哲学日記

覚触(かくそく)触覚にあらず

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「禅談」より澤木老師のことばを引用させて頂きます。
三十年幾年坐禅をやったところで少しも人格と関係がない。
自分というものと関係なしに悟ってをるのだから,そんな悟り方なら,吾々も子供の時分に幾つでも悟った。
然し,そんなものは,謎かけと同じことで,又試験の答案と同じ,数学の宿題と同じことで何でもない。

 

同[禅談]「ただ本を得よ」より引用させて頂きます。
『ただ本(もと)を得て末(すえ)を愁(うれ)うることなかれ』…
本は真如、末は神通の意味で修行を指す。
根本をしっかりと捉えて、末節に走るなということです。…
つまり本当の事さえすれば、それを人が知るとか知らんとか、功徳がどうの、神通がどうの、そんなことは問題ではないのです。
…しかるに、この本を捨てて末を追うものだから、何時までたってもこれにいき着かない。
ただ末末と末ばかり追うて、それでとうとう日が暮れてしまう。…
『ただ本を得て末を愁うることなかれ』と工夫することが最も大切なことであります。
(以上、引用終)

 


『ただ本を得て末を愁うることなかれ』証道歌の一節

 


おれはこの本で覚触(かくそく)という語を、知った。
この上なく重要な語だが、分かるように書いてある本は、今でも世の中にほとんどない。

 

覚触とはサティ(気づき)のことだと、おれは直感したが、確証はもてない。

 

話題のCopilotに訊いてみた
「覚触とは」

Copilotの返事
覚触とは、坐禅の心構えの一つで、姿勢を正して結跏趺坐(けっかふざ)や半跏趺坐(はんかふざ)になり、身体に隙間がないようにすることです。覚とは覚めていること、触とは触れることを意味します。覚触になることで、心身が一つになり、坐禅の境地に入ることができます。

Copilotは出典を明示する。
主に澤木老師の言葉のコピペ「安泰寺 – 坐禅の心構え
「皮膚感覚 - Wikipedia」は触覚の出典だな。
全然参考にならんな。
 
 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs)
江利チエミを偲んで 素敵なランデブー~テネシーワルツ


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(過去記事増補編集再録)

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