ショーペンハウアーを読んで、
初めて釈尊の説く無明が分かった気がした。
自分にとっては、興奮する発見だった。
それまで、仏教の解説本を読んでも納得できないでいたのだ。
数十年後、次の文章をネットで見た。
それが、とっくの昔に言われていたと知って、ちょっとがっかりした。
それが、とっくの昔に言われていたと知って、ちょっとがっかりした。
…木村泰賢先生が無明の概念をショーペンハウエルの盲目意志の概念に引きつけて「生きんとする盲目的な、元本的な意志である」とされましたね。当時新進気鋭の和辻哲郎先生がそれに反発された、「無明は単純に不知 Nichtwissen の意」であって、それ以上の何ものでもないのだ、と。これはもちろん木村先生のほうが正しいんですが、論争の決着がつく前に、木村先生が亡くなってしまわれたので、和辻先生の説が学界の絶対権威となり、それ以後のいわゆる近代仏教というものは、仏教という思想の生命の部分をつかみ取ることができなくなって、それが今日まで続いている・・・・・。
(以上引用終)
「無明は単純に不知…仏教という思想の生命の部分をつかみ取ることができなくなって、それが今日まで続いている」…まさに我が意を得たり、という内容で、驚いた。
生の無価値にして厭うべきことを説きながら、自らは疫病を恐れて町を飛び出したり、ホテルでは数人前の食をとったり、愛人と手を携えてイタリアを旅した彼の哲学は、インド思想と共通な涅槃を説きながら、その基調においては悩しき青春の爛熟期の哲学である。
( 引用終)
生の無価値にして厭うべきことを説くことと、疫病を恐れて町を飛び出したり、ホテルで数人前の食をとったり、愛人と手を携えてイタリアを旅することは、必ずしも矛盾しない。
生の無価値にして厭うべきことを説く理由は、それを事実だと知ることが涅槃に至る道の入り口だからだ。
青春の哲学の涅槃を説くことが矛盾だとも、おれには思えない。
「ショーペンハウアー (I・II・III)西尾幹二訳」に関する松岡正剛氏の文章で、最初から最後まですばらしい。
もっとも、哲学に興味のない人には、なにを感激することがあるんだと思われるかもしれないが…
もっとも、哲学に興味のない人には、なにを感激することがあるんだと思われるかもしれないが…
特に感激したところを一箇所だけ以下に引用させていただきます。
ペシミストは世間を厭っているのではなく、こんなものは最悪だと突き離せているだけなのだ。いや、世間がくだらないというのではない。世界はそういうくだらない世間しかつくれないと見切ったのだ。
ブッダの「一切皆苦主義」とは、このことだ。それゆえペシミストはブッダがまさにそうであるけれど、世界の再生や心の安寧は「苦しみ」を直視できないところからはおこらないと洞察したわけだった。
ショーペンハウアーも、そうだった。しだいに本来のペシミズムの只中において世界を認識し、そこにありうるのは「解脱」の可能性でしかないだろうと見たのであった。
(引用終)ブッダの「一切皆苦主義」とは、このことだ。それゆえペシミストはブッダがまさにそうであるけれど、世界の再生や心の安寧は「苦しみ」を直視できないところからはおこらないと洞察したわけだった。
ショーペンハウアーも、そうだった。しだいに本来のペシミズムの只中において世界を認識し、そこにありうるのは「解脱」の可能性でしかないだろうと見たのであった。
(おまけ)
アレサ・フランクリン。
上手いなあ。
貫禄あるなあ、体型じゃなくて歌声に。
「リスペクト」
「シンク」