呼吸瞑想に関する【公式】臨済宗大本山 円覚寺 横田南嶺管長の教え
なぜ呼吸瞑想や坐禅をするのか。
を、なんとしても解決する必要があるためだ。
禅には有名な
の教えがある。
おれは最初一通り聞いたとき、
さんざん苦労して悟ったら、
元の状態に戻ってた
という話だと受け取った。
「なんだ、それ。やらなくてよい苦労をして、馬鹿じゃん」
と、おもったものだ。
これは、当時のおれに
智慧と知識の大違い
がまるで分ってなかったからだ。
聖書にも、文脈は違うが、なんとなく十牛図を連想する教えがある。
心を尽くして知恵に近づき、
力を尽くして知恵の道を歩み続けよ。
足跡を追って、知恵を探せ。
そうすれば、知恵が見つかるだろう。
しっかりつかんだら、それを手放すな。
ついには、知恵に憩いを見いだし、
知恵は、お前にとって、喜びに変わるだろう。
(シラ書6・26~28 新共同訳)
聞いて分かった気になっても、
それは知識にすぎない。
自分を欺いて、
聞くだけで終わる者になってはいけません。
(ヤコブの手紙1・22より)
同じ教えを、イエスの言葉のほうは、優しい揶揄が含まれていて、余裕を感じさせる。
今の時代を何にたとえたらよいか。
広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、
踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、
悲しんでくれなかった。』
(マタイによる福音書11・16,17 新共同訳)
大多数の人々は、智慧の教えを聞いて、情報として記憶して終わる。
あなたがたは、何を見に荒れ野に行ったのか。風にそよぐ葦か。
では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
(同11・7,8より)
知識は、
人を破滅させかねない危険物なのだが、
正しく扱い智慧に育てると、
得難い益となるものだ。
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
(My Favorite Songs)
「ミッシング・ユー」