きみだんごの日記帳

日記帳の形を借りて、創作活動の成果を発表していきたいと思います。
荒井公康

モーリス・ラヴェル作品集

2024-03-17 09:38:50 | 日記

モーリス・ラヴェル作品から(曲名をクリックしてみて下さい)

 プレリュード

 午後5時


 弦楽四重奏「第一楽章」

 亡き王女のためのパヴァーヌ

 

 

作風

オーケストレーションの天才管弦楽の魔術師と言われる卓越した管弦楽法とスイスの時計職人ストラヴィンスキー談)と評された精緻な書法が特徴。入念な完璧さへの腐心と同時に人間的豊かさを併せ持った表現力は「知性の最も微妙なゲームと心の深く隠された領域に沁み入る」とされた(ディクシオネール・ル・ロベール)。

母方の血筋であるスペインへの関心はさまざまな楽曲に見出だされ、『ヴァイオリン・ソナタ』『左手のためのピアノ協奏曲』『ピアノ協奏曲 ト長調』などにはジャズの語法の影響も見られる。常に新しい音楽的刺激を追い求めジプシー音楽にも熱狂し、それが『ツィガーヌ』(1924年)へと繋がった。

ラヴェルはドビュッシーとともに印象派(印象主義)の作曲家に分類されることが多い。しかし、その作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は意に介さなかった。ただし自身への影響を否定はしながらも、ドビュッシーを尊敬・評価し、1902年には対面も果たしている。また、ドビュッシーもラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調を高く評価するコメントを発表している。

ラヴェル自身はモーツァルトおよびフランソワ・クープランからはるかに強く影響を受けていると主張した。また彼はエマニュエル・シャブリエエリック・サティの影響を自ら挙げており、「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。さらに先述のようにスペイン音楽・ジャズに加え、アジアの音楽およびフォークソング(民謡)を含む世界各地の音楽に強い影響を受けていた。アジアの音楽については、パリ音楽院に入学した14歳の春に、パリ万国博覧会で出会ったカンボジアの寺院、タヒチ島の人々の踊り、インドネシアのガムランなどに大きな影響を受けている。

また、リヒャルト・ワーグナーの楽曲に代表されるような宗教的テーマを表現することを好まず、その代わりにインスピレーション重視の古典的神話に題を取ることを好んだ。

ピアノ協奏曲ト長調』について、モーツァルトおよびサン=サーンスの協奏曲がそのモデルとして役立ったと語っている。1906年ごろに協奏曲『Zazpiak Bat』(「バスク風のピアノ協奏曲」(直訳では「7集まって1となる」というバスク人のスローガン)を書くつもりだったが、結局それが完成されることはなかった。ノートの残存や断片から、バスクの音楽から強い影響下にあることが確認される。ラヴェルはこの作品を放棄したが、かわりにピアノ協奏曲などほかの作品のいくつかの部分で、そのテーマとリズムを使用している。

ラヴェルは「作曲家で音楽理論家アンドレ・ジュダルジュAndré Gedalge[16]がわたしの作曲技術の開発において非常に重要な人でした」とコメントしている(ジュダルジュは対位法教程を残した最初期の作曲家でもある)。

また、ラヴェルは自身の創作姿勢については以下のように説明している。

「わたしは単純に芸術家の意識の錯乱を拒否します。 わたしたちは良い労働者であるべきです。 わたしの目標は「技術的な完成度」です。 そこにはけして到達できないと確信しているため、無限に到達しようと試みることができます。 重要なことは常に近づいていくことです。 まちがいなく芸術(作品)は作者以上の影響力を持っていますが、私の意見では、そこに別の目的を差し挟んではいけません」 (ラヴェル、Esquisse autobiographique、1928)

当時、一部の批評家はラヴェルの音楽を冷たく、空虚で人工的と評した。 芸術とメカニズムへの愛を決して否定しなかったラヴェルは、作家エドガー・アラン・ポーを引用し「感性と知性の中間点」と言う有名なフレーズで此れに反駁した。

 

 

 

荒井公康

 



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