氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
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770 愛で奇跡を起そう

2010-03-03 14:33:41 | Weblog
氣まぐれ剣士の言いたい放題

770 愛で奇跡を起そう

~愛で奇跡を起こそう~

福岡の高倉さんという方のメルマガです。
小生もどうゆう人かよく知らないんですが.



昨年の10月10日ハタチから25まで、付き合っていた女の子から、突然メールがありました。

メールの内容は…
『私、あとわずかの命になりました。これまでお世話になった方に今、感謝を述べてます』といったようなものでした。

翌朝、その子に電話をし、詳しいことを聞きました。ショックと悲しみが僕の胸に突き刺さりました。

その痛みを、僕のメルマガのおもしろ授業の読者に訴えました。
読者の方の中には一緒に泣いて下さった方が何人もいらっしゃっいました。
『泣いてる場合じゃないです!なんとかしなきゃ!』と言って下さった方もありました。

その夜、ひとりの仲間が
『元彼女のために、今出来ること、一緒にやりましょうよ』と肩を叩いてくれました。

僕はスイッチが入り、胸の痛みも消え、“やってやるぞ”という強い想いが体中に走りました。

翌朝12日のおもしろ授業にて、僕は全国の読者に呼びかけました。
『元彼女“由実さん”癌で余命宣告を受けてます。
どうか皆様由実さんにエールを送っていただけないでしょうか?
皆様、応援ハガキを僕まで送って下さい。それを持って、僕、由実さんにお見舞いに行きます。“本気のお見舞い”に』

わずか3~4日で100通以上の手紙や本やお守りやCD、沢山の品物が由実さん宛てに届きました。

“こんなに沢山の方が応援して下さるだなんて…日本って本当~に素晴らしい国だ”

10月末、僕はこのプロジェクトを一緒に考えてくれた心友ファミリー(5人家族)と全国から届いた愛を手に、“本気のお見舞い”に向かいました。
(11月に届いた物は心友ファミリーだけで行って頂きました。)

熊本赤十字病院。23年ぶりに由実さんに会いました。会って由実さんに全国から寄せられた愛の品々を手渡しました。
心底感動される由実さん…
ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう…ありがとうが連発します。

由実さん、癌のことを受け入れてましたが、余命宣告通り、迎えがくれば仕方ないそう思っていたようですが、全国から届いた愛のメッセージを読んでるうちに、
“生きなきゃ!なんとしても生きなきゃ!何年かけてでも、全国の皆様に「ありがとう」を伝えなきゃ!”そう生きる決意をされました。

そして由実さんは行動に出ました。退院して社会復帰しよう、少々苦しくても、痛くても仕事をしよう

私自身が輝く場所へ戻ろう
病院は病気を作るところ
病棟は病気を育てるところ

自分で作った癌だから、自分で癌を無くせばいい…

そう由実さんにスイッチを入れて下さった全国からの愛のメッセージ。
そして・・・奇跡は起きました。

退院後一ヶ月、全身をむしばんでいた肉腫は全て消えました。
皆様の愛が奇跡を起こして下さったのです。
“ありがとう”って言葉に癌は弱いんです。

由実さん、毎日何十回も何百回も“ありがとう”を声に出したとか。

12月20日、僕の講演会に由実さん、元気な姿で皆さんの前に立たれました。

全国から寄せられた手紙や品物、また本気のお見舞いの様子のフォトムービーを流した後、由実さんから感謝のご挨拶が。

~奇跡は連鎖する~

12月20日、一番前の席に腰掛けられ由実さんの話を聞く男性。
林一郎さん
林さんは脳腫瘍が脳に五つ

この日
由実さんからのお話や杉浦貴之さん、森源太さん、さときちさん、ケン4ロックさんの唄に感動感激され
わずか二週間後五つあった腫瘍が二つ消えたそうです。



嘘みたいなお話ですね。ちょっと信じれないような氣きがしますが、実際にあったお話ですから、信じないわけにはいきませんね。

そうだったのですね。癌は“ありがとう”って言葉に弱かったんですね。
小生は、女性には弱いです。家内にはもっと弱いです。ついでに剣道も・・・。

以上

769 百三歳、なお学び続ける

2010-03-03 14:27:23 | Weblog
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769 百三歳、なお学び続ける

佐藤文悟(さとう・ぶんご=元歯科医)さんと言う人のお話です。 

今年、齢百三になる私を、一人の歯科医が訪ねてきた。娘が今度、歯医者になりました、と言う。私はそれはめでたいと言いながら、こんなことを述べた。

「お嬢さんをあなたより一段高いレベルの歯科に勤めさせ、親のことを批判しつつ彼女が正しい道を歩めるよう、そして本人には悟られぬよう遠くからそっと見守ってあげてください」

すると後日、そのお嬢さんが挨拶に見えた。私は「あなたはよい職業を選ばれた。職場へ入ったなら、自分の師と仰ぐ先生の生活態度を問うのではなく、仕事に臨まれる姿勢、それを精一杯学んでください」と言い、餞の言葉とした。

人の仕事ぶりというものは、上の人も見ていれば、下の人も見ている。一人でしているような物事でも必ず誰かが見ている。時には喜びに頬を緩めることもあるだろう。ただし、仕事の手だけは決して決して最後まで緩めてはいけない。私はそう自分に言い聞かせてきた。

明治三十七年、新潟の田舎に生まれた私は、生来学問好きな性質で、勉強はいくらしても倦むことがなかった。しかし家は貧しい農家で、中学へ進学できる望みなどない。

担任の教師が、この子を進学させてやってくれと頼みにいらしたこともあるが、父は「我が家より格式のある御宅でさえ中学へはやっていない。うちの息子だけやるのでは筋が通らない」と聞く耳を持たなかった。
それでも学問に対する欲求はやみ難く、ほぼ家出同然の状態で故郷を後に上京した。

母はそんな私のために上等な着物を織り、出掛ける前にそっと渡してくれた。
私が実業家の家へ書生に入ることができたのはこのためである。後になって奥様から「まだ幼くて暮らしも豊かには見えないのに、着物だけはずいぶんと良い物を着ている。きっと愛情深く育てられたのだろう、と思った」という話を聞いた。

入学した開成中学では学費を自分で稼ぎながら、懸命に学業に励んだ。進学したのは日本大学歯学部の夜学で、昼間は仕事をしながら深夜まで黙々と勉強を続けた。

貧乏であっても学問に食らいつき、どうしても一人前にならねばならぬと覚悟をすれば、それなりにモノにはなるものらしい。

尊敬する川合渉校長から「日大で最高の勉強家だ」とお褒めの言葉をいただいたほど、夜も寝ずに勉強した。

わき目も振らず一心に学問に取り組んだのが良かったのだろう。治術の実習では、私の元へ診察を申し出る患者と同級生が後を絶たず、やがて日大の総代を務めることになった。

卒業時には褒美として、大の大人が三人がかりでも動かせないような立派な診療台をいただき、生涯をこの仕事に捧げようと決意した。

家が貧しくなかったなら、私はあれほどまで熱心に勉強に励んだだろうか。それを思う時、貧乏であったことが、あるいは私の人生を幸せへと導いてくれたのではないかという気がするのである。

卒業後、縁あって東京の南千住に開業し、戦後は疎開先の横浜でそのまま開業することにした。その後、横浜にあるアメリカの陸軍病院で隊長より直接単独で臨床学とそれに伴う学問を教わった。

そのために中学時代の英語の教科書を引っ張り出してきて一から英語を勉強し直した。その後、川崎でもう一度始めた診療は七年前、九十六の歳になるまで休むことなく続いた。

学校で教わる学問は頭だけのこと、患者の皆様が私を歯科医として、また一人の人間として今日まで育ててくださったように思う。

いまから数十年前のことである。親しくさせていただいた尊敬する先生方と歯科医の国際学会を結成した。私は結成当初から長く事務局長を務めていたが、
ある時周囲から会長に推されたことがあった。大変有り難いことだと思ったが、私はいくら言われても決して首を縦には振らなかった。

家内はそんな私の行動を訝しく思っていたようだが、私は博士号もない一介の町医者で、学校も夜学しか出ていない。

周りの面々は代々続く歯科医の生まれで、大学などで教鞭を執っている者ばかり。そんな中で私が会長職を務めて誰が快く思うだろう。

だがこれを引き受けなかったがために、私は諸先生方から支持を受けることになり、もめ事や争い事は一切起こしたためしがなく、また先輩方からもずいぶん可愛がっていただけたように思う。

出過ぎず、引っ込まずというのは、世渡りをしていく上で大切な心得の一つではなかろうか。

歯科医を志すからといって、何も特別な学問をする必要はない。技術も特別に人より優れていなければならぬということはない。

ただし、学ぶべきことは当然怠りなくやるべきであるし、その知識や技術を身につけたなら、どこまでも忠実に守り通していくことが必要である。

引退後、私は東大で物理学を専攻する孫に触発され、量子力学の勉強を始めた。
「九十六の手習い」など聞いたこともないが、学ぶ喜びや知る喜びに年齢は無関係だと思う。私には、若い人に偉ぶったことなど一切言う術がない。できるのはただ、若い人から学び続けることだけである。


立派な人がいるもんですね。96歳から量子力学ですか、すごいですね。50そこそそこでもう歳だなんで言おうものなら、ぶっ飛ばされそうですね。やはり、何歳からでも勉強、一生勉強なんですね(机上の勉強とは限りませんが)。もう、言い訳は止めましょうね。歳だからって・・・。

以上