理不尽、挫折、失敗、後悔、屈辱、苦などの否定的な経験がなかったら人生はどんなに素晴らしいだろう。そう思うことは自然なことだ。しかし否定的な経験のない人生などあり得ないのも現実だ。自分ひとりしか存在しないとしたら、自分は何も感じないかもしれない。他者とともに存在することに否定的な経験の原因があるのだろう。「人を恨むな」と母は生前に言っていた。私の受けた屈辱的な経験を承知してのことだった。人は他人に対してはどこまでも残酷になれるものである。しかし、否定的な経験をしたことのない人間とはあり得ないのと同時に、あるとしても底の浅い人間になるのではないか。否定的な経験こそ成長の糧ではないか。そして他者にそのような否定的な経験をさせまいとすることこそ愛ではないか。これは相手の成長を否定することになるかもしれないが。だから、あえて人に厳しくする人もいるかも知れない。それも一種の愛かもしれない。人間は愛に生きるか憎しみに生きるかどちらかである。少なくとも、憎しみによって他者に否定的な経験をさせることは避けたい。幸い、人間には慣れというものがあり、年をとると、否定的な経験にも耐性ができる。人生はそのようなものだという感覚が身についてくる。他者は自分の思う通りにならないから他者なのである。それが分からないと悲惨なことになる。暴君になってしまう。否定的な経験を繰り返した私はそう思う。
理不尽、挫折、失敗、後悔、屈辱、苦などの否定的な経験がなかったら人生はどんなに素晴らしいだろう。そう思うことは自然なことだ。しかし否定的な経験のない人生などあり得ないのも現実だ。自分ひとりしか存在しないとしたら、自分は何も感じないかもしれない。他者とともに存在することに否定的な経験の原因があるのだろう。「人を恨むな」と母は生前に言っていた。私の受けた屈辱的な経験を承知してのことだった。人は他人に対してはどこまでも残酷になれるものである。しかし、否定的な経験をしたことのない人間とはあり得ないのと同時に、あるとしても底の浅い人間になるのではないか。否定的な経験こそ成長の糧ではないか。そして他者にそのような否定的な経験をさせまいとすることこそ愛ではないか。これは相手の成長を否定することになるかもしれないが。だから、あえて人に厳しくする人もいるかも知れない。それも一種の愛かもしれない。人間は愛に生きるか憎しみに生きるかどちらかである。少なくとも、憎しみによって他者に否定的な経験をさせることは避けたい。幸い、人間には慣れというものがあり、年をとると、否定的な経験にも耐性ができる。人生はそのようなものだという感覚が身についてくる。他者は自分の思う通りにならないから他者なのである。それが分からないと悲惨なことになる。暴君になってしまう。否定的な経験を繰り返した私はそう思う。