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5月29日(月)のつぶやき

2017-05-30 01:16:33 | 感想

希望を見いだすことにつながる問い 〜映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』〜

2017-05-29 19:52:40 | 感想

 映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、岩井俊二監督の2016年の作品である。この年号「2016」は、この作品を語る上で、作品と不可分のように思う。なぜなら、あまりにも同時代と密接な関係が表現されていると感じるからだ。都市空間や生活スタイルや、スマホの取り扱い、活用法など、いかにもリアルタイムであるがゆえに、ひょっとしたらやがて古びたものと受け取られる画面となるかもしれない。しかし、普遍的な表現の作品というのは、だいたい極めて同時代的なものなのだ。たとえば19世紀の小説や、20世紀中頃のハリウッド映画を参照すればわかる。ドストエフスキーが描写した都市の様子は、現代日本の我々とは共通しない要素が多いにもかかわらず、それが「古いもの」としてマイナスには作用しない。

 しかし、それらの表面的な事柄よりも注目したいのは、人物の描かれ方である。この映画には、どうにも信用ならない人間たちが登場する。最もよくわからないのは、綾野剛演じる安室という男である。正体がつかめない。決して善人ではないのは明らかなのだが、目的、本音が最後まで見えてこない。結局何をしたい人間なのかわからない。Cocco演じる里中は、いかにも現代的な迷える人間として過剰な存在感を示してくる。主人公と短い結婚生活を送った男もまた、軽薄な印象を抱かせるが、しかしよく考えて振り返ってみれば、特に問題点はない人間なのではないか。少なくとも、浮気男でもなければ、マザコンでもない、現代的な普通の若者のひとりではないか。この男の母も存在感はあるものの異常ではない。

 岩井俊二作品独特の映像の美しさに判断を誤りそうになるが、彼の作品の淡くもろい映像美には、暗く不吉なものが漂っていることに気づかされることがある。それがどのようなものであるのか、なかなかわからない。この『リップヴァンウィンクルの花嫁』には、信用できない人間の存在が、問いかけとして常にあるのだが、最後に至ってようやく、本当に信用できないのは誰なのか、ということに気づかされる。そしてまた、2016年という現代日本において生きる人間の信用できなさにも、同時に気づかされる。それは他人を騙す人間ということではない。自分を騙し、そのことに気づかない人間は、必然的に他人は騙されることになるだろう。そこには悪意はない。自己利益への欲求もない。要するに、希望がない。だからこの映画は、映像は美しいが、暗いのだ。

 岩井俊二は2012年に、主演の黒木華と出会い、彼女のイメージをもとに原作を書いたということだが、黒木華の、あの昭和風な純朴な風貌、かもし出す雰囲気の中に、岩井俊二は、現代の暗く希望のない、そして信用できない側面を表現しうる力を見いだしにちがいない、と私は推測する。

 我々は、誰とどのように生きてゆけばいいのか。

「誰?」という問いかけは、どれほどの意味を持つのか。

 現代の生きづらさの中にあって、希望を見いだすことにつながる問いがあるとすれば、そのようなものではないだろうか。


文章リハビリ 映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』にまつわることについて書く、 と宣言

2017-05-29 13:54:09 | 感想

文章リハビリ

ということで、ここに書きはじめよう、と思いつつ、ちっとも書きはじめようとしない自分への指導として、

とりあえあず、今日中に映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』にまつわることについて書く、

と宣言しておいて、外出する。今日は休日。


5月17日(水)のつぶやき

2017-05-18 01:22:33 | 感想