ハッピー・ライフ・ロード

日々の生活に幸せを感じるための情報をお送りしている伝言板です。

幸せを感じたかったら「ないもの」ではなく「あるもの」にフォーカスしてみよう

2020-03-23 09:52:16 | 季節
 今、グラスに水が半分残っています。

Aさんは「あと半分しかない」と言います。

一方、Bさんは「まだ半分もある」と言います。

Aさんはきっと水を苦く感じたことでしょう。

一方、Bさんは半分の水を美味しく、そして、楽しんで飲めたことでしょう。

このように事象は一つですが、見方・考え方は無数あります。

ここで大事なことは「ハッピー思考」を試みて生きていくということです。
ハッピー思考とは自分が幸せ・ハッピーに感じる選択・意思決定をし、行動することです。
そして、その結果には責任を持ち反省はしても、後悔はしない生き方のことです。

花火の様に美しくも儚い人生です。

楽しまなくっちゃ♪~

楽しんだもん勝ちなのです。

 また、人は自分にないものを一生懸命求めがちです。

でもね~、ないものを手に入れたとしても、またさらにないものを探すようになります。
どれだけ手に入れても満足することはありません。

 因みに今、大切なものであるものを紙に書きだしてみてください。

両親、友達、友情、絆、家、温かいご飯、などなど…etc.

そして、それらがなくなった時のことを想像してみましょう。

悲しくなりませんか?

そうなんです。

欲しいものはすでに持っているのです。有るのです。

有難いことなのです。 "ありがとう"

ないものを嘆くのではなく、あるものに感謝しましょうよ♪~。

有難いと思う心と感謝する気持ちさえあればあなたはいつでも「幸せ」を感じることができることでしょう。

幸せはなるものではなく、感じ取るものなのです。

感謝カンゲキ雨嵐~。

幸せの極意は「少欲知足(しょうよくちそく)」也!


季節の移り変わりを感じる様々な「春風」について

2020-03-22 09:26:35 | 言葉

 みちのくでは3月20日~21日にかけて26メートル強の暴風が吹き荒れた。
春一番はその年の立春から春分(2020年3月20日)までの間に最初に吹く強い南寄りの風のこと。
2020年の立春は2月4日(火)になります。
2020年の春分は3月20日(木)になります。
そうするとはる何番目の風になるのだろうか?
私はなごり雪にの曲が好きだから「なごり風」とでもしておこう。

 近江地方ではこのころの強風のことを「比良の八荒(ひらのはっこう)」というようです。

 又、貝寄風(かいよせ)という言葉がある。
冬の季節風のなごりに3月下旬ごろ吹く西風。
この風で大阪住吉の浜辺に打ち寄せられた貝から造花をつくり四天王寺の聖徳太子をまつる聖霊会(しょうりょうえ)に献じたという。
このころに吹く風のことを「貝寄風」と呼ぶらしい。

昔の人は浜辺に向かってまだ見ぬ春に思いを馳せていたのだろう。

私にはそんな時思い起こす俳句がある。

「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句です。


「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句は

季語が「春風」で「はるかぜ」と読むのが普通でしょう。

でもね~、この句「春風や闘志いだきて丘にたつ」だけは

「春風」は「はるかぜ」と読まずに「しゅんぷう」と読むのがいいですね。

 私的に意訳をしてみると
「おお吹きすさぶしゅんぷうよ、俺はこれからいばらの道に立ち向かい、挑戦していくぞ」といった感じですね。

あたかも坂本龍馬が桂浜から大海原に向かって叫んでいるかのようですね。

この句「春風や闘志いだきて丘にたつ」は、意思決定宣言なのですね。

あることを決心し、それに立ち向かおうとするときには表情は自然と険しくなります。

オリンピックの競技でスタートラインに立った時の気持ちです。

ここで「はるかぜ」と読んだのでは丘の上に立つ、長い緑の黒髪の少女をイメージしてしまいますし、力が入りませんね。

「春風や闘志いだきて丘にたつ」 を
「はるかぜ」と読むと可愛い少女が長いストレートヘアーを靡かせ、白いブラウスにピンク系ミモレ丈のフレアースカートがひらひらしているさまが想像されます。

私の呼びかけに手を振って「あなた~」と応えている穏やかな光景が眼に浮かびます。

「春風や闘志いだきて丘にたつ」の解釈で
はるかぜは温かい&心地よい風であり、ほんわかモードで、厳しさが感じられません。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」を「しゅんぷう」と感じ取ると
肌を突き刺すような風の中、新しい目標に向かい、男が挑戦していく様は並々ならぬ決意が読み取れます。
いわば逆境に向かって不屈の闘志をみなぎらせているのです。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」の
「しゅんぷう」は逆境をイメージしているのです。
心地よい春風の中に果たして「闘志」がみなぎるのでしょうか。

そんな時、ほんわかした「はるかぜ」はふさわしくなく、やはり「しゅんぷう」が厳しさを感じさせ、身震いさえ覚えます。
「しゅんぷう」と読むココロは闘志にあり、読み解くキーワードは正に「闘志」にあるといえます。
「闘志」こそが作者の思いなのです。

嵐を呼ぶ男のイメージですね。



★高浜虚子(たかはま きょし)
高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体:高濱 虛子、1874年(明治7年)2月22日 - 1959年(昭和34年)4月8日)は明治・昭和期の俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体:高濱 淸)。
ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。

高浜 虚子: 俳人・小説家。愛媛の生まれ。本名、清(きよし)。正岡子規に師事。俳誌「ホトトギス」を継承して主宰、多くの門下を育てた。句風は客観写生・花鳥諷詠に立ち、平明で余情が深い。文化勲章受章。著「虚子句集」「五百句」、小説「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」「俳諧師」など。
1907年ころ小説や写生文を書いて一時俳壇を離れたが,のち復帰し,河東碧梧桐らの新傾向俳句を批判,〈客観写生〉〈花鳥諷詠(ふうえい)〉を説いて,俳句の伝統擁護に努めた。
経歴
愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。
1888年(明治21年)、伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。1891年(明治24年)子規より虚子の号を授かる。
1893年(明治26年)、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。
1894年(明治27年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入するも中退、上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込んだ。1895年(明治28年)12月、自身の短命を悟った子規より後継者となることを要請されるも拒否(いわゆる「道灌山事件」)。
1897年(明治30年)、元来碧梧桐の婚約者でありながら碧梧桐の入院中に親密になった大畠いと(糸子)と結婚。
1898年(明治31年)、萬朝報に入社するも母の病気のため松山滞在中に長期欠勤を理由に除籍され生活に困窮する。子規の協力を得て前年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受ける。子規の没した1902年(明治35年)、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭する。
1910年(明治43年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住。以来、亡くなるまでの50年間をここで過ごした。

1913年(大正2年)、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。このとき碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んでいる。
同年、国民新聞時代の部下であった嶋田青峰にホトトギスの編集一切を任せる旨を表明した。
1937年(昭和12年)芸術院会員。1940年(昭和15年)日本俳句作家協会(翌々年より日本文学報国会俳句部会)会長。1944年(昭和19年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、1947年(昭和22年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮した。
1954年(昭和29年)、文化勲章受章。1959年(昭和34年)4月8日、85歳で永眠。墓所は鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。戒名は虚子庵高吟椿寿居士。忌日の4月8日を虚子忌、椿寿忌(ちんじゅき)という。生涯に20万句を超える俳句を詠んだ。
2000年(平成12年)3月28日、長野県小諸市に小諸高浜虚子記念館が開館。4月、兵庫県芦屋市に虚子記念文学館が開館。

■句集
『虚子句集』
『五百句』
『七百五十句』
『六百句』
『虚子俳話』
『句日記』
■小説集
『鶏頭』
『柿二つ』
『俳諧師』
『虹』
■文学館
虚子記念文学館虚子記念文学館
神戸文学館
■栄典
1959年(昭和34年)4月8日:勲一等瑞宝章