きみだんごの日記帳

日記帳の形を借りて、創作活動の成果を発表していきたいと思います。
荒井公康

レヴィナスの思想

2023-01-29 17:19:51 | 日記

 レヴィナス哲学が本質的に倫理学であるならば、そこでは当然、善と悪とが問われる。
 悪は存在への固執に由来する。主体が自己の存在を肯定するために他者と関係する時、他者の他性は必然的に否定される。<他>は<同>によって承認される場合にのみ<他>でありうる。この関係に潜む暴力を、ヘーゲルは承認への闘争によって、それを翻案したサルトルは対他存在の論理によって描き出した。主体の生のこの求心的な運動は、レヴィナスにおいても本質的である。しかし、この運動は、苦痛と「ある」において限界を知る。苦痛は、苦しむ自己の存在に縛られ、存在から脱出できないことに由来する。極限において苦痛は、内世界的な活動からその意味と可能性とを奪い去る。残るは無意味な自己の存在の事実のみ。これに対し純粋動詞的な存在一般たる「ある」はさらに、主体の存在の自己性までもが消滅する体験として描かれる。光なく言葉なく、存在者の形なく、世界の分節も主体もなき存在の情態(創世紀1~2)。死も不可能な「恐ろしさ」。「誰」の情動でもなく「存在の意味」の問を立てる間もないこの存在の過剰は、忘却も安眠も許さぬ「存在の苦痛=悪」をなす。例えばサルトルの即自存在とも解釈されかねないこの存在の無意味な過剰はしかし、存在論的事実に収まらない。存在が究極的に倫理学的に無意味ならば、苦の名の下に行われるどんな暴力も最終的には悪ではなくなる。レヴィナスにとって、存在の無意味は、正/不正以前に存在自体に由来する悪の開示である。こうして存在に固執する限り、他者への暴力、苦痛、悪から逃れることはできない。
 主体が存在の悪と暴力とに耐えうるのは、苦痛が他者の苦痛を痛む形に二重化されるからであり、善によって予め方向・意味づけられ、予め「他のために在る」からである。レヴィナスにとって、善は存在から導出することができない。主体が社会において正義を要請せざるをえないとすれば、その要請自体に存在論的根拠はない。主体が自由に善を選ぶのではなく、善が主体を常に既に選択してしまっている(一方通行、不可逆性)。この点でレヴィナスは、自由と法との関係を論理的に解明しようとするカントとも岐れ、善のイデアが存在を超越するとしたプラトンを評価する。善は存在/非存在、自由/隷属の対立を超えた「意味の過剰」であり、存在の「何」ではない「存在のいかに」である。また「善による選択」の概念に、神による民の選択というユダヤ教の伝統を読むのは間違いではない。彼の努力は、神を絶対的他性として、常に現前から思考される存在問題から切り離すところにある。
 他に依存しない存在の自足(自律)を破り、他者への倫理関係(他律)の第一次性を説き、存在論の伝統を転倒させて第一哲学としての倫理学を主張するレヴィナスは、今日最も独創的な思想家の一人と呼ばれるに値する。


【ヴァルネラビリティ(可傷性・暴力誘発性)】
 レヴィナス倫理学の中枢概念の一つ。倫理主体の主体性は、悟性や理性によってではなく、感性において定義される。その意義は、主体の倫理性が、分析し、比較し、判断し、立法する知性の自由に左右されない、という点にある(カントの実践理性との相違)。レヴィナスにおいて、「責任」は意志的当為ではない。
 主著『全体と無限』でレヴィナスは、感性を、個体たる主体の正の「享受」に属す一様態だと考えていた。享受は、自らの生を自由に「味わう」こととして主体の生の本質的エゴイズムを基礎づける。「パンひとかけらのために他人を殺害する」、これがエゴイズムの論理である。
 第二の主著『存在とは別様に』を準備する過程でレヴィナスは、感性についての解釈を翻し、感性を享受の上位に置き、感性を享受と「可傷性」との二様態から成るものとした。生身の主体が、他者が振う暴力に傷つくという当然の事実をこえて、他者の負う傷に、その悲惨に傷つく、これが可傷性である。ただし、他者の悲惨を、目に見える事実上の貧困・病苦・負傷に限って理解してはならない。主体が関わってくる他者は、強者・富者であっても、その素顔(ヴィサージュ)においては絶対的弱者であり、素顔は、死を前にした悲惨の極みから主体に向けて「汝殺すなかれ」と呼びかけ、叫んでいる。ひとが他者の事実上の悲惨を前に心動かされざるをえないとすれば、それは、素顔の呼びかけを否応なしに感受する、他者の非現実的な悲惨に無感覚ではいられない感性の構造に由来する(差異に対する非・無関心)。素顔の呼びかけによって主体は、自らが課した訳ではない、自分の過失に由来しない他者の苦痛・死・悲惨に対する「責任」を呼び覚まされる。従って、主体が自由に責任を「引き受ける」(サルトル)のではなく、自由がその責任を問われるのである。
 感受と可傷性は感性の等根源的な二様態をなす。素顔の呼びかけに無反応ではいられない可傷性によって、主体は他者への応答に迫られる。その応答は、いかなる私的・公的利害とも共調しない無償の贈与をなす。素顔の呼びかけによって主体は、享受の利己的自由と無償奉仕との相反する二極に引かれる。可傷性は従って、主体を享受の外へと単純に連れ出す訳ではない。私的享受、つまり失うものなくしては、贈与の倫理的意味が失われる。享受が無垢ではないこと、すなわち、既に貧しい自分が更に与える苦痛を前に享受へ撤退することが暴力行使であり、存在が既に負債たることを告げる他者の素顔の呼びかけへの感受性(他律による開示)が可傷性の内実をなし、失う苦を超えて無償の贈与を行うのが責任の実現形態である。
 他者の苦を苦しむ感性である可傷性は、他人の痛みを”思いやる”といった道徳の能力とは無縁であり、「他人の痛みは如何に理解可能か」という認識論上の問いとも関わりがない。それらの問いは、予め能動的で自律した主体を前提しているからだ。可傷性の概念によってレヴィナスは、主体を能動性によって定義する近代哲学の伝統と岐れ、主体を絶対的受動性・他律によって定義するのである。


【ヴィサージュ(素顔)】
 レヴィナス倫理学の中心概念。自我の機能の射程を超越する「絶対に他なる者」としての他者は「素顔」において出現する。
 レヴィナスは『デカルト的省察』の「第五省察」でフッサールが試みた他我構成の不備から出発する。その結果は、他者は私に似ている限りにおいて自我と同じもの、他我であり、その他者性は、自我の自己現前と違い間接的にしか与えられぬ所から消極的に導かれる。レヴィナスによれば、これでは、他者は私がそう認める限りでしか他者ではなく、私のこの世界に依存しない他者性が失われる。絶対的他者性は従って、他者が私の現前野の地平に現象しない所に求めなくてはならない。他者の非ノエマ的「公現」(エピファニー)、それが「素顔」である。
 この概念の源泉をユダヤ教の伝統に探ることは、理解の上で重要である。しかし、哲学的に考えることがこれに優先する。この概念は、現象しない他者の現前(公現)なる哲学上の難問を呼ぶ。現象せずにどうやって他者性が告げられるのか。
 他者は、強者も富者も例外なく弱さ・悲惨の極み(異邦人・孤児・寡婦ー申命記16-11)において私に否応なしに関わって来る。暴力に傷つき、今まさに死に行く者の眼差、これが素顔である。自己の死が現象学の超越論的自我の限界であったように(ハイデガー)、他者の死も現象学の限界をなす。死に行く他者を前にして私は、「汝殺すなかれ」、死に行くままになす(暴力)ことなかれ、との呼び掛けに応えるよう要請される(緊急性)。他者の顔を見たと思う時、素顔は死の方へ一歩先んじており、私の現在はすでに後れをとっている。応えるか否か、私の合理的選択の自由以前に私は他者の呼び掛けに捉えられる(「人質」オタージュ)。素顔はこうして、私の意味づける自由の権力性・暴力性を暴き、私を言葉による平和な、傷つけることなき応答、さらには他者の「身代わり」になるよう誘う(責任の構造)。私の主観性は、存在論的な自由以前に、他者への倫理的な関係によって定義される。「素顔」の概念によってレヴィナス哲学は、逆向きの、そして新たな超越論的哲学として読むことができる。


現代思想を読む事典「講談社」より

 人間は、自己を中心にして存在を全体化し、その全体性の世界に固執して、他者からの呼びかけに耳をふさぎ、他者に暴力をふるう。自己を中心に築かれた世界への固執が、イリア(ただ、あるだけという意味)と呼ばれる無意味な過剰な存在を生みだす。イリアは、無意味で不気味な存在として人間に重くのしかかるが、人間が自己の全体的世界に固執していることが無意味で過剰なイリアを生みだすのだから、自己に固執している限り、そこからの脱出口はありえない。出口を与えるものは、自己を無限に超越した他者との出会いである。他者は、自己の世界を無限に超越した他なるものという意味で「顔」と呼ばれる。他者の「顔」は貧困・暴力・死の恐怖におびえながら私をみつめ、「汝殺すなかれ」という倫理的命令を呼びかけてくる。私は自己の利益と享受をこえて、他者を倫理的に迎え入れ、他者の苦痛に責任をもつ時、無限の世界へと開かれて、そこで倫理的な主体となる。他者に呼びかけられ、他者に奉仕するために選ばれているということが、私の倫理的な主体性を形づくる。
 レヴィナスの哲学は、他者との倫理的出会いを突破口として、自己の内在的世界から無限への脱出を説く、極めて倫理性の強い哲学である。そこには、ギリシア哲学が普遍的なロゴス(理性・論理)によって概念的に全体化した存在を、他者なる神との出会いというユダヤ教的体験によって打ち破り、他者への倫理的責任を引き受けることによって、無限へと脱出しようとする、レヴィナスの独自の視点がある。

 

荒井公康


認識の仕組みと他者性

2023-01-29 17:13:53 | 日記

以下は、私が長年悩んできたことに対する、稚拙ですが、真面目に考えた哲学です。

人間の活動の重要なものに「認識」というものがある。この認識とはどういうものか現象学のテーゼにそって分かり易く説明する。それは

「現象は光のうちで視られうる」

というものである。この命題の意味を解説する。簡単に言うと認識が成立するためには、「認識する者」と「認識されるもの」だけでなく、第三のもの(イデア、カテゴリー、形式、言葉、基準枠、パラダイムなど)が必要とされる事態を述べている。例えば、ある物の長さを測る場合を考えてみよう。この行為を行うためには、測定者、測定対象、物差しが必要になる。これを認識に対応させると、測定者が「認識する者」、測定対象が「認識されるもの」、物差しが「第三のもの」に対応する。上のテーゼとの対応をとれば、「視る主体」が「認識する者」、「現象」が「認識されるもの」、「光」が「第三のもの」に対応する。つまり、私たちの認識が成立するためには、主観としての自分、客観としての対象、判断基準の三つの要素が揃って初めて成立する。これは、ほとんど自明のことと思われるが、私たちが何らかの認識ないし判断を行う場合に、これら三つを充分に自覚しているだろうか。おそらく無意識に認識ないし判断をし、自分が認識していること自体にさえ気づかない人も多いだろう。このことに徹底して反省を加えた人に現象学を創始した哲学者フッサールがいる。簡単に言えば、認識という行為は、主観としての私たちが、第三のものとしての判断基準をもとに、客観としての対象を(主観的に)「構成」することに他ならない。客観と主観は対概念で切り離されて存在するものではなく、従って、客観的判断などというものはあり得ず、必ず主観が関与(対象を構成)しているのである。主観のない客観も客観のない主観もないのである。

次に認識の正しさについて考えてみる。自然科学では、ある理論、認識、判断は実験によって検証されて初めて正しいかも知れないという可能性を獲得し、他の人の追試によって検証されて初めて正しいと認められる。ところが他の人の心などについては、検証の手段はないから、他の人の心などについて認識ないし判断しても、正しいか間違っているか決定不可能である。他の人の心以外にも決定不可能なものは沢山あるはずである。「沈黙は金」という知恵を忘れてはならない。私個人は判らないものは判らないとするのも一つの見識であると思うのであるが、それを無視して他者に対して決め付けるのは暴力であろう。認識と言いながら、三つの要素のうち、「認識されるもの」(客観)から目をそむけて無視し、自分の主観的内容が対象に等しいかの如き錯覚に陥っており、本来ならば「認識」とは言えない。客観と主観の間に越えられない壁を設けて、判断しているつもりになっているのである。これを避けるためには、何らかの手段で「対象」(客観)に己自身を示して頂くしかないであろう。但し、相手が人間の場合は無理強いはできない。

これに関連して、レヴィナスという哲学者は、いわゆる「認識」すらも、同じものの領分に属さない他者を、同じものの領分のなかに取り込もうとする限り、一種の暴力(光の暴力)だとし、他者は、認識の光に対して、おのれを退け隠れるとした。他者理解とは他者を自己の論理の支配下におくことに等しいのであるが、これは不可能なのである。単純化して言えば、他者とは自分とは論理的に全く異なった存在であり、理解不能なものであり、他者に対する理解は暴力だと言っているのである。他者理解は必ず間違っていると考えたほうが良いだろう。かと言ってレヴィナスは冷たい人間ではなく逆に人間は皆徹底的な「弱さ」を持っていることの指摘も忘れなかった。ただ、これは本筋から逸れるのでまたの機会にしたい。

貴方がある人に対して何らかのイメージを持ったとしよう。それは貴方が勝手に主観的に構成したものであり、現実とは限らないのである。相手の責任だけにするのは卑怯だし、自分の責任も考え、判断を保留する(「エポケー」という)訓練を積むことを学ぶ良い機会と思うべきである。自分が判断していること自体を忘れ、責任を放棄することは「自己忘却」と呼ばれ深刻視される。勝手に想像して他者に迷惑を掛けるのは避けたいものである。

フッサールでは、通常の「主観」と区別して、「構成する働きをする主観」を「超越論的主観(性)」と呼ぶのが初期現象学の慣わしである。後期では、「構成」から、第三のものに相当する「生活世界」「地平」といった認識を成り立たせる「場」の如き概念へ思考の重点が移された。しかし、「主観が認識を構成する」という事態には変わりない。

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「認識の仕組み」で述べたように、認識が成立するためには三つの要素が必要である。つまり、次の三つである。

・主観(認識する主体)
・客観(認識される客体)
・第三のもの(イデア、カテゴリー、形式、言葉、基準枠、パラダイムなど)

つまり、認識するという行為は、主観が第三のものに基づいて、客観を(主観的に)「構成する」ことに他ならないことであった。この三つの要素のどれが欠けても認識とは言えない。一般にあることに対しては個人個人異なった認識をするのが普通である。ある人物に対して多くの人の間で認識が一致する場合、なんらかの政治的意図、群集心理、心理操作、徒党、結託、共謀などの要因が働いている可能性が高い。但し、当事者が意識または自覚できるとは限らない。いじめ、差別、排除、各種嫌がらせ、スケープゴードの発生はこのような場合に行われることが多い。これについては本筋からずれるので、またの機会にしたい。

通常の認識では、なんの制約条件もない場合、個人個人異なるのが普通である。これに関しては、黒澤明監督の映画「羅生門」で見事に描かれている。何故認識が異なるのであろうか。主観は動物としての人間同士でそれほど違うとは考えられない。客観は誰にとっても同じはずである。個々人で大きく異なるとすれば、「第三のもの」しか考えられない。「第三のもの」は人間が歳を重ねる過程で、公教育などの権力による刷り込みによって自明視されるようになる間主観的なもの、社会環境や家族からの影響、個々人ごとに異なる経験などによって、「経験的」に獲得されるもので、公的なものと私的なもののアマルガムとも言ってよいものである。つまり、この「第三のもの」は人間同士のコミュニケーションを可能にする一方で、認識の違いを齎す側面もある矛盾した性質を持つものである。

全ての人間に対して「第三のもの」が一致することはあり得ないことで、認識が各自異なるのは自然なことである。むしろ、認識の一致を強要するような世の中になれば、ファシズムや全体主義の兆候であろう。

以上のことを考慮すると、絶対の真理とか正しい認識などはあり得ないことである。相対主義の論拠である。それでも、人間は「真理」や「正しさ」を求めるものである。私個人は、想像を交えず、事実を淡々と述べているのが、人間としての理想的あり方と思う。私の自動作曲システムで言えば、採用した仮定で音楽を生成できれば、その仮定は一応正しいと言えるが、たまたまその仮定が正しかっただけであり、私自身が「正しい認識」を行ったというのは早計であろう。

人間として、「自己忘却」に陥らないためには、自分の持つ「第三のもの」への反省を行うしかないであろう。求められることは、「正しさ」ではなく、「責任」などの倫理的なものなのである。

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例えば、ニワトリの鳴き声。

日本では「コケコッコー」と鳴くと言われている。
米国では「クックドゥールドゥー」と鳴くと言われる。

こういう時こそ、フッサールの超越論的哲学(現象学)の出番である。同じものを認識しながら、表現が異なるのは、超越論的主観性の対象を構成する側面の表れである。認識が成立するための条件は一つではないから、超越論的主観性に個人差があろうがなかろうが関係ない。こういった慣習的な鳴き声は言語と同じく、恣意的ではあるが間主観的な共同妄想で、根拠を持つものではない。このような共同体ごとに呼び方が異なる慣習の中(生活世界)に住み込んだ人間は、成長するにつれ、共同妄想を自明のことと思い込むようになる。このような自明性が失われると人間は精神疾患に陥ることがある。精神疾患を持つ人たちとは、失われた自明性を求めて、「無意識」に世界を再構成しなければならない人たちのことを言う。「意識的」に再構成する人間は、科学者、哲学者の類である。いわゆる紙一重と言われる所以である。

実際、ニワトリの鳴き声を正確に表現可能であろうか。主観的構成が関与する限り、いかなる表現も正確な鳴き声でなく、恣意的なシニフィアンという言語の一側面に留まるだけであろう。言語の生成場面である。言語とは制度であり、真理ではない。

私にはカラスの鳴き声は、「アホー、アホー」としか聞こえないのであるが、「カー、カー」と鳴くと主張する人が多いのは不思議だが、当然である。

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 他者とは何か?他者とは他人のことではない。他人について認識する時、自分の認識という構成から逃れるものが必ず残る。この他人についての認識(構成)から逃れ、自分の知りえない他人の部分を「他者」と呼ぶ。自分の中にも他者は存在する。いわゆる「無意識」である。しかし、無意識を知りえない以上、無意識を巡る言説は全てフィクションである。フロイトは無意識(自分の中の他者)を発見したまではよかったが、語りえぬものを語るという矛盾に陥った。自己という体系も不完全なのである。
 
 他人について、認識(構成)が及ばず、知りえぬ側面が「他者」であるから、他者とは自分にとって存在しないものである。しかし、他人は明らかに、その他者を抱えて生きているのである。これは現実である。
 
 よく他者理解という言葉を聞くが、自分にとって存在しない「他者」を理解するということはあり得ないことである。他人の他者性を無根拠の想像で補えば、現実と全く異なる認識に至り、他人に暴力的な迷惑を与えることになる。理解と言えば聞こえが良いが、事実を言えば、他人を自分の論理の支配下に置き、知りえないはずの他人の「他者性」を想像(妄想)で補い、決め付けという暴力を振るい、他人を傷つけて、満足しているだけなのである。ただし、臨床の場で、クライエントとその手の専門家同士で、契約の元で、合法的にカウンセリングなりが行なわれることには文句は言わない。精神分析などでも、分析者がクライエントを理解しようとするわけではない。あくまで言葉のやりとりというコミュニケーションの成立を目指すのみなのである。心理学に詳しい(?)つもりの素人が、(場合によっては多数で、)特定の人物をターゲットにした場合、そのターゲットが暴走に至っても、そのターゲットだけの責任ではないだろう。あくまでも、不法に干渉する側の責任で、巌に謹んで頂きたいものである。彼らは不幸が起きるのが嬉しいのであろうか。全く、人間性も理性も感じられない。
 
 中には理解しないと困ると考える人がいるはずである。そういう人間は理解とコミュニケーションを混同しているのである。他者理解は常にフィクションと誤解に終わるが、コミュニケーションは主に言語を介する情報のやりとりで、共通の情報を共有することであるから、あくまで可能である。商店やコンビニへ行って、店員さんとコミュニケーションを図って、何が欲しいか伝え、お互いに情報が共有され、所望のものを得ることができるのは日常のことであろう。その時、店員さんをまず理解しなければならないと考え、理解しようとすれば、トラブルは避けられないであろう。理解を優先させた場合、永遠に相手と倫理的関係に入れないことを自覚すべきである。まず共感という人もいるが、テレパシーなどの超能力のない私には、とても期待に答えられないことである。
 
 感性、感情などが優先され、言葉や論理が軽視されるようになったのには危惧を覚えている。技術も芸術も、感性や感情でなく、言葉や論理の上に構築されるのである。感性や感情も言葉や論理で表現されなければ理解されない。確かに、受け手にとっては、感性や感情で済むのだろうが、創り手はそれでは済まさされないところがある。受け手しか存在しない社会とは死んだ社会であろう。
 
 いずれにしても、コミュニケーションだけで満足できず、他人を理解しようとする人は、その他人を苦しめていることを自覚すべきである。コミュニケーションを拒絶し、理解しようというのもおかしな話である。相手にあてつけ、嫌がらせをし、苦しめることに、快楽を覚えているようである。非言語的コミュニケーションも極力少なくするべきであろう。非言語的表現に対してこちらに理解を求めるほうが無理な話なのである。再度言うが超能力がある人などいないはずである。

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例.ロールシャッハのひげ

 最初の会社に入社したての頃、私は口ひげを蓄えたことがある。当時(1980年代)としては余程目立ったらしく、周りの人からいろいろなことを言われた。

部長「皆が怖がっている。剃りなさい。いつ反省するのかと思っていた。」
課長「自信があるなら、生やしていなさい。」
先輩「荒井さん、ひげが似合うな」
女性「同期でひとりだけ、お髭。素敵。」
同期「カッコいい。」
馬鹿「卑猥だ。」
馬鹿「ヒットラーみたいだ。」
同僚「気分の問題だろうな。気が変われば剃るさ。」
工場医「なんでひげを生やしているのか知りたいの。」

こんなものだったろうか。本当に人間とは他人に対しては何を言い出すやら分かったものではないが、それらを分析する価値はあるかも知れない。あなたなら、上の反応をどう分析します?
まぁ、目立つことはしないほうがよさそうだとは言えそうだが、ひげが濃い私は、生やしたり、剃ったりして楽しんでいるのが実情だ。
真相を言えば、ビル・エヴァンスのアルバムに口ひげを蓄えた彼の写真が載っていて、カッコよいと思い、いつか口ひげを生やしたいと思っていました。


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他人の言っていることこそ正しい?
 mixiで私のマイミクの一人の信条に驚いた経験がある。その人の言うことには、「私の言うことが間違っているのであり、他人の言うことは無条件かつ絶対的に正しい。」のだそうである。この命題の真偽はともかく、私自身の読書に対する姿勢は、この命題に沿っている。そうでなければ、読書などできないし、する意味もない。この私という主観に汚されない純粋な他者への歓待とも言うべきこの立場は興味深いのではないか。


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コメント(2件)
内 容 ニックネーム/日時
哲学への造詣がとても深いですね。
参考になり勉強になりました。
ひろたか えいほう
2010/05/02 10:01
とんでもありません。哲学系MLで調子に乗って書いたものです。被害妄想的なところもあり、恥ずかしいです。 きみだんご
2010/05/02 10:58





荒井公康
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