実況中継を使い、妄想を遮断する ヴィパッサナー瞑想の基礎 #shorts #スマナサーラ長老 #初期仏教 #jtba - YouTube
実況中継で思考妄想を遮断すれば、
ヴィパッサナー瞑想は実行可能になる。
【仏教切り抜き】ヴィパッサナー瞑想/長老による序盤の説明 - YouTube
俺実感、俺のもの実感は、
自然なことだが、
真実ではない。
自我(俺、俺のもの)は、人が世界を解釈し適応し生きるために必要なインフラとして自動作成されるように、人のDNAにプログラムされてるとおもう。(ブッダは、この自我プログラムに深刻な貪瞋痴バグがあると説いた)
その証拠に、すべての無垢な赤ちゃんは、物心つく前に、もれなく貪瞋痴に汚染された「俺・俺のもの」の落とし穴に落ちてしまう。
おもちゃを取れれた子が「ギャーッ」と叫ぶ。
あれは、おもちゃが欲しくて泣いてるんじゃない。
俺のものを盗った!!!
と怒ってるんだよ。
そして、
これを見た親達は皆嬉しそうに笑ってるからね。
親にも子にも自然に愛されてる幻想の頑丈さ!
ブッダが発見した
無我という真理
は、生物一般の宿命的盲点になってる。
賢愚を問わず誰もが「俺」ほど確実な実感は他にないと思いこんでるから、
「俺、俺のもの」は錯覚だと言われたら「…あほか」と聞き流す。
ブッダは、アートマン(我)を立てることは愚か者のごまかしだと明言してる。
しかし人類は現在に至るまでアートマン(我)のいかに物凄まじい欠陥を見せつけられ続けても、これを捨て去ろうなどとは露程もおもったことがない。
なにしろ現人類は、貪瞋痴の苦しみを、夢中で楽しんでる真っ最中だからだ。
現代日本国民のように、ある程度教養のある大衆に、無我の事実を理詰めで認めさせることは一応可能なのだが、
その営為は往々徒労に帰す
だけでは済まず、恐ろしい結果を招く。
近頃、ブログでも、宗教系のyoutubeでも、無我を軽々しく扱う人が急増してる気がする。
「ああ無我でしょ。自我ってほんとは無いよって話。知ってますよ。わたしちゃんと理解してますよ」
と平気で言う人が出てきた。おれが若い頃ほとんどいなかったのに。
これは忌忌しき事態だとおもう。
なぜなら、こういう人は、
無我はわかっているのに、
欲望むさぼりのある人になる
という、ある意味最悪のゾーンに落ちやすいからだ。
日本はこの前の戦争中、滅私奉公などの無我風言辞でエゴを隠し、責任を回避しながら、個々人の私利私欲を実現しようとする、醜怪な欺瞞が国中で蔓延った。
この悪夢が理論武装したバージョンアップ版でよみがえるだけだ。
自我という砂上楼閣の頑丈さよ!
ひたむきに生きんとする盲目の意志のひたむきさよ!
これはほんとにどうしようもないほどだ。
人類の実相は、まずこのアートマンプログラムに執着讃嘆する天文学的な長い時期を経てのちに、ようやく飽きて、ではブッダの教えも聞いてみようかいという気分に、ちょっとはなるかもといった心細いレベルだ。
(人類絶滅が先になる可能性高い)
それまでは、アートマンを、不死の魂、真我、大我、仏性と様々に呼び変えては隠し持ち、絶対に捨てない。
そして
唯一絶対宇宙創造人格神
がアートマンの最終形だ。
人は、生きるためのインフラとして偽造した自分意識(アートマン)に、今や逆支配され我欲の奴隷に落ちぶれてる。
そんな社会がすっかり爛熟期に入ると、一時的退廃を経て、アートマンの最終形たる唯一絶対宇宙創造人格神に関する祭祀や苦行に、内外呼応する益体もないハーモニーを感じて夢中になる。
アートマンを(魂、真我、大我、仏性、どんな名前で呼ぼうと)保持する社会は、爛熟するたびに何度でもこの唯一絶対宇宙創造人格神を見いだし、
「おお神様 神様 助けて パパヤー」
と掻い付き、祭祀と苦行の暗い穴倉に入る。
自我を捏造し、自我の都合ですべてのデータを改竄し、自我の化物である神にひれ伏す茶番の中で滅びる。
これを切りなく繰り返してるだけ。
ブッダは、それは人が陥る落とし穴だと教えてる。
さて、
以上の行程を、自力で歩き抜いた人は、
必定ヴィパッサナー実践をやる羽目になります。
しかし追い詰められて出した
「実況中継してヴィパッサナー頑張るぞ!」
のやる気も、毎回あっという間に消えてしまいます。
挫折の連続に絶望し、
もう何もかも投げ出したくなります。
なんでこうなるの。
それは、
不放逸(アッパマーダ)の意味を、
まったくはき違えてるからです。
ブッダの遺言は
怠ることなく精進せよ(=不放逸)
だった。
ブッダは常々「不放逸は不死の境地である。
放逸の人は死人に等しい」と説いた。
ブッダの「怠るな」が、とにかく何でもまじめに精一杯がんばれ、といったあやふやな指示ではないとわかるだろう。何事もさぼらず真剣にやるという普通のことが、不死の境地とはいえないからだ。
ブッダの不放逸は、
一般人が、日々の仕事を一所懸命真面目にやるとかいう意味では、まったくない。
一方、
昔から山奥に何十年も籠って、命も惜しまず修行に励む苦行者たちも、たいていブッダの不放逸から酷くずれていた。
血を吐くほど死に物狂いに日々仕事しても、あるいは山奥で独り真面目に修行しても、
そこに不断のサティがあれば不放逸となるが、サティがないときはただの煩悩でしかない。
正反対に見えるこの両者は、実は同じ精神状態なのだ。
仏法のポイントはたった一つ、サティがあるかないかだけ。
何をしようと、サティがないなら、怠けてるのです。
これは、世の常識とは明確に違いますが、よくよく考えれば、人生最大の真理だと理解できるとおもいます。
サティを怠るな
という意味だ。
という端的な指示だ。
苦諦は突き詰めれば、「死の観察」だ。
自分の死をしっかりイメージした瞬間、
この実感によって生じる特別なエネルギーが、
サティの持続を可能にし、
人は初めて
真に集中して修行できるからだ。
これ以外の方法では、あなたは
アーナーパーナサティも
ヴィパッサナーも
3分と続けられないからだ。
しかし、
世の大多数の人々は、
苦諦を蛇蝎の如く嫌ってる。
まして「死の観察」などは。
それを証するように現代社会では、
死は能う限り周到に隠されてる。
そのため彼らは、
善にして高度な集中力である
真の三昧スキル
をえらく欲しがってるくせに、
実際のところは、自分の意志で、
それを自分から遠ざけてるのだ。
(真実を無理に押し付けても、グレるだけなので、自身で気づくまでは、ブッダといえども、見守るしかない)
ブッダ入滅に立ち会った
当時の弟子たちは皆、
それをはっきり知っていた。
パティパダー巻頭法話No.287(2019年1月号)
「実らない修行と実る修行」
慢を避けて気づきに励む Love of self nullifies your practice
より引用させていただきます。
…放逸
パーリ語のpamādaは「怠ける」という意味でも使いますが、用語として使う場合は、「現実に気づかない(放逸)」という意味になります。眼の前の現実に気づかない場合は、その人のこころが現実離れの何かを思考・妄想しているのです。放逸の反対語は、「気づきsati」です。もし修行者が精神的な上達を期待しているならば、放逸は猛毒になります。気づきこそが、こころを成長させる唯一の手段なのです。…
ヴィパッサナー実践をする方々に、厳しく「実況中継」を課していることは、皆様方も知っているでしょう。「せっかく瞑想しようと思ったのに、実況中継とはなんなのか?
瞑想にならないのではないか?」という疑問も起きたことでしょう。実況中継とは、いまの瞬間に気づくための手段です。この方法でなければ、いまの瞬間に気づくことができなくなるのです。ブッダの瞑想を実践したいと思うならば、皆、気づき・実況中継こそが入り口であると理解しなくてはいけないのです。気づきがなければ、こころの成長も、解脱も成り立たない。…
思考・妄想を制御しようとするならば、捏造しないことに励まなくてはいけません。そのためには、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法に執着しないで放っておく訓練が必要です。…
気づきsatiこそが、こころを清らかにする唯一の道です。私たちは、それを実況中継という手段で実践しています。人格向上も、こころを清らかにすることも、一切の煩悩を無くして解脱に達することも、気づきの実践で実現できるのです。
今回のポイント
- 慢は慢性疾患
- 思考・妄想は成長の障害
- 言葉の沈黙よりもこころの沈黙が大事
- 気づきは解脱への門
(以上。強調処理は私です)
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
(過去記事増補再録)