今、調子が悪くて、皆さんのblog記事を読みに行けません。すみませんが私の意を汲み取って大目に見てやって下さいね。今回のblogは短いと思います。だけども多少蘊蓄を垂れて居るかとは思いますが。皆さんにも為になる事ですので読んでやって下さいね。宜しくお願い致します。そしてこのblogを改ざんして居る人へ、あんたが改ざんして居る所から足が着くんだよ。解ってやって居るのか、あんたの名前を書こうか?書いても良いんだな?あちこち見て改ざんして居るな。。。。忠告はしたぞ。。。
昭和の女優さん、、、
私が昔から好きな女優、風吹ジュンさんです。

60歳廻って居るのにこのかわゆさ・・・・・。
風吹ジュンさん、テレビCMの「メイキング動画」
山本リンダさんも昔から好きな女性でした。。。。
こまっちゃうナ 山本リンダ
私が好きな青木志貴ちゃん。。。
志貴ちゃんが珍しくおなごっぽい格好をして撮った写真があったので此処に貼って置きます。
志貴ちゃん、ごめんね。許可を取って居ないのに君の写真を上げてしまって。
【PRADA】久々のハイブランド購入品紹介!
今日の夕食。。。野菜炒め定食に餃子を食べた。こんな贅沢ももう1年半ぐらいで出来なくなりますよ。
私は主治医に文句を言いたい。まあ、来月の7月5日が病院の診察日だけど。毎日眠くて何も出来ない。ついにこのblogさえも出来なくなってしまって居る。前に何も出来なくて困ると言ったら「別にいいじゃない?」と言われた。「何が別にいい」のだ。私の残りあればの話だが10数年はどうなるのだ。私はいい事なぞ20歳廻ってから殆んど無かったのだ。それを何も知りもせずに良くも言えた!!。大体が眠たいだけでは無い。体中に蕁麻疹が出来。頭の中やら、局部までかゆいのですよ。そして私はEDです。男として機能しない。その事を前に言ったら「へっ!けっ!」と主治医から罵倒された「てめえが出して居る薬。処方して居る薬でなってるんだバカヤロー!!」と言いたかった。私の人権はどうなるんだ!!このblogだって相変わらずに書き換えられて居る。一文字だとか判らないだろうと思ってやって居るのだろうけど。私は全て解って居る。そして誰が書き換えて居るかも解って居るのだよもう!!
だからやって居る人間は調べてあるし名前ももう解って居る。やって居る人に言いたい。あんた、ニュースを見たか?一昨日か警視庁が直属のサイバー警察部門を直属に持って大掛かりな捜査をすると言って居ますよ。そして警察からの情報として、このblogを書き換えて居る人の名前が解ったのです。以前、私のこのblogに書き込みもした人ですよね。これ以上やるようならば本格的に警察沙汰にするし。私はやって居る人の電話番号を調べて、あなたの連れ合いに言いますよ。私がどんな状態で日々暮らして居ると思って居るんだ!!。
私が以前自分の症状を言って居るのに思い過ごしだとか言いやがって、そう言ったバカ野郎が居た。そして私に「誰でも不眠にはなるわよ。何薬出されて居るのよ!!教えなさいよ!!」と言って来た。だから私は自分の飲んでいる薬を全部ミリ数まで書いて医学的見地から自分の病状を書いて説明した。そうしたら。要約言わなくなった。その女性も軽い睡眠誘導剤とかは出されて居た様だが。自分が私の様な事は無いからと鷹を括って、私に向かって説教を仕出した。何で人は何時もそうなんだ。自分は統合失調症では無いだろうに。何が人の病状も判らずに言えるのだ。大体がその人は、私が「ロックぐらい知らないとね.....。」と言って居たら。「自分の知り合いの女性は。ビートルズもローリング・ストーンズも知らないけど見識を持って居る」と言って居たが、、確かにロックを知らなくても別に差し障りは無いし生きて行けますよ。だがそう言う事がある人が多すぎる。
これは何遍も言うが「土方歳三」を「新撰組」を「司馬遼太郎」を知らない30歳ぐらいの女性が居た。訪問看護師の別な子に言ったら「ただ興味がなかったからでは無いか?」と言ったが。そんな事を言い出したら日本には皇室もあり。天皇陛下も居られる事すら知らないバカが出て来かねない。確かにロックは好みの問題だからいいだろう。しかし日本の歴史上の人物は別だ!!日本人だろう!!ヘルパーのおばちゃんに言ったら彼女はこう言った「バカでしょ。その人!!。小学校。中学で習うわよ、普通.....。」その通りだ。恥を自分で晒していて解っていないのだ。そしてその子は「1970年代なんて音楽は歌謡曲と演歌しかなかったわよ!!」そう言い切った。「最近、長髪が流行ってるでしょう?」と言ったら。「今は70年代。昭和がブームだからよ!!」そう言った。私は1950年代の終わりの生まれだ。1970年代も80年代も90年代も2000年代も生きて来た。私が幼かった頃は1960年代だった。
私はもう、最近幾ら周りに教えても。人の言う事を聞かないので言っては居ないが。ドイツのボン大学の教授で6ヶ国語を話す。マルクス・ガブリエルと言う哲学者に注目して居た。「新実存主義」を掲げて出て来た哲学者だ。まだ30代の終わりか今は40にはなったかな?彼の論理はアメリカのプログマティズムとドイツ哲学。フランス哲学。イギリス経験主義などを取り入れて居ると思う。ある訪問看護師の女の子に言ったら「あら、だって確かマルクスって経済学者が居たわよねぇ〜」と言った。「まねぇ〜〜。常識でしょ」マルクスの話は.....。私は唯物論は確かにいい点もあるかとは思うが如何にも時代にあっては居ない。彼の唯物史観とは、「物質的な生産力や生産関係の変化が、歴史を動かす原動力となる」と言う考え方です。ヘーゲルが「絶対精神が自由の実現に向けて歴史を動かす」と考えたのとは一線を画したものです。
マルクスは、この社会は生産力(生産手段や能力)と生産関係(生産を通じて結ばれる関係。資本主義社会における資本家と労働者の関係など)からなる土台としての下部構造と、制度・文化などからなる上部構造から形成されると考えました。生産力は手段・能力の向上に伴い増大・変化する傾向にありますが、生産関係は、支配階級が現状の維持をねらい、制度によって固定化される傾向にあります。増大する生産力と固定化した生産関係との間の矛盾は,やがて階級闘争という形であらわれます。
マルクスは、この唯物史観にもとづき,人間のこれまでの歴史は階級闘争の歴史であると捉えました。そして,資本主義社会とは、生産手段(原料、道具、土地や工場など)を所有する資本家が、それらを持たない労働者を自らの利益獲得のために搾取し、支配する社会であると考えたマルクスは,この様な社会では、労働者は自らの為ではなく、資本家の為に働かされている状況、すなわち疎外された労働に陥ってしまい、労働者の人間性が奪われると主張しました。ゆえに、マルクスは、労働者の人間性を回復するために、革命によって資本主義社会を打倒し、生産手段を人々が共有する共産主義社会を実現しなければならないと考えたのです。
この思想にヒエラルキー闘争を掲げた学生運動がコミットし全共闘が突き動かされたのでした・・・・。
モーツァルト : ピアノ協奏曲第23番 第2楽章
マルクス・ガブリエルと言えば、最近ではNHKのテレビでも特集がおこなわれ、「哲学界のロックスター」として、日本でも随分と知られるようになった。彼の名前を使った書物は売れ行きがよく、一般の読者層に広がっているように見える。たとえば、社会的な出来事について、インタビュー形式で発言したものがいろいろ出版されているが、これらは「分かりやすい」という声をよく聞く。
彼の「新実存主義」の系列には、「カント、ヘーゲル、マルクス、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトル」が想定されている、と考えられる。
この中で、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトルは通常理解された「実存主義」と関係しているとはいえ、カント、ヘーゲル、マルクスは、いわゆる「実存主義」とは程遠いように見える。カントの普遍的理性、ヘーゲルの民族精神、マルクスの革命的なプロレタリアートは、今まで「実存主義」の対極に位置づけられてきたのではないだろうか。少なくとも、キルケゴールが「実存」概念を独自の意味として提示したとき、ヘーゲルの「精神」概念に対する批判が意図されていたのは間違いない。
だとすれば、「精神の伝統」に立つヘーゲルと、「決断主義」の典型であるサルトルを、ともに「実存主義」として一括りにするのは、かなり無理があるように思われる。そのため、論者の一人であるチャールズ・テイラーがやや婉曲的に次のように語るのは、不思議なことではない。「ガブリエルが自分の立場を指していう『新実存主義』という言葉の使い方をきちんと理解できたかは自信がない。」(87頁)
したがって、カント、ヘーゲル、マルクスを含めて「新実存主義」の系列に置くのであれば、従来の「実存主義」とは違う定義が必要になるだろう。ガブリエルが言っている「人間の心にある制度をつくる能力」から、カントやマルクスやヘーゲルの思想を「実存主義」としてくくってしまう立場は、哲学史的な観点から見てどうなのだろうか。
そもそも、「新実存主義」とは何だろうか。どうして、マルクス・ガブリエルは自分の立場をそう呼ぶのだろうか。
この問題を考えるために、「新実存主義」の主張をあらためて確認しておくことにしよう。彼はこんな風に語っている。
新実存主義とは、「心」という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしないという見解である。(16頁)
あるいは、
新実存主義が掲げる根本の主張は次のようなものである。心的語彙は時代や場所によってさまざまなかたちをとるが、そうした語彙によって拾い上げられる一個の対象(entity)など、この世界には存在しない。(16-7頁)
だが、「新実存主義」のこうした主張も、じつを言えば、あまり分かりやすいものではない。ここで表明されているのは、「心」という言葉(term、vocabulary)が通時的にも、共時的にも多様な意味内容をもつことだ。具体的には、「明らかに物理的なものから現実には存在しない(non-existing)ものまで」、さまざまなスペクトルがあるとされる。そのため、この多様性を否定して、ただ一つの(single)ものに還元することは許されないわけである。
ところが、自然主義は「心」の多様性を認めず、むしろ「脳」というただ一つのもの、つまり「一つの自然種(a natural kind)」によって捉えようとした。しかしながら、「新実存主義」の主張によれば、「人間の心は一つの自然種ではない」と言わなくてはならない。
此処から分かるのは、マルクス・ガブリエルが「新実存主義」を標榜するとき、根本にあるのは「自然主義の批判」である。だが、それは当然なのかもしれない。というのも、表題論文「新実存主義」のサブタイトルが、「自然主義の失敗の後で、人間の心をどう考えるか」となっているからだ。こうして、「新実存主義」の主張がサルトルのような「決断主義的な実存主義」というより、むしろ「自然主義の批判」にあることが明らかになる。とはいえ、どうして「自然主義の批判」が必要なのだろうか。
これを理解するには、『なぜ世界は存在しないのか』で宣言された「新実在論」がどんな立場なのか、あらためて確認しなくてはならない。というのも、マルクス・ガブリエルにとって、「新実存主義」の主張は「新実在論」から導出されるからだ。そこで、「新実在論」に立ち返って、「自然主義批判」の射程を理解することにしよう。
「新実在論」の主張から、どのようにして「新実存主義」は導出されるのだろうか。この問題を考えるために、彼が「構築主義」と呼ぶものをあらかじめ見ておかなくてはならない。というのも、「新実在論」はポストモダンに帰結するような「構築主義」に対抗するために構想されたからだ。周知のことであるが、「構築主義」それ自体は、社会学で「社会構築主義」が一般に論じられているように、取り立てて特別な考えではない。問題は、マルクス・ガブリエルがそれをどう規定したかにある。『なぜ世界は存在しないのか』では、次のように述べられている。
構築主義とは、次のような想定に基づくものです。およそ事実それ自体など存在しない。むしろわたしたちが、わたしたち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、いっさいの事実を構築しているのだと、と。このような思想の伝統の最も重要な証言者が、イマヌエル・カントです。カントが主張したのは、それ自体として存在しているような世界は、わたしたちには認識できない、ということでした。(11頁)
こうしたカントに淵源する構築主義を排して、「私たちが物および事実それ自体を認識することができる」とする立場が、「新実在論」の主張である。しかし、このポイントは、メダルの一面であり、「新」実在論の新しさはむしろ、もう一つの論点にある。これにかかわるのが、「世界は存在しない」という本のタイトルにもなったテーゼである。それを彼は、次のように説明している。
この哲学の出発点となる基本思想は、ごく単純なものです。すなわち世界は存在しない、ということです。(…)いくつかの例を挙げてみるだけでも、わたしたちの住む惑星、私の見るさまざまな夢、進化、水洗トイレ、脱毛症、さまざまな希望、素粒子、それに月面に棲む一角獣さえもが存在しています。世界は存在しないという原則には、それ以外のすべてのものが存在しているということが含意されているわけです。(8頁)
やや単純化して言えば、「世界」は「あらゆる物や事実」がその中で現われてくる最も大きな領域と考えられている。この規定で念頭に置かれているのは、自然科学で想定される「宇宙」よりも、「世界」の方が大きいことだ。「宇宙」はむしろ、「世界」のうちのたんなる一つの対象領域(あるいは意味の場)にすぎないわけである。「世界」には、自然科学で規定される物理的な物や事実だけでなく、多種多様の「意味の場」が属している。それをややパロディー的に表現したのが、「水洗トイレ(のジャーという流れ)」とか、「ユニコーン」のような空想上の生き物である。「世界」には、多様な意味の場が存在し、どれか一つだけの「種」が存在するのではない。
こうした「新実在論」が意図しているのは、「世界」を「宇宙」へと還元してしまうような「自然主義」を拒否することであろう。ここで「自然主義」というのは、「自然だけが存在する。その自然とは自然科学の対象領域、すなわち宇宙にほかならない」とする主張である。「新実在論」にとっては、多様な対象領域が可能であり、空想でさえも存在するのに対して、「自然主義」は存在するものをすべて自然科学によって探究できる物理的な対象だけに限定する。
このように、『なぜ世界は存在しないのか』で宣言された「新実在論」を、「自然主義の批判」として理解すれば、そこから『新実存主義』が提唱される理由も明らかになるだろう。「自然主義の批判」として、人間の「心」を捉えるために、「新実在論」は「新実存主義」へと具体化されるのだ。
以上の議論を明示的にするため、図式化しておくことにしよう。とくに説明は不要だろうが、マルクス・ガブリエルの新実在論から新実存主義への展開には、自然主義批判という基本思想が貫かれている。そのため、彼の哲学の輪郭を描くとすれば、「自然主義批判の哲学」として捉えるのが、内実に沿っているのではないだろうか。

執着心をできるだけ軽くし、執着心から離れたこころをつかみ取る。そして、他のものと比較するような二元的な考えを持たないことが必要です。人は他と比較するから悩むのです。(中略)自分は自分と考え、自らの本分を生かし、今できることに必死に立ち向かう。すると結果は必ずついてくる。自分の人生を前向きに捉え、一生懸命に生きること。これが禅の考え方です。
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「言いたい事」
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人は自分の考え方で人を見る。人には誰にも譲れない考え方がある。言って見れば其の人間の型(尺度)だ。その人は自分にある、いや、自分が考えた思想で生きて居る。この思想。この型(尺度)は何人にも侵し難きものだ。それは何時出来上がったものだろうか。何時形成されたのだろうか。思想は誰でも持って居る。型(尺度)は誰でも持って居る。しかし、この型(尺度)は、一丁一端で出来たものでは無い。生きて来る上で考えたものだ。人生経験から来て居るとも言える。「知・覚・考・動」この言葉の定義を知って居るか?世の中の大半普通の人の思考はこれだ。しかしこれでは何にも出来ない。「知・覚・動・考」こう変えて見る。この四つの言葉で一番大切な言葉は何か?答えはすでにある。「とも(知)・かく(覚)・うご(動)・こう(考)」だ。ミュージシャンのGACKTは言う....。「物事を知って居たら覚えたなら。とにかくすぐに動く事、行動する事。動きながら、知る事も覚える事さえも出来る。逆に行動しないと。知って居ても其の意味が解らなかったり覚えた事さえどんどん忘れて行く。だからこそ行動こそが結果を出す一番の近道。考えてから動くからスピードが遅くなる。。考えるのは行動をした後でいい。全ての人間の行動は思考が支配して居る。思考が結果を生み出す。」
私は、物事が上手く行く人に共通する要素は「素直さ」だと思って居ます。素直な人はビジネス書を読んで、面白い事が書かれて居たら「自分もやって見よう」と、すぐに行動に移す事が出来ます。柔軟性に富んで居るから、自分とは異なる意見を取り入れ、行動に移す事が出来るのです。一方、素直でない人は他者の意見をなかなか受け入れようとはしません。悪い意味でこだわりが強く、頑固です。他者の意見を取り入れないと、結局は自分の勘や経験、そしてわずかな知識に頼るしか無く、遠回りをして仕舞います。どんな物差しで自己の価値を測って居るのか、わざわざ意識した事は無いかも知れませんが、実は心の奥では気づいて居るかも知れません。結局の処、「自分は基準に達して居る」と感じれば、自分に対する感情が良くなりますが、「自分は基準に達して居ない」と感じると、自己評価は暴落します。相手を苦手に感じ、相手の事が嫌いになるとき、人は理由を相手に求めます。自分の意に沿わない言動によって、自分は苦しめられて居ると感じるのです。しかし、自分の意に沿わないと決めて居る基準はなんでしょうか。それは自分の価値観で作った自分の型であり、絶対的なものではありません。
それでは、そもそも人はどんなときに、相手を「苦手」「嫌い」と感じるのでしょうか。殆んどの場合、原因は相手の発言やふるまいにあるのだと思います。相手の発した言葉で傷ついた、無神経なもののいい方が癇に障った、だらしないふるまいを見て不愉快だった……。そうした自分の意に沿わない言動が、悪印象を持つ切っ掛けになるのです。勿論、型はあっていいのです。それは自分の発言や行動の規範になるものですし、型がある事によって、自分という人間が作られます。ただし、他人をはかるときには、型に“嵌めて考える”のは辞めましょう。自分の型と他人の型は違うのですよ。
此処で「禅」の求道者、枡野 俊明氏の言葉を抜粋して於きます。
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『「禅の庭」をつくるときに、私は時折、「山是山、水是水(やまはこれやま、みずはこれみず)」と言う禅語を思い出します。意味するのは、山は山として本分を真っ当し、水は水として本分を真っ当して居ると言う事です。山が水に対して「山になれ」と命令する事もなければ、水が山に向かって「水になれ」と指図する事もありません。
禅の教えは、人の社会全般に当て嵌ります。「山是山、水是水」を人間関係に当て嵌めるなら、自分が山なのであれば、水である相手が山になる様に求めては行け無いし、自分も水になろうと頑張る必要は無いと言う事になるのです。山は山として、水は水として本分を真っ当するのが美しいのであり、自然は当たり前の様にそうして居ます。
禅では、人と自分に付いて、「人は人で絶対、自分は自分で絶対」と考えます。絶対と言う意味は、今、此処に、命を頂いて、過不足なく生きて居ると言う事です。人も自分も、共にその様な存在なのです。過不足なく生きて居る誰かに、「此処が足りないじゃないか」などとは言え無いのです。
人は人で絶対、自分は自分で絶対と言う事を意識して、誰に対しても、「水平の視線」で見る様にして見ましょう。視線を高くして見下ろせば、人は小さく見えますし、視線を低くして見上げれば、人は大きく見えます。どちらも相手を正しく見る事になりません。』
常に水平の視線で人を見ることを心がけ、その様に努めて行く。それを怠らない事で、人は人、自分は自分と言う事が身体で解って来る。つまり、実践出来る様になるのだと思います。
===
「最後に」
===自分の思想。型には、程度があります。つまり型を使う為には己の意思と行動力が必要です。人を妬んで居る。口を開けば他人を憎んでばかり。他人のやり方考え方をただ否定したいだけ。他人の夢を馬鹿にする奴。あなたはどうですか?悔いを残したか。人を憎んだか。人を愛せたか。罪を刻んだか。何かを失ったか。自分を愛せたか。GACKTは言う。「今日と言う日は、昨日。今日を本気で行きたくて、それでも、この世を去らなければ成らなかった者たちが残して行った輝かしい未来だ。そんな一日だ。だから本気で生きろ!!」自分の思想。型(尺度)。然しながら、其の思想は常に更新し。そして磨いて居なければチンケなプライドと成って仕舞うのですよ。私は自分の思想(型)。を持っては居ますが。それで人は測りません。あくまで、それは自分の型だからです。自分の思想。要するに旗ですね。それは大切です。然し他人が掲げて居る旗もまた大切なのですよ。下賤な考えで其の旗を汚すのは辞めましょう。
そんなとき、とりあえず“目の前のことに集中する”と、雑念が取り払われて余計な不安や悩みが去っていきます。精神的に余裕が生まれ、心が整うので、結果的に毎日により満足感を感じることができるようになります。どんなに望んでも、他人にはなれません。自分と他者を比較すればするほど、執着心や嫉妬心も芽生えがち。執着心はどんどん膨れ上がり、人を苦しめます。今の状況を受け止め、日々できることに目を向けましょう。将来「こうなりたい!」という目標があるのであれば、達成するためにまず「何をしたらよいか?」と行動に移す準備を始めましょう。他人を羨ましがっている暇なんてありませんね。人に褒めてもらうと、すごく嬉しいですよね。ですが、褒められ続ける人生っていうのも、人の要望を叶えるためだけに自分が存在しているようで、ちょっとむなしく感じませんか?自分の責任で人生という道を歩んでいきたいなら... 人の価値観ではなく、自分の価値観でやりたいことを「やってよかった」と思えるまでやり続けてみましょう。
「禅語」とはその言葉の通り、禅の言葉、禅宗の文献にある言葉です。心の片隅に留めておきたい、禅の教えが凝縮された「禅語」をご紹介します
曇りのない心.......「喜捨(きしゃ)」
共に手を取り合う......「把手共行(はしゅきょうこう)」
社会に生きる私たちは、常に競争にさらされています。たとえライバルのように競い合う関係だとしても、ともに高みにある目標を目指して切磋琢磨する。そして手を取り合えるよき仲間となることの大切さを説いています。
素直で自然な心......「随所快活(ずいしょかいかつ)」
生まれも育ちも異なる環境で育った人同士が出会えば、摩擦や誤解が生まれて当然。そんなとき等身大以上の自分に見せようとする虚栄心を捨てると、心が軽くなり、人間関係もスムーズに運ぶようになるはず。いつだって自然体で素直な自分でいましょう。
今にありがとう......「知足(ちそく)」
禅は、万物に感謝することの大切さを教えてくれます。今満ち足りていることを知り、感謝すること。向上心は悪いことではありませんが、欲望にはキリがありません。キリがない欲望は次第に執着となり、逆に自分を苦しめていきます。今あるもの、ちょっと手を伸ばせば届くものに『ありがとう。満たされているよ』と思えた時に心に安らぎが訪れます。
高みに引き上げる風......「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」「歩々起清風(ほほせいふうをおこす)」
人生は修行そのものであり、我々の周囲はすべてが学びの場。心がけ次第で、どんな場所や状況下でも自分を成長させる道場になるのです。これとよく似たものに「歩々起清風(ほほせいふうをおこす)」という禅語もあります。今目の前にあることに無心になって取り組んでいると、あるとき心地いい風があなたの頬を優しくなでてくれるのです。
誰しも美しい......「明明百草頭(めいめいたりひゃくそうとう)」
自分自身を見つめ直す......「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」
お寺の玄関でも見かける「脚下照顧」という言葉には、単に「足元をよく見なさい」という意味だけではなく、「自分自身を振り返って反省しなさい」という意味も込められています。まずは自分自身を見つめ直すところから、という事を日々心がけたいですね。