ。「はっきりしてよ」とは何だ!!返すのが当たり前だろう。そいつの名は高橋と言った。高校中退の男だ。何時もそいつは私にこう言って居た。「俺だから大丈夫ですからね」。どこが大丈夫だ。
私は黙って居た。そしたら彼はそのビデオテープを返して来なかった。そして、そいつはレンタルビデオを借りても1年も返さずに隣町まで越して行って仕舞ったが。世の中は甘くは無かった。私は仕方が無い、此れだから高校中退者はと思って居たが。ビデオレンタル店は地元のヤクザ者に頼んだ。彼はヤクザに脅されて100万円を請求された。人のモノも自分のモノ。そう思って甘く世の中を見て居たのだろう。結果的にそいつは100万円を会社の社長に泣き付いて。財形貯蓄から出して貰ったが、会社には居づらくなり辞めて行った。従兄弟のけんじに私が「此のビデオは吹き替え版で、此れしか無い貴重なモノだから、必ず返してくれ」と言って渡したが。返しはしなかった。初めから返す気などは無かったのだ。私は「けんちゃん返してよ!!」と言ったら「フン、ケッ!!」と言われた。本当に貴重なビデオだったのですよ。私は怒り狂った。
2人とも天罰にでも当たればいい。世の中に居ら無い人間たちだ。例えば此のgoo・blogです。書き込みをしても返事を書か無い人たちも結構居る。blog上での最低限のマナーだ。例えば私のコメントした文が書かれて、嫌ならば、はっきりそう言えば良い。または削除して表示させなければいいだけだ。私は、どう言う意味かなどとは言わないし思いもしない。ただそのblogには行か無くなるだけだ。私は相手に対して、敬意を向けて書いて居るのだから、その返事は貰いたい。それから、余りに自分本意な考え方を書き込む人たちが居る。私はもう哲学に付いては書くのを辞めようかと思って居る。大抵の場合喧嘩を売られるからだ。自分の言う事の方が正しい。お前の考え方は間違って居ると言うのだ。それに取るに足らない事を、永遠と論じて来る人も居る。そして自分こそが正しいと言い張るのですよ。
物事を小難しく言える事は、確かにある意味一つの才能だろう。私にはそう言う頭も知識も無い。しかし、そう言う文を書き込む人は。自分が書き込む事が変だとは思って居ないらしい。私が幾ら調子が悪いと言っても永遠と書き込み、そして返事を求めて来る。そう言う事を。何故思いの丈を自分のblogに書かないのだ。勝手、私が40代の頃に、私に対して哲学の事やら映画論をぶつけて言って来る。50歳の男が居たが。私が「あなたはHPに映画論だとか哲学論を書けばいいのでは無いですか?」と言ったら「嫌だ!!書きたく無い!!」と言うので。私が「何でですか?」と訊いたら「反論されるから嫌だ!!」と言うのだ。そして私には思いの丈を、全てぶつけて話す。要するに利口では無いのですね。学問が出来て脳のある事が言えるから。頭が良い訳では無いのですよ。
私の知り合いに「にのみや・あきら」さんと言う詩人が居ます。彼は詩集の本を出版して居るし。劇団四季を始めテレビドラマにも、若い頃は出て居た演劇人でした。あの三島由紀夫も彼の芝居を観たそうです。私は彼の詩が好きです。何故なら現代詩なのに難解では無いからです。普通の市井の人の感覚の言葉で書いて居て。万人が解って、尚且つ勇気を貰える詩を書いて居るのですよ。こう言う人が利口者だと言うのですよ。私が高校生の頃。高校の先輩で新進気鋭の哲学者が居た。その彼が母校の私の高校に来た事があった。
丁度、カントの「純粋理性批判」の特別講義を。全3回の講義をしましたが。彼の言って居る事は、高校1年の私たちには何も解らなかったですね。まあ、カントは「理性批判」の哲学者であり、「人間学」としての哲学の提唱者でもある彼の思考の根底には、むしろ、近世的「人間」主体と、また、近世的と言わず西欧の伝統的「理性」一般との存立をおびやかし、その解体と根本的な編成変えとをうながす無定形な不安が、そう思って見れば、すでにはっきりと動き始めており、それが、また、思考の隠された、究極の原動力ともなって居たのでは無いか。と言って居ましたが。
此の事をその新進気鋭の若き哲学者は、難しく難解に自分に酔って説明したのでした。こう言った人とは別な。自分と同じ思考力を持つ人物と話すと、相手の話は、殆んどが良く解りますよ。ドイツの哲学者・マルクス・ガブリエルとか、GACKT君とか。私が哲学者だと思って居るZIPさんの言う事です。押井守監督が、自分の初めての実写映画の中で脇役の。しかし、シンボル的な意味合いの存在である”お客さん”と呼ばれて居る「赤い少女」にタクシーの運転手が言います。「人間は夢と同じモノで織り成されて居る」此れは、シェークスピアの「テンペスト」第4幕の第1章からのセリフですが。此れは「唯幻論論」と言う哲学書を書いた。哲学者で心理学者でもある。岸田秀の思想とも似て居ますね。押井監督は彼と吉本隆明が好き見たいですね。押井監督が「イノセンス」でカンヌ映画祭に行った時に取材陣から、インタビューされて。彼がラカンやらカント。またはハイテッガーの話を、映画論に混ぜて言ったら。インタビュアーたちが。「あなたは映像詩人で哲学者なんですね」と感心して居た事を私が持って居る「イノセンス」のメイキングDVDで見て居ますよ。今からもう14年ほど前ですけどね。
愚痴を言わないと言う事は努力の産物であり。不運は不運として受け取った後で、諦める事なく。自分には何が出来るのかと考え、それを実行に移す。此れは単に愚痴を言うのとは違って。ずぅーと労力を使う知的な行動です。周囲の人たちとは、違った考え方をするのですから。私には大変ですね。また楽天主義者に比べて。悲観論者はボキャブラリーがずぅーと貧弱だそうです。また語彙を知らない人は、すぐに暴力に訴えると言います。または悲観論者で、語彙を知って居るものは。相手に向かって、それを是でもかとぶつけて来ます。そして今だに此のblogを書き換えて居るgooの会員のバカな人。もう私は相手の本当の名前とかも色々と聞いて居るのにね。人間とは厄介な生き物ですね。
夢をお出迎えする少女 紅い眼鏡
今回のテーマはずばり「古着」です。古着と言いますと、皆さんこんなイメージを持たれる方も多いんじゃないでしょうか。
「ファッション上級者が来て居そう.....。.自分には無理」「なんだか野暮ったく見えそうで嫌だ.......。」確かに、古着って何だかハードルが高いイメージがありますよね。新品に比べるとサイズもワンサイズだし手を出しにくい......。でも、心配ありません!そんな古着ですが、ちょっとしたコツさえ押さえれば着こなしの幅を一気に広げてくれる魔法のアイテムなんです。
◆そもそも古着とは??
ファッションにおける古着とは、実は2種類あります。①ユーズド物いわゆるブランド古着と言われるもので、KindさんやRAGTAGさんと言ったお店が代表です。これらは比較的新しいブランドものを扱うショップで、純粋な中古という概念に近いかも知れません。② 古い時代の物。此方が今回のメインテーマであるヴィンテージ古着です。ヴィンテージ古着とは、その名の通り数十年前に着られて居た服飾品の事を指します。是等の多くはお店のバイヤーさんが直接アメリカやヨーロッパに買い付けに行って来て、輸入して居るものです。都市部では原宿、下北沢、吉祥寺、中目黒などに店舗が揃って居ます。今回は此方を紹介して行きたいと思います。 ◆古着の魅力では、そんな古着のメリット・良さってなんなんでしょうか??そんな疑問が頭に浮かぶと思います。古着の魅力は大きく3つあります。
①なんてったって安い!古着の代表としてラルフローレンのシャツなどがあります。此方新品ですと、 だいたい15,000円くらいでしょうか。これが古着ですだいたい4分の1程度の4,000円から5,000円で手に入れる事が出来ます。他にも大学生には根強い人気があるドクターマーチンのブーツなども、定価の3分の1程の1,0000円から手に入れる事が出来ます。
②すべてが一点もの/古着好きの間でその心を捉えて離さない魅力として、一点ものであると言う点が挙げられます。もともとがアメリカやヨーロッパで大昔に着られて居たものであるため、現在は市場に流通して居ないものが殆んどです。その為、「街を歩いてたら同じ服の人が!」と言う事や、「友達と遊ぶときに服が被ってしまった!」と言ったトラブルとは無縁です。また、そんな貴重な一着に偶然出会えたと言う喜びも、古着の醍醐味と言えるかも知れません。
③こなれ感を演出できる/此れも大きな魅力の一つです。新品も、勿論恰好いいですが、経年劣化ゆえの独特の風合いや味…そう言ったものに惹かれる人も多いです。なにより古着をさりげなく取り入れて居る人は、ファッションに対して気を遣ってるんだなって言うのが伝わって来ます。 ◆着方について。しかし、そんな魅力が沢山の古着ですが、先ほど書いた通り「難しそう…」「野暮ったい…」と言ったイメージがあるのも事実です。が、安心して下さい。ちょっとしたコツさえ掴めば、まったく問題ありません。それがこれです!
1、コーデに1つだけ取り入れる②キレイ目なアイテムと合わせる/この2つは野暮ったいイメージを払拭するのに最適です。 例えば、キレイ目なジャケットに、古着のスラックスを合わせたり、靴だけ取り入れたり…。新品のシャツに古着のスウェットをレイヤードしたり…どこかに1アイテムだけ取り入れてあげると、オリジナリティが出てよりこなれた印象になります。
2、トレンドアイテムを選ぶ/トレンドと言うと古着と全く正反対の印象を持ちますが、実は古着にもトレンドがある事が殆んどです。バイヤーの方が日本に輸入する際、売れそうなものを中心にセレクトして来る事も多いからです。例えば今でしたらショートパンツや、スニーカーなどですかね。古着でも今っぽいアイテムを選ぶ事によって、すんなり普段のコーディネートに溶け込ませる事が出来ます。また、サイズの心配をされる方も多いですが、日本人のサイズ感に合ったものを選んで輸入して来るので、意外に気にならない事が殆んどです。 以上が古着を取り入れる際に気をつけるポイントになります。「最近コーディネートがちょっとマンネリ気味かも…」「人と被らない服がほしい。でも目立ちすぎるのはちょっと…」そんな方はぜひぜひ古着にチャレンジしてみて、プチ個性を演出して見て下さい!!
【vintage】上品な古着の着こなし〝クラシックファッション〟のコーデ紹介。
===『古本雑学』===
古本屋。それは本好きが最終的に行き着く処、ある意味で象の墓場のような場所である。私の「古本屋」体験を語りたい。「町の本屋」を取り上げた時、私の「本屋」体験を書くと。新宿にある紀伊国屋書店と言う本屋へ通って、漫画を入り口とし映画批評を読むようになった。紀伊国屋の芸術欄の棚から、ほぼ、其の儘。映画関連の本が数冊、私の部屋の本棚へ移った。
その頃になると1人で街歩きをする事が増えた。気になる場所が出来た。紀伊国屋書店とは、ちょっと趣の違う本屋だ。表にワゴンがあって、どっさり本が積み重ねてある。中へ入ると、独特の匂いがする。古くなった紙の匂いだ。棚に並んでいる本は、紀伊国屋書店の様にぴかぴかではなく、褪色して居る。この店は、いわゆる古本屋だった。「一誠堂」と言った.....。
そこには新刊の本屋や図書館にもない本が置いてある。しかも本を買うばかりか、売る事が出来た。私は紀伊国屋で買って読み終えた本を古本屋へ持って行ってお金に換え、そのお金でまた欲しい本を買った。私の家へ遊びに来た友人は、私の本棚は、紀伊国屋書店、古本屋の棚とつながって居て、循環して居る、と笑った。
忘れられない事がある。馴染みになった「一誠堂」で、「ニーチェの全集が出たけれど見るか?」と声を掛けられた。店主が奥から抱えて来た段ボール箱には、1冊ずつきれいにパラフィン紙のカバーが掛けられた全集がおさまって居た。裏表紙には、端の決まった位置に蔵書印が押してある。持ち主は、この全集を大切にあつかって居た様だ。値段を訊くと、私の2ヵ月分の小遣いを少し上回る程度だった。どうしても欲しかった。親に小遣いを前借りして、と思案して居たら、支払いはあとでいい、と言われて、そのまま段ボール箱を抱えて帰った。
新しく手に入れた本のページを繰るときの、未知の世界への扉を開く様なわくわくする感じを愉しみながら、全集をぱらぱら眺めて居たら、何巻目かに1通の手紙がはさんであった。宛名は蔵書印と同じ。つまり、持ち主に来た手紙だ。僕は少し考えて「一誠堂」へもどった。店主に事情を説明すると、預かると言う。その時、私は手渡したいから住所を教えて欲しいと頼んだ。大切にニーチェの全集をあつかって居た持ち主に会って見たいと思ったのだ。いまなら面倒だから、そんな事は考えない。若気の至りと言うしかない。
ほんとうは顧客の住所は教えないのだが、と言いながら、店主は大学ノートを見せてくれた。私は住所をメモして店を出た。その週の日曜の午後になって持ち主の家を訪ねた。私の母親よりも少し年配の婦人が現われ、それは息子の手紙に違いないと上へあげてくれた。居間へ通されると、30歳前後の瘠せた男性が入って来て、「あの全集を買ったのは君ですか?」 と言った。私は手紙を渡して、「中は読んでません、」と言った。すると男性は笑いながら手紙を開けて、便箋を取り出し、こちらへ寄越した。それは白紙だった。私は訳が分からなかった。
「僕は本を大事にする性質でね」と彼は言った。「売った本が誰の手に渡るのか知りたかったんだよ」男性は、ほかの本には、お守りや電話番号を記したメモや、さまざまなものをはさんでおいたのだと言う。どうやら届けに来たのは、私が最初らしかった。「そんなに大切な本なら、どうして売ったんですか?」と訊く私に。男性は一瞬の沈黙のあと、自分は死病に罹って居て、もう長くないのだ、と言った。私が返す言葉に詰まって居たら、
こともなげに、「嘘だよ」と笑った。
男性は、大学の法学部を卒業して、司法試験を受けたのだが、10年間、不合格だったので諦める事にした、勉強漬けの日々を送って来たのでしばらく旅に出たい、その費用に充てるため、蔵書を売ったのだ、と言った。その後、私はココアをご馳走なり(このとき初めてバンホーテンのココアを飲んだ)、ニーチェについて話し込んだ。男性は精妙な二ーチェ論を語ってくれて教わる事が多かった。その日以来、彼とは会って居ない。長い旅に出たのか、それとも実は死病に罹って居るのが本当だったのか、今となっては分からない。ただ、私は、それからニーチェ全集を開く度に、男性と一緒に意見を交換しながら読んで居る様な気がした。
他者と共に作品を読む感じ――これは私に取って、古本を読むことの大きな愉しみだ。だから、買い求めた古本に、ページを折って耳がつくってあったり、傍線が引いてあったり、書き込みがしたりしてあっても気にしない。むしろ歓迎する。勝手の持ち主の意見に耳を傾け、共感したり、批判したり、言って見れば1人読書会を愉しむのである。せっかく見つけた本は、雑音に邪魔されず、ひとり静かに読みたいと言う向きもあるだろう。それもまた、古本を読む愉しみだ。古本には、さまざまな愉しみ方があるのだ。
蒼い影 原田芳雄
あ〜、古本屋へ行きたくなって来たな。でも、今日は外に出るのも面倒……。眠たくなったので眠ろうかと思ったが。あれと思い『本の雑誌別冊16。古本の雑誌』。を読んで見た。此の本は、全国のすぐれた古書店を案内したり、古本屋の開業の仕方を指南したり、谷根千(谷中・根津・千駄木)で始まった1箱古本市の出品者の紹介をしたり、本探し探検隊による古本探索の実験があったり、古本をめぐるさまざまな話題が愉しめる。椎名誠の名作エッセー、『さらば国分寺書店のおばば』の再録もある。
種村弘の「西荻セット」と言う記事は共感出来る。「中央線沿線には魅力的な古書店が多い。」と言う訳で、この本の筆者は自分が暮らす西荻のいい古本屋と、その近くの飲食店をセットにした散歩コースを幾つか持って居る。そのうちのひとつ。
「なずな屋」(注・古本屋)の独特な空間の中で、流れる奇妙なBGMを聞いて居ると、ほろほろと自由な気持ちになってくる。現代社会の枠組みから少しくらい外れて居てもそれなりに楽しく生きて行けるぞ的な感覚が活性化される様だ。(中略)そこから徒歩数十秒の処に珈琲がおいしい「どんぐり舎」(「どんぐりや」と読みます)がある。実に落ち着く雰囲気。どの席にもすっぽりはまり込む事が出来る。西荻友達の平松洋子さんによれば、ゲラ読みに煮詰まった時も、ここのテーブルに坐ると魔法のように仕事がはかどる、との事。そう云えば物書きっぽいお客さんも多い様だ。
植草甚一は、古本屋巡りで得た収穫をジャズ喫茶で確かめるのが愉しみだった様だけれど、私も同じだった。若い頃に暮らして居た街には、ジャズ喫茶は無かったが、新宿のジャズ喫茶「サムライ」などのおいしいコーヒーを出す喫茶店で、買ったばかりの古本を味見するのは何よりの快楽だった。この記事を読んで居ると、その時の気分がよみがえる。
さて、冒頭で、古本屋は本好きが最終的に行き着く処、と書いた。そこへ辿り着いて、ただの本好きがこじれると「古本者」になると言う。どう言う存在か?「座談会 古本者人生すごろくを作ろう!」でkashiba@猟奇が語るのをまとめると、こうだ。古本者も、もとは単なる本好きである。処が好みの作家やジャンルが出来て読み続けて居るうちに、新刊を置いた本屋や図書館では手に入らない本がある事に気づく。そして、古本屋に辿り着く。やがて新刊よりも高額な「古書」を買い求める様になり、その費用を捻出するた為、新刊も「新古本」で買う様になる。蔵書が1000冊を超え、ひとつの本棚に収まり切ら無くなる。
就職すると、自分のお金が出来るので、ネットで買ったり、大人買いをしたりする。さらに蔵書が増え、オークションで処分する。翻訳本が出るのを待てずに、せっせと語学を学び、原書に手を出す。すると、対象の「古書」が増え、蔵書が10000冊を超える。結婚。妻の居場所を作る為に1部屋分の蔵書を処分する。子供が出来る。子供の居場所を作る為に、また蔵書を処分する。しかしそれでも蔵書の重みで家の床が抜け、離婚される(笑)。心の隙間を埋めるために大人買いを繰り返し、また蔵書が10000冊を超える。
古本者の末期症状は、①古本の本を「本の雑誌社」から出版する(笑)。将来、値の上がりそうな少部数の同人誌を編集する。②編集者になって、勝手高額で手の届かなかった絶版本たちを「浄化していく」(復刊すると言う事ですかね)。③「角川横溝文庫」、「創元旧整理番号」などで、新しい市場を創り出し、「古本者」を相手に荒稼ぎする――。
その後のなりゆきは『本の雑誌別冊16・古本の雑誌』を読んで下さい。古本の世界は、実に奥深い。あ〜〜。元気が出たら。やっぱり古本屋へ行こう!
大人気古書店「ポラン書房」に潜入!【スケザネの書肆探訪】【古書店】【スケザネ図書館】
古書好きの本棚紹介
〜〜『懐かし映画劇場』〜〜
『ミスター・ノーボディ』(原題:Il mio nome è Nessuno / My Name is Nobody)は、1973年制作のマカロニウエスタン(イタリア。フランス。西ドイツ合作)。
マカロニ・ウェスタン・ブームの末期に制作され、“最後のマカロニ・ウェスタン”と呼ばれて居る。
原案・製作総指揮はセルジオ・レオーネ監督はその愛弟子のトニーノ・ヴァレリだが、DVDのジャケットやレオーネの発言によると、冒頭の早撃ちやクライマックスの決闘などのアクションシーンはレオーネが演出したとされており、キャストのテレンス・ヒルもインタビューで認めて居るが、ヴァレリはこれを否定して居る。
本作でヘンリー・フォンダが演じるジャック・ボレガードは、音信不通となった弟を探してアコマの墓場に行き着く。そこでテレンス・ヒル演じるノーボディは、ひとつの墓標を見つめながら「サム・ペキンパー、ナボハ族にしちゃいい名だ」と語る。
「昼下がりの決斗(1962)」「ワイルド・バンチ(1969)」などで知られ”最後の西部劇監督”とも称されるサム・ペキンパーは、本作の製作・原案を務めるセルジオ・レオーネとの間に、浅からぬ因縁があったと言われて居る。
1970年頃、レオーネは次回作「夕陽のギャングたち(1971)」の監督をペキンパーに依頼したものの、実現せずに自らメガホンを撮る事となった。その理由をレオーネは「映画会社の反対」と説明したのだが、同作の脚本家の一人であるルチアーノ・ヴィンチェンツォーニは「断りを入れたのはペキンパー自身だった」と 明かし、さらにレオーネは本作でペキンパーの名を墓標に刻み”自分の方がペキンパーより優れて居る”と言う思いを表した」と証言して居る。真相は分からないが、この作品に「ワイルド・バンチ」を登場させ、ペキンパーが多用したスローモーションを採り入れるなど、レオーネがペキンパーを強く意識していた事は 批評家たちの一致した意見となって居る。
(マカロニウエスタン傑作映画DVDプロダクションノートより)
✳︎ストーリー
派手な逸話を持ち西部で名を馳せ、無頼で無敗の早撃ちガンマンのジャック・ボレガードは功名心狙いで追われる日々と高齢を理由に足を洗い、ヨーロッパで静かに余生を送る事を決意。過去に取りそこねた報酬を奪い戻すため西部を放浪しつつ、ヨーロッパ行きの船に乗る為、ニューオリンズに向かう。その道中、ジャックの前に西部の何処にでも居そうな陽気で若い風来坊の男が現れる。彼は自らをノーボディ”誰でもない”と名乗り、ジャックの最期をこの目で見届けたいと付きまとう。
ジャックはノーボディに付きまとわれた末に、大物のジャックを亡きものにと追いかける150人のワイルド・バンチをジャックは単独で迎え撃ち、苦もなく撃退。先を急ごうとするもノーボディはどこまでもついて来る。そして2人は遂に最後の対決を迎える事になる。芝居の決闘に敗れたジャックは表向き死亡扱いとされ、今や過去の人となったジャックは密かに船上の人となりノーボディに送る手紙を綴る
ミスターノーボディ - Il Mio Nome E' Nessuno
ミスター・ノーボディ.flv
此の映画を見たのは1983年の日曜洋画劇場放送時でだ。当時購入したばかりのハイファイビデオでCDカットしながら録画しました。この映画はマカロニ・ウエスタン終焉前の最後の傑作だろう。レオーネ、ヘンリー・フォンダ、モリコーネの最後のウエスタン・ドラマの秀作。テレンス・ヒルはトーマス・ミリアンに無いカッコ良さがあり、ジェンマにはないユーモアのセンスがり、F・ネロにない人間味がある。この映画はウエスタンのパロディであり、かつ消え行く西部のアウトロー達への挽歌でもある。モリコーネのスコアは彼のキャリアでもベスト・テンに入る出来。昔ビデオに録画したものをよく観たけれど、今DVDで繰り返し観ても充分面白い。ノーボディの明るさ、若造VSベテランという普遍的なテーマ。軽快なテンポに覚えやすい音楽。
今のゴールデンタイムでの放送にも耐えられるのでは無いかと思う。ちなみにTV吹き替えは二種類あって、DVDに収録されている広川・柳生版より津嘉山&瑳川版の方が好み。初老のガンマン、ジャック・ボレガード(ヘンリー・フォンダ)が、老眼鏡をかけ、2挺のウインチェスターを持ち、150人のワイルド・バンチと対決するシーンは、何度見てもやはりカッコいい。ノーボディ(テレンス・ヒル)との友情もいいなあ。ベニート・ステファネッリ、R・Gアームストロング、ピエロ・ルッリ、ジェフリー・ルイス等、脇役も味のある役者ばかりでうれしい。ふと思い出して見たくなったりする傑作です。
『汝の名を何と呼ぶか?』―『ミスター・ノーボディ』
主、悪霊に憑かれたる人に問い給う、「汝の名は何か」
彼は答えて、「我が名はレギオン。われらあまたなるがゆえに」 (新約聖書 マルコ福音書 第5章第9節)
一神教であるキリスト教徒にとって、数多(あまた)なる存在は悪だったのでしょうか。ケルト人が信奉する古代ドルイド教はキリスト教に融合され、彼らの信じるあまたの神々の痕跡はハロウィーンにその名残を留める事になりました。万聖節で異教徒の神々を敬うのは、キリスト教徒の後ろめたさから生まれた習慣なのかも知れません。八百万(やおよろず)の神々を信じて居たのは我々日本人やケルティックだけではなく、北欧神話にも個性的な神々が多数登場します。中でも天翔ける女神たちワルキューレは、ワーグナーのオペラ「ニーベルンゲンの指環」で取り上げられ、『ミスター・ノーボディ』の“ワイルドバンチ”登場時に、そのメロディがちらりと出てきます。レギオン…“悪霊”と訳される事が多いのですが、その意味する処は“大勢”です。フランス外人部隊の事を“LA LEGION ETRAGERE”と呼びますが、“軍隊”の語源は此処から来て居るのですね。肺炎を引き起こすレジオネラ菌も、退役軍人の間に感染者が増えた事からその名がつけられました。
二挺のカービン銃と共に、総勢150人もの“大勢の悪”ワイルドバンチにたった一人で立ち向かうジャック・ボレガードの勇姿は、ハリウッドに代表されるメジャー映画会社、巨大資本に対抗するヨーロッパのインディペンデント監督を重ね合わせる事も可能です。しかし、此処では、ロングコートに煌めく鞍を持つ…。ワイルドバンチ一味と同じ格好をした一人の若者。全てを仕掛け、機関車の上から一部始終を眺めている傍観者に、語りかけて見たいと思います。「WHO ARE YOU?(お前は何者だ)」…『ウエスタン』で“ハーモニカの男”に名前を聞き続けたヘンリー・フォンダは、本作でも“大勢”の代弁者であるノーボディに名前を問い質しました。彼は質問に対し、答えます。「NOBODY(誰でもない)」。
マカロニ・ウエスタンの特色として、“主人公の匿名性”があります。ハードボイルドの必須条件ですね。原題では「~と呼ばれた男」「彼らは俺を~と呼ぶ」「奴の名は~」と主人公のニックネームばかりが連呼され、「名前の無い」寡黙な主人公の何と多い事か。それが、ガンマンの逆説的なアイデンティティの証明となって居るのです。“大勢”の代弁者にして、無名・匿名の“群れ”の中から現れた一人の若者。彼が“個”であるボレガードとコミュニケーションを深め、最後に「SOMEBODY(個)」に成り代わるサクセス(?)ストーリーが、本作のアウトラインです。
彼らの腰に目を落として見ましょう。唯一の共通点であるコミュニケーション・ツールがぶら下がって居ます。時代が新しい波に飲み込まれ様として居る時、彼らのホルスターに共に収まって居る銃は、どちらかと言えば旧式なコルトM1851ネービー。彼らの間でこの銃は、インターフェイスとしての役割を担って居るのです。ビリヤードで球を“撃ち合う”場面を思い出して下さい。会話以上に銃のやり取りの方が雄弁ではありませんか。
本作において製作者であるセルジオ・レオーネは、『荒野の用心棒』で“コルト対ウインチェスター”の名場面を作り出した生粋のGUNマニア。続く『夕陽のガンマン』では、前作で稼いだドルをつぎ込み、より多くの珍しい銃器を登場させました。『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』でその傾向はさらに加速、カートリッジ・コンバージョンのコルトM1851ネービー、レミントン・アーミー、スペンサーライフルにリボルビング・カービン、タイプの異なる複数のガトリングガンまで持ち出します。
監督のトニーノ・ヴァレリも黙ってはいません。デビュー作、『さすらいの一匹狼』でテレスコープ付きM66、『怒りの荒野』ではドク・ホリディの銃を登場させて物議をかもし、“馬上の先込め銃対決”“ガンマン十ヶ条”など、数々の名場面を作り上げました共にGUNにうるさい二人のコラボレーションとなるのが、本作であります。順番に銃器登場シーンを見ていきましょう。
タイトル直後。レッドが撃ちまくる銃は、ウインチェスターM1897です。マカロニには滅多に出て来ませんが、此処のシーンはアメリカ・ロケですので登場出来たのでしょう。サム・ペキンパーの名作『ワイルド・バンチ』で活躍した散弾銃です。続くシーンで、ワイルド・バンチ一味の首領が腰に下げてるのは、ウインチェスターの銃身・銃床を切ったメアズ・レッグ。それも、とても珍しいM73ベースのものです。ロングコートに“カットダウン・ウインチェスター”…。レオーネの『ウェスタン』冒頭に出演した黒人ガンマン、ウッディ・ストロードを思い出しますね。
この映画は銃の登場シーンひとつ取っても、色々な映画に対するオマージュを感じさせます。“ワイルド・バンチ”とは実在した無法者集団で、別名“壁の穴ギャング”とも呼ばれました。悪事を行う時はその都度メンバーを組み替え、1896年にキャシディ・ポイントに集まった際は200名以上。当局と一戦交え、退却時に総勢75名でワイオミングを通過するのを、当時の地元新聞が報道しています。彼らとの対決にジャックは二挺のカービン銃を用いました。一挺は、マカロニにはよく出てくるウインチェスターM92。もう一挺は、珍しいM73です。老眼鏡をかけ、タンジェント・サイトを立てながら狙いをつけるジャックが滅茶苦茶格好良いですよ。
そして、ついに二人の決闘の時がやって来ます。ニューオリンズで向かい合う二人の銃は、共にコルト・ネービー。互いの共通の価値観の象徴です。ノーボディの銃はオーソドックスなカートリッジ・コンバージョンですが、ジャックのものは彫刻が施され、年季の入った高価そうなカスタムガンです。イタリア人はこの銃が大好きです。『続・夕陽のガンマン』から始まり、『黄金無頼』『血斗のジャンゴ』『荒野の三悪党』『風来坊/花と夕日とライフルと…』『風来坊Ⅱ/ザ・アウトロー』『自転車紳士西部を行く』…。おびただしい作品に登場します。あれ? 何だかテレンス・ヒルの作品が多いですね。
ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の土地の悪霊に憑かれた人は、墓場を住み家として居たそうです。彼はイエスと対峙して悪霊から解放され、「家族のもとへ帰れ」と諭されました。本作では、ジャック・ボーレガードが海路へ旅立って行きます。“ワルキューレ”の名には、「戦士を運ぶ者」と言う意味がありました。北欧神話の女神たちは、戦場で闘って死んだ英雄の魂を運ぶのが仕事だったのです。ジャックは正に、墓場で帽子を撃ち合ったノーボディによって英雄に昇華され、“開拓者たちの故郷”ヨーロッパへと運ばれて行った事になるのです。

〜『私が踊り続けるわけ ~53歳のストリッパー物語』~
星愛美、53歳。年間を通して全国のストリップ劇場を巡業して居るストリッパーの中で、日本では最高齢と言われる。彼女のステージは、若い踊り子も圧倒されるほどエネルギッシュで、迫力に満ちて居る。普通なら、引退して居るはずの年齢である彼女は、なぜステージに立ち続けるのか…
10代で落ちこぼれ、社会に反発して居た少女はやがて、AV女優、ストリッパー、ホステスなどの職業を転々とするうちに、がんを患い7年もの闘病生活。再び働ける体になった時に、再び選んだ仕事がストリッパーの道だった。
そんな彼女が魂を込めたステージは男性だけでなく、若い女性をも魅了する。見て居ると「幸せになる」…何時しか、愛美が出演する全国のストリップ劇場を追いかけ愛美をサポートする「星組」と言うファンのグループも出来た。愛美は、ファンの為にステージに立ち続けたいとは思うものの、年齢による衰えや股関節の激痛、新型コロナへの恐怖などで限界を感じ、引退すべきか苦悩する。しかし、それでも愛美には、ストリッパーを辞めない深い訳があった…。
『ザ・ノンフィクション』ナレーション原稿に涙
女優の本仮屋ユイカが、フジテレビのドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』(毎週日曜14:00~ ※関東ローカル)のナレーション収録に臨んだ。担当したのは、7日に放送された『私が踊り続けるわけ ~53歳のストリッパー物語~』。日本最高齢と言われるストリッパー・星愛美さんを追った作品だ。 【写真】日本最高齢ストリッパーの星愛美さん 「星組」と呼ばれるファンたちとの交流が描かれており、その絆に、事前の下読みでも涙がこみ上げて来たと言う本仮屋。そこには、自身の思いと重なる部分があったと言う――。
■“皆んな絶対つながってる”と言うメッセージ 本番の収録も、涙が出そうになる感情を抑えて読んで居たが、特に印象に残ったのは「ファンの方が愛美さんを凄く愛して支えて居る姿です」と振り返る。 「愛美さんの周年記念イベントでファンの方が差し入れを持って来たり、『これは踊り子さん用のカレー』と言ったりして、ディレクターさんが『そんな事までするんですか!?』と驚いたら、『やるよ、僕らはね』って。このひと言に、もう泣けてしまったんです。愛する自分の“推し”の為に、誰にも強要しないけど、自分のスタイルでやる事に誇りを持って居て、それを大の大人たちが皆んな楽しんでやって居て…。そこに凄くグッと来ました」
本仮屋ユイカが涙!『ザ・ノンフィクション』で53歳のストリッパーの物語のナレーションを担当
愛美さんが出演する全国のストリップ劇場を追いかけ、彼女をサポートする熱烈なファンのグループ「星組」。その姿を見て、「私にも、顔と名前が一致して、何時もどうしてるかなって思うファンの方が沢山居るので、その方たちと星組の皆さんとが重なりました」と言う。 「応援してくれるファンの方って、皆さんが想像して居る以上に支えになってるんですよ。 ドラマの撮影現場で『頑張ってね』って手を振ってくれた人の顔とか、Twitterでつぶやいてくれた人とか、小さな事かも知れないけど、私たち出る方に取ってはそれが物凄い宝なんです」 それだけに、「愛美さんが本当に生きる事、踊る事全てに愛を注いで居る姿に、自分も同じ様に表現する立場の人間として、とても心動かされました」と共感。
「愛美さんの事をしゃべって居るのに、自分がファンの人に伝えたい事や、自分が活動する中で視聴者の人に届けたい事を言ってる様に気持ちが重なるナレーション原稿も結構あって、素晴らしい機会に立ち合わせていただけたと、本当に感謝して居ます」と感激の様子だ。 そして今回の番組には、こうした出演者とファンとの関係への共感にとどまらず、すべての人に当てはまる要素があると語る。 「人は人を支えて居るし、支えられてるんだなって言うのを、凄くこの作品で感じました。やっぱり今、こう言う世の中で皆んなが大変なのに、うっかりすると自分だけが大変だと思ってしまうし、この不安をどうすればいいのかと、やるせない気持ちになってしまいがちだと思うんです。
それに対して、“皆んな絶対つながってる”という温かいメッセージがずっと流れて居る番組だと思うので、観劇やエンタメと縁遠い人でも、人の温かさや思いやる力強さと言うのを感じていただける時間になると思います」 ■「女の人の体って、なんて美しいんだろう」 「私はストリップと言う世界をあまり知らなかったので、最初に愛美さんの肌が大きく出ただけでドキッとして『見ちゃいけない!』って思ってしまったんです」と言うが、映像を見て慣れて行くにつれ、「女の人の体って、なんて美しいんだろう」と感じたと言う本仮屋。 「自分も持って居るものなのに、ああやって画面越しに見ると、肌を人にさらす仕事をされて居るプロの方の体って、きれいだなあと思ったんです。愛美さんの魅力って、全力であると同時に、全部をさらけ出す勇気と純粋無垢な処だと思うんですよね。
それに対して、私は自分でも気づいて居ない隠して居る処がきっとあるんだろうなと思ったので、そこを認めてもっと表現して行きたいなと励まされました」 ストリップが男たちの“秘密の楽園”と言うのは、今や昔の話。「星組」には女性ファンもおり、愛美さんの“全力でさらけ出す”姿勢が多くの人を魅了して居る事を裏付けて居る。 そんな愛美さんの姿を見て、「こんなに素晴らしい番組だから、その良さを伝えなきゃと気負う部分もあったんですけど、そうじゃないなと思いました。彼女は本当にすべての人に対してオープンで、自分がやれる事に全力を尽くして居る姿が美しいので、今回のナレーションも彼女の“生き様”の様な軸を持って自分のナレーションをしようと思ったんです。すでに今、その影響を頂いて居るので、この先もそう言う軸を持ちながらやって行くんだろうと思います」と、自身の今後の活動にとってプラスになった様だ。
私の感想はいいでしょう。彼女が皆んな言ってくれたから。私も見ながら涙が溢れて来た。ストリップは男の好色なものでは今や無いのですね。一つの芸術的表現なんですよね。だから女性の客も見に来て居る。お客が皆、星さんのストリップを見て泣いてるんですよ。そして星さんと言うストリッパーが。がん患者を最後に励まして。ジャンバーと手紙を挙げて、その患者が電話を掛けると優しく「頑張って...。」と言う、最後のシーンに胸が詰まった。職業に貴賎など無いのです。ナレーションの女優さんがナレーションの途中で涙声になって居た。彼女のナレーションも良かった。いいドキュメンタリーだった...。
- ===「真摯に生きる。ドラッカーの思想」===
何故、我々はドラッカーの原理原則を学ぶのか(本当の幸福について)
「真摯」の意味は「まじめにものごとを一心に行うさま」
「真摯」は「まじめにものごとを一心に行うさま」「熱心にひたむきなこと」と言う意味を持つ言葉です。「真摯」の「真」には「誠意」の他、「嘘がない」「混じりけがない」と言う意味があるため、「摯」の持つ「誠実」「まじめ」の意味をさらに強調して居ると解釈出来ます。「真摯」はやや硬い表現として使われる事が多いですが、「まじめ」で「ひたむき」と言う意義では「一生懸命」「一途」「本気」など、ごく一般的な言葉で言い換えをする事が出来ます。その他には「一筋」「生真面目」「熱誠」、またカタカナ語では「シリアス」なども類語として挙げられる事が出来ますね。
「真摯」の対義語は「不誠実」「不真面目」
「真摯」の対義語は「まじめではない」「浮ついている」「責任感がない」と言ったニュアンスを持つ「不誠実」「不真面目」「無責任」などが挙げられます。相手に不快感を与えるような軽薄な言動や怠惰である事を示す言葉が「真摯」の対義語として妥当であると言えるでしょう。
また、四字熟語なら「軽佻浮薄(けいちょうふはく)」が「真摯」の対義語として使われる事があります。
ドラッカーは言います。
リーダーは真摯でなくてはならない。真摯さは、生来人間が持って居なくては成らないものである。真摯で無いものに、リーダーの資格はない。
真摯さとは何でしょうか?
誠実さ、真剣さ、素直であること。
様々に訳されます。
真摯であるとは、自分自身に誠実であること。自分の心から大切だと思う事に誠実に日々生きる事なのです。
あなたが大切にしているものは何ですか?
あなたの魂が大切に求めているものは何ですか?
真摯さ、あなたがあなたである事が、この世界で一番大切な事です。
真摯さの延長に思想なりビジネスを置く時に、生き様やらビジネスは無限の力を得ます。
その思想やビジネスは、あなたの人格の延長であり。あなた自身になるからです。
あなたと言う、地球上に唯一無二の存在、人格、人間性からあふれ出る風韻があなたの生き様やビジネスになるからです。
日々、真摯に共に生きましょう。
真摯とは、自分の価値観を大切に、自分の価値観を裏切ることなく、自分に誠実に自分自身の可能性と成長を信じ抜いて生きる事。
あなたがもし組織のリーダーである事は。
あなたが唯一無二の可能性をもって居ると言う事。
ブッダが言った天上天下唯我独尊。
あなたと言う価値は、この時代、今のあなたにしか存在しないのです。
あなたの価値を最大に意識して
最大に自己の潜在力を爆発させて
共に偉大な仕事を成し遂げましょう!
皆さん、コロナの下、各自各々の目標にチャレンジし
日々邁進しております。
共に挑戦し、真摯に、誠実に今日一日を生きて。実り豊かに眠りましょう。
ドラッカーを学ぶことは、経営の、人生の原理原則を学ぶ事です。
あなたの魂の肥やし、軸となりどんな時代にも揺らがぬ、リーダーの信念となり高い帆をあげ、あなたの人生に、最大の挑戦をさせてくれます。
ドラッカーの思想を学びましょう。共に、ドラッカーを学び、人生の新たな奇跡に記念すべき次のステージに 挑戦しませんか?
ドラッカーの扉は、今、あなたに拓かれています。
「真摯」は英語で「sincerely」
「真摯」を英語で表現するときは、「真摯」をどの意味で使うかによって適切な単語が変って来ます。たとえば「真摯(一心に)に」なら「sincerely」「in a serious manner」、「真摯(まじめ)な議論」なら「serious discussion」、真摯(ひたむき)な努力なら「sincere effort」などになります。
「真摯」を使った英語表現
「真摯」を使った英語表現を3つ挙げてみます。
- 彼はとても真摯な人である。
He is such sincere person. - I have attended the meeting with sincerity.
真摯な気持ちでミーティングに参加した。 - My boss seemed to have accepted my sincere remorse somehow.
どうやら上司は私の真摯な反省を受け止めてくれたようだ。
今回は此処までです。次回調子が良くて書く暇があったらまた逢いましょう。それではまた。。。